3-26:意志、願い
ベッドに寝転がった希愛はほどなくして睡魔に襲われた。
天井からの明かりは今は昏く、目を闇に慣れさせないと部屋の様子すらうかがえない。 久しく寝不足であった為か、希愛は思ったより早く深い眠りに着いた。
ここは夢だと即座に希愛は気が付いた。
見たことがある風景。
ビルが連なる街。新宿区四番街の商業ビルと住宅マンションが立ち並ぶ区域。
今、希愛は石橋に背負われている。石橋の荒い息遣いと、背後から迫ってくる男の靴の音が聞こえてくる。石橋の持っている能力のアドバンテージはこの男には通用しない。
垂直な壁すらもわずかな壁の出っ張りを見つけてそこを手掛かりに驚くべき速度で登ってくる。それはまるで猿のように。いや、崖のような場所では人間の方が上る能力は高いとは聞くが。
ともかく、石橋はまだテナント募集中のビルに逃げ込んだ。
そこまではまだ希愛は覚えている。問題はここからだ。
武器も何も持っていない石橋は、追跡者の並外れた膂力によって打ちのめされる。
それにもまして希愛は無力すぎた。
せめてもの抵抗としてガラス片を武器に立ち向かったが、あっけなく希愛は捕らわれてしまう。
もっと力があれば。
気を失い、連れ去られる自分が見える。その後の事はわからない。どうなっているのだろう。そもそも気を失っているというのに、何故今この光景が浮かぶ?
希愛を連れ去ろうとする追跡者と、すがりつく石橋。
その時、希愛の体がびくんと跳ねた。
ざわざわと希愛の体が黒い物体に変化したかと思うと、部屋の天井にまでそれは高く伸びていく。少女の質量よりも遥かに多く、明らかに質量保存の法則を無視している。
やがて黒い物は獣の姿を成していく。今を生きる生物ではなく、伝説上にのみ記されている獣の姿に。
獣は追跡者を難なく打ちのめし、街の外へ出た。
街はいつの間にか人がたくさん歩いている。希愛と石橋が追われていた時には全くいなかったのに。どこから彼らは湧いて出たのだろう。
獣は街を蹂躙する。
自分から変化した、しかし自分でない何かを希愛はぼんやりと見ていた。
ふと正気に戻り、石橋の居たビルの部屋に戻る。
満身創痍の体でなお、石橋は何かと対峙していた。虎の形をした影は今にも襲い掛かりそうな姿をしている。
衝動的に希愛は「やめて!」と叫び、影へと向かって走っていった。
すると影は希愛の体と触れた瞬間に煙のように霧散し、消え去った。
ひとまずの危機は去った。
安堵して石橋の方を振り返ると、彼は血を流して倒れていた。
「いやあああああああああああっ!」
そこで希愛は目が覚めた。
心臓が早鐘のごとく鳴っている。冷や汗で着ている服がびっしょりと濡れていた。
ここに来てから、希愛は教団の服を着せられている。一般信者が着ているカソックと似ているが、襟元や手首の辺りには金の刺繍が施されている。一手間かけられているのがわかる。
湿って肌にまとわりついて気持ち悪い。着替えは日に一度、その都度部屋に持ち込まれる。ベッドの下に希愛は置いている。
着替えようと服に手を掛けた時、違和感を覚えた。
希愛の手が、まるで夢の中で暴れていた獣とそっくりの黒い毛でびっしりと覆われている。爪も人間のものではなく、肉食獣のように鋭い。
「なに、これ」
唖然としている間に獣化は解かれ、何事もなく元の腕に戻った。
希愛は思い出した。
気絶させられ記憶が途切れていた間、別の人格のようなものが希愛を乗っ取った事を。
その後は夢の通りである。自分は数種類の獣が合わさった姿となり、追跡者を襲い、そして石橋をも手に掛けようとしていた。
希愛はいつの間にか、体をガタガタと震わせていた。
「……なにこれ、なにこれ」
震えが止まらない。
その時、コツコツと廊下を歩く音が聞こえてくる。
鉄格子越しに男は笑いかける。
「やあノア。元気にしているかな」
だが希愛は震えているばかりだった。
「どうした。顔色が悪いじゃないか」
「私の体が獣みたいになってたの。ねえ、研究者だったんでしょ。何か知ってる?」
少女はすがるように男に尋ねる。
「ならば少し語ろうじゃないか。中に入るよ」
そう言って男は牢屋の鍵を開け、希愛の隣に座った。
そしてささやくように語りだす。
「君の体には、あらゆる生物の遺伝子が内包されている。昔、アマゾンかどこかのジャングルで琥珀に固められた蚊を見つけた。しかし調べてみるとその蚊の中にはあらゆる生物の遺伝子が入っていた」
「そんなものが本当にあったの?」
「私も実物を見たことがないから何とも言えんがね。しかし、君の体にはその蚊から抜き出した全ての生物の遺伝情報が入って要る。今では絶滅した生物のも、そして未だ地球上では未知の生物のものすらな。その遺伝情報の中の一つに、不老不死の生物の遺伝子もあると言う」
「不老不死?」
あまりにも壮大な、というか素っ頓狂すぎてにわかには受け入れがたい希愛。
それはそうだ。自分の体の中にあらゆる生物、それも絶滅した生物や未だ知らない生物の遺伝子が入っていると言われてもピンとこない。
「じゃあ、私のこの変身能力は一体何なの?」
「それこそが、研究所で研究していた事の一つだ。今となってはもう研究所もないから言えるが、兵器としてのキメラ人の研究をしていた。そもそも、なぜキメラ人が生まれたと思う?」
「自然に生まれて来たんじゃないの?」
「ありえないね。人間と他の生物が子を成しえるはずがない。故に、キメラ人は人為的に誕生させられたのだ。人間をベースにした生物兵器、それがキメラ人だよ」
「嘘だ」
「嘘も何も、それが真実だよ。詰まらないだろうがね。だがね、君はそれでも人類の、そして私の希望でもある」
「どういう事なの?」
「君の変身能力こそが、いずれ本格的に宇宙へ進出する人類が必要としているものだ」
希愛はここでわからない、という風に首を傾げる。
「でも、教団は人類は純粋なヒトが世の中を導くとかなんとか言ってなかった?」
「私の願いを成就するためにはそういう嘘も必要なんだよ」
「嘘なの?」
「純粋な人類がこの世を支配する……そういう事を言って滅びた組織は過去にいくらでもある。私はそのような轍を踏むつもりはないからね」
やっぱりわからないと希愛は額に皺を寄せる。
「君には少し難しかったかな?」
「……ねえ、私はずっとこのままなの?」
不安げな顔で、希愛は男を見上げた。
「君の変身能力は未だ不完全だ。調整しきれなかった我々にも非はある。その点については申し訳ない。だが、現状でも何とかできないわけではない」
「それはどうすれば?」
「人には他の動物には無い、意志がある。何かを成し遂げようと願い、行動する強い力だ。君は研究所から出たいと思い、そのために行動した。それは強い意志の力によって動いた結果だ」
「うん」
「ならば、その能力も意志によって制御できるはずなのだ。しかし我々が研究所で実験を続けていた間には、ついぞ制御できずに死ぬ子ばかりだった」
「やっぱり、死ぬんだね」
「君も暴走したのだな」
「……うん」
「ならば次暴走したら死ぬかもしれないね。だから私は君を保護した」
「保護? これが?」
「外はストレスが多すぎる。私の研究が形を成すまではこのような措置を取る事は仕方がない事なのだ。許してほしい、君の安全のために」
信用できないと希愛は直観的に思った。
この男はいよいよ何かを隠している。そうでなくても、そもそも自分が暴走する理由を作ったのは教団のはずだ。追跡者に襲い掛かられなければ暴走する事もなかった。
「もう少し研究素材が集まれば、制御装置の開発も夢ではない。希望は捨ててはいけない」
「本当なの?」
「ああ。そして君と私は再び、ノアの箱舟の担い手となろうじゃないか」
「ノアの箱舟?」
「旧約聖書に書かれていた出来事の一つだ。本を読んでいたのに知らないのか?」
「宗教系の本は、あの場所には無かったから」
「そうか。早い話、世界が洗い流された後の世界を新しく作った人の話だ。人類は堕落しすぎた為に神の罰を受けたのだ。我々もいずれはそうなろうと思う」
「新しい世界の担い手にでもなるつもりなの、貴方は」
希愛がそう言うと、男は不敵な笑みを浮かべた。
「喋りすぎたかな。では私はそろそろ行くとしよう」
「待って。最後にひとつだけ。あれだけ研究所で会っていたのに、全然あなたの名前を知らない」
「エンノイア=エルシェパ。君と結ばれる者の名前だ」
言い残し、エンノイアは牢屋を去っていった。
「結ばれる……? 私が結ばれるのはタカ兄ちゃんとだよ?」
困惑の色を隠せない希愛は、ずっと天井を見つめて考えていた。
エンノイアは廊下を歩き、やがてエレベータの前に辿り着く。
そこでは彼の従者の一人が待っていた。
「エンノイア様。例の準備はあと一週間ほどでできます」
「うむ。だが出来るだけ急げよ」
二人はエレベータに乗り込む。
「もうすぐだ。もうすぐ君と私は……」
エンノイアは笑った。
それは酷く嫌らしく歪んだ、およそ宗教の教祖とは思えないような笑みだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます