幕間


 気がつけば、真っ白な空間にいた。比喩でも何でもなく、本当にただただ白が連綿と、どこまでも続いているのだ。


 だが、引力はあるようで、自分が何かに引き寄せられているような感覚はあった。それが左なのか右なのか、上なのか下なのかすら分からなかった。


 もっと言えば、自分が何者なのか分からない。いま自分は、手も足も無い、何か漂う綿のような、そんな存在として、巨大な何かに吸い寄せられているのだった。


 しばらくすると、自分の様なモノ達が、同じように何かに吸い寄せられていることに気付いた。それらは最初からあったのか、はたまた引き寄せられている過程で合流したのか、それすらも分からなかった。


 しかし、なんだか安心感はあった。大きなものに身を委ねる、もう何にも抗う必要などない――そんな安堵が、自分を包んでいた。


 ふと、一つの何かが、自分の方へ近づいて来ているのを感じた。それが何者か分からなかったが――きっと向こうも同じで――いや、自分はこのを知っている、そんな確信を得た瞬間に、世界が弾けた。


「……よう、久しぶりじゃねぇか」

「あぁ……そうだな、まさか、もう一度会う事になるとは、思ってもいなかった」


 目の前の、やややつれた顔をした背の高い男を見た瞬間に、自分が何者かを思い出した。向こうもそうなのだろう――恐らく、ここはそういう空間なのだ。自分を規定するのは他者、自分で自分が分からずとも、他人が自分を形作ってくれる。そういう場所なのだ。


 確か、コイツは自分と同じくらいの歳だったはず――そう思えば、互いに享年五十というところか。まぁ、別段短くも、長くもないというところだろう。それに、自分の人生に後悔は無い――いや、あるにはあるが――そんな風にあれこれ思っている自分に対し、男は茫然と、ある方向を見つめていた。


「……あそこが、魂の辿り着くべき場所か……」


 そう言って、男はしばらくそちらを見つめて、しかし今度は自嘲的な笑みを浮かべて、踵を返した。男が見つめている先には、ただ、荒野が広がっているのみである。きっと、本当は荒野でもなんでもないのだ。本当は、何も無い、そんな空間なのだろう。しかし、言葉という物、概念という物は便利な物で――きっと、これが自分の心象風景なのだ。死後の世界を、自分の知る言葉で規定して、そしてそのようにイメージが出来た、そんな空間――だから、荒野だとかなんとか、そんな風に言葉にするのは本来は無意味だ。だが、間違いなくいえることは一つ。何故、自分がこの空間を荒野に視えているのか、もっと言えば目の前の男にも荒野に視えているのだろう、しかしその理由は――。


「……その先は、何にもねぇ。ただ、ただ不毛が続いてる」


 そう、本能的に、魂がそれを察知しているから、だから自分たちにはそこが荒野に見えるのだ。もし荒野を見たことが無い人間だったら、また別の物に見えるのかもしれない――例えば、海に見える奴だっているかもしれない。だが、あの国で西部を長く練り歩いたせいか、きっと自分にとって、ここが荒野というのが相応しく感じた、それだけなのだろう。


 そうだというのに、男はやはり、笑っていた。


「そうかもしない。だが、そうじゃないかもしれない」

「いーや、俺には分かるね。片道切符なんだよ、人生って奴はさ……ま、元々お前さんとは敵同士さ、変に老婆心を見せることもねぇんだが……」


 そう、変に気を使う事もない。だが、自分の片目の仇敵にも関わらず、何故だかこの男のことを憎む気になれないのも本当だった。

 その気持ちを察してか、やはり壮年の男は笑っていた。


「うむ、私もそうだと思う。しかしだな、ウィリアム・J・コグバーン……私は、どうしても現世でやり残したことがあるのだ」


 片道切符でここに運ばれてきて、それを歩いて引き返す。長い長い道のりになるはずだ。むしろ、帰れるのかどうか、まずそこからして怪しい。ここは大いなる意思のお膝元らしく、不思議な引力を感じる――この先に行けば、全てが終わり、そして始まる。自我という物が跡形もなく消滅し、また新たな生を受ける――それは文明社会に生きてきた自分にとってはおぞましい様な話なのに、それでもきっと、それこそ魂の持つ本能なのだろう、そうなることが当たり前なのだから、不思議と不安もない。


 だが、それに逆らうという事はどういうことか。それは、魂本来のあり方を否定するのと同義だ。大いなる意思の下に、永遠の輪廻に組み入れられるが魂の運命さだめ、それを否定するという事は――。


「……お前さん、仮に戻れたとしても、その先にあるのは、永久の消滅だぞ」

「そうなっても……私が消えるだけで、それこそ我が本懐を果たせるのならば、一切の悔いは無いさ」


 そこに、今まさしく本人が口にした通り、男は一切の迷いも悔いも無く、荒野の先を見据えていた。


「それでは、私は行くが……お前はどうするんだ? コグバーン」

「あぁ、俺か? 俺は、そうだな……」


 やるべきことはやった。それならば摂理に従うのが筋という物だ。あの子に、教えられることは教えただし――最後に泣かせてしまったが、それでも――。

 だが、感じるのだ。あの子との微かな繋がりを。自分の予想は、そこで確信へと変わった。


「……俺は、ここで待つことにする。どうしても会わなきゃいけないヤツがいるんだ」


 何年先になるだろうか、一人で待つとなれば、結構気の滅入る話なのではないか――まぁ、それもあの子のためだ。未婚で子供もいなかった自分が、最後に受け取った、小さな温かみが――自分にとって、大切だったから。


「そうか……会えると良いな」

「何言ってんだ。ここで待ってりゃ、絶対に会えるだろ? なんせ、死なないヤツなんていないんだからな……それこそ、消えちまわない限りには」

「そうだな……それでは、私達は、これで永遠の別れだ」

「あぁ、そうだな。まぁ、オメェなんぞ、二度と見たくもねぇ……さっさと行っちまいな」

「うむ……貴殿と会えてよかった」


 元来、そんなに感情の豊かなタイプでもないのだろう、それでも男は満面の笑みでそう言い残し、荒野の果てを目指して歩き始めた。自分も男に背を向けて、待つに丁度いい場所を探す――と、おあつらえ向きに、座るには丁度好さそうな石があった。もしかすると、あれかしと望んだから、出現しただけかもしれないが――ともかく、そこに座ることにした。


「……? あぁ、お前さんは探しもんか」


 自分が座った後ろで、一人の女性が、何やら先住民らしい、跪いて何かを探していた。


「多分、お前さんが探してるもんは、俺が知ってるもんだろうな……ま、そうしてりゃ、そのうちいいこともあるさ」


 この女の正体には、すでになんとなくだが目星はついていた。きっと、然るべき時に役に立ってくれるに違いない――それはまだ、遠い未来の話だろうが。ともかく、話が通じないにしても、一人で待つ訳でもないし、そのうちここも賑やかになるはずだ。それなら、待つことも出来るだろう。


「……しっかし、人をぶった切っておいて、詫びの一つもねぇのか、あのクソッタレは……」


 そう、俯きながら一人ごちた。しかし、そう言う自分も笑っていた。アイツが同じ日にここに送られてこなければ、自分はここで待つという選択肢すら取ることも出来ず、ただ自我を消滅させ、次の生へと向かっていただろう、そう考えれば、自分もアイツと会えてよかったのだ。


「何より、オメェさんは悪い奴じゃねぇよな……ただ、立場が違っただけだ、なぁ?」


 顔を上げた時には、すでに男の背中は見えなくなっていた。

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