第15話・お願い×名前
人は一生の内にどれだけの悩みを抱えるのだろうか。
悩みを持たない人間など、おそらく一人として存在しないと思う。仮にそんな人間が居たとしたら、その人は地球一の幸せ者なのかもしれない。
夏休みも残すところ一週間。過ぎ行く日々が秒刻みで惜しく感じるそんな夜、携帯が綺麗な着信音を
その音に反応して寝そべっているベッドの枕元に置いてある携帯電話を手に取り画面を見る。
――雪村さんから電話?
連絡先を交換してからたまにメールを交わすようにはなったけど、こうして雪村さんから電話がくるのは初めてだった。俺はとりあえず携帯電話の画面にある応答表示を押して電話に出る。
「もしもし?」
「もしもし、鳴沢くん? ごめんねこんな時間に」
その言葉を聞いて部屋の掛け時計に目をやったが、時刻はまだ21時を少し過ぎたところ。雪村さんが言う程遅い時間でもない。
「大丈夫だよ。どうかしたの?」
「えっ? えっと、あの……」
何か用事があったのだろうと思っていたので、その答えはすぐ返ってくると思っていた。
しかし予想に反して雪村さんの歯切れは悪く、
「何かあったの?」
「う、ううん。何でもないの……ごめんね、おやすみなさい!」
「えっ!? ちょ、ちょっとま――」
俺が言葉を言い終わる前に通話はプツッと切れてしまった。相当慌てていた様に感じたけど、いったいどうしたんだろうか。
――何だろう。雪村さんらしくないな……。
気にかかるけど電話をかけなおすのもどうかと思うし、今の事をすぐにメールで聞くのもどうかと思う。突然の出来事に驚いていた俺は、それからしばらく腕を組んでどうしたものかと考えていた。
× × × ×
「あれ? こんな時間にどこに行くの?」
雪村さんから謎の電話があった翌日の22時前。俺は玄関で靴を履いているところをお風呂上がりの杏子に発見されてしまった。
「ちょっとコンビニにな」
「そうなんだ。じゃあチョコミントアイスを買ってきて欲しいなあ」
「お金は当然お前が払うんだろうな?」
「ん? それは優しいお兄ちゃんが払ってくれるはずだから」
にっこりと微笑んでそう言う我が妹様の表情は
「……分かったよ」
「やった! だからお兄ちゃんだーい好き!」
「はいはい。そりゃどうも」
妹とは自分にとって都合のいい時にだけ兄を好きになるもんだ。それが分かっていながら甘やかす俺も俺だけどな。
自身の妹に対する弱さを感じながら溜息を吐き出し、玄関を開けて暗い外へと足を踏み出す。
「さてと、それじゃ行きますかね」
玄関先の駐輪スペースに止めてある自転車に乗って軽くペダルを踏み出し、街灯が道を照らす住宅街へと出て行く。
杏子にはああ言ったけど、コンビニに行くというのは
昨日の電話がどうしても気になっていた俺は、かつて少しの間だけ働いていたバイト先へと向かった――。
「あっ、雪村さん!」
「鳴沢くん? こんな所で会うなんて珍しいね。こっちに何か用事?」
もう少しで元バイト先へ着こうかという頃、幸運にも道端で雪村さんと鉢合わせした。
「ちょっと雪村さんに用事があってさ」
「えっ? 私に?」
道端で立ち話をするのもなんだからと、ここからすぐ近くにある小さな公園へと向かう。
そして二人で歩いて辿り着いた公園は街灯のおかげかわりと明るく、話をするにはちょうどいい感じだった。ここは俺が幼い頃からある公園だけど、その頃は小さな街灯が公園の真ん中に一つあるだけで、夜は結構不気味だったのを覚えている。
雪村さんには公園の中にあるベンチに先に行ってもらい、俺は公園前の自動販売機で飲み物を二人分買ってから急いで雪村さんのもとへと向かった。
「お待たせ。どっちがいいかな?」
「あっ、ありがとう。それじゃあフルーツジュースの方で」
ご所望のフルーツジュースを手渡した後で雪村さんから少しだけ距離を空けてベンチに座り、缶コーヒーの
飲み物を口にする俺達の間に、少しだけ沈黙の時間が流れていく。
「――それで、話ってな何かな? 鳴沢くん」
一口、二口と飲み物を口にした雪村さんがその沈黙を破って言葉を発した。
「えっと……俺の気にし過ぎかもしれないけど、昨日の電話が気になってさ。雪村さん、何か話したい事があったんじゃないかと思って」
「それでわざわざ会いに来てくれたの?」
「うん。ごめんね、バイトで疲れてるのに」
「ううん、私こそごめんなさい。気を遣わせたみたいで……」
「いやいや、俺が勝手にそう思っただけだからさ」
「「…………」」
再び俺達の間に沈黙が走る。
雪村さんは地面をじっと見つめたまま、何かを考え込んでいる様に見えた。
「――実はね、最近ちょっと悩んでいた事があって。それでね、一人で悩んでたら急に鳴沢くんと話をしたくなっちゃって」
「そうだったんだ」
「うん……。ねえ、自分にやりたい事があって、もしもそれを誰かに止められたとしたら、鳴沢くんならどうする?」
この質問にどのような意図があるのか俺には分からない。だがとりあえずその質問の答えを考えてみる。
「うーん……俺なら止められてもやれるところまではやるかな」
「どうして?」
「だって自分がやりたい事なんでしょ? それなら納得がいくまでやってもいいんじゃないかな?」
「納得がいくまで……か」
俺からの答えを聞いても雪村さんの曇った表情は変わらなかった。でもその理由は分からなくもない。
納得がいくまで――なんて言うのは簡単だけど、実際にそうするのは難しいし、ほとんど理想の領域とも言えるからだ。
どれだけそうしたくても、俺達が現実に生きている以上、その過酷さには
「言い方が良くなかったかな。この場合は自分がやれるところまで――って言った方がいいのかな」
「そっか……そうだよね」
雪村さんはそう言って少しだけ微笑んでくれる。それから少しの間、俺達は他愛ない雑談に興じた。
しかしあまり時間が遅くなってはいけないので、俺は雪村さんを家の近くまで送る事にして公園を後にする――。
「ここまででいいよ、鳴沢くん。送ってくれてありがとう」
自宅へと続く道を一緒に歩く間も、やはり雪村さんの悩みについての詳しい話はされなかった。
結局彼女が何について悩んでいたのかは分からなかったけど、それは無理やり聞くものではないだろう。
「いや、こっちこそごめんね。こんな時間まで」
「ううん。それじゃあ気をつけて帰ってね、鳴沢くん」
「うん。またね」
お互いに軽く挨拶をした後で自転車にまたがり、方向を変えてペダルを踏み込もうとした時だった。
「鳴沢くん!」
突然勢い良く名前を呼ばれ、少しビックリしながらも後ろを振り向く。
「どうかした?」
「あ、あの……この前の約束、覚えてるかな? プールでの……」
プールでの約束。それは今度何かお礼をするからと言った事を指しているのだろう。
唐突ではあるけど、ここでその話を持ち出すという事は俺に何かしてほしい事があるって事なのかな。
「もちろん。ちゃんと覚えてるよ」
「良かった。あ、あのね、お願いがあるの」
街灯で照らされる雪村さんの顔が徐々に紅くなっていくのが分かった。よほど言いにくいお願いなのかな。
「雪村さんから要望を言ってくれるのは助かるよ。正直どんなお礼をしたらいいのか分からなかったからさ」
言い辛そうにしている雪村さんが少しでも気楽にお願いを言えればいいと思ってそう言ったけど、果たして効果があったかどうか。まあどんなお礼をしていいのか分からなかったのも事実だけど。
「その、あのね……。龍之介くんって呼んでもいいかな……」
雪村さんは消え入りそうなくらいに小さな声でそう言い、視線を
しかしその申し出はお願いと言うにはあまりにもささやか過ぎて、俺は思わず首を傾げてしまった。
「そんな事でいいの?」
「うん……ダメかな?」
雪村さんは俯かせていた顔を少しだけ上げてこちらを向いたが、俺と視線が合うとまた視線を逸らしてしまった。
「いやまあ、そん事でいいなら全然構わないけど、本当にそんな事でいいの?」
「うん。それがいいの」
「分かった。じゃあ、そう呼んで」
「ありがとう。龍之介……くん」
照れくさそうに名前を呼ばれると、何だかこっちまで照れてしまう。
気恥ずかしそうに俺の名を呼ぶ雪村さんは、普段の凛とした雰囲気の時に見せる可愛さとは別の可愛らしさが見えた。
「じゃ、じゃあね! 龍之介くん!」
雪村さんはそう言うと、紅くなった顔を
どうして雪村さんがあんなお願いをしたのか、それは俺には分からない。けれど他ならぬ本人がそれでいいと言ったのだからそれでいいのだろう。人の思いの奥底など、どんなに目を凝らしても見えはしないのだから。
そんな事を思いながら自転車のペダルを踏み込み自宅への道を進み始める。
「――あっ!」
しばらくして自宅前に着き自転車を降りた時、俺は大事な事を思い出した。
「アイス買うのを忘れてた……」
杏子にはコンビニに行くと言った手前、手ぶらで帰ると我が妹様にどんな代償を求められるか分からない。
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