幕間 ペギランの1日

 ペギランは幸せだった。


 早朝の日課である剣の素振りを終え、盛り上がった上腕で額の汗をぬぐう。


 7年間、1日たりとも欠かさなかっただけあって、ひょろひょろだった体躯も今では堂々としたものである。──もっとも、気弱な性格は当時から変わっていないが。


 子供の時分、家に大人しかいなかったせいで、ずっと弟か妹がほしいと思っていた。弟か妹がいたら、いっぱい世話を焼いてやるし、鼻を垂らしていたら拭いてやるし、近くの森になる木苺のありかも教えてやる。何か粗相をしたら、代わりに祖母に怒られてやってもいい。


「そういえば、釣鐘草カンパニュラが綺麗な花をつけていましたっけ」

 ペギランは誰かの世話を焼くことが好きだ。そのためか、城の花壇の手入れはいつの間にやらペギランの担当になっている。


 礼拝用の花を摘みながら、ペギランは今も戦支度に奔走しているであろう王のことを思う。


 敬愛する国王が目覚め、しかも、以前は自分とほぼ変わらない背丈だったのに、今では自分よりだいぶ小さくなってしまった。

 王のほうが何倍も年上だとは分かっているのだが──、王の世話を焼き放題という今の状況はペギランにとって理想的と言えた。王が目覚めてからというもの、始終ついて回っては、食べこぼしを拭いたり、汗をぬぐったり、いろいろ手を出しては王に怒鳴られている。


 ペギランには、100年もの間沈黙を守り続けていたダンセイニがいきなり襲ってくるとは、どうしても思えない。しかし、王が決めたことであるなら、ペギランは何を差し置いても、王のために働こうと思うのだった。


「水やりさま。今日のお花を持ってまいりました」

 可憐な花をつけた釣鐘草カンパニュラを数本つんで、王城の奥にある礼拝堂に入った。


 サングリアルの国教でもある聖輪教せいりんきょうは千年ほど前に唯一の神と契約を結んだという聖女・クロリスが興したとされる。この辺境の島国にも司教座を置くほどのその勢力は、千年もの間、揺らいだことはない。


「おぉ、これはペギランどの。ありがとうございます。──少し早いが、“神の血”を分けて差し上げましょう。なに、構うことはありません。最近はお忙しいようで、なかなか礼拝にいらっしゃいませんからな」


 色黒で、白髪頭の司祭が相好を崩した。

“神の血”とは黄金こがね色の蜂蜜酒イドロメルであり、礼拝の最後に、訪れた民に振る舞われるものだ。古くは蜂蜜そのものを分けていたというが、ここサングリアルでは蜂蜜酒のほうが一般的である。


「のどかですねぇ。これも、陛下のなさった停戦条約のおかげです」


 自分の主君が今の平和の礎を作ったのだと思うと、何やら誇らしい気持ちがする。


 老司祭の後ろでは、色つき硝子ガラスを接いでクロリスを描いたヴィトローが、外からの光を受けて、聖女の幻想的な姿を屋内に投じていた。

 入り口近くでは、代書屋だいしょやが悩める青年の代わりに恋文を書いている。

 隅のほうの席ではそのかんばせの深くしわびた老婆たちが刺繍をしながらおしゃべりをし、その足元を幼子たちが駆け回っている。


 だが──、


 うっとりその様子を眺めていると、老婆たちの間から重苦しいため息が漏れ聞こえた。幼子たちは何か異様なものでも見るように、老婆たちを見上げる。


 老司祭がかぶりをふって、ペギランに声をかけた。


「ペギラン殿も聞いたことがあるでしょう。この国では誰しもが“サングリアルは王の眠りによって守られん”と言い聞かされて育ちます。──では、王が目覚めたら、この国はどうなってしまうのかと、不安に思っているものもおるようですが……」


「そ、それは、単なる言い伝えではありませんか! 実際には、陛下のなさった停戦協定のおかげで平和が保たれていたのであって……」


「では、国王が騎士を集めているという噂は本当なのでしょうか。野蛮な男たちが王都に集まっていると、民は不安に思っています」


「それは……、万が一のためでも、民を守るのが王家の使命ですから」


 すると、老司祭は神妙な顔で一つ咳払いをする。

「──良いですか、ペギランどの。人々が争いをやめぬのを哀れとおぼしめし、神はクロリスを地上におつかわしになりました。しかし、そのせいで神はクロリスの体を通して死という穢れを経験なされたのです。我々は神の無限の愛に、報いねばならぬのですよ」


 強い調子で言われ、ペギランは口ごもる。

「むっ、むろん、争いなど、起こってほしくはありませんが……」


 その時、礼拝堂の奥の暗がりで祈りを捧げていた騎士が立ち上がった。


「水やりさま。無限の愛とおっしゃいますが、では、神はいくさをする人間を愛してはくれないのでしょうか?」


「ルイさま。いらっしゃったんですか」


 黙々と聖女に祈りを捧げていたのは、王国の要たる侍従卿じじゅうきょう、ルイであった。

 薄暗がりの室内で、ルイの白い肌は一層白く、自ら光を放っているようにも見える。ヴィトローの色つき硝子ガラスを通した極彩色の光線は、ルイの肌で反射し、まるで天上の絵画のようだ。


 話をさえぎられて、老司祭はいささか怯んだようだったが、笑みを崩さずに答えた。

「無論、野蛮な国王陛下でも神は愛してくださいます。しかし、神は戦を好みません。平和を愛し、心の種に愛を蓄えた者のみが、死後、永久に神の愛に浴す慶人フロリモンとして──」


「それでは、先ほどの無限の愛という言葉と矛盾します。無限はいくら分割しても無限でしょう。どちらか一方に偏りがあってはおかしい」


 老司祭に最後まで言わせず、ルイが口を挟む。

 途端、老司祭が激高した。

「あ、あなたは聖輪教の教えに疑義を挟むおつもりですか?!」


「いえ。ですが、最近、水やりさまが、国王の施政を糾弾するような説教をなさっているという話を聞いたものですから。──そうそう、ところで、水やりさまはこの礼拝堂に赴任してまだ半年ほどですが、以前いた尼僧を追い出して後釜についたというウワサは本当でしょうか?」


「失敬な! あの尼僧は神への信仰が足りなかったのです。ですから、罰を受け──」


 老司祭は「あ……」と言葉をつまらせた。

 これではルイに指摘されたように、無限の愛という言葉を、司祭自ら否定しているも同じだったからである。


 と、老司祭が言葉を失い、目を泳がせていると、薄暗い堂内に明るく朗らかな声が響いた。


「おい、ここにペギランはいるか? 騎士の訓練で貸し出す、鎧のことなんだが」

 礼拝堂の入り口に小さな影が差し、ひょこっと少年王が顔を出す。


「は! こちらにおります! 陛下!」

 敬愛する主の声に、ペギランはすぐさま応じた。


「いたな、ペギラン。──なんだ、ルイもいたのか。2人とも、話があるんだ」

 悔しげに顔を歪める司祭に「失礼」と短く告げ、ルイは礼拝堂を出る。


 ペギランはしばし逡巡していたが──、さっさと立ち去る王を見て、司祭に一礼し、王のあとを追って飛び出した。

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