絵本と手紙 / Major Seventh - Her Long Absence

 二三六七年十二月某日

 

 

 第四十六隔壁の門をくぐってすぐに、同行していた隊商と別れた。

 町の大通りをはずれ、細く曲がりくねった道を行き、集合住宅が落とす影が途切れた場所に、それはある。

『間もなく目的地に到着します』

 頭上のスピーカーから響く神楽の声に軽く返事をして、ハンドルを回す。

 狭い庭の奥に建つ、時代錯誤のおもちゃのような建物。門には、錆びた看板が取り付けられていて、よく見れば共通語と旧日本語で併記された、以下のような言葉が読みとれたはずだ。

 ――『蒲公英の庭』。

 だが、枯れた庭に蒲公英なんて咲いているわけがない。首都でも、生きた植物なんて塔や内周のプラントでしか見られないのだから、当然といえば当然なのだが。

 ならば、何故こんな名前なのか……初めて来た時にそう思ったことを、一拍遅れて思い出す。そして、どうでもいいと思って、思考から排除したことも。

 門の前に停まろうと、ゆっくりとブレーキを踏み込んだその時、門から一人のガキが顔を出した。薄汚れた服には似合わない、長く伸ばした真っ白な髪を、砂混じりの風に揺らして。

 ガキんちょは、俺の存在に気付いたのか、顔を上げて棒きれみたいな腕をぶんぶん振る。

 薄板の震える音が、この距離からでもはっきりと耳に届く。ノイズ、と言い切るにはあまりにも透明な、クラリネットの音色。

「隼!」

 極めて正しい発音で俺の名を呼んだそいつは、俺が車から降りるとすぐに駆け寄ってきて、きらきら輝く大きな瞳で見上げてきた。

「よう、春蘭。久しぶり」

 九条春蘭。それが、この白いガキの名前だ。

 白い肌に白い髪、菫色の瞳。常に薄暗く沈んだこの隔壁において、こいつはいつだって鮮やかだった。単純に色彩の問題というだけでなく……こいつが、常に晴れやかな笑顔を浮かべているからかもしれない。作ったものではなく、何かをごまかすためでもない、心が求めるままの笑顔。

 それが、俺には、どうにも眩しすぎる。

 思わず視線を逸らした俺の袖を引っ張って、春蘭は首を傾げる。

「姉ちゃんからの手紙、持ってきてくれた?」

「ああ。新しい本も預かってる」

「本当? それじゃ、先生に言ってくるね!」

 薄汚れたスカートの裾を翻して、長く伸ばした白い髪を左右に振って走っていく。

 それを見送って、助手席に置いておいた包みを取り上げる。

 茶色の紙で包まれたそれは、数冊の本を包んだもの……らしい。中身を見せてもらったわけではないから、それが実際に本であるかどうかは、開けてみなければわからない。

 それと、封筒が一つ。飾り気のない茶色の封筒に書かれた文字は、癖こそ強いが、読みとるのはたやすい。表面には共通語で「蒲公英の庭のみんなへ」、裏には「九条鈴蘭」という旧日本語での署名がある。

 九条鈴蘭。

 見慣れた名前だ。

 だが、俺は、その名を持つ女を知らないままでいる。こうして手紙を運んでいる、今ですら。

 

 

 『蒲公英の庭』は、どの隔壁にも一つはある、孤児院というやつだ。

 世話になったことがないから詳しいことはわからんが、孤児が奴隷同然の扱いを受ける、名ばかりの孤児院も数多いと聞く。だが、ここは、塔の庇護なんかほとんど届かない辺境中の辺境でありながら、手厚く子供たちを養っている、と俺は認識している。

 その証拠に、連中は貧しくはあったが、いつだって明るかった。その中でも、春蘭の天真爛漫っぷりは群を抜いていたが。

 院長に話を通して手紙を渡し、今回の絵本の中身を確認する。首都で仕入れたのだろう、真新しい絵本の表紙には『不思議の国のアリス』『人魚姫』『ピーターパン』の文字。どれもタイトルは知ってるが、ストーリーはろくに知らない。

 ただ、『人魚姫』の表紙に描かれた人魚の娘は、やたら美人だった。流れるような金髪に、青い瞳。隠されてこそいるが、整った形の胸に、魅惑的な腰のくびれ。これで足が人のものであれば、その爪先から腿へ指を滑らせて、それから――。

「いつも、本当にありがとうございます、藤見さん」

 その声に、俺の意識も架空の美女から現実に引き戻される。院長は、しわくちゃの顔をほころばせて俺を見ている。相当の婆さんに見えるが、本当に婆さんと呼んでいい年齢かどうかは判断できない。

 ともあれ、絵本に意識を奪われていたことを悟られないように、精一杯の営業スマイルを浮かべる。

「いえ。仕事ですからね」

「あの子は、元気にやっていますか?」

 あの子――俺が知らない、誰かさんのこと。知らない以上、その質問に正しく答えることは不可能だ。

 だから俺は、いつもそうしているように、笑顔と言葉でごまかす。

「ええ、是非、みんなの前で手紙を読んであげてください」

 そうですね、と微笑んだ院長は絵本と手紙を手に、子供たちの待つ広間に向かう。俺もそれに続いて部屋を出ようとして、ふと、棚の上に置かれた写真立てを見た。

 そこに映っているのは、おそらくこの孤児院にいる、もしくは「いた」子供たちだ。その中で、俺の目を引くのは一つの写真だ。色褪せて、輪郭もぼけた写真だったが、そこに映っている子供の顔は、かろうじて見て取れる。

 つぎを当てた薄いワンピースに、片目を覆う医療用の眼帯。短く切りそろえられた白い髪に白い肌、それに、明るく笑うその顔は春蘭とよく似ている。

 九条鈴蘭。名前の通り、春蘭の実の姉らしい。

 そいつが、首都――統治機関鳥の塔に向かって旅立ったのは、今から三年前の話だという。何故塔に招かれたのかは、孤児院の連中も詳しくは語らないし、俺も興味がないから深く聞いたことはない。

 以来、九条鈴蘭は《鳥の塔》から定期的に、蒲公英の庭へ送金を続けている。

 そして、ある時期から、俺に絵本と手紙を預けてもいる。ただし、代理人を通して。だから、俺は九条鈴蘭という女の名前も、顔も知ってはいるが、そいつを抱いたこともなければ、どんな音を奏でるかも知らないままでいる。

 別に、知らなくても、仕事には困らないのだが。

「先生、鈴蘭姉ちゃんから手紙来たんだろ?」

「わあ、綺麗な絵本!」

「こっちにも見せろよー!」

「姉ちゃん、何て書いてきてたの?」

 歓声を上げるガキどもの声が聞こえてくる。無意識に手に取ってしまっていた写真を棚の上に戻して、声の上がった広間に顔を出す。

 俺が手紙を運んだ日はいつもそうだが、ガキどもは汚れた顔に晴れやかな笑顔を浮かべて、困り顔の院長に群がっている。すると、春蘭が院長の手から手紙を取り上げて、高く掲げた。

「みんな、静かにー! 姉ちゃんからの手紙、読むよー!」

 春蘭の声は、吃驚するくらいよく通る。それに気圧されるように、あれだけ騒いでいたガキどもが各々の言葉を飲み込む。それを見渡して、満足そうに頷いた春蘭は、丁寧に畳まれた手紙を開いて、鈴の鳴るような声で読み始めた。

 

「蒲公英の庭のみんなへ

 

 みんな、元気にしてるかな?

 院長先生を困らせたりはしてないかな?

 この前の本は読んでくれたかな?

 今回も、わたしの好きな絵本を三冊選んでみました。まるで、物語の世界がすぐそこにあるような、素敵な絵がお気に入りです。みんなに、気に入ってもらえたら嬉しいです。

 前回の手紙から少し間が空いてしまったので、今、みんながどうしているのか、気になっています。出稼ぎに出た椿ちゃんからは、何か連絡があったでしょうか。椎くんの風邪は、よくなったのでしょうか。とても心配しています。

 わたしは、今の仕事にやっと慣れてきました。やっぱり、詳しいことを説明することはできないのですが、とてもやりがいのある仕事です。この前は、塔の研究員さんとお仕事をしましたが、この研究員さんが、春蘭と同じくらいの男の子でびっくりしました。首都では、色んな人が色んなお仕事をしていて、いつも驚きでいっぱいです。

 そうそう、最近は、空いた時間で本を読むこともできるようになってきました。次は、その中でも面白かった本を送りたいと思います。みんなにはちょっと難しいかもしれませんが、とてもわくわくする本です。楽しみにしていてくださいね。

 そちらも、色々大変なこともあると思いますが、絶対に諦めないでください。もし、辛いことがあっても、いつもの歌を歌って、笑顔を忘れないでください。どうしても耐え切れないときは思いっきり泣いて、疲れて眠って、それから新しい一日を始めるのが一番です。わたしも、遠くから応援しています。わたしのお仕事が、少しでもみんなの生活の助けになればいいなって、心から願っています。

 それでは、今回はこの辺で。みんなからのお返事、待ってます。

 あと、いつもお世話になっている隼さんへのお礼は忘れないでね。

 

 九条鈴蘭」

 

 ……何故だろう。

 感想をお互いに語り合うガキどもを見ながら、胸に浮かんだ違和感の理由を考える。

 だが、俺は九条鈴蘭を知っているわけじゃない。今までも、何度か手紙の内容を聞かされはしたが、今回同様、大した内容じゃない。

 気のせいか、と思いたかったが、ふと目を上げれば、春蘭がじっと手紙を見据えている。視線で穴を開けようとしているのか、紙の奥に隠れている何かを探し当てる気なのか、とにかく真剣に手紙を睨んでいる。

「どうした、春蘭」

「これ、姉ちゃんの手紙なのかな?」

「はあ?」

 思わず、素っ頓狂な声を上げてしまった。だが、それは春蘭が見当違いのことを言ったからじゃない――俺も、その可能性を疑っていたからだ。

「でも、字も、書いてることも姉ちゃんなんだよなあ……うーん、何で、変だなって思ったんだろ」

 春蘭は、俺の反応を気にした様子もなく、首を傾げている。さらり、と絹糸のような髪が肩から流れ落ちるのを自然と目で追いながら、つい、話を逸らす。

「そういや、いつもの歌ってなんだ?」

 すると、春蘭が、手紙から目を上げないまま答えた。

「姉ちゃんが好きだった歌。『私のお気に入り』」

 旧時代のミュージカル映画、『サウンド・オブ・ミュージック』に使われていた歌のタイトルだ。あの独特のメロディ・ラインは嫌いじゃない。ただ、実のことをいえば、どんな歌詞なのかは全く知らない。

 春蘭は、俺が何も言わないうちから、歌を口ずさみ始めた。耳慣れたメロディに乗せられていたのは、あまりに他愛の無い言葉ばかりだった。

 子猫の髭、やわらかな手袋、きらきら光る薬缶。

 ――それもこれも、みんな、『私のお気に入り』。

 いつの間にか、ガキどもが春蘭の声に合わせて合唱を始めていた。ガキどもの声は、全くといっていいほど音程が合っていない、騒音とも言うべき音の重なりだった。だが、決して、不快ではない。

 普段から俺の頭を埋め尽くしているノイズに比べれば、ずっといい。

 ガキどもの歌は、『私のお気に入り』から自然と『ドレミの歌』へと続いていく。これも同じ『サウンド・オブ・ミュージック』の中の一曲だったはずだ。

 わいわい歌うガキどもを見渡して、春蘭はにっと歯を見せて笑う。

「映画では、怖い思いをしている時には、好きなこと、楽しいことを思い浮かべるのがいいんだ、って家庭教師の主人公が子供たちに向けて歌うんだよ」

「……そういう話だったのか。さっぱり知らんかった」

「姉ちゃんが教えてくれたんだけどね」

「お前の姉貴は、映画、見たことあったのか?」

「なかったと思うよ。多分、本で読んだんじゃないかな」

 本当に、九条鈴蘭って女は本が好きだったらしい。それとも、現在進行形で好き、と言うべきなのだろうか。

 本と歌を愛する一人の女の姿を、一枚の写真をベースに頭の中に思い描こうとするけれど、どうにも上手く形になってくれない。白い髪、目を覆う眼帯、棒切れのような手足。いなくなったのが数年前なのだから、いい女になっていてよさそうなもんだが、俺の中でそいつは常にもやもやとした、人の形すら怪しい「なにか」でしかない。

 そんな下らないことを考えていると、手紙を握り締めた春蘭が、既に歌の体を為していない大騒ぎを初めてしまったガキどもに向けて、大声を張り上げる。

「ほら、みんな、隼にお礼!」

 春蘭の声に導かれ、ガキどもが一斉に俺に頭を下げる。

「ありがとうございました!」

 声は微妙に揃ってないが、それが「心のこもった」礼であることは、声と共に響いてくる音色からも、わかる。だからガキは苦手なんだ、どこまでも真っ直ぐすぎて、俺の感情をどう逃がしていいかわからなくなる。

「ふふ、みんな、春蘭には敵いませんね」

 気づけばすぐ側にいた院長が、穏やかに微笑みながら、そっと俺に一つの封筒を差し出す。ぱんぱんになった封筒の表には、下手くそな文字で九条鈴蘭の名前が書いてある。多分、ガキの一人が書いたんだろう。

「みんなのお手紙を、鈴蘭に届けてあげてください。後で、私からのお返事もお渡しします」

「はい、確かに受け取りました」

 封筒を受け取ると、春蘭が突然割って入ってきた。菫色の瞳はきっとつりあがり、鏡のように俺の顔を映しこんでいる。そう、俺の顔から、嘘やらごまかしやらを、全部剥ぎ取ろうとするかのごとく。

「絶対に、絶対に渡してね!」

「ああ、わかってるって」

 そっと、分厚い封筒に手を添えて笑う。

 絶対なんてどこにもないんだ、そんな思いは胸の奥に閉じ込めたまま、笑う。こんなガキに見破られるほど、俺だって浅はかじゃない。

 そして俺はいつも通りにこの手紙を持ち帰り、また、絵本と手紙を運ぶのだ。

 持ち帰った手紙が、九条鈴蘭に渡されるかも、わからないまま。

 俺の運ぶ手紙が、九条鈴蘭本人からの手紙かも、わからないまま。

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