第186話・気づいた×気持ち

 まひろお姉ちゃんが涼風まひるという私の存在を認識してから、約1年ほどの月日が流れていた。普通なら私のような存在を受け入れるというのは、容易たやすいことではないと思う。

 けれどまひろお姉ちゃんは、戸惑いながらも徐々に私という存在を受け入れてくれた。

 まひろお姉ちゃんの心の中で生まれた私は、お姉ちゃんの心の一部。

 だから極端なことを言ってしまえば、私とお姉ちゃんは同一人物と言うことになる。

 だけどそうは言っても、私とまひろお姉ちゃんは物事の考え方や感じ方は独立しているから、そういった点では別人と言えるのかもしれない。

 私とまひろお姉ちゃんの関係は、まさに“共存”と言う言葉が相応しいと思うけど、それでも複雑な間柄だとは思う。

 そして私とまひろお姉ちゃんは、あれからお互いを知るために交換日記をつけあっているんだけど、お姉ちゃんとの交換日記を始めてからいくつか分かったことがある。

 その一つが、“私がお姉ちゃんの記憶をほぼ共有できない”――と言うことと、“お姉ちゃんは私が活動している時の記憶をほぼ共有できる”――と言うこと。

 だから私の主な情報源は、お姉ちゃんとの交換日記と言うことになる。


「よしっ、これでいいかな」


 2年目の夏休みを迎えた7日目の朝。

 部屋にある全身鏡に自分の――正確に言えばお姉ちゃんの姿を映しつつ、私は出かける準備を整えていた。

 今日は龍之介お兄ちゃんと2人っきりで海に遊びに行くことになっている。

 役割的に私はまひろお姉ちゃんの代わりだけど、それでも今までの間で龍之介お兄ちゃんのことを知ってきた私は、個人的にもお兄ちゃんことは気になっていたから、今回の海へのデートは私的にもとても楽しみだった。

 時々お姉ちゃんの代わりにこうしてお兄ちゃんと遊ぶことがあるけど、それはお姉ちゃんのストレス解消も兼ねている。

 私がお兄ちゃんと遊ぶことが、お姉ちゃんのストレス解消になっているのかと言われれば疑問に思われるかもしれない。

 けれど、お姉ちゃんが私の活動中の記憶を共有できるというところが幸いしているおかげか、この入れ替わってのデートはなかなかの効果を出しているように感じる。それはお姉ちゃんとの交換日記の内容を見ていてもうかがえるから、ほぼ間違いないと思う。

 私の経験したことや記憶を頼りに、お姉ちゃんはその出来事を体験する。

 この事象を分かりやすく言うと、ちょっと主旨は違うかもしれないけど、バーチャルリアティを体験して気分をすっきりさせている――みたいな感じだと思ってもらえればいいと思う。

 でも、今はこれでいいと思うけど、いつかは絶対にお姉ちゃんは自分自身でみんなと正面から向き合わないといけない。

 それはお姉ちゃんも分かっていることだろうから、私からいちいちそんなことを言おうとは思わないけど、それでもやっぱり、気弱なお姉ちゃんのことは気になってしまう。


× × × ×


「わー! きれーい!」


 よく待ち合わせで使っている駅前の時計搭下で龍之介お兄ちゃんと合流し、そこから約1時間ほどをかけて移動をした私たちは、2人で一緒にキラキラと陽の光を反射する海を目の前にしていた。


「去年は俺も行かなかったから懐かしく感じるな」


 お兄ちゃんはそんなことを口にしながら、目前に大きく広がる海を見つめていた。

 去年は行かなかった海にこうして私と一緒に来てくれているという事実一つが、私にはとても嬉しかった。


「お兄ちゃん! 早く行きましょう!」


 そしてお兄ちゃんと初めて訪れた海に興奮を隠しきれない私は、お兄ちゃんの左手をギュッと握ってからその手を引っ張って海へと続く階段を下りて行く――。




 水着に着替えてお兄ちゃんとの待ち合わせ場所に向かうと、腕で汗を拭いながら砂浜に座って居るお兄ちゃんを見つけた。

 私は自分の身なりをもう一度しっかりと確認したあと、ゆっくりとお兄ちゃんに歩み寄って行った。


「お、お待たせしました……」

「おおっ!」


 緊張で小さくなってしまった私の声にも素早く反応し、お兄ちゃんは私の方へと振り返った。


「あ、あの……ど、どうですか? 似合ってますか?」


 こちらへ振り向いたお兄ちゃんに対し、私はドキドキしながらも両手を重ね合わせ、緊張したままお決まりの質問をした。


「すっげー似合ってるよ!」

「ほ、本当ですか? 良かったです……」


 私の質問に対し、お兄ちゃんはすぐにそんな返答を聞かせてくれた。

 その言葉はとても嬉しく、勇気を出して海へ誘うことをお姉ちゃんに頼んでもらって良かったと思った。

 そして私がお兄ちゃんに向かってほっとした気持ちを口にすると、なぜかお兄ちゃんは海の方へと視線を向けてから深呼吸を始めた。


「――さて、まずはなにをしよっか? さっそく海に入る?」


 見ていた海から空に視線を移してしばらくしたあと、お兄ちゃんは私を少しだけ見つめてからそう聞いてきた。


「えーっと……じゃあ私、まずはアレをしてみたいです!」

「えっ!?」


 私が指差したのは、砂浜に居るひと組のカップル。そこではカップルの彼氏が、彼女の背中に日焼け止めを塗ってあげていた。

 せっかくお兄ちゃんと海に来たんだから、色々と挑戦してみたいことはあった。結構恥ずかしいけど、これもその一つ。

 そしてそんな私の提案に、お兄ちゃんは明らかに動揺していた。

 相変らずエッチな本をベッドの下に隠して見ているらしいけど、でも、お兄ちゃんはこう見えて結構純真な人だから、意外とこんな風に動揺を見せることは多い。そんなお兄ちゃんが私には可愛らしく思えてしまう。


「さあ! 行きますよ、お兄ちゃん!」

「あっ、ちょ、ちょっと――」


 私は動揺を見せるお兄ちゃんの右手を握り、海の家の方へと引っ張って行った――。




 海の家でレンタルのパラソルを借りた私たちは、熱い陽射しが照りつける砂浜で一緒にパラソルを立てるための穴を掘っていた。

 こうしてお兄ちゃんと穴を掘っていると、小さな頃に戻って砂遊びをしているようで楽しい。

 もちろん小さな頃の記憶はお姉ちゃんの記憶だから、私のものじゃないけど、お姉ちゃんが私を認識する前までの記憶は私も共有しているから、やっぱりどこか懐かしいという感覚になる。


「お兄ちゃん、これくらい掘ったら大丈夫かな?」

「うーん、あともう少しかな。まひるちゃんはもう手が届かないだろうし、あとは俺が掘るから手を洗っておいでよ」

「はいっ! じゃあ、あとはお兄ちゃんにお任せしますね」


 私はお兄ちゃんの言葉に返事をし、楽しい気分を鼻歌で表現しながら手洗い場のある方へと向かう。


「――新たな穴を掘って埋めてやりたくなるぜ」


 手洗い場から戻って来てお兄ちゃんに近づくと、不意にそんな呟きが私の耳に飛び込んで来た。


「なにを埋めたくなるんですか?」

「えっ!?」


 私がお兄ちゃんの横に来てそう尋ねると、かなりびっくりした様子でこちらを振り向いた。


「な、なにか聞いた?」

「はい、『新たな穴を掘って埋めてやりたくなるぜ』――って言ってましたよ? だからなにを埋めたくなるのかなーって思って」


 動揺を見せるお兄ちゃんに対し、私は素直にそう答えた。するとお兄ちゃんは相変らずの動揺した様子を見せたまま口を開き、たどたどしくもその言葉の意味を説明し始めた。


「そ、それはだね……この前ゲームを貸していた渡ってやつが俺のゲームデータを消しやがってさ、それで反省の色がないそいつを反省させるために新たな穴でも掘って埋めてやりたいなーと」


 なんとなくその理由が嘘なんだろうなーとは思いつつも、そんなことを必死に考えてこう言っているのかと思うと、そんなお兄ちゃんが可愛らしくて思わず笑顔がこぼれた。


「あはは、そうだったんですね。お兄ちゃんは色々な人と仲が良さそうでいいな」

「まひるちゃんだって明るくて素直だし、たくさんの人と仲良くしてるでしょ?」


 その言葉を聞いた私は、思わず顔を曇らせてしまったことに気づいた。

 まひろお姉ちゃんはともかくとして、私がまともに話をした他人は龍之介お兄ちゃんしかいないからだ。


「私、こう見えて結構人見知りなんですよ? 同性でも話すのは苦手だし、異性になると龍之介お兄ちゃんくらいしかまともに話せないし」


 私は嘘にならない程度にそんなことを言った。

 実際に人見知りなのは確かだし、お兄ちゃん以外の異性と話すのも苦手。だから嘘をついたということにはならないはず。


「えっ!? そうなの?」


 そんな私の言葉に対して、お兄ちゃんは凄く驚いた表情を浮かべていた。


「本当ですよ? 私、他の男性の前では震えちゃって話もできませんから」

「でも、俺と最初に会った時とか普通に感じたけどね」

「あの時だって、本当はすっごく緊張してたんですよ?」

「そうなの?」

「そうですよ。だって、初めてまひろお兄ちゃん以外の男性とまともに話したんですから。ずっと心臓がドキドキしてどうしようかと思ってたんですよ?」


 “まひろお兄ちゃん”って部分は嘘だけど、初めてお兄ちゃんを見た時にドキドキしていたのは本当。


「でも多分、まひろお兄ちゃんから色々と龍之介お兄ちゃんの話を聞いていたから、少しは平気だったんだと思います。最初はちょっと恐かったけど……でも、まひろお兄ちゃんから聞いていたとおり、龍之介お兄ちゃんは素敵な人でした」

「そ、そうだったんだ。まひろってさ、普段は俺のどんなことを話してるの?」


 私の言葉に照れたような笑顔を浮かべながら、そんなことを聞いてくるお兄ちゃん。

 そんなお兄ちゃんの可愛い顔を見るのが、私はとても好き。


「そうですね……ラブコメ作品が大好きで、そんな物語の恋愛に憧れているとか、世の中のカップルを敵視しているとか、他にも変な独り言が多いとか、妹さんを溺愛しているとか、ゲームが大好きだとか、他にも色々です」


 お姉ちゃんとの交換日記を通じて知ったことや、元々お姉ちゃんの記憶を私が共有していた部分を総合してそう答えると、お兄ちゃんはなんだか妙な表情を浮かべて黙り込んでしまった。


「ど、どうかしました?」

「えっ!? い、いや、なんでもないよ。ほ、ほら、帰って来たんだし、早くパラソルを立てよう!」

「そ、そうですね」


 私の問いかけにお兄ちゃんがはっとしたように我に返ると、なにかを誤魔化すようにしてそんなことを言ってきた。

 本当ならなにを考えていたのか聞きたいところだけど、しつこくそんなことをして嫌われては元も子もない。私は色々と質問をしたい衝動を抑え、お兄ちゃんと一緒にパラソル立てを行った。


「――まひるちゃん、本当にいいの?」

「は、はい。自分で頼んだことなんですから、よろしくお願いします……」


 一緒に立てたパラソルの下に敷いたレジャーシート、その上で座ったまましばらく海を眺めていた私は、いよいよ最初の望みである日焼け止め塗りをしてもらおうとしていた。


「じゃ、じゃあ、脱いでもらってもいいかな?」

「は、はい。優しくお願いしますね……」


 お兄ちゃんとのやり取りを言葉だけでとらえると、なんとなく少しエッチに聞こえてしまい、私はちょっと恥ずかしくなってしまう。

 そして私は心の中にある恥ずかしさを必死で抑えながら立ち上がり、ビキニタイプの水着の上に着ていたワンピース型水着を脱いでいく。


「そ、そんなに見ないで下さい……恥ずかしいです……」


 水着を脱ぐ時から食い入るように私を見つめていたお兄ちゃんの視線が気になり、私は両手で身体を隠すように抱き包んでからそう言った。


「あっ、ごめんねまひるちゃん。可愛かったもんだからつい」


 お兄ちゃんから飛び出したそんな言葉に、私は素直に嬉しくなった。

 例えこれがお世辞だったとしても、やっぱりお兄ちゃんから褒められると嬉しい。


「……ほ、本当ですか? だったら許しちゃいます。でも、もうじっと見ちゃ駄目ですよ? 恥ずかしいから」

「分かった。じゃあ、うつ伏せになってもらっていいかな?」

「はい」


 私は次から次に出てくる恥ずかしさをこらえながら、言われたようにレジャーシートの上でうつ伏せになった。

 自分で頼んでおいてなんだけれど、やっぱり凄く恥ずかしい……。お母さんにだって見せたりしない自分の背中を、しかも素肌をお兄ちゃんに見られているのかと思うと、今にも身体が発火してしまうのではないかと思うほどに熱くなる。


「んんっ……」


 燃え上がりそうなほどの恥ずかしさを感じていると、私の背中に大きくて温かいお兄ちゃんの手の平が優しく触れたのが分かった。

 そして初めて素肌の背中を触られたくすぐったさに、私は思わず小さく声が出た。


「大丈夫?」

「は、はい。ちょっとくすぐったい感じですけど大丈夫です。んんっ……」


 お兄ちゃんがその手を動かす度にくすぐったい感覚が私の身体に走り、その感覚に時々身をじらせてしまう。

 私はそんな感覚に耐えつつ、お兄ちゃんにこんなことをしてもらえる喜びを存分に味わっていた。

 そしてお兄ちゃんに日焼け止めをしっかりと塗ってもらったあと、私たちはお兄ちゃんとの海水浴を満喫していた。

 こうやってお兄ちゃんと2人で海へやって来るのは、まひろお姉ちゃんにも経験のないこと。

 だからしっかりと楽しい思い出を作っておきたい。お姉ちゃんのためにも、そして、私自身のためにも――。




 たくさん遊んでお昼を過ぎた頃、私はお兄ちゃんと一緒に海の家で焼きそばを買うために並んでいたんだけれど、陽射しがきつかったからか、私は少し具合が悪くなってしまっていた。


「――まひるちゃん、大丈夫?」

「あ……はい。大丈夫です」

「少し顔色も良くないし、無理しなくてもいいから少し横になってていいよ」

「ありがとうございます。じゃあ、少しだけ……」

「うん」


 2人で立てたパラソルの下で横たわろうとした時、お兄ちゃんは持って来ていたタオルを何枚か重ね合わせて枕代わりにし、そこに頭を乗せて寝るように言った。

 そして私がそのタオルに頭を乗せて横になると、お兄ちゃんは私の身体にそっと大きなバスタオルをかけてくれた。そのさり気ない優しさが本当に嬉しい。


「ごめんなさい、お兄ちゃん。せっかく海まで遊びに来たのに……」


 せっかくの貴重な夏休みの1日を使って一緒に遊びに来てくれたのに、こんなことになってしまうなんて……本当にお兄ちゃんに対して申し訳なくなる。


「そんなことは気にしなくていいよ。まひるちゃんとはこうして話す機会もなかなかないし、こうして喋ってるだけでも楽しいもんだよ」


 そんな嬉しいことをさらりと言って、お兄ちゃんは私の心を揺さぶってくる。


「……お兄ちゃんは本当に優しいですね」

「そう? 自分ではそういうのはよく分からないな」


 お兄ちゃんは私の言葉に苦笑いを浮かべてそう答える。

 お姉ちゃんも言っていたけど、本当にお兄ちゃんは自分のことをよく分かってないみたい。


「そうですよ、これじゃあ私まで――」

「ん? 私までなに?」

「……ううん。なんでもありません」


 “私まで本気になっちゃいそうです”――そう言いかけて私は言葉を止めた。それは絶対に口にしてはいけないことだから。


「それよりお兄ちゃん。学園での面白いお話を聞かせてくれませんか?」

「学園での面白い話? うーん、そうだな……」


 自分の言いかけたことをまた質問されないようにと、私は話題をガラリと変えてお兄ちゃんとの会話を続けた――。




 お兄ちゃんと会話をしながら身体を休めていた私は、しばらくして体調ももち直した。

 それからすっかり冷めてしまった焼きそばを2人で食べたあと、私は1人でトイレへと向かったのだけど、そのあとで困った状況に陥ってしまった。


「あ、あの……そこをどいて下さい……」

「えー? なんて言ったの?」

「そんなに怖がらなくてもいいじゃん。一緒に遊ぼうよ」

「そうそう、絶対楽しいからさ」


 トイレから出てお兄ちゃんの居る場所に急いで戻ろうとしていた時、通りにある木の下で、私は3人の大学生らしき男性3人に声をかけられた。

 内容は一緒に遊ぼう――ということだったから、いわゆるナンパと言うものだとは思うけど、私はお兄ちゃん以外の男性にはまったく興味がない。

 だから本当に困っていたんだけれど、私は知らない男性を前にして萎縮いしゅくしてしまい、はっきりとその誘いを断ることができないでいた。

 周りにはもっと可愛い女性がたくさん居るのに、なんで私なんかを誘うんだろうと、本当に泣きたくなる気分だった。

 私は色々なことを言いながらしつこく迫る3人に囲まれる形で身を縮こまらせ、口を固く結んでいた。怖さで身体が震え、その場から一歩も足を動かせない。

 助けて、お兄ちゃん……助けて……。


「――なあ、一緒に遊ぼう!」

「ちょっと待って下さい!」


 3人の内の1人が私の腕を掴んで引っ張ろうとするのに抵抗しつつ、心の中でお兄ちゃんへ向けて必死に助けを求めていると、私の耳に力強くそんな声が聞こえてきた。

 その声がした方向に顔を向けると、お兄ちゃんが少し怖い表情をしながら私と3人の男性の間に割って入った。


「えっ!? なに?」


 私の腕を握っていた男性の手を払い除けたお兄ちゃんは、自分の身体を盾にするようにして私の前に立ってくれた。


「お、お兄ちゃん……」


 そんなお兄ちゃんの背中に、私は怖さで震える身体をしがみつかせた。


「ああ、こののお兄さんだったんだ!」

「ねえ、お兄さん。ちょっと妹さんを貸してもらえません?」


 そんなことを言ってケラケラ笑う3人を前にお兄ちゃんはなにも答えず、黙って身体を小さく震わせている。


「お、お兄ちゃん? だい……じょうぶ?」


 お兄ちゃんのそんな様子が気になって声をかけると、お兄ちゃんはグッと拳を握り締めてから声を発した。


「この子は俺の大切な彼女なんです。だからちょっかいを出さないで下さい」

「えっ!?」

「行くよ、まひる」


 お兄ちゃんは力強くそう言うと、私の右手を掴んでから足早にその場から連れ出してくれた――。




「まひるちゃん、ごめんね。怖い思いをさせて」


 お兄ちゃんに3人の男性のナンパから救い出され、パラソルの下へと戻って来た途端、お兄ちゃんは本当にすまなそうな声音で私に謝ってきた。

 本当に謝らなければいけないのは、あの3人の誘いをはっきりと断れなかった私なのに……。


「あっ、いいえ。あれはお兄ちゃんのせいじゃないんですから」

「ありがとう、まひるちゃん。もう怖い思いはさせないからね!」

「は、はい。ありがとう……お兄ちゃん」


 お兄ちゃんのそんな言葉につい嬉しくなってしまい、私は思わず表情を緩ませてしまう。

 でもそんな表情をお兄ちゃんに見せるわけにはいかないので、私はすぐに顔を俯かせた。


「ちょ、ちょっと喉が渇きませんか?」

「そうだね、なにか飲み物でも買いに行こうか」

「はいっ!」


 そんな自分の状況を誤魔化すためにそう言うと、お兄ちゃんはにこやかな笑顔でそれをすぐさま了承してくれた。


「――どれがいい? まひるちゃん」

「えーっと……」


 2人でやって来た近くの海の家。その店先にあるパラソルの下で、ステンレス製容器に入っている飲み物の数々。パラソルの横から射し込んで来る太陽の光が、水に浮かぶ氷をキラキラときらめかせていてとても美しい。

 そんな容器の中にある飲み物を見ていた時、私はふと店内の方へと視線を向けた。するとそこにはひと組のカップルらしき男女が居て、小さなテーブルの上にある一つの飲み物にハート型のストローを挿して飲んでいた。


「お兄ちゃん。私、あれがいいです」


 それを見た私は、飲み物が入った容器を真剣に見つめるお兄ちゃんの腕をツンツンとつつき、店の中に居るカップルを小さく指さした。


「……ねえ、まひるちゃん。あれってどんな飲み物なのか知ってる?」

「えっ? あれってなにか特別な物なんですか?」


 私が指さしたカップルを見たお兄ちゃんは、困惑しているような表情を浮かべてそんなことを聞いてくる。

 お兄ちゃんの聞いていることの意味は分かっているけど、でも私はあえてそれが分からない振りをした。


「あれはね、恋人同士が注文する物なんだよ?」

「じゃあ、恋人じゃないと注文はできないんですか?」

「いや、別に絶対に恋人同士じゃないと注文できないってことはないとは思うけど……飲んでみたいの?」

「はい」

「……いいよ、じゃあ一緒に飲もうか」

「えっ? いいんですか?」

「うん。いいよ」

「本当ですか? ありがとう、お兄ちゃん!」


 やっぱり無理かなと思っていたところに、お兄ちゃんからの思わぬ返答。私はあまりの嬉しさに、お兄ちゃんの腕に飛びついてしまった。

 それから店の中へと入った私たちは、“ラブラブカップル限定★恋のブルースパークリングソーダ”を頼んでから、一緒にそのドリンクを飲んだ。

 目の前にお兄ちゃんの顔があって凄く緊張しちゃったけど、本当に楽しくて嬉しい時間だった――。




「まひるちゃん、大丈夫?」

「はい! 大丈夫です!」


 お兄ちゃんと海の家を出たあと、私はパラソルの下に敷いたレジャーシートを少し横にずらして穴を掘り、そこにお兄ちゃんを寝かせてから一生懸命に身体に砂をかけていた。

 海に来た人はこんな遊びをすると聞いてはいたけど、実際にやってみると結構楽しい。


「ちゃんと水分補給をしながらやるんだよ?」

「はいっ!」


 砂遊びの楽しさに夢中になりながらも、私のことを心配するお兄ちゃんの言葉はちゃんと聞こえていた。

 どんな時でも私を気遣ってくれるお兄ちゃん。そんな優しいお兄ちゃんが、私は好きだ。


「――完成しました!」


 しばらく砂をかけては固めていく作業に夢中になっていた私は、完成した砂山を見てお兄ちゃんにそう言った。

 でも私の言葉にお兄ちゃんからの返答はなく、それを変に思った私はお兄ちゃんの顔を覗き込んだ。


「あっ、お兄ちゃん寝ちゃってる」


 たくさんの砂を身体に被せられているお兄ちゃんは、小さな寝息を立てながらすやすやと眠っていた。


「たくさん私と遊んで、たくさん私のために色々なことをしてくれたから、疲れちゃったのかな……ごめんね、お兄ちゃん」


 すやすやと眠るお兄ちゃんを前に、私は呟くようにして謝った。


「お兄ちゃんは本当に優しくて、いつも私を笑顔にしてくれる。そんなお兄ちゃんが、私は大好き」


 お兄ちゃんが起きている時には絶対に言えない言葉を私は口にする。

 そしてそんな言葉を口にしてお兄ちゃんの顔を見つめていると、私の中に一つの欲求が芽生えてきた。

 これは正確に言うとお姉ちゃんの持っていた欲求なのかもしれないけど、でもそれをお姉ちゃんだけが持っていた欲求と考えるには、少し無理があった。

 だってこの欲求は、別の形で一度お姉ちゃんは果たしているのだから。

 だから私が感じているこの欲求は、素直に私自身が純粋に欲しているものと考えるのが自然だと思えた。

 私は眠っているお兄ちゃんの顔に、自分の顔をゆっくりと近づけていく。

 寝ているお兄ちゃんにこんなことをするのは卑怯だとは思うけど、それでも私の中の欲求は止められなかった。


「あなたに出会えて、本当に良かった――」


 自分の中にある素直な気持ちを口にしたあと、私はそっと自分の唇をお兄ちゃんの頬に当てた。


「ん――まひる……ちゃん?」

「あっ」

「なんで……まひるちゃんがこんな近くに……?」


 その声を聞いた私は、慌ててお兄ちゃんの顔のすぐ近くに寄せていた自分の顔を素早く上げた。


「いや、あの……なにか見ましたか?」

「うん……キスされた――」

「ええっ!? あ、あれは違うんです! つい……と言うか、その……あの、えっと…………」


 タイミング的に際どかったとは思ったけど、頬にキスしたところを見られてはいないと思っていた私は、お兄ちゃんから出た言葉を聞いて慌てふためいてしまった。

 どんな言い訳をすればいいんだろうと、私は考えを巡らせる。こんなことでお兄ちゃんに嫌われたくないと、それだけで頭がいっぱいになって泣きそうになってしまう。


「お、落ち着いてまひるちゃん! 俺はまひろにキスされた時の夢を見てただけだから!」

「えっ? お、お兄ちゃんに……ですか?」

「そうそう、まひろから聞いてないかな? 花嫁選抜コンテストの話をさ」

「あっ、聞いてます。そういえば確か、お兄ちゃんのほっぺにキスをしたところを撮影されたとか聞きました」

「うん。ちょうどその時の夢を見ててさ、ほんの少し前のことなのに、なんだか凄く懐かしい感じがしたよ」

「そ、そうだったんですね。ちょっとビックリしました……」


 お兄ちゃんの口から出た言葉を聞いて、私は本当にほっと胸を撫で下ろした。

 本当に際どいタイミングだったとは思ったけど、キスしたところを見られてなくて良かったと思う。


「そういえばまひるちゃん。『あれは違うんです!』――とか言ってたけど、いったいなんのことだったの?」

「えっ!? わ、私そんなことを言いましたか?」

「えっ……言ってたと思うけど」

「き、気のせいですよ!」


 本当のことなんて話せるわけもないので、私はすべてをお兄ちゃんが見た夢として片づけようとした。


「本当に俺の気のせい?」

「ほ、本当ですよ!? もう、お兄ちゃんはきっと寝ぼけてたんですよ」

「そっか。でも、いい夢を見たよ。そういえばあの時、なにか言葉が聞こえたあとで頬に温かくて柔らかい感触があったんだよなあ……」

「うにゅ……」


 お兄ちゃんは夢と思い込んでいる私の行為のことを話しているんだろうけど、自分のした行為の感想をこうして口にされているかと思うと、なんだか凄く恥ずかしくなる。


「ど、どうしたの?」

「もうっ! お兄ちゃんなんて知りません!」


 私は恥ずかしさを誤魔化すためにそっぽを向いた。


「あっ、ごめん。まひるちゃん」


 お兄ちゃんはそんな私を見て慌てて謝ってきた。でも私は自分の誤魔化しをより強固にするため、あえて意地悪な行動をとった。


「意地悪なお兄ちゃんは帰るまでそこから出してあげません」

「ま、まひるちゃん、俺が悪かったからここから出してくれよ」

「ダメです。私を置いて寝ちゃったお兄ちゃんは、そのままでお仕置きしちゃうんですから」

「ええっ!?」


 私はお仕置きだと言ってお兄ちゃんの首の後ろに手を回し、そこをたっぷりとくすぐった。これは私とまひろお姉ちゃんだけが知っている、お兄ちゃんの弱点。


「アハハハハッ! まひるちゃん、そこだけは止めて! お詫びになんでも一つ言うことを聞くからっ!」

「本当ですか? なんでも一ついいんですか?」

「アハハハッ! ホントホント! だからくすぐるの止めてー!」

「それじゃあ――」


 私はその言葉を聞いて、お兄ちゃんをくすぐっていた手を止めた。


「――また一緒に遊んで下さい」


 そして私は、小さくもささやかなお願いを口にした。

 贅沢は言わない。お兄ちゃんと2人でいられる時間を少しでも多く作れれば、私はそれでいい。

 私は自分の中に芽生えた想いを確かなものにし、ようやくそれを自覚した。

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