18
世界が横倒しになっていた。大壁になった畳をよじ登る蜘蛛のアメコミヒーローは、灰島新の視界を縦断してその外に消えた。新は起き上がった。
結局からだを倒していたらしい。半醒半睡のとき、堪えきれず寝そべってしまったような、そうでないような、不確かな記憶がある。でもひとまずは、頬についた畳の屑と各体節の疲労感のほかに実害がなかったので良しとするか。
最近になって、初めて肩凝りというものを感じた。屈伸をすると膝が痛むこともあった。思い返してみれば、おれは先月二十歳になったのだ。檻の中で。そして……。
新は毛布を
そういえば。新は夢の
正確な位置を記憶しているわけではなくとも、おおよその見当はついている。ついているが、窓越しに視認できるその範囲に影はない。右斜め下方の、外階段を降りて数メートルの辺りだ。
「生きてたってこと?」
ショウジは拳銃を握っていたけど。新はひとりごちる。
「いや、あれは死んだよ。確かに」
ならなんで体がなくなってるんだ。動物か?
そこまでで、喉が渇いた。新は条件反射で台所へ足を運んだ。台所というよりも、流しと作業台、一口のガス栓が廊下伝いにただ並ぶ水場であったが、拘置所の独房よりいくらか家らしさを残していた。但し不衛生ではある。
そもそも水は出るのだろうか。蛇口に手をかけてから新は疑ったものの、そのままジャリジャリと栓を回せば赤褐色の液体が流れ出した。配水管が腐っているのだ。流しに落ち、金属臭を放っていたそれは、しばらくすると色を失って水らしい透明な液体に変わった。なんとか飲めそうだ。
「待った!」
水を手で
「水を使ったな! その水は飲んじゃだめだ!」
若い男の声はドアの外の共用廊下から聞こえる。聞き取りやすい、明朗な声色によって、現況が危惧した展開から逸れてゆく。新は無意識に栓を閉じた。
「その水は」
「誰なんですか、なんの、関係の人ですか!」
廊下の男は黙った。言葉を探しているようでもある。
「僕は足立慎二! 歳は19! 君の同類であり味方だ」
味方? おれはここに来てから、自分に襲いかかる人間しか見てないんだ。
「信じられますか! 信じさせて下さいよ」
「……僕もショウジに連れて来られた! ここに来て1ヶ月くらいになる」
「同類」とアダチシンジは言った。そういうことか。死刑囚なんぞはわんさといるんだ、そりゃ、この場所に連れて来られるのもおれだけではないのかも。
「あなたも、死刑になったんですか」
「そうだよ、君と同じと思ってくれていい。君の名前は?」
名前。そうだ。おれは「少年H」でもなければ、「執行官」でもない。隠す理由もない。
「灰島、新って言う」
「そうか。……灰島、時間知りたくないか?」
「時間?」
「部落の南に、ちょっとしたゴミ山があるんだ。そこで拾ってきた時計を、ショウジの仲間の腕時計と同じ時刻に合わせた」
「その……アダチは、今の時間がわかるって?」
「そういうこと。時計、ふたつあるんだ。あげたいからさ、ドア、開けてもいいか? ここの鍵は全部壊されてる。そういう生活の勝手を助言するにも、直接案内する必要がある」
「毛布」
「毛布をかけたのは僕だ。一応ノックはしたんだけど、黙って入ったのは悪かったと思う。ここ、毛布と布団だけはどうしてか綺麗なものが押入れに入ってるんだ。はじめから一部屋に何組か備わってて、前の持ち主がいなくなると査執協の連中が点検とか配膳のタイミングで回収していく。そうだ、灰島、もし僕が君に悪さをするつもりなら、今こうして話してられると思うか?」
「それはそうだろうけど……」
「それにもうすぐ配膳の時間だ。朝に一日分の食料が運ばれてくる。どのみち君は外に出なくちゃならない」
「朝……? ってことは」
「僕ら死刑囚の目が覚める時間だ。午前7時に決まってるだろ。お、噂をすれば、音が聞こえてくる。配膳が来たぞ! 窓から見えるはずだ」
アダチの声を背に、新は部屋奥の窓へ近寄った。言葉通り、景色の左方、夜に光を発していた部落の端から、1台の白いハイゼットカーゴが悪路に車体を揺すりながらやって来る。まもなく車両は突進男の面影を踏んで停車し、視界の外から階段を駆け下り現れた青年がひとり、こちらへ向けて手を振った。アダチだ。
子供っぽい手振りは手招きに変わった。アダチの口ぶりを思い出せば、彼に歓迎されようとされまいと行かなくてはならないようである。その察知から数拍遅れて、新はためらう脚を畳から引き剥がした。あの笑顔を作れる男なら、奇声を上げて襲ってくるようなことはないだろう。
部屋を出、階段を下り始めると、朝日と呼べる光が部落を包みつつあることがわかった。光は共用廊下が対面している山肌の向こう側から溢れ、反対側の山肌と、右方を仰げば彼方に見える橋の輪郭を照らしている。谷底から中途半端な晴れ空を見上げる新のもとへ、その光はまだ届かない。
「待ってました、灰島」
アダチは
「よろしく……あとありがとう、アダチ」
「気にしないでよ、僕もひとりで寂しかったところなんだ」
配膳の喪服はふたりいて、運転手の男が中空を見つめている間に助手席の男が後部座席から小さめの段ボールを2箱降ろし、そのままボロアパートの一室から寝具を一式運び出した。ドアロックが出入りのたびに音を立てるハイゼットカーゴは、エンジンを止めることのないまま今朝の工程を終えたようだった。バタン、と強くドアが閉じ、後には人と箱だけが置き去られた。
「これ」
来た道を引き返すリアガラスから足もとの段ボールへ視線を移しながら、アダチが口を開いた。
「この段ボール、車が停まってるうちに外に出てこないと降ろしてもらえないんだ」
「中に、ご飯が?」
アダチは箱をひとつ持ち上げて、爽やかにほほえんだ。
「そう、一日分。軽いよ〜」
手伝われて持ってみると、なるほど拍子抜けする手応えである。今更ながら、なんと粗末な身の上だろう。前を歩く男につられて、新は笑ってしまった。
「せっかくだし、一緒に朝食にしようよ。ピクニック気分でさあ。……いや、でもその前に」
「お、おい……嘘だろ」
悠然と、階段下の物陰から鈍器のようなニッパーを持ち出したアダチは、デスゲーム映画を思い出して縮み上がる新をよそに
「切れるのか、手錠って……!」
「昔のと違って今は輪っかにアルミ合金が使われてるから、道具さえあれば切れるよ」
「でも、切っていいのか?」
「とりあえず食事にしよう、食べながら話すよ。そのあとでもう片方とか切ってあげる。かっこいいからそのままに僕はしてるけど」
アダチは階段の中ほど、新は下段に腰かけ、それぞれの箱を開梱した。食缶2、缶詰2、カロリーメイト1、カプセル剤1、紙コップ1。カプセル剤に関してはビニールの小袋に入っていて、品質保証書的なアレが付属している。
「僕はもっと酷いもんだと最初思ってたから嬉しい誤算だった。死刑囚は殺して初めて成功だから、その前に死なれちゃ困るっていうのは、拘置所と同じなんだよ多分。だから部落の中で害を
「これは何に使うんだ」
「当然水を飲むためさ。部屋の水道水じゃなくて、特房の裏にある井戸の水を使うのがいいと思う。ポンプは使える?」
「ああ、墓参りで使った、何回も。ええと、トクボウって何のこと?」
「そうか、ごめんごめん、『特殊独房』の略だよ。喪服連中とか、前にここで暮らしてた奴らはそう呼んでたんだ」
「特房」の裏へ回ると、シダなどの陰生植物が低く繁茂する中に、年季を感じさせる井戸が1基見つかった。井戸と同様に年寄りの鉄ポンプを上下すると、数回で水らしき液体が流れ出した。しばらく出してみて異状なく、コップに注いでも澄んで見えたので、新は拘置所を発ってから鬱積したものを洗い流すように数杯飲み下し、アダチの元へ戻った。アダチは待ってくれていた。
「その水も、井戸の水なのか」
「そう、ペットボトルに汲んで常備してる。じゃあ、乾杯」
「乾杯」
食べながら、アダチは特房での日々に関する多くの助言をしてくれた。
「さて、何から話そうかな」
まず新は、ショウジをはじめとする喪服たちについての情報を求めた。
「喪服は全員、査執協の構成員だよ。査察執行官協会。この音無部落を管理してるのもそいつららしいけど、死刑囚を囲ってるのは多分ここだけじゃない。僕らに見えてるよりも、だいぶん大きい団体だ」
早々にコップが空になったので、新はまた汲み直して続きを聞いた。
「井戸の他にも便利なのがいくつかあるんだ。例えば、特房の南側にある洗濯機は1台だけまともに動く。井戸が東で、この階段が北ね。でも二槽式を使ったことがないなら、僕みたいに南西の川で洗うのがいいかもしれない。風呂場もバランス釜だから」
確かに、アダチの身なりは貧相であっても不潔ではない。ファッションとしての古着も、考えなしに着たらこんなものであろう。新は自らを顧み、入浴と洗濯がすぐさま必要だと悟った。しかし、替えの服が無い。
「服なら、南のゴミ山からいくらでも探せるよ。……そうだ、時計」
アダチは中座し、塗装剥げの目立つ小さな卓上時計を持って戻って来た。7時40分過ぎ。手にした時計が、新を世間と同じ流れの中に呼び戻した。
「で、南のゴミ山の話。ゴミ山は便利なんだけど、目の前に訳の分からない奴らが住んでるから気を付けたほうがいい。夜になると一箇所だけ電気が点いてる所。それで、その先にしばらく進むと鉄条網があって、そこまで行くと査執協の施設が見える。ただカメラだらけで脱獄は無理だ」
徐々に周辺の地図が頭の中で具体化され、同時に得体の知れないこの「音無部落」に対する恐怖が薄れてゆくのが分かった。不安は無知が生むものなのかもしれない。
「北に向かってもそれは変わらなかった。上りが続いて、最後は鉄条網に行き着く。東西の斜面とか崖の上もおそらく一緒だと思う。灰島も、北西の斜面から入って来たんだよね?」
あとに残ったのはふたつの恐怖である。一方は習慣づいてしまったものだから、鮮やかな恐怖はあの男ただひとつなのだ。土に染みた血が忘れることを許さない現実だ。
「そうか、灰島はその場面を見たんだ。あいつ、ちょっと頭がおかしくてね、1階の部屋に入ってたんだけど急にいなくなったから不思議に思ってたところ。僕には全く危害を加えなかったから、その時も灰島じゃなくショウジを狙ったんだと思うよ。まあ、頭のいかれた奴の考えることだから分からないけどね」
「でも、今朝になったら死体が無かったんだ。まだ生きてるんじゃないのかって」
「それは考えにくい。査執協の連中に手を出せば問答無用で殺されるはずなんだ。死体は多分、南の家の男が持っていった」
水がまた無くなった。
「水道水を勧めないのも似たような理由さ。 僕が来たばかりの頃に貯水槽で死んだ奴がいてね。査執協が清掃はしたはずだけど、僕にはまだ水が臭う。だから水道管の音で僕は——」
アダチの視線が一点を見つめて止まった。思わず新も背後を振り返った。特房の陰から出てみると、部落の南端から灰色の煙が上がっている。
「
「狼煙?」
「ヤツダの骨が燃える8時の煙だ。……灰島、君はついてない。あと1時間で執行のお迎えが来る」
「『執行』? そんな、殺されるのか、おれは!?」
「違う。殺されるのは『俺たち』だ。でもひとつ言えるのは、僕らにはまだ、生きるチャンスがあるってことなんだ」
呆然とする新に向かって、アダチは小汚い笑顔を見せた。
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