第6話 結菜と新しい自転車 6

 葵は近くのファミレスに行こうかと誘ってきたが、結菜は奢ってもらうのは悪い気がしたし、時間も掛かるので家に上がってもらうことにした。

 居間のテーブルを三人で囲んで座る。

 結菜が人数分のお茶をコップに入れてテーブルに置くと、葵はすぐに本題を切り出した。


「悠真が行方不明になった件だが、わたしはこう考えているんだ。悠真の謎の失踪にはやはり例の彼女が絡んでいるのではないかと」

「例の彼女……」


 葵の言った言葉に姫子はぽつりと呟いた。

 綺麗な正座をして元気を無くした様子でうつむいている。

 帰ろうとしたところを邪魔されたのだから落胆する気持ちは結菜にも分かる気がした。

 姫子には喋る気が無いようだ。それっきり口を噤んでしまう。

 結菜は自分がリードして葵と話を進めるべきだと判断した。


「やはり黒い自転車の少女が原因なんですか?」

「黒い自転車の少女?」


 葵は驚いた顔を見せた。

 どうやら初耳だったらしい。

 結菜は兄が行方不明になる直前にその人物に会っていたことを説明した。


「では、その黒い自転車の少女が姫子なのか?」

「え?」


 突然名前を出されて姫子は顔を上げた。

 上げただけで何も言わなかったので、結菜は葵に説明した。


「それは違います。だって姫子さんは……」


 言いながら葵から姫子の方へと目を移す。

 姫子は何も言わなかった。

 ただ黙って顔を伏せて言葉の続きを待っていた。

 この話題について発言するつもりがもう無いようだった。

 葵は結菜が言い終わる前に結論付けていた。


「実在しない人物のはず……だものな。悠真と付き合うような彼女など現実に存在するわけがない。むしろ自分こそが姫だと恥ずかし気もなく公言するような彼女がいたら会ってみたいぐらいだよ。わっはっはっ」


 葵は冗談めかして笑っていたが、その言葉にテーブルを大きく叩く音がして、びっくりして声を飲み込んだ。

 葵は目をぱちくりさせて姫子の方を見つめた。

 姫子の瞳は震えていた。

 怒りや悔しさといった感情が現れていた。

 葵は事情を察して謝罪した。


「悪い。これは失踪事件だものな。冗談にしていいことではなかった」


 葵は事件をちゃかしたことで彼女が怒ったのかと思ったが、姫子が怒ったのはそのことでは無かった。

 姫子は声を震わせて叫んだ。


「お父さんが付けてくれた名前を馬鹿にしないでください! 不愉快です!」

「結菜ちゃん、この方は……?」


 葵はぎこちなく結菜の方を向き、恐る恐る訊ねたが、問われた結菜が答えるより早く姫子本人が答えていた。


「わたし、姫子です!」


 葵は心底から驚いた顔を見せた。

 結菜は余裕のある大人だと思っていた葵でもこんな顔をするんだと思った。

 葵は呆気に取られながらも訊ねた。


「君が悠真の彼女の?」

「そうです!」

「あんな奴のどこがいいの?」

「それは優しいところとか、わたしの知らないことを親切に教えてくれるところとか、一緒に写真を撮ってくれるところとか……ってどうしてわたしが彼女なんですか!?」


 姫子は我に返った。

 うろたえながら立ち上がった。

 テーブルが少し揺れたが、コップのお茶がこぼれることは無かった。

 お茶を気にしたのは結菜だけだった。

 葵は姫子をじっと見つめ、姫子は必死にあせって弁解した。


「だって、悠真さんはそんなこと言ってくれないし、わたしも告白なんてしてないし、そんな恋人らしいこと……もしてないし、どうしてみんなわたしが彼女だなんて言うんですか……」


 姫子は弁解しながら後ずさりしていく。葵は良い獲物でも見つけたようににやりと笑って立ち上がった。


「わたしの知ってる悠真はいつも姫子さん姫子さんって言ってるわよ」

「ええーーー!」


 姫子は驚きの声を上げる。

 結菜も知っていることだった。黙ってうなずいてしまう。

 それも見て姫子は顔を真っ赤にした。じりじりと後ずさりしていく。


「ち、違います! わたしの知ってる悠真さんはそんなこと言いません! 聞いたこともないです!」

「男は好きな女の前では見栄を張りたい生き物だからねえ」


 葵はじりじりと獲物を壁際に追い詰めていく。

 いやらしい顔をするその目付きに姫子はすっかり怯えている。

 彼女の背が壁につく。

 下がりたくてもそれ以上下がれなくなってしまう。

 姫子は迫ってくる葵の目を見る。

 精一杯の抵抗をする。


「そ、そんな悠真さんがわ、わたしのことをす、好きだなんて! ありえません信じません! そんな根も葉も無いことを言って、からかわないでください!」

「じゃあ、今度悠真に言っておくよ。姫子さんに告白しろって。彼女はきっとOKしてくれるからって」

「そんな、悠真さんがそんな目でわたしのこと。わたし、わたしどうしたら」


 葵はうつむこうとする姫子の顎を指で持ち上げて、目を覗き込んで言った。


「だからOKしてやればいいだろう? 後はホテルに誘ってやれ。あの男は童貞らしく尻込みするだろうから、君がリードして引っ張っていくんだ」

「ホ、ホテル? 悠真さんと? うわああ、わたしそんなの無理ですう!」

「甘い夜を一緒に過ごしたくはないのか?」

「だって、だってええ!」

「ごほん!!」


 結菜は大きく咳払いした。二人の注目が集まる。


「二人とも。今日はお兄ちゃんの行方を探すために来たんじゃないんですか? 世間話は後にして席に戻ってください。話を続けましょう」

「あ……ああ」

「はい」


 結菜の剣幕に押され、二人は席に戻った。

 結菜にとって兄の事で遊ばれるのは良い気分ではなかった。

 それからの話し合いも主に結菜と葵の間で行われた。

 姫子は髪をいじりながら心ここにあらずの様子で聞いていた。




 特に話しても新しい有益な情報は出なかった。

 手掛かりといえば結菜の話した黒い自転車の少女のことぐらいだった。

 葵も姫子も悠真の行方不明に関しては何も知らないようだった。

 それぞれに家に帰って昼ごはんを食べてから、三人で今度は駅前に集合して、黒い自転車の少女を探そうということになった。

 場所を駅前に指定した理由を葵は、


「単純に人が多い場所の方が人が見つかる確率も上がるだろう」


と説明した。

 特に反対する理由も無いので結菜もそれに同意した。

 姫子も黙ってうなづいた。

 葵に言われたことをまだ恥ずかしがっているのか、まだ顔を赤くしていた。

 葵が帰り、姫子も我に返ってすぐに慌てた様子で帰っていった。




 春の風はまだ少し冷えるが、昼の日差しは暖かい。

 約束の時間が近づいて来て、玄関を出た結菜は自分の自転車のところへ向かった。

 家の軒下に留めてある自転車のところに着くと、自転車に宿っている兄が話しかけてきた。


「遅かったじゃないか。今日は朝から出かけるんじゃなかったのか?」

「事情が変わったの。ねえ、お兄ちゃん。姫子さんが家に来たと言ったらどうする?」

「どうするも何もあの人は来ないだろう」

「どうして?」


 あっさりとした返事を不思議に思う。

 恋人だったら来るのが当然だと結菜は思っていた。

 もしかしたらそれほど仲が良くないのだろうか。

 姫子は悠真との仲のことを否定してたし、悠真も口では良さそうに言っていても実際に仲のいいところを結菜が見たわけではなかった。

 兄の一人相撲の可能性は十分にありえた。

 悠真の答えははっきりとしていた。


「姫子さんは臆病なんだ。男の家にほいほいと来るような軽い人じゃないんだよ」


 結菜は面白くない返事だと思った。

 自分も姫子のことを知った今ならそれが正しい答えだと理解出来ることが悔しかった。

 結菜は面白くない気分のまま言った。


「でも、来たんだよ」

「え?」

「姫子さんが家に来てたの! だから、遅れたの!」

「え……ええーーーー!」


 兄が驚きの声を上げた。動ければガタガタと言うだろう剣幕でせわしなく騒ぎ出す。


「本当に? 冗談じゃなく?」

「冗談なんて言わないよ」

「どうして教えてくれなかったんだ。すぐに会いに行ったのに。でも、これじゃ無理か。姫子さん! 姫子さーーーん!」


 声よ届けとばかりに叫ぶ悠真に結菜は残酷な真実を告げる。


「もう帰ったよ」

「ぐはああ!」

「そんなに姫子さんに会いたいの?」

「だって、自転車になってから一度も会ってないんだぞ。でも、どうして家に来たんだろう」

「お兄ちゃんのことを心配してたんだよ」

「そうか、俺は姫子さんを家に来させるほどに心配させてたのか。早く元に戻って彼女を安心させてやらないと」

「そのために今から黒い自転車の少女を探しに行くことにしたんだよ」

「今から? いるかな?」

「それを探しに行くのよ。今から三人で」

「三人で? お前と……誰だ?」

「葵さんと……」

「なんだ、葵か。あんまりあいつの言うことを聞くなよ。調子に乗らせるとこき使われるからな」

「姫子さんと」


 その名前を聞いて兄の態度はがらりと変わった。


「なにい! 姫子さんと待ち合わせのデートだとー! 俺だってまだデートの約束なんてしたことないのにー!」


 その言葉を聞いて結菜はにやりといたずらっぽい笑みを浮かべた。


「恋人なのにしてないんだ」

「そうだよー。してないんだよー。ちくしょう、人間に戻ったら真っ先に姫子さんとデートの約束をしてやるー」

「出来るように頑張ってね」


 結菜は微笑んで自転車をこぎ出した。

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