クッキー / Augmented Fourth - The Girl Who Cried

 二三六九年十一月某日

 

 

「決めた! もう決めた! あの野郎からの仕事は二度と受けねえ!」

 お得意様からの一仕事を終えて、馴染みの酒場でぐだぐだ飲んで。結果として、酒場を出る頃には、俺はいい気持ちになるどころか、仕事の愚痴を吐き出すだけの装置と化していた。

 ……それを自覚する程度の理性は、まだ残っている。

 どこかぐらぐらする地面を踏みしめながら、幼馴染とよく似た紫苑の瞳を細め、爽やかな笑顔を浮かべるお得意様を思い出す。その唇から放たれる言葉は、いつだって、爽やかさからは程遠い生臭い依頼であることは、わかりきっていたはずなのに。

「ったくよう、あの人でなしが……」

「あのマッド・ドクターが人でなしなのは、今に始まったことじゃないけどな」

 わかりきったことを言うな、とばかりに肩を竦める『何でも屋』シスルの青白い面に、酔いの色は全く見えない。

 まあ、この全身機械仕掛けの変人様は、「酔えないし、味もわからないから、飲んでもつまらない」という、もっともだが付き合いの悪い理由により、いつも通り水をちまちま舐めていたんだ、酔ってないのも当然なんだが。

 こうも精巧に人の形を模していて、聴覚や触覚は人並み以上なんだから、味覚くらいつけてやってもよかっただろうに。そう、今はどこにもいない開発者様にもの申したくもなる。野郎が付き合いよくなったところで、俺は嬉しくも何ともないが、それはそれ、これはこれ。

 俺がお得意様の人でなしっぷりを主張しているのをしばし黙って聞いていたシスルは、俺の言葉が一旦途切れた時点でぼそりと言った。

「でも、あの博士の仕事が無いと、採算合わないってぼやいてなかったか、アンタ」

「言うな! 今はそれを忘れておきたい時なんだ」

「はいはい」

 不毛なのは俺もわかっている。わかっていても、どうしても、文句を言いたいことはあるのだ。

 やあフジミくん、今日も仕事熱心な君に、一つお願いしたいことがあるんだ。

 そんなお得意様の朗らかな決まり文句が頭の中にぐるぐるし始めるのを、何とか追い払おうと首を振ったところで、ふと、視界に妙なものが飛び込んできた。

 それは、きょろきょろと辺りを見回しながら歩く、一人の娘だった。年齢は十五、六といったところか。目深に帽子を被っているから、顔立ちは判別できないが、体つきといい、羽織っている柔らかそうなコートの仕立てのよさといい、この辺では見かけない娘であることは、間違いない。

「……見慣れない娘だな」

 シスルも、俺と全く同じ感想だった。

 普通、裾の町外周を、見知らぬ女が一人で出歩いていることなんて、ありえない。ガキなら尚更だ。見知った顔であっても、心ない連中に捕まらないように、比較的安全な道を選んで歩くことくらい、常識だ。

 だから、こんな、俺みたいなろくでもない野郎がふらふらしている裏通りに、知らない小娘が歩いてるってこと自体が異常なのだ。

 とはいえ、異常だからと言って、俺らが関わる理由もない。これが俺好みの胸と腰をしたいい女だったら違ったかもしれないが、ガキは俺の趣味じゃない。

「ま、構わず行こうぜ」

 と、シスルを振り向いたところで、横に立っていたそいつが、いつの間にやらそこにいないことに気づいた。嫌な予感がして娘の方を見れば、既にシスルが知らない娘に歩み寄ろうとしていた。

「うおおい、お人好しもいい加減にしろハゲ!」

 俺と正反対に小さい方が好みだってのは知ってるが、わざわざ厄介事を呼び寄せる気かあのアホは。だが、俺の叫びもむなしく、シスルは娘の前で視線を合わせるように頭を下げて、俺から顔は見えないものの、十中八九気障な微笑を口元に湛えて言った。

「こんにちは、お嬢さん。何かお困りのことでも?」

 このハゲは、どうしてちょっと芝居がかった物言いしかできないんだろうか。自分がハゲでグラサンで黒コートの、見かけだけで言えば完全なる不審人物であるという自覚はないんだろうか。

 あったとしても変わらないんだろうな。こいつはそう言う奴だ。

 観念してそちらに近づくと、娘は呆然とシスルを見上げていた。やがて、ちいさな唇が、動く。

「……アンタも」

「ん?」

「アンタも、あたしのことを捕まえに来たんでしょ!」

 突然、割れるような喇叭の音色が聴覚を埋め尽くし、一瞬で、酔いが吹き飛ぶ。

「シスル、避けろ!」

 と咄嗟に叫んだはいいが、多分、避けようもなかったはずだ。

 次の瞬間には、シスルの身体は、見えない力に弾き飛ばされて、壁際に積み重ねられていたゴミの山に突っ込んでいた。

 俺は、刹那の出来事に呆然としつつも、現象の正体だけは理解していた。

 ――念動力。

 あの音色の膨張は、間違いなく能力発動の前兆だった。超能力者って奴は、珍しいものの皆無じゃない。特に、俺らみたいな後ろ暗い業界には、決して少なくない人種だ。俺自身がそうであるように。

 ひたり、と。

 娘が、シスルから俺に視線を移す。分厚い、不恰好な眼鏡越しに、鋭い視線がこちらに突き刺さってくる。割れるような音色は、まだ、止まない。能力の予兆を聞き取れるにしても、わかったところで、逃れることが出来なきゃ意味がない。

 しかし、この顔、どこかで見たことがあるような――。

 次の瞬間、シスルが何事も無かったかのように、身体を起こした。片手で頭を押さえて、首を左右に振り振り、掠れた声を出す。

「あー、いったぁ……不燃ゴミの日でよかった……」

 確かに、これで生ゴミだったら目も当てられない。その場合は、責任を持って俺が笑い話としてあちこちに言いふらしていただろう。惜しい。

「痛覚切ってなかったのかよ」

「想定してないところで切るかよ、逆に危ないだろ」

「そりゃそうか」

 普通に返答されたところを見るに、痛そうだが堪えてはいないようだ。安心した。こいつはともかく、俺はかよわい一般人なんだ。荒事となれば、こいつを盾にして逃げることだって考えなきゃならん。薄情というなかれ、正当な自己防衛手段だ。

 さて、どう逃げようか、と考えている間にも、娘は猫のように背中を丸めてシスルと俺を睨みつけている。未だに、警戒と激しい音色は消えていない。だが、シスルがあの一撃を耐え切ったことに恐怖を覚えたのかもしれない、薄い肩が震えていた。

「……アンタ、何なの?」

「ああ、私は見かけより丈夫にできててね。機械仕掛けの身体も、悪くないもんだ」

 シスルは、左手で額を押さえたまま、苦笑を浮かべてみせる。娘は「機械仕掛け」とシスルの言葉を繰り返して、唇を噛んだ。

「そうじゃない」

「何がだ?」

「あたしのこと、追って来たんでしょう? それなのに、どうして」

 混乱した様子で頭を抱える娘に対し、シスルは、珍しく明らかな困惑の音色を奏でながら、ひらひらと手を振ってみせた。

「あー、ちょっと待ってくれ、落ち着いてくれ。あと、超能力で殴るのもやめてくれ、結構痛かったんだ」

 シスルは溜息混じりに、大げさに肩を竦めて言う。

「まず、私たちは塔の追っ手じゃなく、ただの通りすがりだ。そっちの男は塔関係者ではあるが民間の『運送屋』だし、私に至っては、どちらかといえば塔とは関わり合いになりたくない身だ。だから、君を捕まえてどうこう、という気は全くない」

 それで安心してくれ、というのも無理だろうが、と付け加えるシスルを、娘はじっと見つめていた。シスルの心の内まで値踏みするように。ただ、こいつは顔だけ見ててもさっぱり感情が掴めないから、正確に読み取るのは難しいとは思うが。

 果たして、娘がどうシスルを見定めたのかはわからない。だが、少しだけ、ほんの少しだけ、警戒音が緩んだ。その瞬間を、このハゲが聞き取れたわけではないはずだが、間髪入れずに言った。

「とにかく、立ち話もなんだから、どこかで座って話をしないか。その方がお互いに話しやすいだろうし、君も、塔の連中から逃げるのに疲れてるだろう。

 もちろん、我々が信用できないなら、立ち去ってくれて全く構わない。その場合は我々は君を追うことはないし、ここで君に出会ったことも忘れよう」

 勝手に話を進めんなよ、と口を挟みかけたところで、シスルは、とびきり気障な笑みを浮かべて言った。

「どうかな、ミス・エリザベス・カーシュ?」

 ――おいおい、マジかよ。

 

 

 《歌姫》リザ――エリザベス・カーシュ。

 一年に一度行われる、統治機関鳥の塔主催のオーディションで、見事この国唯一の偶像歌姫の肩書きを勝ち取ったシンデレラ・ガール。その姿は、毎日朝夕に《鳥の塔》のテレヴィジョンに映し出されているのだから、もちろん俺だってよく知っている。

 桃色に染め上げた髪をツインテールにして、現実味のないひらひらした服に身を包んだガキは、いつも満面の笑みと共に、俺たちに歌を振りまいてくる。

 歌自体は極めて陳腐で、旋律も構成もお粗末なもんだが、リザ本人が作ったわけでもないだろう。塔のお抱え音楽家どもは、一体何をしているのだろうか、と他人事ながらに心配したくなる。

 だが、それでも。

 リザの歌声は否応なく、心の中に入り込んでくる。遠慮も情けもなく踏み入ってきては、圧倒的な存在感で呼びかけてくるのだ。心穏やかでありますように。あなたが、幸せでありますように。

 そんな洗脳まがいの歌を、毎日聞かされるのは拷問に近い、と常々思っているのだが、ほとんどの連中は、《歌姫》の歌を当たり前のように受け入れているようだ。それとも、俺が特別悪く考えすぎなのだろうか。

 そんなことを考えながら、目に付いた店で買ったクッキーと、リザの分の甘い紅茶の入ったカップを手に、商店街と住宅街のちょうど合間に位置する広場に戻る。

「適当に色々買ってきた……って、おい」

「何だ」

「何でいつの間にか懐かれてんだ、お前」

 ちょっと俺が目を離していた間に、何があったのかはさっぱりわからない。だが、この国のアイドルが、いつの間にやらハゲ野郎の袖を掴んで、そっと寄り添っているのは、見間違いようもなかった。

 シスルは、俺の言葉にふっとニヒルな笑みを浮かべて、答えた。

「これが人徳ってやつさ」

「自分で言うんじゃねえ。あと傍目から見ると犯罪にしか見えねえからな」

「ヒースに捕まらないことを祈るよ。捕まったら舌噛んで自殺してやる」

「本当にお前、ガーランド隊長嫌いな」

 あと、多分舌噛んでもそう簡単には死ねないだろう。確か、呼吸が停止しても三日は生きていけるように作った、とウィンが豪語していたはずだから。死にたい時に死ねない、というのもなかなか嫌な話だ。

 ともあれ、下らない話はその辺で切り上げて。菓子の入った袋を投げ出し、ベンチに腰掛ける。リザは俺の方をちらりと見て、俺の手から紅茶のカップをひったくると、すぐに目を逸らした。何だこの差は。何なんだこの差は。

 シスルは、「どうぞ」とリザにクッキーの袋を差し出しつつ、俺に向きなおった。

「ひとまず、私とアンタのことを話して、こっちの事情は一通り納得してもらえた」

「事情つったって、酒場の帰りに偶然見かけて、お前が迂闊にも声をかけたってだけだろ」

「否定はしない。で、このお嬢さんは、人目を盗んで塔から抜け出した結果、塔の怖い人に追われているようだ。私のことも、塔の追っ手だと勘違いしていたらしい」

「どっからどう見ても、堅気じゃねえもんな」

 俺はともかく、こいつはどう控えめに見ても単なる通行人には見えない。外周の住民は、こいつが人畜無害の愉快なハゲであることを知っているが、《鳥の塔》で歌って暮らすアイドル様からしてみれば、不気味な仕事人にしか見えなかっただろう。

「で、どうして《鳥の塔》のお姫様が、塔を降りてこんな外周まで逃げてきたんだ?」

 俺の問いに、リザはクッキーを手にしたままじろりとこちらを睨んできた。

 テレヴィジョンに映る華やかな笑顔とは打って変わって、目の前のリザは眉間の皺を一時たりとも緩めようとはしない。ピンクのツインテールは目立つと判断したのか、帽子の下から、何の変哲もない栗色の髪を下ろした姿だ。これを、《歌姫》リザと判断するのは難しい。

 俺が、すぐにこの娘をリザと気づけなかったのには、もう一つの理由があったのだが。

 リザは、シスルの後ろからじろじろと無遠慮に俺の顔を眺めた後に、吐き捨てるように言った。

「……アンタに話すことなんかないよ」

「おいおい、つれないな。別に取って食おうってわけじゃねえんだから」

「男はみんな狼だって、特にアンタは狼だってシスルが言った」

「ハゲ手前裏切ったな!」

「嘘はついてないと思うが」

 ひとまず、しれっとしたハゲ頭を一発引っぱたいとくことにした。俺は狼であることを否定する気はないが、ガキは対象外だ。

 全く、失礼なガキだと思いながら、俺は最大の疑問を投げ込む。

「つか、お前、本当に《歌姫》リザなのか?」

「――!」

 リザの肩が跳ねると同時に、俺を睨みつける視線が更に強くなる。さっきの様子を見る限り、結構強烈な超能力を持ってるみたいだが、びくびくしてても始まらない。

「お前の声、どう考えても、《歌姫》の歌と一致しねえんだよ。よく似てはいるが、似てるだけだ」

 本当か、と訝しげな声を上げるシスルを睨む。

「俺の耳を疑うか?」

「疑わない。アンタの耳がいいのは、よく知ってる」

 シスルは物分りがよいからやりやすい。

「それでも、彼女はミス・カーシュに似すぎていると思うが」

 正直、こいつの観察力には恐れ入る。アリシアといいこいつといい、俺の周りにいる連中は、ちょいと感覚が鋭すぎやしないか。耳だけが取り得の俺としては、そっちの方が不気味だ。

「よく似た他人ってことはねえの? それこそ、影武者とかさ」

「違うよ。あたしは確かにリザだよ。エリザベス・カーシュ」

 リザはよく通る声を上げてから、ぎゅっと、一際強くシスルの袖を握り締めて、そこに顔を埋めるようにしながら、何かを押し殺した声で言った。

「でも、おっさん、すごいね。本物の《歌姫》じゃないってのは当たってるよ。あたし、あんな歌、歌ってないもの」

「どういうことだ?」

「あたしは、歌ってるふりをしてるだけ。あの歌を歌ってる本物の《歌姫》は、別の人」

 その時、建物の間から天に向かって聳える《鳥の塔》が、テレヴィジョンに華やかな《歌姫》リザの姿を映し出し、夜の訪れを告げる。

『こんばんは、エリザベスです! 今日は一日お疲れ様でした――』

 よく聞けば、口上は確かに目の前の娘の声と一致している。だが、歌が始まってしまえば、びりびりと背筋に響く感覚を伴う、誰ともわからぬ声が俺の意識の中に入り込んでくる。

「……あの歌を歌ってるのは、誰なんだ?」

 俺の問いに、リザは唇を尖らせて「わからないよ」とふてくされたように言う。

「あたしは《歌姫》のふりをすることだけが、仕事だから。それ以外は、何一つ教えてもらえない」

 俺とシスルは、思わず顔を見合わせてしまった。そんな話はシスルも初耳だったのか、驚きを隠せないようだった。リザはシスルの袖を掴んだまま、細いズボンに覆われた足をぶらつかせる。

「あたしね、《歌姫》になるのが夢だったんだ。テレヴィジョンに映るヴィクトリアを見て、いつか、ああいう風に皆に歌を聞いてもらえたら、どんなに気持ちいいだろうって思ってた」

 ヴィクトリアは先代の《歌姫》だ。近頃はめっきりメディアへの露出もなくなってしまったが、俺はヴィクの方が好みだ。あの胸といい、あの腰から尻にかけたラインといい――と考えているうちに、ふと、ひやりとした感覚を覚えた。

 思い出す。ヴィクはどんな歌を歌っていたか。どんな声で、歌っていたか。

「――けれど、ヴィクも、本当は歌っていなかった?」

 俺の問いに、リザは重たい表情で頷いた。どういうことだ、と困った顔をしているシスルに、俺は自分の推測を言葉にする。

「歌は違うが、ヴィクの歌も、リザの歌も、同じ人間が歌ってる。ヴィクでもリザでもない、誰かの歌だ」

 そして、それが誰なのかは明らかにされていない。興味がなかったから、考えたことも無かったが、改めて思い返してみれば違和感だらけだ。

 唇を噛んで、俺の言葉を聞いていたリザは、搾り出すように言った。

「塔の偉いさんが考えることなんて、あたしにはわからない。でも、見た目だけしか評価されない、知らない誰かの代わりでしかない、あたしの声で歌うことも許されない、そんな《歌姫》なんてもう嫌なんだ」

「だから、塔を抜け出した?」

 シスルの問いに、リザは頷いて、それきり俯いてクッキーをもそもそ摘むばかりだった。俺はもう一度シスルと顔を見合わせてしまい、何ともげんなりする。

 いきなり《歌姫》を拾って、しかも、こんな重たい話を聞かされたんだ、そりゃあ嫌になるってもんだ。

 だが、その時、シスルがとんでもないことを言い出した。

「そうだ、リザ。もし、嫌でなければ、君の歌を聞かせて欲しいな」

「え、あ、あたしの?」

「そう。君の本当の歌声が聞いてみたいんだ。私と隼以外に観客がいないのは申し訳ないが」

 突然の言葉にうろたえるリザ。そりゃそうだ、ほとんど見ず知らずの相手に「歌え」と言われれば、戸惑わないほうがおかしい。俺だって、万全な状態でも突然「弾け」って言われたら嫌だって言う。

 けれど、そんなリザに穏やかな微笑を向けて、シスルは言葉を続ける。

「まあ、こいつはやたら厳しいけどな。少しでも音が外れてると嫌な顔をする」

「音が狂ってると気持ち悪いんだよ。悪かったな」

「だから、耳のいい奴は嫌いなんだ」

 シスルは吐き捨てるように言って、大げさに首を横に振った。俺、何かこいつに悪いことしただろうか。さっぱり思い出せないが、どうも不興を買っていたらしい。別にこいつに嫌われたところで、痛くも痒くもないが。

 そんな俺とシスルのやり取りを呆然と見ていたリザは、急にくすくす声を殺して笑い出した。それを見て、シスルが心底嬉しそうに言う。

「何だ、そんな風に笑えるんじゃないか。笑った方がずっと素敵だ」

「むず痒いこと言うんじゃねえ、鏡見ろハゲ」

「髪が無いだけで、思ったことを正直に言うことも許されないのか」

「お前は改善できるのにしないのが悪い」

 その瞬間、リザがついに噴き出した。腹を抱えて笑いながら、ぴょんと立ち上がる。柔らかそうな栗色の髪が揺れて、いい香りがした。

「あはは、久しぶりに、思いっきり笑わせてもらった気がするよ」

 振り向いたリザの笑顔は、テレヴィジョンで見るものよりも、ずっと可愛かった。おかしいな、ガキには興味ないはずなんだが。

「そうね、お礼に、一曲だけ聞かせてあげるよ」

 テレヴィジョンから流れてくる《歌姫》の歌が途切れたのと同時に、リザが、すう、と息を吸って。

 そして、歌が、始まる。

 曲はテレヴィジョンの中で歌うリザと同じ《歌姫》の歌。陳腐な詞に、お粗末な構成。お世辞にも、いい曲とは言えない。それに、リザの歌声は、《歌姫》と違って完璧でもない。ところどころ音が外れているし、拍にも乱れが見える。

 けれど、不思議と心地よいと感じる自分に気づく。誰とも知らない《歌姫》の、何もかもを圧倒するような歌声じゃない。軽やかで、柔らかで、温かな。そんな声音だった。

 リザは、胸の上に手を置いて、気持ちよさそうに歌っている。その、開かれた心が、声にも現れていたのかもしれない。音楽は、いつだって、奏でる者の心を容赦なく暴き立てるものだから。

 そうやって、曝け出された心の音色を「聴く」のは、悪くないもんだ。

 そうして、最後の音が消えるのを確かめて。俺は、手袋を嵌めたままの手を叩いた。シスルも、同時に拍手をリザに贈る。

「上手いじゃないか」

「アンタもそう思うか」

「ああ。俺は本物の《歌姫》より好きだな」

「奇遇だな、私もだ」

 リザは、真っ赤になって、俯いてしまった。口では強気なことを言っているが、本当は相当恥ずかしいんだろう。人前で何かを披露するってのは、そういうことだ。

「けど、どうしてこんなに上手いのに、歌わせてもらえねえんだろうな」

「それは、機密に触れるものでね。君たちに教えるわけにはいかない」

 突然、俺たちとは違う声が――なおかつ、俺が一番聞きたくなかった声が、響いた。

 はっとして横に視線を向けると、広場の入り口から、白いコートを纏った男が、ゆったりとこちらに歩いてくるところだった。後ろに撫でつけた、白髪交じりの金色の髪に、どうしても胡散臭さの拭えない笑顔。

「やあ、ハヤトくん、シスルくん」

「どうして、手前がここに」

 俺の最大のお得意様――《鳥の塔》環境改善班のリーダー、研究主任ミシェル・ロードは、紫苑の瞳を細めて言った。

「何、かわいい《歌姫》がいなくなったと聞いて、慌てて探しに出たのさ。と言っても、こんなところまで逃げているとは、主導して探している面子は想像もしていなかったみたいだがね」

「……研究所の主任様が、どうしてたかがキャンペーン・ガールをわざわざ探しに出るんですかね」

 らしくもない嫌味な口調で言ったのはシスルだ。シスルも、この野郎には嫌な縁があるらしく、言葉には隠しようのない刺が混ざっている。

 だが、そんな刺も、この狸には通用しない。

「何、私は《歌姫》リザの大ファンだからね。彼女が消えてしまったら、私は生きていけないのさ」

「大嘘つき」

 ぼそりと、シスルの袖にしがみついたリザが呟いた。

「アンタが好きなのは、あたしじゃなくて、あたしの能力のくせに」

 ミシェルは、リザの搾り出すような言葉をあっさりと黙殺した。

 仕方ない、こいつはそういう奴だ。人の言葉を喋っているというのに、さっぱり話が通じない。自分に都合のいいことだけを聞いて、それ以外は思考に入り込みもしないか、聞いていたところで曲解するばかり。

 こんな人でなしはとっとと排斥されてしかるべきと思うのだが、遺憾ながらこれはこれで、人間離れした天才だ。《鳥の塔》にはなくてはならない、高層の頭脳の一人であるがゆえに、そう簡単に消えてはくれない。

 それに、俺個人にとっては、最も厄介だが最も金払いのいいお得意様だ。

 消えてもらいたいが、消えてもらっちゃ困る、そんな極めて面倒くさい野郎が、このミシェル・ロードというクソ野郎なのだ。

「君たちには感謝している。我が《鳥の塔》の誇る《歌姫》を、丁重に保護してくれたのだからね。さあ、リザ、塔に帰ろうか」

 もし、これがミシェル一人であれば、神楽を呼んで逃げてもよかった。だが。

「……逃げ道はなさそうか」

「無理だな。囲まれてる」

 全く、耳がよすぎるってのも嫌なもんだ。姿を隠して俺たちを取り囲んでる連中の、鋼を引っかくような音色さえ聞こえなけりゃ、ちょっとした希望だって抱けたってのに。

 シスルも、ミシェルが一人で来ているとは思っていなかったのだろう、「やっぱりな」と諦めたように肩を竦めた。すると、唇を噛んで小さく震えていたリザが、意を決したように立ち上がった。

「ごめん。あたし、行くよ」

「リザ」

「あたしのわがままで、アンタにまで迷惑かけられないしね」

 リザは、一歩、俺たちから離れて。

「歌、聞いてくれてありがとう。本当に、嬉しかった」

 透き通った声で、そう、言った。

 どうしようもなかった。俺も、シスルも、一歩、また一歩と離れていくリザを止めることはできない。

 それでも、低く、獣が唸るような声でシスルが言う。

「そうやって、アンタはまた《歌姫》候補を食いつぶすのか」

 その言葉にミシェルは答えず、代わりにシスルに胡散臭さこの上ない笑顔を向ける。

「ついでに、君も一緒に来てくれればとても嬉しいんだがね、シスルくん?」

「断る。しつこい男は嫌われるぞ、ドクター・ロード」

 シスルはいつになく鋭い語調で言う。ミシェルは「今更さ」とくつくつ笑いながら、指を鳴らした。その瞬間に、黒い背広を纏った男たちがばらばらとあちらこちらから姿を現し、リザを取り囲む。

 リザは、抵抗しなかった。丁重に扱うように、というミシェルの声に従い、黒服たちはリザを連れて俺たちから離れてゆく。ミシェルもまた、俺たち――多分、シスルに向かって、だろうが――に対して片目を瞑ってみせて、そのまま背中を向けた。

 その時。

「アンタは折れないでね、シスル」

 ふと、耳に届いたリザの声は、多分ミシェルやリザを取り囲む連中には聞こえなかったんだろう。シスルは、黒服に囲まれて、もう姿も見えなくなってしまった《歌姫》に向かって、ぽつり、呟いた。

「……ああ。折れるには、まだ、早すぎるよ」

 その声が、リザに聞こえたのかはわからない。

 ただ、それを確かめることもできずに、俺は、奴らの音が完全に聞こえなくなるまで、そこに固まっていた。

 やがて、俺と同じように固まっていたシスルが、「行くか」と言って、結局半分以上中身の残ったクッキーの袋を掴んで立ち上がる。俺も一緒に重い腰を上げながら、つるりとした後ろ頭に呼びかける。

「なあ、お前、俺がいない間に、あいつと何話してたんだ」

 シスルは、振り向いた。口元には薄い笑みを浮かべ、重たそうなミラーシェードを中指で持ち上げてみせる。

「かわいい女の子の秘密を言いふらす趣味は無くてね」

「おい、気になる言い方するんじゃねえよこのハゲ」

「アンタこそ、リザはガキだからって興味ないんじゃなかったのか」

「それとこれとは話が別だろ」

 居心地の悪い沈黙が、落ちた。シスルは、その場に立ち止まったまま、しばし唇を噤んでいたが、やがて、静かに言った。

「悪い、隼」

「別に、話せねえことは誰にだってあるからな。手前がそう言うなら、それ以上は聞かねえ。今日のことを丸ごと忘れとくことにするさ」

「……ありがとう」

 別に、こいつのためじゃない。これから、あのお得意様の仕事を請けながら、変わらず仕事をしてかなきゃならん、俺自身のためだ。

 ここでリザと出会ったこと、《歌姫》の秘密の一つを知ってしまったこと、リザの本当の歌声を聴いたこと。何もかもを、忘れてしまえばいい。俺には何一つ関係のない話なんだから、余計なもんを背負っている理由はない。

 ――きっと。

 未だもやもやする感情を断ち切るためにも、頭を強く掻いて、灰色の空を仰ぐ。

「っつあー、すっかり酔いも覚めちまったじゃねえか。飲みなおすしかねえなぁ」

「そうだな、たまには私もご相伴に預かるか」

「お前、酒は酔えないし味わえないし、金ももったいないって言ってなかったか」

「今はそれを忘れておきたい時なんだ。そういうこともあるだろ、隼」

 シスルは、ミラーシェード越しに俺を見つめてくる。一体、この分厚いレンズの下で、奴がどういう表情をしているのかはわからない。音色を読み取れば、感情の一端くらいはわかるかもしれないが、あえてそうしたいとも思わなかった。

 だから、視線を外して、リザの消えていった道の向こう、曇天に聳える《鳥の塔》を見上げて。

「ま、そういう日もあるわな」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る