3-25:囚われの二人

 ここはどこなのか。

 無機質な白に覆われた部屋。窓も何もない、あるのは壁に立てつけられた簡易ベッドと、用を足す為の仕切りを設けられたトイレだけ。まるで牢獄と変わりない。

 おあつらえ向きに外と中を区切る扉だけが、なぜか古めかしい錆びた鉄で出来た鉄格子と来ているから雰囲気だけはある。

 鉄格子なので外の様子を見通せるが、ここから見えるのは薄暗い緑色のランプで足元をわずかに照らしている通路のみ。通路の合間合間に何かが入っているかのようなカプセルが設置されている。中に何が入っているのかはわからなかった。

 まるで何かの研究所のようにしか思えなかった。

 希愛の脳裏にかつての記憶がよみがえり、脳の奥でうずく。

 まだ自分が外の世界を知らなかった頃の白い研究所の中の記憶。研究の素材でしかなかった頃の、名前のない生き物に過ぎなかった時。

 あの時に逆戻りしたかのような感覚に襲われる。あまりにもここは似すぎている。


 何者かに連れ去られて以降、希愛はここに居た。

 昼と夜に連動して天井の灯りは明滅する。だから昼とか夜の感覚は失っていないが、今が囚われて何日目かはもう曖昧になっていた。最初は数えようとも思ったが、壁に傷を付けられる道具が無かった。食事の時に支給される食器はスプーンのみで、柄の部分では壁も床も傷一つつけられやしなかった。増してや彼女の非力さでは。

 幸いな事に、食事の内容に関しては研究所の時のような、水のように薄い野菜くずスープや固すぎる黒パンなどではなく、子どもが喜びそうなメニューで構成されていた。カレーライスやハンバーグ、スパゲティナポリタン等々。

 味も上々であったが、それでも石橋たちと一緒に囲んだ食卓での食事の方が良かったと彼女は感じていた。

 一人で食べる食事のなんと味気ない事か。

 カラン、とスプーンをトレイに投げ捨てる音がした。まだ器には食べかけのミネストローネが残っている。

 

「おいしくない」


 独り言ち、希愛はベッドの薄い毛布の上に横になる。

 皆は、石橋は無事なのだろうか。

 思いを募らせても囚われている身の上で何が出来るというのだろうか。

 無力な自分に歯噛みし、身もだえする。

 それでも、今は自分が元気でいる事が一番の使命だと思い直して希愛は目を瞑った。

 ここに入ってからはろくに睡眠も取れていないが、それでも英気は養いたい。

 

 ふと、音が聞こえた。

 誰かが廊下を歩いてくる音。硬い床を革靴で歩くと聞こえる、こつ、こつ、こつ、というあの音。研究所に居た時、本を読むのにも疲れた時に寝転びながら聞いた音に似ている。


「アリサと一緒に音当て遊びしたっけな」


 誰が歩いてくるのかを当て合っていた記憶。音が軽いと女性で、重いと男性だっていうのはわりと当てられていたけどそれ以上の区別をつけるとなると中々難しかったような気がする。

 この音は誰だっただろうか。それにしても妙に聞き覚えがあるような。

 やがて音は鉄格子の前で止まった。


「ノア。ようやく来てくれたね」


 低く優し気な声は、希愛の耳にはひどく聞き慣れた物があった。

 

「……なんで貴方がここに?」

「私はノアの事を一日たりとも、一時たりとも忘れたことはないよ」


 教団の白衣に身を包んだ男は希愛に語り掛ける。

 希愛はこの男を知っている。

 かつて居た研究所の研究員の一人だったはずだ。


「何年ぶりだろうかね。ノアは何歳になった?」

「……十歳」

「ああ、そんなに。生きていてくれて良かったよ本当に。逃がした甲斐もあったというものだ。でも私はきっと君なら生き延びると思っていた」

「逃がした?」

「なんであの時、研究所から逃げられたと思う? 都合よく研究所がトラブルに見舞われたと本気で思ってたのかい?」

「まさか、貴方が?」

「ああ。君の為に。君の友達の為に私が手を打った」


 希愛は得体の知れない違和感を覚えた。

 たかが研究素材の一つでしかなかった自分に、何故ここまで彼は入れ込むのだろうか。

 脱出の切っ掛けをくれたのは有難いにせよ、理由が全くわからない。


「いずれにせよ、あのまま研究用のモルモットとして中にいたままなら、近いうちに実験でゴミのように死んでいたはずだ。研究所の連中は君の持つ素晴らしさに全く気づかない馬鹿ばかりだった。あんな連中に研究を任せていい筈がない」

「なんで私たちを助けようと思ったの?」

「それは君がこの世界の救世主、いや方舟となりうる存在だと思ったからだ」

「私はそんなおおげさな存在じゃない。普通の人間よ」

「君にはまだ自覚がないだけだ。昨日今日言われた所で自覚する者でもないからね。その辺りは後日ゆっくりと君に語ろうじゃないか」


 この男の言う事には何か得体の知れない怖気を感じる。

 

「それよりも、今日は君にお客さんを連れて来たよ」

「お姉ちゃんお久しぶり、でもないかな」

「アリサ!」


 男の背後から現れたのはアリサだった。

 私服ではなく、教団の制服である白いカソックを着て首にY字型十字架を提げている。


「さて、しばらくは二人でゆっくりと語り合うがいい。私は先にお暇するとしよう」


 男は言ってアリサを残して牢屋から去っていった。

 残された二人。再会を喜ぶアリサと困惑するばかりの希愛。


「どうしてここに」

「私も教団の信徒なの。びっくりしたでしょ」

「びっくりもなにも」


 普通に生活している時には全くそのような素振りすら見せなかったので、余計に驚きを隠せなかった。

 アリサは鉄格子のそばまで寄り、希愛と向かい合って立つ。


「アリサ、なんで教団の信者になったの?」

「何を言ってるのお姉ちゃん。ここは素晴らしい場所なのよ」


 そう話すアリサの瞳には信者特有の強い光が宿っていた。

 このような瞳を見るのは初めてだった希愛は、強い違和感と困惑を覚える。


「私は自分がこんな体だって言うのを今は恥ずかしいと思っているの。だって人間じゃないんだもの。だから私はこれから教団の勧めに応じて純粋な人間に戻るの」


 天を仰ぎ、手を広げるアリサ。妙に芝居がかった動き。

 誰かに仕込まれているような、人形めいた雰囲気。


「ねえアリサ。本当にそう思ってる?」


 希愛が問いかけると、アリサの瞳の輝きはわずかに弱まった。


「アリサはきっとそう思い込もうとしているだけじゃないの。貴方はそんな子じゃなかったはずよ」

「姉ちゃんにはわからないよ」


 アリサは俯き、背を向ける。


「姉ちゃんはいいよ。ヤクザだけどイイ人に助けられて」

「アリサを保護したあの二人だっていい人じゃないの」

「違うよ。あの二人は表向きはニコニコ笑っているけど、家じゃそうじゃないもの」


 そう言ってアリサは白いカソックを脱いだ。

 上半身を下着姿になったアリサの肌は、所々に青い痣があった。

 その惨状に、思わず息を呑む希愛。


「……これって」

「教えを信じなかったり、教えに沿わない行動をするとあの人たちは殴る。だから私は信じるふりを続けるしかなかったの」


 次第に涙が流れ、とめどなくあふれて抑えきれなくなる。

 研究所で実験のあと、幾度となく見た姿。

 アリサはやっぱり一人ぼっちだった。

 希愛は泣きじゃくるアリサを鉄格子越しにそっと抱きしめる。

 

「大丈夫。きっとタカ兄ちゃんが助けてくれる。私を助けに来るから、その時にアリサも一緒にってお願いする」

「……私はもう助けてもらえないよ。絶対嫌われたもの」

「そんなことない。あの人は優しいから」

「本当? 本当に?」

「約束する。アリサも一緒に私たちと行きましょう」

「うん、約束ね!」


 アリサは小指を差し出し、希愛も同じように小指を絡ませる。

 ゆびきりげんまん。

 これもまた、研究所での幾度とない約束事のたびに交わされてきたやりとり。

 泣きじゃくっていたアリサはいつの間にか笑顔に戻っていた。


「そろそろ行くね。じゃあ、今度は一緒にここから出ましょう」


 アリサは跳ねるように走ってその場を後にする。

 誰も居なくなった後の通路を見送り、希愛はまたベッドに戻った。

 いつしか照明は徐々に暗くなり、夜を告げている。


「……助けて」


 ぽつりとつぶやいた一言。

 希愛はぎゅっと目を瞑り、さなぎのように丸まっていた。

 今は祈る事しかできない。 

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