2-6 いたずらと笑顔とアクシデント

 翌週の月曜日がまたやってくる。山賀がいつものように開院準備の為に診察開始一時間前に病院に訪れると、病院の前には必ず制服姿のあの子がいる。白鳥悠と名乗る子は、いつものように入口の扉の前でしゃがみこみながら携帯を弄って山賀が来るのを待っている。山賀がいつものように扉の鍵を開けると、彼女の歩く後ろを鳥のヒナのようについてくる。診察の準備の間、先日のように退屈なTVを見ながら待ち続ける。そして山賀に呼ばれて診察室に入り、二人はお互い椅子に座る。三回目ともなればお互いもさすがに慣れたもので気心が知れた関係ともなるもので、変な緊張やこわばりも無い。山賀は診察室のパソコンで悠の電子カルテを開き、今日の内容を確認する。

 カルテを確認、記入がてら山賀は悠に話しかける。たわいもない会話でも重ねることで少しずつ仲が良くなっていくという事もある。


「悠、ちゃんと学校行ってる?」

「学校?一応行ってるよ。一応ね。家の人にも言われたから」


 悠の顔を見ると、嫌そうにしぶしぶ、といった様子で髪の毛を弄っている。学校に本当に興味がないようだ。


「学校とか行く意味あるのかなって思うんだよね。私、勉強嫌いだし」

「私も学生の時はそうだったけど、学歴は持ってた方が有利なのよ。せめて高校くらいは出ておかないと選択肢ほとんど狭まるし。料理人や職人みたいな、技術がモノを言う世界に行くなら話は別だけど」

「そんなものなのかなぁ。私、数学とか全然さっぱり理解できないしできて何の役に立つのかわかんないしさ」


 唇を尖らせて納得がいかない風の表情で山賀に愚痴る悠。年相応の表情を見せる悠の姿を見て、山賀から思わず微笑みが漏れる。


「役に立つとか立たないで勉強するもんじゃないから。勉強ってまず面白いからね。知らない事を覚えて知識にしていく。その過程が楽しいのよ」

「その感覚がさっぱりわかんないのっ」


 にやりと山賀は笑みを浮かべ、悠に顔を向けて言う。


「わからんか。じゃあまず勉強の楽しさってのを私が教えてあげないとね。私が家庭教師でもやってやろうか。中学校の勉強程度なら教える事も可能だ」

「遠慮しますっ!」


 拒否の返事を聞いて笑いながら山賀はカルテに今日の日付を入れて確認事項をチェックし終えた。ふと、ここで何気なく一つの事を思い出す。


「そういえば、診察初日に悠が見せてくれたあの写真の子って、悠にとってのどういう存在なのかしら?友達か何か?」


 聞かれるや否や、悠の表情は今までの不機嫌な、ふてくされたような表情からうってかわってぱあっと明るく変化し、途端に饒舌になる。


「憧れの人ですね。とにかく私が理想とする人で、何もかもが素晴らしいんです」


 目が危ないほどに輝いている。もはや悠の中では信仰や崇拝の対象として存在しているらしい。その様子を見て軽く引く山賀であったが、ここで怯んではいけない。せっかく相手が似せる相手についての話をしてくれると言うのだから、詳しく聞きこんで後々の手術の為の材料としておきたい所だ。電子カルテの記入欄にカーソルを合わせてメモの準備をする。


「どういう風に素晴らしいの?」

「天使の羽コンテストっていうのがあるの知ってますか?顔やスタイルが整って綺麗であることはもちろんなのですが、何よりも背中の羽が美しい事が条件でして。たぶん彼女はそれに出てもきっと優勝すると思います。他の参加者なんかとは圧倒的に、比べ物にならないくらいの差をつけてしまうでしょう。それにしても、あの美しさ、どう形容すればいいか先生、わかりますか。わかるでしょうか? 私の頭では陳腐な形容にしかならないのですが……やはり天使、それも神の近くに侍るような天使……あ、いやもはやあの美しさは神に等しいですね。美の神ヴィーナスと言っても過言ではないと思います」


 ほぼ一息で喋りきったせいか、悠は息切れしてはあはあと息をついている。それに好きな人の事を喋った為に興奮して顔色もほのかに、いや明らかに赤く染まってうっすらと汗をかいている。あまりにも早口で喋った為に何を言っているのか、山賀にはあまり理解できなかったが、とにかく崇拝の対象にあるというのはなんとなくわかった所で、興奮気味の悠を落ち着かせようと言葉を掛ける。


「落ち着いて悠。好きなのはわかったから」

「好きという一言で片づけられるような存在ではないんですよ!山賀先生にも彼女のすばらしさをわかっていただかないと私はこれからの手術が不安でしょうがないんですよ!」


 やはりこの質問、するんじゃなかったなと山賀は少し後悔しつつも、ふと気になった事を悠に聞く。


「彼女の名前、そう名前よ。名前なんていうの?今まで聞いてなかったのが不思議なくらいだったわ、そういえば」


 悠は一瞬口ごもりつつもおずおずと答えた。


「白鳥……白鳥怜美さんです」

「あら、悠と同じ苗字なのね。親戚か何か?」

「いえ……全然そんな事はありません。赤の他人です。お姉さんにあんな人がいたら素敵だなと思ってますけども……」


 ため息をつき、うつむく悠。対して山賀はそりゃそうかと内心思っていた。白鳥悠とは名乗っているものの、保険証を見て本名を確認したわけでもなし。勿論『白鳥悠』が本名である可能性もなくはないが、同じ苗字だからといって親戚関係にあるわけでもない。当たり前の話である。


「こほん。さて軽い世間話はここらにして、だ」


 山賀は軽く咳ばらいをして、この話は終わりと言わんばかりに悠の方向へと向いた。つられて、悠も思わず膝に手を乗せて体を前に乗り出す。


「先日の検査結果が出た。結果は優良。特に不都合もなく、簡単に移植できるだろうという見込みがでたよ」


 検査結果が記されたレポート用紙をぺらぺらとめくりながら言うと、悠は顔を綻ばせて光り輝く瞳で山賀を見つめた。興奮でほのかに顔色も赤く色づいている。


「やった!これで一歩前進ですね!」

「でさ、ついでに今日のうちにもう、君の背中の羽を外す注射をしたいんだけど、予定大丈夫?薬品の調達が思ったよりも早くできたからさ」


 そう山賀が告げると、悠は懐から電子手帳を取り出して何かのスケジュールを確認した。日付と何かしらのメモが記録されているのを指で追いかけながら確認し、力強く頷いた。


「今日からなら大丈夫ですね。さっそくお願いしたいんですけど、いったいどうやって注射で羽を外すっていうんですか?」

「簡単に言えば羽を自死させるように細胞を操作する薬品を注入するのね」

「ええ?そんなの何かしらの副作用とかで間違って人が死んだりとかしないんですか?」


 不安と怯えの表情を交えた悠の声に、山賀は注射の準備をしながらにんまりと笑って意地悪な声を出して答える。


「嫌なら外科手術にしてもいいのよ?そのかわり、手術の傷が治るまでウチの貴重なベッドでしばらく入院してなきゃだけど。君のスケジュール、大幅に遅れちゃうわね」

「ううう……」


 悠はそれを聞かされて不安で表情が曇り、うつむいて考え込んでしまう。ぶつぶつと何かを言いながら予定の修正を図ろうとしているが、電子手帳をいくら見直して考えても計画の破たんが免れないと知ると、いよいよ顔が青ざめてしまった。瞳に涙を溜めこんでいる。泣きそうだ。


「なーんてね。大丈夫よ。この薬はちゃんと厚生労働省にも承認されて実績もたくさん重ねてる薬だから。副作用もだるさとか眠気くらいしかないし安全よ。死亡例も確認されてないから」


 流石にこれ以上いたずらをするのは良心が痛んだのでここで種明かし。すると、みるみるうちに悠の表情が青ざめた色から怒りで真っ赤になり、思わず中身がないカバンを投げつけると、勢いよく山賀の顔面に命中した。


「ぶへっ」


 その他手あたり次第に目についたものを投げつけようとして、山賀に腕を捕まれて止められる。


「ごめんごめん、悪かったってば」

「その悪ふざけにどれだけ心をすりつぶされるかと思います?予定が狂ったら私の人生計画がダメになるんですよ何もかも!私がどれだけ真剣に思い悩んでるのか先生は少しは思い知るべきです!」

「わかったから、さすがにカッターだけはやめてくれるかな。自分の病院で自分の治療、したくないから、ね?」


 ハッと気づいて、悠は自分の右手にいつの間にか握りこまれていたカッターナイフを慌てて診察室のテーブル上に戻した。途端に、取り乱した事に恥ずかしさを覚えて汗をしきりにかいている。二人で散らかった物を片付けた後、椅子に座りなおして山賀は改めて注射の説明を行う。


「君の背中の羽だけをアポトーシス、つまりわざと自死させる薬品をこれから血管に注入します。注入後三日の間に羽が抜け続けて、最後に骨格部分が脆くなって崩れるという効果になっている。羽が外れた後は、あらかじめある程度成長させたハクチョウの羽根を移植する手術を行う」

「はい」

「じゃあ注射するから腕出してね」


 山賀は悠のブラウスを捲ると、腕をゴム管で軽く縛り、血管を浮き出させる。細身なので目で確認するだけでも刺すべき血管の位置がわかる。指で確認し、アルコール脱脂綿で消毒して薬品を入れた注射器を素早く腕に刺し込む。


「……っ」


 山賀は注射が上手いので痛みは極めて少ないが、やはり針が腕に入る様子は何度見ても慣れないのか、悠は顔をゆがめながらその光景を見ている。じわりじわりと薬品を注入して、針を抜くと悠はほっとした表情を浮かべる。山賀は二枚目のアルコール脱脂綿を渡して、腕をしばらく押さえているように指示する。

 悠が腕を押さえている間、山賀は先ほどから気になっていた疑問を投げかけた。


「今日の措置はこれでおしまい。……この注射すると羽根、結構派手にボロボロ抜けるけどさ、家人になるべくばれないようにしたいって言ってたけど大丈夫なの?」

「大丈夫ですよ。家の人、これから長期出張でしばらく居ないんです。だから私が何をやってようとわかりませんよ。移植した羽根の成長、早いんですよね?」

「ええ。一週間もあれば君の背中に適合したサイズになるだろうね」


 それを聞いて、悠はにんまりとした笑顔を浮かべてぐっと握りこぶしを作った。ここまでは計画通りと言わんばかりの態度である。


「じゃあ、また来ます。今度は羽が無い状態で」

「ああその前に」


 山賀は診察室の奥へ行き、何かを探していた。何処に行ったかな、ここだったかなと言った独り言を吐きながら、ようやく探し出して悠の前に現れると、両手に羽のようなものを抱えていた。それは背中に取り付ける用途の鳥の模造羽である。昨今の遺伝子美容整形外科では、施術後のイメージ共有の為にこういうものも作って患者と打ち合わせをしているのであった。


「学校にも行くのだから、そこからバレないように羽がすっかり抜けたらこれを装着して過ごしてね」

「あ、ありがとうございます。そこまでお気遣いしていただけるなんて」

「何、たまたま特別安くネットで売られていたからね。サービスみたいなもんだよ」


 からのカバンに模造羽をうまく折りたたんで詰め込み、悠はいつものように懐から財布を取り出して今日の施術のお金を支払う。

 ……毎度の事ながら財布の中身には厚みがある。どこからこのお金はわいてくるのだろうと、山賀は気になって仕方がなかった。好奇心に誘われて思わず質問しようと喉から声が出かかるが、慌てて左手で口を押える山賀。


「? どうしたんですか先生」

「い、いやなんでもない」


 今の自分には悠が支払うお金が生命線。それをわざわざなくしてしまう真似は、今はまだ出来ない。自らの首を絞めるようなものだ。好奇心は猫も殺す。喉から出かかった言葉を腹の中に押し込み、笑顔を作って病院から帰ろうとする悠を見送る。からのカバンを持って、


「さよなら先生。また来週会いましょう」


 と今までに見せたことも無いすっきりとした晴れやかな顔で挨拶して帰っていった。足取りも非常に軽い。確実に自分の夢を一歩ずつ進めているという実感があるからだろうか。その姿は年齢相応の中学生にふさわしい。山賀も思わず顔を綻ばせてしまう。自分もああいう年齢の時は、あんな感じに笑っていたのだろうかと思いを馳せる。

 見送った後、山賀はいつものように電子カルテを更新する。……来週はいよいよ羽の移植だ。悠の念願のひとつが叶う。それはきっと良い事に違い無いんだろう。本人にとっては。


 カルテ編集中に口寂しさを覚え、山賀は懐から紙巻き煙草を取り出した。自分でたばこの葉をブレンドして巻いた手製のもの。それを口にくわえてオイルライターで火をつけ、煙を吸い込む。一息吸い込んだところで換気扇を回してないことに気づき、椅子から立ち上がって換気扇のスイッチを押す。換気扇はごう、と音を立てながら大気中に漂っている紫煙を吸い込み、ダクトを伝って煙は地上へと送り出される。その換気扇の下まで移動し、煙草を吸いながら考える。


 もし悠が最後まで本当に顔から体まで弄るつもりがあるなら、最後まで面倒を見ようと。当面の病院運営の為に悠という存在が必要という、まったく現実的で味気ない理由もあるが、それよりも自分がはじめて受け持った患者である。何かしらの特別な事情でも出来ない限り、転院させるつもりもないし、責任をもって最後まで見届ける義務があるような気がした。

 ひとりの中学生が、自分のあるべき姿を求めて勇気を出してここを訪ねに来た。そして自らの思いを吐露し、変わりたいと懇願してきた。ならば自分はそれに応えねばならないだろう。患者の要望に対して、医者として腕を振るう事が出来るのは医者冥利に尽きる。


 煙草がフィルター付近まで灰になりそうなところを見て、山賀は付近に置いてあった金属製の灰皿に煙草を投げ、カルテの編集に戻った。カルテには『来週、羽の移植手術』という項目を最後に書き込んで更新し、電子カルテソフトウェアを閉じた。

 時計を見やればいつの間にか十一時を指している。今日も患者は一人だけだろうかと思い診察室の椅子に座って二本目の煙草を吸いながら天井を見上げていると、どたばたと大きな音を立てながら一人の男が病院に転がり込んできた。


「なんだなんだ?そんな慌てて入ってくる事もなかろうに」


 尋常じゃない男の飛び込み方からして嫌な予感を覚えつつも、待合室を抜けて受付の所で男の応対をする山賀。男は擦り傷や打ち身はあるものの、すぐに治療しなければいけないと言うほどの大けがはない。それよりも、酷く怯えていて顔色が悪い。冷や汗なのかここまで走ってきたせいの汗なのか、革ジャンの下のシャツはじっとりと濡れている。


「か、かくまってくれないか。一時間だけでいい!頼む、追われているんだ」

「かくまうのは良いけど、いったい誰に追われてるんだよ、それを話しな」

「もう時間がないんだ!いいから場所を教えてくれ!」

「……診察室の奥に、手術室がある。今は手術の予定もないから色々と物を置いている。隠れるスペースくらいはあるだろうよ」


 山賀は診察室の奥の、カーテンで隠している金属扉の鍵を開けて手術室に通じる通路を男に示した。男は慌てて走り出し、手術室の扉を勢いよく開けて適当な物陰へと隠れた。その様子を見届けた後、山賀は扉の鍵を閉めてカーテンで隠し、さらについたてを置いて部屋そのものを狭めて、診察室の部屋そのものの広さを誤魔化す。その場しのぎだがやらないよりはマシだろう。


 山賀は努めて冷静でいることを心掛けるため、インスタントコーヒーを淹れているとエレベーターが降りてくる音が聞こえた。扉が開く音とともに、ドカドカと足音を立てて何者かがやってくる。

 受付を素通りして待合室に入り、そこにも誰も居ないことを確認すると、診察室のドアを開けて追跡者が入ってきた。二人組の男で、どちらもチンピラ然とした格好である。一人はスカジャンとダメージジーンズで金髪サングラス。もう一人は趣味の悪い紫色のスーツを着込んで、髪をオールバックでキメている。

 スーツの男は山賀を見るや、単刀直入に要件を言った。


「ここに、男が来なかったか?革ジャンに黒いシャツを着た、やせてる奴なんだが」

「……いいや。今日はまだ患者はひとりも来ていなくてね」

「嘘ついたらお前の為にならねえぞ?」


 いかにも気が短そうな金髪の男は、これ見よがしに懐に隠している大ぶりなナイフをチラリと見せて威圧する。山賀はそれを見ても気圧される事もなく毅然に対応する。


「その程度の脅しに屈すると思ってるなら、私も舐められたものね」

「あ?切り刻まれてえかテメェ」

「止めろケンジ。……この建物の中、改めさせてもらってもいいか」


 仮にここでだめだと言っても男たちは捜索する腹積もりだ。山賀はため息を吐き、懐から煙草を取り出して火をつけ、言った。


「……好きにしな。散らかすのだけは勘弁してほしいけどね」

「残念だがそれは約束できんな。洗いざらい調べて居ない事を確認させてもらうぞ。あの野郎……取引のブツを持ち逃げなんかしやがって、組に帰ったらただじゃ済まさねえ」

「指詰めか破門か絶縁のどれになるか楽しみだぜ。あ、その前に殺されるか」


 どんなものをあの男は掠め取ったというのだろうか、二人の男は怒りと焦りに満ちた顔色をしている。取り返せなければ彼らが罰を受ける事になるだろう。そのせいか手あたり次第に物をひっくり返したり、隠れられそうな場所を乱暴に開けたりして病院をめちゃくちゃに荒らしている。山賀はその様子を椅子に座り、煙草をふかして冷静なフリをして見ているが、こめかみには血管が浮き出ている。これで今日明日は間違いなく潰れるだろう。後片付けに費やさねばならない労力を考えると気が遠くなってくる。


 あらかた診察室と待合室、そして入院用の個室と大部屋を探した男たちは、もう一度診察室を念入りに調べた結果、ついたてで不自然に空間が圧迫されている事に気づき、ついたてを蹴り倒してカーテンの奥に隠された扉を発見する。


「おい姉ちゃん、ここの扉、なんだ?」

「手術室に通じる扉だよ」

「鍵、開けな」


 万事休す。手術室に隠れている男は、もう逃れる術はないだろう。男たちの追及は徹底的で、手術室がいくらものであふれているとはいえ全てをひっくりかえされたら終わりだ。山賀は観念して、扉の鍵を開ける。


「この先にきっといるぜ。俺の勘がそう言ってやがる」

「へへへ……ナイフの錆にしてやろうか」

「殺すなって言われてるだろ。やる時は戻ってからだバカ」


 男たちは勇み足で通路を歩き、手術室の中に入った。十分、二十分、三十分経過しても、追跡者たちは出てこなかった。時折ものをひっくり返したりする音と男たちの怒号、時計の針が動く音だけが聞こえる。診察室の時計が正午を指した時、鐘が鳴るとともに追跡者たちは疲れた様子で手術室から出てきた。表情には疲労と困惑の色が見えている。まさか見つけられなかったとでも言うのだろうか。


「クソ……野郎どこに行きやがった。おいあんた、まさか隠し部屋とかに匿ってねえだろうな」

「見つけられなかったのを私に押し付けないでほしいわね。とにかく、ここには居なかったんでしょ?早く帰ってよ」

「絶対このアマ、男を隠してるに決まってるぜ。首を掻っ切ってやろうか」


 短気な男は焦りと怒りが頂点に達したのか、懐のナイフを抜き出して山賀に向けようとする。


「私に何かするつもりなら今ここにある液体窒素ぶっかけるよ」


 山賀が液体窒素のボンベの蓋を開けようと手を掛けると、スーツの男が短気な金髪男を制する。


「バカ野郎。最近警察の締め付けが厳しいんだ。もしカタギにケガでもさせたらウチの組が潰される口実になっちまうだろうが。その得物しまえ」

「チッ……しょうがねえな。トオル兄貴に感謝しろよなてめえ」


 金髪の男はしぶしぶナイフをしまい込み、捨て台詞を吐いた。いら立ちついでにゴミ箱を蹴り飛ばして中のゴミをまき散らす。衝動的にメスを投げつけたくなるのをこらえる山賀。追跡者たちはどう親分に言い訳しようかと悩みながら、エレベータに乗り込んで地上へと出た。三下とはいえヤクザと渡り合っていた山賀は、彼らがいなくなったのを確認すると、大きく息を吐いた。背中には大量の冷や汗をかいており、どれだけ虚勢を張っていたかを物語っている。


 それにしても、痩せた男はどこへ消えたのだろう。手術室から先に行ける場所はなく、そこから逃げようにも通路を通って診察室に来なければいけない。そもそも地上に出るにはエレベータと非常階段しかないのだが、エレベータと非常階段は隣接しておりどちらにせよ逃げる手立てなど無い。しいて言えば手術室と診察室をつなぐ通路には換気用の通風孔があるが、いくら痩せているとはいえ一人の人間が通れるほどのスペースはない。


「行ったか?」


 唐突にどこからともかく、先ほどの男の声が聞こえてきた。


「わっ!?」


 驚き、山賀は辺りを見回すも男の姿は見えない。


「良く上を見てみろ」


 声に従って首を上に向けると、天井の模様と同化している何かの存在があった。更に目を凝らして見てみると、それは人型をしており、手のひらと足の裏を吸着させて天井に張り付いている。


「……なるほどキメラ人だったか」


 山賀はふっと笑い、すっかり冷めてしまったインスタントコーヒーを口にする。男は壁をつたって降りてきて、模様の同化を解除して元の姿に戻る。そのとき気づいた。男が一糸まとわぬ姿であることに。山賀はその姿を見てコーヒーを口から噴き出して診察室のテーブルを汚してしまう。


「げほっげほっ……お前なんで裸なんだよ」

「服着てたら周りの風景と同化してもバレるだろ。この能力を使うには裸が必須条件なんだよなぁ」


 なるほどもっともな話だが、それにしても裸で物を言われても頭に何も入らない。


「まず服を着てくれ。話を聞くにもそれからだ」


 男は診察室~手術室の間の通路の通風孔に隠していた服を取り出して着る。


「いや全く、肝を冷やした。死ぬかと思ったぜ」

「で、お前はいったい何者なんだ。何をした?どうして追いかけられる羽目なんかになったんだ」


 山賀の当然の疑問に対して、男ははぐらかすように答える。


「まあ誰でもいいじゃねえか。……とにかくかくまってくれたことは感謝するよ」

「……気が向いたら借りを返しに来てよ。期待せずに待ってるからさ」


 山賀は今の病院の惨状を見つめながら、気が抜けたように答えた。男を問い詰めた所で恐らく何も答えないだろう。言うエネルギーが無駄だ。男はエレベーター前にまで行くと、振り向いて山賀に疲れた笑顔を向けた。


「じゃあな。面倒に巻き込んで悪かった」

「……さっさと帰って」


 男はエレベーターに乗り込み、新宿の街へと消えた。……トラブルの元凶は去った。そして残されたのは散らかされて荒らされた病院だけである。山賀はため息を吐きながら、地上へ出て『診察中』のプレートから『本日臨時休診』のプレートに変えて病院の鍵を閉め、そのまま昼食を食べに街へと赴いた。

 こんなこともこの街では日常茶飯事の一つなのだと、改めて山賀は思い知ったのだった。


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2-6 いたずらと笑顔とアクシデント END

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