*9*ユキとセツ
「あんの野郎、呪う呪う呪う……」
圧死寸前、命からがら脱出したあたし。これから講義だと言う野郎を蹴っ飛ばし、いつもの噴水広場へと走ってきた。
〝あ、ユキちゃーん、遅いよー!〟
イチ早くあたしを見つけてふわりと浮かぶ笑顔は、なくて。
「…………セツ?」
巨大オブジェに回り込んでみたりもしたけど、ダメで。
クリスマスカラーのタータンチェック。
ふわふわな墨色。
くりっとしたチョコレート色……。
違う、あの人も違う。
「……セツ……っ」
すれ違う人々の中であたしを気にかける者は、誰ひとりとしていない。
胸に、形容しがたい不安がはびこる――
「はーい、お呼びですかー?」
数拍遅れで耳に届いた声。
振り返る。セツは……そこにいた。雪にまみれたジーンズの膝を払って、のんきに笑って。
なんだ、しゃがみ込んでたの。それで見えないとか、どんだけ……。
「っ! このバカ!」
「えっ? どうしたの、ぼく何かした?」
「探させんな! いつもみたいに座ってヘラヘラしてろ、バカッ!!」
……バカなのはあたしだ。
銅像じゃあるまいし、セツだって歩くだろう。それをとやかく言う権利なんてないって、わかってる……のに。
「ユキちゃ……わ、顔が真っ赤! 熱でもあるんじゃないの!」
「そういや……朝から妙にテンション上がんなくて、ダルかった気が」
「それ絶対風邪だよー! お家帰ろ、ねっ?」
「……やだ。ダルいし」
気にしなきゃよかったものを。セツが言うから、歩くのが億劫になってきたじゃないか。
「じゃあせめて、休も? 寄りかかっていいから」
促され、噴水のレンガに腰を下ろす。
ダルいことこの上ないし、お言葉に甘えて、隣に座ったセツの右肩へもたれることにする。
目前にはダッフルコートのミルクティー色。甘くて、あったかくて……なんて、ホントに感じちゃいそうな安心感が胸を満たした。
一方でセツは、どこか所在なさげにライトグレーの寒空を見上げていたけどね。
「雪、積もってるね」
「……降ったからな」
「コート貸そっか?」
「……慢性冷え症患者は着てろ」
「のど乾いたとかない?」
「……バッグに水筒入ってる」
「えっと……」
「このままがいい。すごく、楽……」
ちいさく呼吸をして、瞳を閉じる。セツが息を呑んだ気がした。
「……たとえばだけど。これがものすごい病気の前兆で、ぽっくり逝ったりしないかなぁ……」
「こーら、滅多なこと言わないでよ」
「可能性はあるよ……? あたしの母さん、遺伝性のガンで死んだもん」
あたしの身体では、今も次々とガン細胞が作られてる。それでも生きてるのは、やっつけてくれる細胞のほうがたまたま多いから。
そう……たまたまなんだ。
「ユキちゃんは、亡くなったお母さんに会いたい?」
「星になりたいかって? どうだろ……代わってあげたかったって気持ちはあるけど」
「……代わってあげたかった?」
「毎日意味もわからず生きてるあたしより、母さんのほうがずっと生きたかったに決まってんじゃん……」
少なくとも、記憶の中の母さんは笑ってた。交換がきくなら、あたしの命、差し出したいよ。
「死ぬことが、怖くないんだ」
「取り残されること以外に、何が怖いって言うの。有名な話だけどね、〝好き〟の反対は〝無関心〟なんだよ」
誰から愛情を注がれるわけでもなく、存在意義も知らないまま、群衆の外でひっそり息をするだけ。
そんなの、生きた屍に等しい。あたしみたいな……ね。
「幸せなんて、いくら探しても見つからない……あたしには無縁のものなんでしょうよ」
……みっともない愚痴は、全部熱に浮かされた女のざれ言。
ごめんねセツ、聞き流していいから……。
「ユーキちゃん」
「ん……わ、冷たっ! 何っ?」
真っ白のふっくらボディに、深緑の細長い耳、つぶらな赤い瞳。
まんまと隙をつき、手のひらに乗ってきたものがある。
「雪ウサちゃんです」
「……作ったの?」
「せっかくの雪なんだもん、ウズウズしちゃって!」
ニコニコと、セツが得意げに胸を張る。
そりゃあ、すぐ脇に頃合いな材木が自生してますけども。
「……ふ、はは……あははっ!」
モミの葉とナンテンの実を摘み、雪をかき集める。
人々は首を縮めながら通り過ぎるだけの広場で、せっせと雪遊びをしてるセツ。かわいすぎか。
「なるほど。さっきまでこの子作ってたわけね」
「気に入ってくれた?」
「まーね。でもできれば事前に言ってほしかったかも。すぐ溶け、て……」
言葉じりが冷気に溶ける。
そのわけは、少しだけ高い場所からあたしを見つめるチョコレート色の瞳が、ひどく優しげな色を帯びていたから。
「ぼくたちの一生も、雪みたいに儚いものなのかもしれない。でも、だからこそ、ぼくたちは生きるんじゃないかな」
心に入り込むやわらかい響き。
思考は止まり、雪ウサギが手のひらへ溶けゆく。
「一生を一日に例えるなら、ユキちゃんはまだ目が覚めてないんだよ。色々考える前にさ、まず起き上がろう? 寒いけど、カーテン開けたら朝陽が綺麗かもしれないじゃない?」
ポエマーかってくらい独特な言い回し。真っ先にわかったのは、どうやらエールっぽいぞってこと。
おもむろに、手袋をはめた右手が頭に添えられる。1回、2回と髪をなぜられて……勘弁してよ……そんな優しくされたら、あたし。
「大丈夫、きみはきっと幸せになるよ。そういうおまじないがかかってるんだから。ね――幸ちゃん?」
……あたしは、自分の名前が好きじゃなかった。
佐藤なんてありふれた苗字だし、幸? とんでもない、不幸の間違いじゃないの? って。
あんなに嫌っていたのに……どうしてセツに呼ばれただけで、目の奥がツンと痛いのか。
「セツ、セツ――雪」
「ふふ、そんなに呼ばなくても聞こえてるよぉ」
一面に降り積もる白銀のごとく、無垢なきみ。
「ぼくもユキ。おそろいですね」と、初めて会った日のように笑うから、心が震えるの。
「幸ちゃん、ぼく、きみが喜んでくれて嬉しかったよ。また笑ってほしいなぁ」
ダッフルコートに押しつけた顔をそっと両手が包み込み、コツン。墨色のクセ毛がふわりと額をかすめた。
ったくあんたは……あたしをどんだけ甘やかせば満足すんの。くっつけられた素肌のひやりとした温度にすら、頭が沸騰してるのに。
鼓動が速くて、呼吸がままならない……休まるどころか、悪化しちゃったじゃん。
それでもね、あたしの笑顔が雪を嬉しくさせられるんだったら、もうちょっとだけ、甘えてもいいのかな。
そうだな……とりあえず、この雪ウサギが溶けきってしまうまでは。
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