月の向こう側へ

宮沢春日(はるか)

月の向こう側へ

「やっぱりわかんない。ニコラウスの話は難しいよ」

 僕は、さっきまでニコラウスが口を当てて音を出していた「フルゥト」という金属の棒を握りし占めてニコラウスに文句をいった。

「こんな道具をつかってしか、気持ちを伝えられない世界なんてさ」

 ニコラウスは苦笑いを浮かべた。さっきまで、旅の時に着る緑のマント姿だったが、今は白のブラウスと黒いズボンという、普段のくつろいだ姿になっている。

「ただの「音」ではないんだよ。ピーター。「音楽」なんだ。光の世界の人は、音楽で心を表現する」

「ほら、またわかんないことをいう」

僕はむくれて、髪を赤く染めた。


「光の世界」というのは、僕らの住む世界の裏側にある世界で、物の形のなかに想いが閉じ込められて隠れてしまう世界なのだ、とニコラスは言う。

 僕が住むのは、「光の世界」に対して「影の世界」と呼ばれる場所で、想いは具現化して現れる。いま、僕が怒って髪を赤く染めたのも、ニコラウスの服が変わったのもそのせいだ。


「想いが見えないなんて不便だよ」

「だが、思いが見えすぎて不便な事もある」

 かたわらでにゃあっと声をあげた猫のミーシャの頭をなでながら、ニコラウスは答えた。

「さて。そろそろ返してくれないか?」

 僕が握りしめているフルゥトを受け取るため、ニコラウスは僕の前に手を差し出した。

「いやだよ。だって、これを袋に詰めたら、ニコラウスは出て行っちゃうんでしょ?」

「ふぅ」

 ニコラウスは大きくため息をついた。服が緑色のマント姿に変わっていく。もう、彼は決心を固めてしまったのだろうか?

「今夜の月を逃がしたら、またしばらく光の世界へいけなくなる」

「だったら、次のいい月まで待てばいいじゃないか」

「だめだ」

 ニコラウスは鋭い目で僕を睨んだ。

「先月も君はそういって私を引き止めたが、今回はそうはいかない。今日は8月の最後の日で、もう1ヶ月も時間をロスした。夏から秋へ季節がかわり、時間が私の探し人の手がかりを消してしまう。……君ももう子どもじゃないんだ。わかるだろ?」

「……また、もどってくる?」

 僕はしぶしぶフルゥトをニコラウスに返した。ニコラウスは微笑んで、フルゥトを受け取った。

「もちろん、帰ってくる」

「その時は、僕にも会いに来てくれる?」

「ああ、約束する」

 ニコラウスは、僕から受け取ったフルゥトを荷物袋の中に入れてきゅっと口を絞った。

「見送りにくるかい?」

「いっていいの?」

 椅子から立ち上がり、ミーシャを抱き上げてニコラウスはにっこりと僕に微笑んだ。僕は嬉しくて、髪を金色に染めた。

「ただし、夜中だぞ? 今夜11時半、時計台においで」

「がんばって起きる」

 僕は、ニコラウスと堅く約束をかわした。


 夜中。にゃあっと耳元で鳴くミーシャの声で僕は目がさめた。ミーシャは、ニコラウスが連れてきた猫で、僕とは一番の仲良しだった。

「そっか、お前もいっちゃうんだったね」

 僕は、ミーシャの頭と喉をなでた。ふわふわとした柔らかい感触も、もうこれっきり。

「よし、いこうか」

 カンテラを片手に持ち、もう片手にミーシャを抱え、僕は、夜の町に出た。


 時計台は、中央広場の横に建っている、この町で一番高い建物で、町のシンボルにもなっている。

 塔のてっぺんには、巨大な時計が四方の壁それぞれについていて、町のどこからでも正確な時間を知る事ができる。

 夜中11時。僕は、時計を確かめて、家を出た。時計塔を目指し、急いで走って行く間、僕の心は複雑で、光の世界への入り口はどんなものなのだろうという興奮と、ニコラウスが本当に行ってしまうのだという思いとで、髪も肌も赤くなったり青くなったりしている。

 時計台が近くなり、ミーシャはするりと僕の手から抜け出して、駆け出した。

「ニコラウス」

 ミーシャを抱き上げたニコラウスに、僕は声をかけた。いまは、すっかり旅のマントに身をつつみ、荷物袋を肩に下げて、旅支度も万全という姿だ。

「来たね」

 僕が掲げるカンテラの明りのなかで、ニコラウスは笑みを浮かべ、髪を金色に輝かせた。

「どうするの?」

 息をはずませ、僕はニコラウスにたずねた。

「塔へ上る」

 ニコラウスは時計塔を見上げて答えた。

 20分ほど、延々と階段を上り、僕とニコラウスは、時計台の塔に上った。大きな歯車やハンマーがゆっくりと動く機械仕掛けの部屋を、頭上や足下に注意しながら、僕はニコラウスの後について歩いていった。

「ついたよ」

 ニコラウスが僕に声をかけた。その先には、木の扉がひとつあった。

「ここが、光の世界の入り口?」

「違うよ」

 ニコラウスは笑って、扉を開いた。突然、僕らの目の前に、外の風景が広がった。

「うわあ」

 僕は思わず声をあげた。

 いつも見上げていた町並みが全て僕の下に、おもちゃのように小さく見えて、半分の月の光に照らされて薄明るく輝き、海のさざ波のようにもみえた。

 僕の左側に、時計板の3の数字があった。僕らは西に面した巨大時計の文字盤の中にいるのだ。


 しばらく目の前の光景に魅入っていたが、僕はハッと気がついた。

「ここから、どこへいくの?」

 僕はニコラウスを見上げた。ニコラウスは、右の人差し指を前にだした。その先には、地平線すれすれに、小舟のような形で浮かんでいる上弦の月があった。

「……月?」

「ちょうどいい頃合いだな」

 ニコラウスは、ミーシャを僕に預け、荷物袋からフルゥトを取り出し、口にあてた。高低も長さも違ういくつかの音がフルゥトから聞こえ、月がその音に答えて輝きを増した。そして、月から光の糸が僕らの足下にするりと伸び、次第に太くなってまっすぐな道のようになった。

「……嘘」

 ニコラウスが僕からミーシャを受け取り、ためらいもせずその光の道に足を踏み出そうとして、僕は思わず叫んだ。

「落ちちゃうよ! ニコラウス!」

「大丈夫だよ。それじゃあね。いい子にしているんだよ」

「……絶対、戻って来てね」

 僕の頭を優しくなでニコラウスはさらにもう一歩光の道に足を踏み出した。 とたんに、道がすっと時計台から離れ、ニコラウスを月のもとへと運んでいった。

「さようなら、ニコラウス」

 僕は、ニコラウスの後ろ姿に叫んだ。 ニコラウスは片手を上げて、僕の声に答え、月の向こうへ姿を消してしまった。

 小舟のように、地平線の上に浮かんでいた月は、やがて地平線に隠れ、ニコラウスの姿も消えた。

「はっくしょん」

 ぼくは、くしゃみをした。涼しい秋の風が、僕を通り過ぎたのだ。

「さあ、帰ろう」

 時計台の針は、12時を示していた。 僕は、ゆっくりと時計台をおり、家路についたのだった。

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月の向こう側へ 宮沢春日(はるか) @haruka_miyazawa

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