　劇場がある施設内の休憩所で雪村さんとお弁当を食べた後、今度は持ち込んだ荷物を更に指定された場所へと運び、音響機材などの設置を手伝っていた。

　こういった事をするのはもちろん初めての経験だけど、個人的には一年生の時の文化祭を感じさせるようで楽しい。

　しかしこんな思いを軽々しく口にするのは、何となく憚（はばか）られる。なぜなら周りに居る役者さんや他のスタッフを含め、みんなの表情は真剣そのものだから。

　もちろん俺も真剣に手伝いをしているけど、楽しいという感情を表立って見せてしまうのは悪い気がしてしまう。

　そんな事を思いながら最初の手伝いを終えた俺は、ロビーにある自動販売機で冷えた飲み物を買ってからゆっくりと飲み干し、再び劇場へと向かった。

　戻った劇場の舞台上では、さっそく役者達の練習が始まっていて、俺はその邪魔にならないようにと舞台から離れた客席に腰掛け、その練習風景をじっと見つめる。そんな舞台下には演出家の先生らしき人が居て、舞台上で演技をしている役者を厳しい眼差しで黙って見ていた。

　その風景は演劇素人である俺にさえ、言い知れぬ緊張感をひしひしと伝えてきている。

「やっぱりプロを目指そうとする人達は違うよな……」

　そんなピリピリとした空気を感じるからか、自然とそんな言葉が口から出てくる。

「――君、鳴沢龍之介くんだよね？」

　しばらく舞台の練習風景を見ていると、後ろの席から明るく弾む声で名を呼ばれて後ろを振り向く。

　するとそこには綺麗な栗色のミディアムヘアの、一目で年上だと分かるお姉さんタイプの女性が、好奇心に満ちた感じの視線を俺に向けていた。

「は、はい。そうですけど……」

「なるほどなるほど。やっぱりそうだったんだね」

　その女性は一人で何かを納得したようにウンウンと何度か頷きながら、ニヤニヤした表情でなおもこちらを見ている。

「あ、あの……」

「あっ、ごめんね、自己紹介もしないで。私の名前は金森憂（かねもりゆう）。雪村陽子の中学時代からの先輩なの、よろしくね」

　そう言ってにこやかに右手を差し出してくる。

　俺はその無駄に明るい声音に釣られ、差し出された手に自分の右手を差し出して軽く握った。

「は、はい。よろしくお願いします」

「うんうん。よろしくね！」

　そう言って握った手をブンブンと上下に振る金森さん。

　元気と言うか明るいと言うか、掴みどころがなさそうな人――というのが、彼女に対する第一印象だ。

　握っていた手を何度か上下に振った後、満足したように握っていた手を離した金森さんはそのままスッと立ち上がり、座席を軽やかに飛び越えてから俺の左隣の席へと座った。

「君とは一度会ってみたかったんだよね」

「えっ？　何でですか？」

「私ね、陽子と同じ下宿先に住んでるんだけど、去年、あの子が入学してからバイトを始めてしばらく経った頃だったかな、急に陽子の様子が変わり始めたから、ちょっと心配してたんだ」

　バイトを始めてしばらくって事は、ちょうど俺が短期のバイトとして居た時期も含まれてるんだろう。

「心配していたとは？」

「んー、何て言うか……急に女の子っぽくなったって言うのかな」

　その言葉を聞いた俺は、いったいどういう事だと思った。女の子っぽくなるのがそんなに心配な事なんだろうか。

　それに雪村さんと知り合ってから一年ちょっとになるけど、彼女は最初に会った時から十分に女の子らしかった。

「こっちに来る前の雪村さんの事はよく知りませんけど、少なくとも、僕が会った時には既に可愛らしい女性でしたよ？」

「わーお！　陽子が聞いたら倒れちゃいそうなセリフだね」

　そんな事をニヤニヤしながら言う金森さん。

　そりゃあ、可愛いと言われれば喜びはするかもしれないけど、いくら何でも倒れるくらい喜びはしないだろう。大げさな事を言う人だ。

　ともあれ、そんな事を言っていたなんて本人に知られるのは恥ずかしいので、口止めはしておくべきだろう。

「知られると恥ずかしいんで、雪村さんには内緒にして下さいね」

「えー！？　内緒にしないといけないの？　んー、しょうがないなあ。それじゃあ、内緒にしておいてと言われた事を忘れるまでは内緒にしておくね」

　にっこりと満面の笑顔でそう言う金森さん。

　それってつまり、喋っちゃいますよ――って言ってるのと同じじゃないか。

「そんなに不安そうな顔をしなくても大丈夫だから。私こう見えても、寡黙（かもく）で口が堅いんだよ？」

　俺が不安げな表情をしていたからか、金森さんはそう言いながら背中をバンバンと右手で叩く。

　はっきり言ってしまえば、彼女の言葉はまったくもって信用できなかった。こんなに喋ってくる人が寡黙には見えないし、口が堅そうになんてもっと見えないからだ。

「は、はい、分かりました」

　心の内とは裏腹にそう答えた。

　まあ、金森さんがどんな人かはよく分からないけど、雪村さんが親しくしている人らしいから、とりあえず信用してみるとしよう。

「あっ、もうこんな時間なんだ。龍之介くん、一緒に買い物に行かない？」

　チラリと腕時計を見た金森さんが、慌てたようにそう言ってきた。

　――てか、ナチュラルに名前呼びされてるけど……まあいいか。

「僕は別にいいですけど」

「よしっ！　それじゃあさっそく行こう。あっ、それから私の事は憂さんって呼んでいいからね」

　俺は左手を掴まれ、引っ張られる様にして劇場を出てからロビーを抜けて外へと出る。

　そして建物の外へと出た俺達は、歩いて５分程の位置にあるコンビニエンスストアへと向かい、そこでみんなが休憩中に食べるおやつや飲み物を選び始めた。

「……あの、憂さん。ちょっと聞きたい事があるんですが」

「なーに、龍之介くん？　年齢と体重とスリーサイズ以外なら答えちゃうよ？　あっ、でもエッチな質問は程々にね？」

　艶っぽくそんな事を言ってくる憂さん。

　年齢は聞くまでもなく想像はつくし、体重はともかくとして、スリーサイズはそのスレンダーボディを見ると気にはなるけど、聞かなくても特に問題は無い。いや、本当は聞きたいんだけど、流石にそれを聞くわけにはいかないだろう。

　それにしても、最後に言った言葉は非常に魅力的だ。少しならエッチな質問に答えてくれるのだろうか。

　こんな時に女性の発言を真に受け、そんな事を少しでも考えてしまうのが男だ。何と悲しい男の性（さが）だろうか。

「そ、そんな事聞きませんよ！」

「ホントにー？　少しはエッチな事を聞こうかなとか考えちゃったんじゃない？」

　ニヤニヤしながら身体をすり寄せて来る憂さん。

　俺は憂さんに完全におちょくられている事を確信した。

「ほ、本当ですよ！　俺が聞きたかったのは雪村さんの事です」

「陽子？　陽子の何が聞きたいの？」

　身体をすり寄せたままで小首を傾げてそう聞いてくる憂さん。

　――こんな時にどうかと思うけど、憂さん可愛いです。

「あ、あの……雪村さんが言ってたんですけど、何で雪村さんのご両親は演劇をする事に反対なんでしょうか？」

「……陽子が君にそれを話したの？」

　そう尋ねた途端、憂さんは俺からスッと距離を取ってそう聞き返してきた。俺はその問いかけにコクンと頷いて答える。

　すると憂さんは曲げた人差し指の間接部分を口元に当て、何やら考えているような素振りを始めた。

「龍之介くんは何でそれを私に聞こうと思ったの？」

「それは……単純に雪村さん本人に聞き辛いってのもありますし、舞台を前にして余計な事を考えてほしくないってのもあります。それに憶測ですけど、多分、憂さんにならそのへんの話もしてるんじゃないかと思ったので」

「どうしてそう思ったの？」

「……雪村さんて、俺からすると男の理想を体現した様な人なんです。可愛らしくて優しくて、とても気が利いて、真面目でしっかりしている様で、たまにドジもして、堂々としている様で恥ずかしがり屋。最近、そんな彼女が少しずつ弱さを見せる様になった気がするんですよ。雪村さんてあれで結構強がるところがあるみたいで、そんな人が弱さを見せる相手って結構少ないと思うんですよね。だからきっと、憂さんみたいな先輩にならそういう話もしてたと思ったんです。だから聞いてみようと思ったんですよ」

　話を続ける間、憂さんは静かに俺を見ながら真剣な顔でその話に耳を傾けてくれていた。

「なるほど。あの子が変わった理由、少しだけ分かったかも……。分かった。それじゃあ、今日の２２時頃に宿泊施設のロビーに来て。龍之介くんの質問に答えてあげる」

「２２時頃ですか？　分かりました」

「うん。さあ、早く差し入れを買って戻らなきゃ！　みんな待ってるよ！」

　それから憂さんは手当たり次第に食べ物や飲み物をカゴに突っ込んでいき、最終的に俺は大きな袋四つを抱えてコンビニを出る事になった。

　そしてみんながちょっとした休憩時間を過ごした後、１９時を過ぎるまでみんなの練習は続いた。