怪物たちの夜

雄大な自然

人闇にオドル

参ったなあ、と影山読子かげやまよみこは空を見上げてため息をついた。

ガラス張りの天井の向こうは夜空。

時刻は11時前。

曇り一つない空でも、高層ビルに隠れて星は見えない。

駅のある市の中心部でも、たいした街ではないから、周辺施設はほとんどが閉まっている。

携帯端末で次の電車の時間を確認して、終電まで後2本しかないことを知り、読子は再びため息をついた。

「ごめんなさいね。影山さん」

そう言って、ベンチに座って介抱していた同僚の須佐凛子が読子に小さく頭を下げた。

その横には、二人の上司でもある江渡舞花が青い顔をして俯いている。

先ほどまで、トイレで吐き通しだったのだ。

再び江渡舞花がえづき、須佐凛子がその背中をさすって、彼女にビニール袋を持たせる。

二人から漂う異臭に思わず後ずさる読子だった。

その姿に、須佐凛子は苦笑して、読子を見上げた。

「ここは良いから、影山さんは家に帰りなさい」

「……でも」

「私の家、すぐ近くだから――影山さん、まだ遠いでしょ?」

一人見捨てて帰るのも悪い気がして躊躇った読子だったが、須佐凛子の言葉にさらに迷った。

悪酔いした江渡舞花を自宅に泊めるつもりの須佐凛子の言葉に、一瞬、自分も泊めてもらおうと考えて、二人から漂う吐しゃ物の匂いにさらに躊躇った。

「ここは、私一人で大丈夫だから」

その言葉に、読子はためらいながらも頷き、頭を下げてその場を離れた。


その日の打ち上げは、荒れた。

一次会の時はまだよかった。

小さいながらも社を上げてのプロジェクトの達成に、みんなが沸いていたと思う。

だが、一次会が解散し、グループごとの二次会に移ってから、読子のいたグループは大荒れとなった。

グループリーダーの江渡舞花。

読子たちは、他部署との調整役も担っていた彼女の愚痴と罵詈雑言を延々と聞かされる羽目になったのだ。

お酒も料理もほとんど彼女が独占した。

そのまま二次会は江渡舞花の怒りの独演会に終わり、その後は悪酔いした彼女を介抱し、駅まで連れて歩き、電車内で付き添い、車内で吐いた彼女に連れ添って途中下車する羽目になった。

そうして駅員の手も借りてようやく駅の外まで連れ出したのだった。


目の前で扉が閉まり、電車が発車するのを、階段を駆け下りた読子は息を切らせて見送るしかなかった。

これで、次は30分以上後の一本のみだ。

駅のホームの人もまばらで、途端に一人でいることへの不満が心をもたげた。

やはり、須佐凛子の家に泊めてもらった方が良かっただろうか?

そんな思いも心をもたげたが、まだ最後の一本がある、と気を取り直す。

明日はせっかくの休みなのだ。

嘔吐物の匂いに塗れて起きるのは嫌だった。

30分程度、ネットを見ていればすぐ過ぎる。

そう思っていた彼女は、すでに携帯端末のバッテリーが残り僅かなのことに気づいて落胆した。

もし電車にトラブルがあれば、須佐凛子に連絡して泊めてもらうかどうかも考えていたのだ。

ここで電源を落としてしまうと面倒になる。予備のバッテリーは会社に忘れてきてしまっていた。


端末を仕舞って、視線を上げた彼女の視界に、不意に飛び込んでくるものがあった。

子どもがいた。

彼女たちが下りた駅の構内とは反対側のロータリー。

線路とフェンスの植え込みの先に、円状の植え込み台に座っている小さな子ども。

時刻はまもなく、深夜を回ろうとしていた。

もはや彼女が乗り逃した電車の反対側のホームから、逆方向から来た電車が止まり、降りた乗客が駅を出ていく。

だが、その子どもに目を向ける大人は一人もいなかった。


――不自然なほどに。


読子は迷った。

少し距離があるため、よく見えないが、そこにいるのは確かに子どもだった。

それでも、みんながそこを素通りしていく。

誰一人、子どもに目を向けないのだ。


「ねえ、君。どうしたの?」


読子の言葉にその子どもは顔を上げて、彼女を見返す。

その顔に、ぞっとした。

その子どもの右目は酷く歪んでいる。

骨ごと眼窩が落ち窪んだ眼が、彼女を見上げていた。

顔の左半分は白く汚れた包帯で覆われている。

近くまでよらなければ、その子どもが男の子であることもわからなかった。

よく見れば、左肩から先も包帯に覆われていた。それどころか右肩と左肩で高さが違う。左肩の方が体より低く、右肩がわずかに高いのだ。

――虐待。

その言葉が彼女の心をよぎった。


「——母、待って、る」


しわがれた声だった。とても子供の声とは思えないほどの。

喉元に深い火傷痕があった。

見れば見るほど、おぞましい子供だった。

誰もが関わりたがらないのは当然だ。

「……お母さん?」

その言葉に、少年は小さく頷いた。

そのまま、駅の出入り口を見ている。

まるで今からでも母親が出てくるような……。

本当に、という言葉を読子は飲み込む。

すでに深夜に差し掛かりつつある中で、子どもが待つ時間ではなかった。

彼の言う母の帰りなど、ないのではないかと、読子の心に不安がもたげた。


はいはい、と軽い口調で無人だった派出所の奥から年老いた巡査が顔を出す。

読子と、彼女が連れた子どもの姿を見て、老巡査はまたか、という顔をした。

「はいはい。その子ね~」

「……知ってるんですか」

「時々ね、誰かが連れて来るんだよ。お母さんの出迎えだって言ってるのに」

呆れたような巡査の視線と、少年の視線がわずかに交差する。

「——しかも連れてきても、みんなここに置いて帰っちゃう」

わずかな愚痴交じりの老巡査が、規則だから、と書類を引っ張り出す背中を読子は見ている。

読子は端末で時間を見る。

終電までもう10分とない。

駅前の交番に子どもを預けて終電に乗りなおす。

良心と現実がせめぎ合って出したその予定にはギリギリだった。

老巡査が書類を取り出すのを手間取っているのに焦り、子どもだけ置いていこうと傍らを見る。


そこに子どもはいなかった。


慌てて交番から飛び出して左右を見回す。

その目が、路地裏に消えていく包帯の切れ端を見つけた。

まるで夢遊病者のようなその後ろ姿に背すじがこおった。

老巡査が書類を揃えて机の上に置いた時、派出所の中にはもう誰もいなかった。

またか、と老巡査はため息を吐く。

あの子どもを連れてくる人間はいつもそうだ。

無責任な……。


「待って!」


読子の声に子どもの足が止まる。

暗がりの中、誰一人いない路地裏で包帯が蠢いて振り返る。

落ち窪んだ右目が、読子を見た。

その包帯が外れてその左目が読子を見る。

ひっ、と読子の喉が鳴った。


――この街には、一つの掟がある。


その声は、子どもの方から聞こえたはずだった。

だが、言葉は路地裏の四方から聞こえる。

思わず後ずさった読子の背中が何かに当たった。

そんなはずはない。

彼女は路地裏から出ようとしただけなのだから。

読子は振り向けない。

何かが後ろにいるのだ。

何か蠢く、音を立てるものが彼女すぐ後ろにいる。


――夜は外に出ていけないと。


読子は口をおさえた。

何かが自分の回りにいる。

黒い壁面は、何も写さないのに。


――暗がりにいてはいけないと。


それは壁ではなかった。黒いそれは、読子の目の前で崩れ、歪み足元を這い回る。

蟲だ。蠢く蟲だ。

名前もわからない蟲が彼女を囲んでいる。


――いただきます。


ひ、と読子の喉が鳴った。

背中に当たるものが、そのまま彼女を後ろから覆いつくす。

「助けて――」

悲鳴は、音にならない。

彼女の発した声も、血も肉も涙も。

全てが黒い蟲に覆いつくされた。


「……真咲くん?」


駅の改札をくぐった愛居咲夜は、駅のロータリーに見知った顔を見つけて、驚きの声を上げた。

「——母」

もう聞きなれた、しわがれた言葉が彼女の耳を打つ。

「——迎え、来た」

「……もう遅いのに」

「——問題、ない」

いつもそうだ。

彼女が仕事や付き合いで遅れるときは、彼が迎えに来てくれる。

「いつもありがとうね」

「礼は、ない」

言葉少なに、いつものように彼は否定する。


「夜、一人で来るのは危ないよ?」

「だから、来た」

母と子は、手をつないで家までの帰り道を歩く。

薄暗い夜の道を外灯が照らす夜道を行く。


「あ、お腹すいてない?大丈夫?」

途中でコンビニの明かりを前に、寄り道しようかと考える。

夜食には遅い時間だが、アイスクリームくらいならいいかもしれない、と不意に思いついたのだ。

単に、咲夜自身が食べたくなっただけでもあった。

「必要、ない」

いつも通り、彼女の息子は、言葉少なに母の言葉を拒絶する。


――もう食べた。

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