第14話・特訓×お兄ちゃん

 今日も変わらず太陽がギラギラと眩しい光で照りつける中、俺は妹の杏子あんずと市民プールに来ていた。


「もう少し身体の力を抜け。力み過ぎだ」

「う、うん。分かった」


 わざわざ妹とプールに来た目的は、もちろん遊ぶ為ではない。今日は甘えん坊な我が妹様に泳ぎを教える為に来ている。

 杏子は色々な事をそつなくこなす万能タイプなのだけど、泳ぎに関しては話が別だ。

 なにせ小学校の頃に家族で海に行った時、杏子が犬掻きをしているのを見た事があるんだけど、その様は何と言うか……溺れかけの犬――と言った感じだった。

 まあそう言うわけで今年は金鎚を克服できるようにと、朝の開場時間から来て泳ぎを教えているわけだが、予想に反して杏子が上達する気配が見えない。


「うーん……どうしたもんかな」


 泳ぎの特訓を始めてから約1時間。今は安全管理の為にお客さん全員がプールから上がっている。

 そして思った程上達しない杏子を前に、俺はプールサイドで腕を組んで悩んでいた。杏子は真面目にやっているんだけど、感覚の違いがあるせいかいまいちコツが上手く伝わらない。


「見回りが終わりましたー! ご協力ありがとうございます!」


 向かい側のプールサイド。そこからの声に前を見ると、偶然にも見知った顔を見つけた。


「杏子、ちょっと知り合いが居るから挨拶して来るな」


 立ち上がって向かい側のプールサイドへ移動を始めると、なぜか杏子も立ち上がってついて来た。まあ別にいいんだけどな。


「頑張ってるね、雪村さん」

「えっ? あっ、鳴沢くん。プールに行くって言ってたけどここだったんだね」

「うん。偶然だね」


 外で偶然知り合いに出会うと妙にテンションが上がるのはなぜだろう。やはり状況や場所が違うと新鮮に感じるからだろうか。


「ところで、後ろに居る可愛い子は?」

「あっ、俺の妹なんだ」

「鳴沢杏子です。兄がいつもお世話になってます」


 背後から出て俺の横に並び、礼儀正しく自己紹介をする杏子。こういったところは素直に感心する。


「しっかりしてる妹さんだね。私は雪村陽子です。よろしくね」

「よろしくお願いします」

「さてと。仕事の邪魔しちゃ悪いし、俺達はそろそろ行くよ」

「うん。わざわざありがとう。またね」


 監視員の仕事に戻る雪村さんに手を振り立ち去った後、俺達は再びプールに入り泳ぎの特訓を再開した。

 そして朝から来て泳ぎの練習を始めてからもうすぐお昼になろうとしていたが、未だ杏子は六メートルも泳げない現状だった。


「泳ぎの練習は上手くいってる?」


 行き詰った状況の中、プールサイドから雪村さんが声をかけてきた。

 杏子に泳ぎを教えているとは言っていないけど、監視員をしているなら俺達の様子を見れば何をしているかくらいは分かるのだろう。まあ端から見ても泳ぎの練習をしている様にしか見えないだろうしな。


「残念ながら上手くいってないんだよね。どうやら俺は人に何かを教える事には向いてないみたいでさ」


 その言葉を気にしたのか、杏子は申し訳なさそうに顔を俯かせてしまった。


「そうなんだ……あの、良かったら私がレクチャーしよっか?」

「「えっ?」」

「仕事中なのにいいの?」

「うん。今は休憩時間だから大丈夫。杏子ちゃんさえ良ければだけど」


 この申し出は正直ありがたい。雪村さんは人に何かを教えるのが抜群に上手いからだ。俺もバイトで何度助けられたことか。


「どうかな? 杏子ちゃん」

「是非よろしくお願いします」

「ごめんね雪村さん。よろしく頼むよ」

「うん。任せておいて!」


 はっきりとそう言ってくれる雪村さんは実に頼もしかった。

 兄としては泳ぎもまともに教えてやれないのは情けなくプライドにも響くが、それでも杏子が泳げるようになるなら俺のちっぽけなプライドなどさして問題ではない。

 それから雪村さんに手を引かれながら泳ぎのレクチャーを受ける杏子の様子を見つつ、穏やかな時間はあっと言う間に過ぎた。


「休憩時間にありがとう。助かったよ、雪村さん」

「ありがとうございました」


 約30分程のレクチャーを受けただけなのに、杏子は凄い勢いで上達してなかなか様になった泳ぎを見せるようになった。ホントに雪村さんが居てくれて助かったぜ。


「役に立てて良かった。じゃあ私は少し休憩してくるね」


 二人で丁寧にお礼を言うと、雪村さんはにっこりと微笑んで休憩所へ向かい始める。


「雪村さん! 今度何かお礼をするから!」

「本当? 期待してるねっ!」


 にこやかに返事をして雪村さんは休憩所の中へと入って行った。


「さて、もう少し練習するか?」

「うん!」


 元気良く返事をし、泳ぎの練習を再開する杏子。

 そして金槌だった杏子が特訓する内に二十メートル程まで泳げるようになったのは、間違い無く雪村さんのおかげだろう。


× × × ×


 杏子の泳ぎ特訓を終えた15時過ぎ、俺はロビーで杏子と待ち合わせをして帰ろうとしていた。


「二人共、今から帰り?」


 そして合流した杏子と一緒に帰ろうとしたその時、ちょうどロビーを通りかかった雪村さんと遭遇した。


「うん。今日はありがとうね。おかげで助かったよ。妹も結構泳げるようになったし」

「ありがとうございます。雪村さん」

「良かったね、杏子ちゃん」


 にこやかな笑顔を見せながら杏子はペコリとお辞儀をする。まともに泳げるようになったのがよほど嬉しいのだろう。


「この前の妹さんといい、鳴沢くんには可愛らしい妹さんばかりだね」

「そうかな?」


 雪村さんとそんな他愛ない会話を交わす隣で、杏子が何やら不機嫌そうな表情になっている事に気付いた。

 そんな杏子の様子が気になりながらも、俺は短い時間だが雪村さんとの会話を楽しんだ――。




 プールからの帰り道も杏子の不機嫌そうな表情はずっと変わらず、口を尖らせたままで俺の後ろから黙ってついて来ていた。

 何が気に入らないのか分からないけど、泳げるようになってご機嫌だった時とは随分と違う。


「杏子よお、何怒ってんだ?」

「別に怒ってないもん……」


 この手の発言を女子がする時はだいたい怒っている事が多い。いや、正確に言えば不機嫌なだけと言えるかもしれないけど、男から見れば大した差は無い。


「俺が何かしたんか?」

「…………この前の妹さんって誰?」


 杏子の言葉を聞く限り、それはさっき雪村さんと話していた内容の事だろう。

 何でそんな事を聞きたいのかは分からないけど、とりあえず事態を収拾させる為にまひるちゃんの話をした。


「へえ、まひろさんて妹さんが居たんだ」

「ああ。俺も最近知ったんだけどな」


 杏子はその説明で納得したとは言うものの、そのむくれっ面は相変らずだった。


「理由は分かったけど、お兄ちゃんの妹は私だけだもん……」

「何だそりゃ? そんなの当たり前だろ?」

「……うん! ねえお兄ちゃん、何か甘い物でも食べて行こうよ!」


 あまりにも当たり前の事を言う杏子にそう言うと、今までのむくれっ面から一変して溢れんばかりの笑顔になった。


「今からか!?」

「だって泳ぎ疲れちゃったんだもん。お兄ちゃんは泳げるように頑張った私にご褒美をあげる義務があると思うんだよね」


 いつから俺には杏子に対してそんな義務が課せられたのだろうか。杏子キングダムの法律はいつも突然出来上がり、突然改訂されるから恐ろしい。

 やれやれと思いながら溜息を吐くと、杏子は期待の眼差しでこちらをじっと見ていた。俺はそっとズボンの後ろポケットに手を伸ばし、手に取った財布の中身を開き見る。


「……安いやつにしろよ?」

「やったー!」


 妹への甘さを痛感しながら先程よりも大きな溜息を吐く。


 ――でも杏子が頑張ったご褒美を俺が出してやるとして、俺が頑張った分はどうなるんだ? 杏子に請求すればいいのか?


「お兄ちゃんとスイ~ツ~」


 まあこうして嬉しそうにしてるし、俺の分を請求するのは勘弁してやろう。

 ところですっかり目的を見失っていたけど、結局杏子は何で機嫌が悪かったんだろうか。どこに機嫌が悪くなる要素があったのか、俺にはさっぱり分からない。

 だが既に機嫌が良くなっている以上、無駄にそれを追求する必要はないだろう。

 そしてこの後に立ち寄ったお店で杏子がスイーツを食べまくった為、俺の財布は超氷河期を迎える事になった。


 ――ちくしょう……やっぱり杏子にご褒美の請求をしよっかな……。

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