はじまりは池上線・荏原中延駅

 自然と目が覚めた。

 

 ここが降りるべき駅と思ったからだ。

 

 誰にでも経験があるのではないだろうか。


 どんなに疲れて眠ってしまったとしても、自分が降りるべき駅に電車が到着すると、必ず目を覚ますことができる不思議な人体の便利機能。


 電気ショックを受けたかのように身体が跳ねたり、電車がスピードを緩めるのに合せてすうっと目が自然と開いたり、降りる人々の衣擦れや靴底が床を叩く音に焦燥感を覚えたりと、バリエーション豊かなあれだ。


 痺れにも似た硬直がとけていき徐々に四肢が自分のものとなっていく感覚はとりあえず成り行きに任せ、大きなあくびを噛み殺す。

 

 涙でにじむ視界の輪郭がはっきりしてきた頃、降車駅であることを確かめようと窓からの景色に目を向けてみたが、そこには何もなかった。

 

 全く何もないわけではない――あるべきものがなかった。


 見慣れた駅名がかかれた看板、屋根を支える傷だらけの柱、全国チェーンのスーパーが。

 

 信じられないことに、人の気配がなかった。

 

 ない、ないのだ。

 

 汗、シャンプー、口臭、香水、革製品、新聞のインクの臭いがない。

 

 鼻をすすり、あくびを噛み殺し、衣擦れ、空調、イヤホンから漏れるラップのビート、小説の頁をめくり、密かに屁をひり出す音もない。

 

 吊り革やスチールポールを握り、自動ドアに肘をあて肩幅以下のスタンスで電車内で林立する人々の熱も、ネクタイで縛って封じ込めたやるせないサラリーマンの怒りも、薄布ごしに伝わるOLの臀部の温もりも、股間に感じるハゲ親父のぶよぶよとしたケツの弾力も、だ。


 そういったものの一切が、目に、耳に、鼻に、肌に、感じることはなかった。


 がらがらの車両にぽつんと一人座っている姿が窓にぼんやりと映っていた。





 学校からの帰宅、いつもの電車に乗ったはずなのに目が覚める全く知らない場所にいた。


 鋼太郎はいま一度周囲を見回した。


 ここはどこかの地下駅のようだが全く記憶にない。


 人影もなければ、シートの上にも、網棚の上にも、床にも忘れ物らしきものもない。


 あるのは自分だけ、

 

 靴底の波模様が張り付いた床、


 藤棚のように垂れ下がるいくつもの吊り革、


 サツマイモのような色のざらつく毛羽立ったシート、


 ステンレスの額に入った壁広告は現代アートのような陳腐、


 吊り広告は誘拐犯がよこす脅迫状のような文字がちぐはぐの意味不明、


 映すものを縦長に歪ませるステンレスシルバーの把手に指紋は見当たらない。



 ――耳を澄ましてみてもこれといったものは聞こえない。


 

 

 靴底が床を蹴る音も、ひそひそ話も、列車の金属的な悲鳴も、だ。


 窓ガラスの向こう側に見えるプラットホームは無人。


 自動販売機の青白い光が煌々と輝いているのが見えるだけ。


 ガラス面に映るぼんやりとした人影は、毎日欠かさず目にする自分の姿だ。


 詰襟の学生服、少し長めの前髪、決して広くはない肩幅と厚みのない胸板によく見知った何の特徴もない顔立ちだけだ。





 鋼太郎は、自分の姿形になんら変わりがないことに、奇妙な安心を覚えた。


 しかし幾許もしないうちに、顔面の皮膚をはしる痺れが、全身に伝播していくのを感じた。


 『ここ』は一体どこなのだろうか、不安に震えている自分に気付いた。


 周囲のものすべてがこれまでと同じよく見知ったもののようで、なにかが決定的に違う、ということをひしひしと感じる。



 ――これは夢なのだろうか?



 窓ガラスに映る自分に手を振り指を順に折っていくと、ガラスの中でも、視界の中でも、五本の節くれがお辞儀をして倒れた。



 夢なら早く覚めてくれ――



 そう考えれば考えるほどに、目が覚めることも意識が遠のくこともなく、いまのこの状況が夢ではないという確信がはっきりと脳に刻みつけられるのだった。



 誰にでも経験があると思う、『ああ、これは夢なんだ』と感じるあの確信を。


 

 それと同時に感じる真綿のようなオブラートに包まれるあの曖昧さ、


 緩やかな波に翻弄されるあのふわり・ゆらりとした感覚、


 自分の輪郭が世界と溶け合っているような一体感、


 しかし今それらは一切感じられない。


 ならばと鋼太郎は思考を切り替えようとした、目の前のこれは夢ではなく現実であると。


 仮に――仮にこれが夢ではなく現実である場合、いま自分は何をすべきなのだろうか。

 

 救助を待つ?

 

 ここはどこかの地下駅に停車中の電車の中であることは確かだ。


 しかし電車は無人、外にも人の気配はなく、ざわめきも何もない。


 この先のトンネルが、地震かなにかで崩落しているというのであれば、このままここで救助を待つべきなのだろう。


 いや、まずは駅のホームへと退避するべきだ。


 しかしそうではなく、単に停車しているだけなのかもしれない。

 

 だがここは終点でもなければ近くに車庫があるわけでもないようで、運転手を待って折り返し運転をするようでもなさそうだ。


 時が止まってしまったかのようなこの状況、異常であることに間違いはない。


 こういう場合どうすべきか?


 

 山で――山で遭難した場合、その場から移動せずに救助を待つのが正解だ。


 頂上へ向かう?


 いや下っていくのが正解……か?

 

 違う。


 山の高さによって違うのだ。


 川をみつけて川沿いに――いや、川沿いに進むと――そもそも近くに川がない山なんていくらでもあるはずだ。



 ネットやテレビで仕入れた自称専門家の金言が、聞きかじりでしかない半端でインスタントな知識が、よりいっそうの混乱を招き不安を加速させる。


 こういった非常時に使える豆知識の類い・記憶の片隅に転がっているであろう解決の糸口をなんとか引きずり出そうと試みるも、こういう時に限って全くなにも浮かんでこないのが現実であった。


 こういった場合、『今日の星占い』が教えてくれるラッキーアイテムも無力である。



「一体どうすれば……」



 頭を抱える鋼太郎は耳をふさぎ、身体の震えをごまかすために貧乏ゆすりをしてみるが、思考力を削ぐだけでしかなかったことに苛ついた。



 !



 思考を集中させようと両手で顔を覆ったときのことだった、確かに『なにか』を耳にした。


 音がしたのだ。


 それは声だったかもしれない。


 鋼太郎はハッとして顔を上げた。


 しかしそれは自らに警告を発したからである。

 

 映画・漫画・アニメ・ゲーム等のインドア的娯楽の疑似体験により培ったパターン分析による確度の高い警告だ。



 待て、待つんだ。

 

 映画やゲームだとこれはひっかけだ。


 音や声のする方へ向かうとゲームオーバーになる仕掛けのひとつに違いない。


 これがゾンビ映画だったなら、いかにも頭が軽そうなお色気要員のブロンドが死ぬパターン。


 いや、頑固なオッサンが「ここが一番安全だ、俺はここを動くつもりはない」と頑なに移動を拒否することで結局は死ぬパターンか?


 

 ――どっちだ? この場合、自分は、どのパターンだ?



 何度も手の平で顔をこすって考えてみた結果、ここから移動することに決めた。


 兎にも角にもここから移動しないことには何も始まらない。


 車窓に映る泣きそうな顔の自分や靴や床を、いつまでも眺めているわけにはいかないのだ。


 ガラスに映る情けない顔の自分へ微笑みかけると、口許が引きつり頬の肉を小刻みに震わせてぎこちない笑顔を見せつけるそいつに、気のせいか鋼太郎は勇気をもらったような気がした。


 全く馬鹿みたいな話だがそんな気がしたのである。


 勇気をくれたもう一人の自分に再度微笑み返し、ここを立ち去ろうと腰を上げた。



 その時だった――



 足許で何かがカラカラと跳ねまわる音が無人の電車内に響き渡り、心臓が飛び上がって『キュン』と二回りは縮んだ。


 ついでに寿命も四、五年は縮んだはずだ。


 カラカラと鳴る音が止んでも、たっぷりと十秒は中腰の姿勢のまま動けずにいた。


 恐る恐る足許を見ると、そこにはカードが一枚落ちていた。


 スイカ? いやパスモか? クレジットカードかもしれない。

 

 拾い上げたそれは、真っ赤なプラスチック製のカードであった。

 

 しかしまったく見覚えのないものであった。


 とりあえず手許に残しておくことにした。


 映画にしろゲームにしろ、後々重要なキーアイテムになるのがセオリーのはずだからだ。


 鋼太郎は真っ赤なカードを詰襟学生服の右ポケットにつっこんだ。


 ポケットには普段使っている定期券のスイカが入っていた。





 鋼太郎は、開いているドアから首だけを出して左右を確認した。


 ついでに足許も確認する――黄色い正方形が真一文字に連続して並んでいた。


 長い深呼吸をひとつすると、電車とホームのわずかな隙間を飛び越えた。


 無事、電車を降りることに成功した。


 突然自動ドアが閉まって身体を真っ二つにされることもなく、黄色い線の内側――黄色いタイルの上――に降りなかったために床のタイルが爆発することもなかった。


 自分のゲーム脳もほとほと困ったものだと、鋼太郎はつい笑い声をもらした。


 そして面を上げ、壁にかけられた大きな枠に縁取られた長方形に目をやって初めて、ここの駅名を知ることができた。



 『荏原中延』



 それがこの見知らぬ駅の名前だ。

 

 学校から家にまでのいつもの路線にこの駅はなく、普段どおり電車に乗ったずなのに、まったくの別路線の駅に迷い込んでしまったことに、ぶるりと震え全身が粟立った。

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