造花 - The Five Black Keys 2
二三六八年十二月某日
女と一夜を過ごす時、俺の中には、いくつかのルールがある。
女の名前を聞かないのはその一つ。一度抱いた女を二度と抱かないのも、その一つ。
俺にとって、女とは自分自身では上手く御しきれない欲望を、一時的にでも処理するための道具だ。故に、情を抱くほどの関係を作る気は、ない。
「アンタは、一人の女を恋うることはないのか?」
ある日、ハゲでグラサンの誰かさんの問いに、俺は確か、こう答えたのだった。
「俺は、一つ所に立ち止まったら死んじまうもんでな」
もちろん、大嘘だ。どこぞの誰かさんも、俺の答えに苦笑するだけで、本気にはしていなかったと思う。
ただ、多少は、真実を含んでもいる。俺には、誰か特定の一人を「特別」に思う能力が、とことん欠けている――一応、その自覚はある。いつからそうなってしまったのかは、俺自身、よくわかってはいない。最初からそうだったのかもしれない、とは思うけれど。
そんな、下らない思考を頭の隅に追いやって、名も知らない女の肩を抱き寄せる。仄暗い、小さなランプの光だけが揺らめく部屋で、女は生白い腕を俺の肩にかけて、深い、口づけを寄越してくる。熱い呼吸、舌に伝わる甘さを、心行くまで味わう。
それから、顔を離した女の顔を、改めて見やった。決して美女というわけではないが、長い睫に縁取られた黒目がちの目と、目尻の黒子が蠱惑的だ。それに、何よりも、触れた肌の温度と弾力が俺の好みだった。
その温度を確かめるために、もう一度、女の体を強く抱きしめる。湿った肌を重ね合わせていると、接触している場所から一つに交じり合って、お互いの体温を共有しているような錯覚を抱く。
だが、俺とこの女とは決して一体にはなれない。
俺の耳に届く不愉快なノイズが晴れない限りは、絶対に。
それでも、せめて今この瞬間だけは、耳に響く雑音を忘れようと、名前も知らない女の体を貪る。行為に没頭し、内側に溜まっていた欲望をぶちまけるまでの間だけは、俺の世界を取り巻く不愉快な音色も、忘れていられるから。
不毛だな、と。脳裏で誰かさんが囁く。
不毛で結構。どうせ、俺が蒔いた種から生えるもんなんて、ろくなもんじゃあねえ。なら、不毛な方がよっぽどマシだ。
……そういう意味じゃねえってのも、わかっちゃいるが。
「ねえ」
そっと、耳元に囁かれた声は、微かに枯れていた。鼓膜を震わす音色も、かさかさと軽くて薄いものが触れ合う音。
「一つ、あなたにお願いをしたいの」
「お願い?」
「そう」
俺は払った金に応じた仕事を求めているだけで、買った女に「お願い」をされる立場ではない。そう言うと、女は「その通りね」とあっさり認めながらも、囁きを続ける。
「虫のいいことを言っているのはわかってる。もちろん、叶えてくれなくてもいい、ただ、聞いてくれるだけでいいの。駄目かしら」
「まあ、聞くだけなら」
「ありがとう」
女は礼とともに、今度は触れるだけのキスを寄越した。
そして――。
ある娼婦が死体で発見された。そんなニュースを聞いたのは、あの女を抱いた翌日の夕刻、愛車の中でのことだった。ボリュームを上げますか、という神楽の問いに、俺はぼんやりと頷いて、流れてくるノイズ交じりの声に耳を傾けた。
外周の暴力組織の一員だったとか、その組織を裏切って、敵対組織に情報を流していただとか、色々と言われていたような気もするが、俺の頭にあったのは、あの女の黒目がちの目と、目元の泣き黒子だけだった。
俺は死体を見ていないから、それが昨夜抱いた女であるという確証があったわけではない。ただ、あの女が囁いた言葉を信じるならば、既に生きてはいないはずだ。
だから、きっと、死んだのはあの女なのだろう――そんなことを思いながら、琥珀色の液体を煽る。仕事帰りの馴染みの酒場は、今日も変わらず騒がしいが、俺が陣取ったカウンターの端は、その中ではまだ静かな方だ。
そこに、不意に、一つの音が生まれる。
ただ、決して不愉快な音ではない。少しだけ上ずったC、深い呼吸に導かれた二枚のリードが奏でる、柔らかな音色。それが聞き慣れた音であることを確かめて、酒のグラスから視線を逸らさぬままに声をかける。
「よう、シスル。お前も仕事帰りか」
「ああ。マスター、水を一杯もらっていいかな」
ハゲでグラサンの『何でも屋』シスルは、いつも通りに冷やかしみたいな注文をして、断りもなく俺の横に座った。
「俺の隣は、美女しか許してねえんだが」
「それで、実際に美女が座っていたところは見たことがないんだが」
「うるせ」
奏でる音はともかく、いちいち一言多いという意味で煩いハゲは、俺の手元に置かれていたそれに気づいたのだろう。横目に見えた表情こそ無表情のままだったが、微かに、響く音色が変わった。
「花なんて珍しいな、隼。女にでも贈るのか」
「いや、逆だ。贈られたんだよ。昨日抱いた女にな」
俺は、昨日の女から「お願い」されて受け取った、一つの造花を指でつつく。女の豊かな黒髪を飾っていた、ちいさな薄青の花。
シスルは小さく鼻を鳴らし、呆れたような声を上げる。
「一夜の女からの贈り物は、受け取らない主義じゃなかったのか」
「そうだな。どうかしてるとは思う」
気まぐれ、と言ってしまえばそれまでだ。ただ、俺らしくもない気まぐれではある。自分でそう思うんだから、間違いない。
そんな俺を、一体どう思ったのかは知らない。ただ、明らかに「気に食わない」という気配と音色を漂わせながら、シスルが淡々と言った。
「その花の名前を知ってるか、隼」
「いや、知らんな」
「勿忘草、だ」
――私を忘れないで。
私は明日、殺される。それだけを言った女が寄越してきた、ちいさな花。飾ってもいい、捨ててもいい、ただ、今この瞬間に、受け取るだけ受け取って欲しいのだ、と。
そう言った女の心中など、俺は知らない。
知らない、けれど。
「重いな」
「だろうな」
きっと、この花を渡す相手は、誰でもよかったんだろう。偶然、最後にあの女を抱いた男が俺だっただけの話。それでも、この青い花を「重い」と思わずにはいられない。私を忘れないで。まるで呪詛じゃないか。
どうするんだ、と。シスルはからかうように問うてきた。ただ、俺の答えは、最初から決まっていた。その花の名前を聞くまでもなく。
「きっと、すぐに失くす。それで忘れる」
「アンタのその無責任さは、嫌いじゃない」
シスルはふっと息をついて、それから俺の手元から、花を取り上げた。シスルの、革手袋に覆われた指先が、茎を摘んで青い花をくるりと回す。
「それでも、受け取った以上は、覚えておける限りは覚えておいてやれよ。別に、それ以上は望まれてないんだろう」
「……まあ、そりゃそうだが」
死んだ女が、生きている俺に対して何の影響を及ぼすわけでもない。なら、意識して忘れることもないだろう、とは思う。無論、意識して覚えておこうとも、思わないが。
「私も忘れられそうにはないがな。死にゆく女の空っぽの笑顔は、どんな時も、脳裏に焼きついて離れないもんだ」
一瞬、聞き流しかけたが、すぐに我に返ってシスルを見やる。シスルは、青い花をくるくる回しながら、青ざめた横顔で呟いた。
「全く、嫌な仕事だよ」
「そうか、お前があの女を?」
シスルは、俺の問いに答える代わりに溜息をつく。
「だから、殺しの仕事は嫌いなんだ」
微かに歪めた唇に、つくりものの青い花を寄せて。
「記憶の始末が、面倒だからな」
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