青春では終わらせない

ichi

第一部 閉塞

第一話

 薄暗い部屋のなか、カーテンからひとすじの光が顔に当たるのを感じてわずかに瞼をあげた。

 日光から逃れるように寝返りをうって顔をうずめた布団は何日も干していないせいかかび臭い。そして俺の体臭はもっとひどいことになっているだろう。なにせもう一週間近く風呂にも入っていない。

 日本のとある地方都市の一軒家の一室。換気をしていない俺の部屋は空気すらもどんよりと濁っているようだった。

 枕もとに散乱した漫画やら本やらをとりあえずどかし、机に座る。 

 パソコンの電源を入れると駆動音をならしながら目に不健康な光がともった。

 完全に立ち上がるのを待っていると階下――俺の部屋は二階にある――から母の声が聞こえた。

 「慶ー? 母さん出かけてくるから、適当にご飯食べてなよ」

 部屋のドアの内側には本棚がそびえ立っている。

 まるでバリケード、とでも表現したいところなのだがこの場合「まるで」はいらないだろう。

 俺がバリケードにすべくそこに移動させた本棚はバリケード以外の何物でもない。

 その奥から聞こえてくる声はなんの不具合もなく聞き取ることができたが、それには返さない。

 母もそれはわかっているのか玄関の鍵を閉め、車のエンジンをかける音がすぐ外から耳に入ってきた。

 大方、また高校にでも行ってくるのだろう。

 現場にもいなかった親と、俺のことを何もわかっていない担任と、名前すら知らないカウンセリングの先生と、バカな大人がバカみたいに顔を突き合わせて何ができるのか。

 気がつくと俺は笑っていた。

 鏡を見なくてもわかる。

 18年間つきあってきた自分の身体だ。どこがどう動けばどうなるのかくらいわかる。なのに、俺はあいつらのことを嘲笑しているはずなのに。そうしたいと今まさに願っているはずなのに。頬を透明なしずくが伝う。伝ってしまう。

 認めない。認めたくない。認めてしまえば……。

 頭のなか堂々巡りするない交ぜの思考、胸中で絡まる何本もの感情の糸は体中を蝕んでいく。

 そんな俺をふと現実に引き戻してくれたのはメールの着信を知らせるポンという何とも間抜けな電子音だった。

 「パソコンにメール……?」

 スマホが普及したこのご時世、パソコンどころか携帯でもメールを打つことは少なくなった。ほとんど誰にも教えた記憶がないこのアドレスにメールをしてくるのは大抵どこともしれない会社の勧誘のみだ。

 感傷的になっている今、唐突に送られてきたメールに少々腹がたった俺はさっさと削除してしまおうとメールを開く。するとそこには意味不明な、いや文章の理解ができるという点では全く不明ではないが、とにかくそんな文面が目に飛び込んできた。

 

 新川さま

 

 突然メールしてしまいすいません

 以前見たあなたのプレイが忘れられません

 でもはじめたばかりでなかなかうまくなりません。

 わたしに野球をおしえてください



 「……は?」

 なんだこれは。というか誰からだ?

 以前見た? 忘れられない? 

 いやそれよりも、野球を教えてくださいとはどういうことだ?

 疑問が疑問を呼び、頭のなかはすぐにはてなマークで埋め尽くされる。

 読み返してみても差出人の名前は記されていないし、本文にはしっかりと俺の氏が書かれている。俺宛にメールを出したのは間違いないだろう。

 しかし誰がどんな理由でこれを送ってきたにしろ今の俺にとってはただの嫌がらせでしかない。

 それに句読点やひらがななど気になる点はいくつかあるものの宛名を書いたり、改行したりといった妙に丁寧なメールが感情を逆撫でする。

 「……やめだやめ」

 しばらく奇妙というか珍妙なメールの差出人について思いを馳せていたが、バカらしくなって背もたれに体を預け大きく伸びをした。凝り固まっていたのか体がばきばきと不健康な音をたてる。

 どうせ俺にはもう無理だ。あれだけ熱を注いでいた野球を自らやることはもちろん,教えることさえもはやどうでもいいことのように思えてしまう。

 一度捨ててしまえばもう元には戻らないし戻れない。

 そしてそれは根性ややる気でどうにかなるものではない。時間の経過というのは残酷だ。それだけで人を否応なしに大人にしてしまう。

 失った時間はどれだけあがいても取り戻すことはできないんだ。

 それを自覚してしまった俺はこのどうしようもない思いを一生背負っていくのだろうか。

 襲ってきた虚無感に背を向けるように俺は再びかび臭い布団にもぐり、眠くもない目を一生懸命に閉じ続けた。




「はあ……」

 キーボードを打つ手をとめて、机に肘をつき目頭を軽くもむ。じんわりと目の疲労が広がっていくのを感じながら椅子に深くもたれ、俺は深く息を吐いた。画面には例のメールの他に何件か別の文面も映し出されている。

 それらを眺めながら俺はもういちど溜息をつく。一番最初のメールから三日たったが、立て続けに同じアドレスから送られてきている。内容はどれも似たようなものだ。

 さすがに鬱陶しくなってきたのでたった今、迷惑であるという旨の返信をしたところである。

 はっきり断ればもう連絡を取ろうとしてくることもないだろう。と安堵して再び椅子にもたれたとき、メッセージが来たことを示すポップが机の上、俺のスマホの画面にでていた。

 そこには、

 『大丈夫?』

 とたったそれだけ。

 ポップはすぐに消えてしまい誰からのメッセージであるかはわからなかったが、いい加減確認するのも面倒くさくなってきた。

 俺がこの状況、言ってしまえば部屋に引きこもってからこのような心配とも生存確認とも取れるようなメッセージを頻繁に目にしている。

 うぬぼれるつもりはないが客観的に見て俺は引きこもりになるような立ち位置の人間ではなかったと思う。クラス内で暗い雰囲気を自ら醸し出すようなひねくれた性質は持ち合わせていないし、ましてや教室を俯瞰的に見るようなことはしたこともない。

 ただ、現在自分が置かれている状況、状態からしてみると今までの俺の居場所というものがどのようなものであったかが以前よりよくわかる気がする。

 こうやって電子記号のやりとりを通して自分の現状を把握しようとしてくる友人たちに対して思うのは「軽さ」。その一言だ。

 けれどもこれは俺の身勝手な思い上がりだ。俺の周りにいる友人たちはあくまでも友人であって、取り巻きでもましてや俺個人の所有物でもない。そんなことはわかっている。

 それでも「でも本当は……」という幻想にも似た期待をしている自分がいたことを認めなければなるまい。

 野球というスポーツをやっていたからこそいつもそばに誰かがいるのが当たり前で、誰かと本気の思いをぶつけあうのはいいことだとばかり思い込んでいた。

 その思い込みは身を滅ぼす。まさかそのことを身をもって実感させられることになるとはなるとは思ってはいなかったな。

 久しぶりに開かれた窓からは高くも低くもない青空がのぞき、春のあたたかくやわらかい風がカーテンを揺らしている。

 世間は新生活への期待と不安であふれ、それでも前に進んでいこうという雰囲気で活気づく時期だ。そんな中、俺のなかに渦巻いているのは過去への後悔一択。部屋は世界から切り離されたかのように静寂に包まれていた。

 そこに、

 「ん……?」

 玄関からチャイムをならす音が聞こえてきた。

 今日は平日。それも今は午前中だ。誰かが訪ねてくるとしたら宅配便くらいなものだろう。

 さっさと受け取ってしまおうと階段を下りていき、今一度ならされたチャイムに「はいはい」と適当に答えながら玄関のドアをあけた。

 「どちらさん……です、か?」

 言葉に詰まったのは開いたドアのさきに一瞬誰の姿も認められなかったから。

 俺が視界の内にとらえたのは突き抜けるような青空、そして家の手前に広がる田んぼに畑。そこに人の姿は確かになかった。

 しかし、

 「あ、あの~……」

 という蚊の鳴くようなか細い声がドアを開けるために少し傾けている俺の体の胸より下あたりから聞こえてきた。

 すでにいたずらだと思いかけていた俺は驚いて「うぉわっ!」などと間の抜けた声が口から漏れてしまう。

 「す、すいませんっ!」

 俺の反応に責任を感じてしまったのかその子は申し訳なさそうに頭を下げてくる。

 「あっ、いやちょっと驚いただけだから……」

 なんでもないよという意味で手を振ってその謝罪を軽く流し、改めて見知らぬ訪問者の情報をつかみにかかる。

 その子——女の子の身長は先ほど感じたよりかは少しばかり大きいようだ。それでも俺の胸の高さくらいで決して大きくはない。大きく儚げな目はとても印象的だが、不思議とそこに弱々しさは感じられない。

 その全体的な大きさと相まってどこか作り物の人形に意思が宿ったような、そんな感覚にとらわれた。

 しかし先ほどから俺にじっと見定めるような目線をぶつけてくるこの少女の目的はいったい何なのだろう。

 俺もバカではないのであのメールの送り主が目の前にいる少女であるという推測はたてているし、おそらくそれは間違っていないだろう。ならそこから尋ねてみるべきだろうか。

 「ええっと……もしかして俺にメールを送ってきてくれたのって君かな?」

 年下の女の子をなるべく怖がらせないように優しい口調を心がける。というかこの子、容姿からすると小学生くらいなんだけど……学校はどうしたのだろう?

 「あっ、そうです! 名前もなのらずにしつれいしました。わたし、花城ゆいといいます」

 ようやく俺を困らせていた犯人の名前が判明した。とはいっても相手が嫌がらせ目的だろうと踏んでいた俺が拍子抜けしてしまうのは仕方のないことだと思う。

 誰だって傷心のところにいきなり小学生女子がメールをよこしてくるとは思わないでしょ。

 「花城さん今日学校はどうしたの。平日だよね?」

 「きょ、今日は創立記念日で……学校はおやすみです」

 なるほど創立記念日か。それなら小学生が平日に外を出歩いていてもおかしくはない。

 それにしても恥ずかしそうにしながらも聞かれた質問には毅然とした態度で答えるさまはなんとなくお嬢様っぽいな。どこかいい家の娘さんだったりするのだろうか。

 しかし玄関で小さな女の子と立ち話というのは気がとがめるし、ご近所さんに何といわれるか分かったもんじゃない。

 そう思って言葉を継いだ。

 「とりあえず家にあがる? 特におもてなしはできないけど……」

 「あ、ありがとうございます! おかまっ……お構いなく!」

 慣れない言葉を使ったからか社交辞令がまったく違う単語になってしまっていた。

 いまだに緊張が解けないのだろうか。でも雰囲気が大人びているからか、そんな年相応の反応がとても可愛く思えてしまう。

 ……違うぞ、俺はロリコンじゃないからな。

 



 困った。

 花城さんを家にあげたはいいもの当の彼女は押し黙ってしまい、リビングには気まずい雰囲気が流れてしまっている。

 先ほどの毅然とした態度はどこへやら、背丈の会わない椅子で浮いた脚をぴったりとくっつけてもじもじとするばかり。

 テーブルに置かれた二つのガラスコップには滴が浮き出ていた。

 さすがに空気に耐えかね、俺の方から口を開く。

 「……あの、花城さん。まずもう一度聞くけど、あのメールは君が送ってきたものなんだよね?」

 「はい……」

 やはり間違っていなかったらしい。

 まあ、奇妙なメールに珍妙な訪問者。同一人物でないという可能性の方が低かったのだが。

 「それじゃあ、以前に見たっていうのは?」

 これが疑問のふたつめ。

 この少女と俺は初対面、のはず。

 だとすると、過去に俺を見たというのは花城さん側からの視点だろう。目の前で居心地悪そうに俯く女の子を質問攻めにするのは気が引けるが仕方がない。

 花城さんは口をもごもごさせながら一生懸命に説明しようとする。

 「えっと……前に河原でおとうさんと試合を見ていて…………それでしりました」

 いまいち要領を得ない説明だが言わんとすることは理解できた。

 確認のため相槌をうちつつ尋ねる。

 「それは野球の試合だよね」

 「はい」

 「それっていつのことだったか覚えてる?」

 「おととしの……夏、だったと思います」

 ご期待の記憶にはすぐに辿り着くことができた。

 この子が言っているのは一昨年、つまり俺の中学最後の地区大会の準決勝だろう。一昨年の夏で河原で試合をしたのはそのときくらいだ。

 「それでその試合を見て野球をやりたくなったと?」

 「……はい」 

 どうにも歯切れが悪い。これは他に何か事情があるのかもしれない。

 一応突っ込んで聞いてみる。

 「でも野球やりたいなら近くのチームに入ればいいんじゃない? こんな素人の俺に頼むよりも。というか野球ってそもそもチームスポーツだから誰か個人に教わるものでもないし」

 「そう……ですね」

 今にも泣きだしそうな声でうなだれる花城さん。

 しまった。言い方がよくなかっただろうか。これだから小学生と言えども女子と話すのは気を遣う。あわててフォローに入った。

 「そ、それに俺なんかに教わるなんてほら、お父さんとか反対するでしょ」

 「おとうさんは新川さんならいいって」

 おう。なんとアクティブなお父さん。

 見ず知らずの男に娘を預けるなんて普通はあり得ない。いや、試合はお父さんも見に来ていたらしいから見てはいるのだろうけど。

 「ダメ、ですか?」

 少しだけ顔を持ち上げて上目遣いにこちらをうかがってくる様は小動物然としていてとても可愛らしい。

 これを見て、彼女の願いを一刀両断にする勇気は俺にはなかった。

 それでも最低限のラインは引いておくことにする。

 「……わかったよ。でもとりあえず君のお父さんと会って確認してからだ。まだ引き受けるわけじゃないからね」

 「…………」

 「花城さん?」

 じっとこちらを見つめたまま微動だにしない彼女の前で手を振ってやるとハッとしたように再起動して、 

 「ありがとうございますっ!」

 と勢いよく頭をさげ、コップの中身の麦茶を盛大にこぼした。

 「ああっ、ごめんなさい!」

 手をわちゃわちゃさせあわてる花城さんに大丈夫というふうにひらひらと手を振る。キッチンからもってきた台ふきでテーブルの上に広がる麦茶の湖をふたりして拭き取りながらふと、思った。

 そういえばこんな感じでひとと話したのはいつぶりだろう、と。

  

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 





 

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