魔戒都市物語

雄大な自然

ファースト・ステージ

第1話 もう一度、最初から

「私と、友達になろうよ」

その言葉を、簡単に口にしてしまったことを今でも後悔している。


ズルリ、と何かを引きずる音がした。

グチャリ、と何かを潰す音がした。

人ではない何かが、甲高い叫びをあげ、それを押しつぶすような重苦しい咆哮が響き渡る。そして、メリメリを音を立てて、何かが引き裂かれて断末魔の叫びを上げた。

——まただ。

鈴宮姫乃は自分が夢を見ていることを自覚する。その夢から覚めることの出来ない自分を、まるで別の誰かのように見ている。

夢ではない、これは過去にあったこと。そう姫乃の心は理解している。理解しているから、自分の目の前の光景から目を背けることが出来ない。

あの時、今の自分より二つ年下の自分は目をつぶり、耳を塞ぎ、物陰に隠れてずっと声を殺していた。

やがて周囲の音は止み、引きずるような音とともに少女の目の前にそれが姿を現した。

怪物だった。人のような四肢を持ち、剥き出しの鉄色の骨に血のような赤黒い肉が張り付いた、棘だらけの怪物。

三つの目の中に無数の眼球が蠢き、顎まで裂けた口。血まみれの足を引きずり、地面まで伸びばした腕を引きずりながら少女の何倍もの巨躯を持つ怪物が、全身から鮮血をまき散らし彼女の前に立つ。

「——ヒ——メ……」

怪物の口から血と酸がボタボタと零れ、悲鳴が周囲を突き刺した。

それが昔の自分が放ったものであることを姫乃は知っている。怪物の姿を目にして泣き叫びながらその場を逃げ出した自分の姿を、今の姫乃は他人事のように見ていた。

怪物は動かない。少女を追いかけたりはしなかった。少し、うなだれたかもしれない。少女の逃げた先をわずかに見やり、怪物は逆に向き直る。

その視線の先には、別の異形たちの姿があった。怪物よりも整った姿の直立した姿の翼を持つ蜥蜴のような異形。

怪物は異形たちに向かい、再び咆哮を上げて立ち向かう。

逃げ出した少女の背中を守るかのように。


——私は逃げ出した

胸が痛む。今でも、思い出すたびに何度でも。

——友達になろうって言ったのは私だったのに

半身が包帯にまみれた少年だった。顔の左半分を包帯に隠されて、残った右半分も窪んだ眼、欠けた歯、なくなった耳、縮れた髪、どれをとっても普通ではなかった。

妹と二人、異形の怪人たちに追われて逃げていた自分たち姉妹を助けてくれた人が連れていた、自分と同い年の子供だった。

その姿は彼の母の父親に虐待されたのだ、と匿われた先の彼の家で、少年の父方の祖父だという人が言った。

自分は化け物だから平気だ、と彼自身が言っていた。潰れた、しわがれた声だった。喉も潰されていて、上手く喋れなかったのだ。

それでも、友達になろう、と姫乃は言った。

「私も——私も、妹も普通の人とは違うから」

それは本当のことだった。姫乃には子供のころから人とは違うものが見えていた。

人には見えないはずのものが見え、聞こえないはずの声を聞いた。

母や祖父母に話しても信じてもらえなかった。ただ、父と妹だけが同じものが見え、同じ声が聞こえていた。

妹はもっと普通ではなかったから、髪も目の色も違う妹は周りの子たちに虐められていた。

そんな妹をかばって何度も喧嘩して、妹のいじめっ子たちを追い払ってきた姫乃にとって少年の姿はおぞましくも、勇気を持って友達になろうと思える存在だった。

「アリガ、トウ」

そう言って差し出した少年の右手は、指が欠けていた。3本指の子と握手をするのはまた勇気が必要だった。そのとき、彼は笑ったのかもしれない。だけど、包帯に覆われて、火傷痕で引きつっていたその顔ではわからなかった。

そうしているうちに異形の怪人たちが隠れていた家を探し出し、少年の祖父の手引きで姫乃と妹は少年に連れられて、彼女の父の元へ逃げることになった。

だが、逃げきれなかった。

怪人たちに追いつかれ、少年は姫乃たちを守るためにその姿を変貌させ、赤黒い鉄骨の怪物へ、鬼へと変じたのだ。

それなのに、姫乃は逃げ出した。妹を連れて。彼にお礼も言わずに、何も言わずに、ただ悲鳴を上げて。

友達だといったのに、その姿が恐ろしくて、おぞましくて、怖くて。

人ではないものには慣れていたつもりだった。いつも人に見えないものを見ていたつもりだった。

でも、あんなに恐ろしい怪物を見たのは初めてだった。

だから仕方ない?

そんなはずはない、と姫乃の心は沈んだ。

姫乃たちが逃げた後も彼はずっとそこにいて、怪人たちと戦っていた。

血を流し、血を啜り、肉を喰らい、骨を砕き、命を奪う。

怪物同士の戦いはあまりにも凄惨で、叫び声や悲鳴だけが姫乃の背中に突き刺さり続けた。


知らなかった。

姫乃がそれまで見ていたのは、水や風や木や土の精霊たちだった。彼らがお日様の下で働いているのを見て、声を聞いて、周りに隠れておしゃべりしたり、彼らの頼みを聞いたり。そんな日々が、誰にも言えない姫乃の秘密だった。

その日まで、暗い夜の闇の中で、人知れず怪物同士が喰らいあい、血を流しあう、そんな世界があることなど知らなかったのだ。

「姫乃が今まで見ていたのは昼の光の世界、彼は夜の闇の世界に住んでいるのですよ」

そう、逃げ出した先で再会した父は言った。

そのとき、はじめて姫乃は、まだ幼い自分がもう一つの世界を見ないようにと父が守ってくれていたことを知ったのだ。

知らなかった。だけど、それで終わりたくなかった。

もう一度会いたいと思った。

もう一度会って、最初に謝って、そしてまた友達になりたいと思った。

友達だと言っておいて、その姿におびえて逃げ出した自分が恥ずかしかった。

父は仕方ないことだといった。怪物を見て怯えない人はいないと。だから逃げ出したことは悪くないのだと。

それでもそんな自分が許せなかった。平気だといったのに、逃げ出した自分が。

彼はきっと、彼自身の姿が怖がられることを分かっていたから、自分のことを化け物だといったのだ。姫乃はそのことを分かっていなかったから、簡単に友達になろうといったのだ。

だからもう一度、今度は全部わかってからちゃんと友達になろう、そう思った。

「もうすぐだよ、もうすぐ、真咲くん」

夢はまだ続いている。逃げ出した自分の背中を見つめて、それを遠くで守ってくれた怪物に向けて小さくつぶやく。


鈴宮姫乃は10歳になっていた。

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