第4話〔3〕栽培種は孤独

 

 

 

 

 

 ブティックが立ち並ぶ中にあって、あまり目立たぬ店構えの薬屋の前を通りかかった時、中から出てきた女性に声をかけられた。

 

 

薬屋「あら、ニアちゃんじゃないの。

ルナちゃんも、今日はお休み?」

 

 

 ふっくらとした体型の、垂れ耳犬の頭をした亜人の婦人。

 

この街に一軒しかない、亜人専用の薬を売る薬屋の店主であった。

 

 

ニア「奥様、いつもお世話になっております」

 

 

ルナ「おりますにゃ♪」

 

 

薬屋「まぁま、その子もメイドさんなのかしら。

かわいらしいわねぇ~」

 

 

 彼女がルナと手をつないでいたモモを見つけて話しかけると、モモは最近いつもそうしているように前に両手を重ねて深々とおじぎをした。

 

 

モモ「こ……こんにちわ」

 

 

薬屋「はいっ、こんにちは」

 

 

 子どもらしい所作しょさであいさつをしたモモに、小腰をかがめて笑顔を返す婦人。

 

 

薬屋「そうそうニアちゃん、亜人リウマチの良い薬が手に入ったの。

アステル様によろしく言っといておくれ」

 

 

ニア「かしこまりました。

ちょうど常備用の残りも少なくなっていたところでございます。

ご主人様もきっとお喜びになるでしょう」

 

 

 どこかへ出かける様子だったので、ニアは二言三言だけ言葉を交わして婦人と別れた。

 

 

薬屋「じゃあ、またね」

 

 

 この後も道すがら、何人かの顔見知りに声をかけられては、小さな見習いメイドを紹介するといった場面に出くわすこととなった。

 

 メルヴィル家出身のメイドは、この街にも多くいる。

 

彼女らを知る者は、さらに多くいる。

 

それゆえにエプロンドレスを身につけずとも、ニアが道を歩けばつじつじこうして話しかけられるのだった。

 

 そうこうしているうちに3人は、今日の目的地であるマーガレット宝石店へとたどり着いた。

 

 

ルナ「にゃ~、コレ、きれい!」

 

 

 店主から品物を受け取る間、店内を見て回ることにしたのだが、ショウケースをながめてルナが感嘆の鳴き声を上げたので、店員や他の客がのらネコが侵入してきたのではないかと不思議そうに辺りをきょろきょろしていた。

 

 ニアが注文の品が入った紙袋をさげて2人のもとへもどると、食い入るように宝飾品の数々をながめ回すルナと、そのルナをじっとながめるモモの姿があった。

 

見上げる幼子の、真っ赤な瞳の視線の先をたどってみれば、ネコの亜人の頭やお尻にたどり着く。

 

ぴくぴくと三方を向くネコの耳と、くねくねとうねるネコの尻尾にどうやら興味がわいたらしい。

 

 

ルナ「……んにゅ?」

 

 

 ルナは最初ニアの顔を見、そしてモモからの熱い視線に気付いた。

 

 

ルナ「モモ、どうしたのかにゃ?」

 

 

モモ「ルナはどうして、みみがネコなの?」

 

 

ルナ「にゃっ……!?」

 

 

モモ「あと、しっぽも……」

 

 

ルナ「にゃにゃっ……!?」

 

 

 年端としはも行かぬ少女から無邪気な問いかけを投げかけられて、ルナはネコのようににぎった手でガードをするようなしぐさでたじろぐ。

 

なるほど、10才ともなると、そんな疑問もいだきたくなる年頃だ。

 

 悪気がないのは分かりきっていたが、ニアはいらぬ誤解が生まれぬうちに、少女の疑問を解消しておくのが得策と考えた。

 

 

ニア「ネコの耳は、ダメなの?」

 

 

モモ「ちがう、そうじゃなくって……。

ルナのみみ、かわいいから、どうやったら生えるのかなって……ぼく」

 

 

ニア「……ああ、そうね、確かにかわいいわね。

でも、ああ、モモには生えてこないのよ、残念ながら……」

 

 

 子どもの発想には、いつも驚かされる。

 

モモの質問にニアはそつの無げな答えを返しておくが、幼子のがっかりした様子を見ると、その自信はない。

 

 

ルナ「触ってみるかにゃ?」

 

 

 ルナがお尻をつき出して言うと、モモはにわかに目を見張って、その尻尾の先端を両手ではっしと捕まえた。

 

 

モモ「……ふわふわ」

 

 

 表情からは読み取りがたかったが、幼子は明らかに好奇心で胸をいっぱいにしてネコの亜人の尻尾をにぎにぎしていた。

 

 

モモ「どうして、ルナはネコになったの?」

 

 

ルナ「ん~ゅ、アタシは生まれた時からネコだったにゃ。

でも、どうしてネコの亜人が生まれたのかは知らないのにゃ……」

 

 

ニア「どうして亜人が生まれたのか、についてだったら、わたくしが教えてあげられるわよ」

 

 

 ちょうど良い機会かもしれない、とニアは思った。

 

幼さと無知ゆえの好奇心も、時として災いのもととなり得る。

 

それに、見習いメイドの手本やあるいは教師役となるように、と、あるじからも特別に命じられていたことでもあったのだ。

 

今日の目的も果たしたわけであるし、亜人についてはじっくり話して聞かせるべきと、ニアは結論づけた。

 

 マーガレット宝石店をあとにし、どこか授業を行うのに適当な場所はないかと道を探して歩き出す。

 

しばらく行くと、都合のよい店が見つかった。

 

 

店主「おや?

メイド様じゃありませんかい」

 

 

 大橋の手前の、河ぞいにあるオオカミベーカリー&カフェ。

 

さしかかるとさっそく、白いエプロンとコック帽をかぶったオオカミ頭の店主がこちらへ声をかけてきた。

 

 

ニア「ごきげんよう、店主様」

 

 

店主「いやぁ、メイド服じゃなかったもんで、見違えましたよ。

寄って行きますかい?

お昼時もだいぶ過ぎたんで、お安くしときますよ」

 

 

ルナ「にゃあ、おいしそうなにおいだにゃ♪」

 

 

 確かに空腹で、素通りをする理由などもなかったので、3人は半ば吸いこまれるようにして入店していった。

 

 

店主「おや、妹さんかい?」

 

 

ルナ「この子は見習いメイドにゃ。

モモっていうにゃ~♪」

 

 

店主「へぇ、新人さんかい。

こりゃ、かわいいねぇ」

 

 

 モモに関して言えば、彼女がこの店に立ち寄るのは今日が初めてではなかったが、それは城主から口外禁止令が出されている事がら。

 

ルナも店主も、少女がかつて少年の姿で店先に現れていたという事実は知らないはずだ。

 

当の本人はというと、追及されることを恐れてでもいるのだろうか、不安げな顔でだんまりを決め込んでいるらしかった。

 

 テラス席のひとつを3人で陣取って、垂れウサギ耳の女性店員に注文を伝えておく。

 

食事時も治まって人通りは少なく、店内のほうのテーブルも何か獣人らしき客が2人のみ座っているという状況だった。

 

 

ルナ「それで、ニアはアステルサマとどうやって知り合ったのにゃ?」

 

 

ニア「なぁに?

急にそんなこと……」

 

 

 着席して最初の話題は、多感な年頃の女の子らしいストレートな質問だった。

 

 

ルナ「だって、ずっとアステルサマの側仕えをしてるにゃん。

やっぱりお友達の紹介でお城に来たのかにゃ?」

 

 

ニア「う~ん、そのことを話すには、まず亜人の起源から説明する必要があるわよ?」

 

 

ルナ「ぅにゅう?

どーゆーコト?」

 

 

ニア「まあ、お聞きなさい」

 

 

 注文した皿を待つのにもちょうど良い。

 

ニアは話の流れを利用して、特別授業を始めてみようともくろんだ。

 

 

ニア「亜人の起源は、古代流砂国りゅうさこくにあると、その国の遺跡から発見された壁画によって解明されたのよ」

 

 

 そうして彼女は語り聞かせた。

 

 亜人が生まれた、古代の話を。

 

 

ニア「人は初め、神様を創り出そうとしたの……」

 

 

 今からおよそ5000年前、大帝皇国より海を越えてはるか南にある大陸の、流砂の国。

 

年中照りつける太陽と広大な砂漠を有するその国は、長年続く日照りと凶作によって滅びの危機に瀕していた。

 

 ある時、のちに“西来せいらいの三学者”と呼ばれることになる3人の学者が、国王のもとを訪れた。

 

古代流砂国があったとされる地の遺跡に、彼らが描かれた壁画が残されてもいる。

 

 始めに、神学者しんがくしゃが言った。

 

“神は自らの一部一部をかてとして、

地上に生命を創造せしめた”

 

 次に、数学者が言った。

 

今日こんにち、人と獣が持つ手や足、目や耳、その他もろもろの数が等しくあるのは、人と獣がかつて等しい者であった証である”

 

 最後に、哲学者が言った。

 

“もしや、人と獣の相半あいなかばする者が現れたとすれば、それは神になれずとも、神に近しい存在になりるであろう”

 

 それらの言葉を聞いた当時の国王は、その年からさっそく人と獣をかけ合わせた亜人を生み出す研究を始めることにした。

 

すなわち、無理交配による新たな生物の創造。

 

 その結果、偶然にも犬の頭をした赤子が人の母から生まれ出たのだ。

 

これが、人類史上初の亜人の誕生だった。

 

 果たしてどのような技を用いてそれを成したのかは今、伝わっていないが、とにかく最初の亜人はアヌビス神ということになっている。

 

神のいたずらか、あるいは本当に神に近しい存在の力によるものなのか、驚くことにアヌビスが生まれた年から恵みの雨が降り始め、作物がよく育ち、国じゅうがうるおうようになったのだ。

 

 一国を救った彼の話は近隣諸国にもたちまち伝播でんぱし、大陸じゅうで亜人に関する研究が盛んになっていった。

 

あらゆる国と地域で、あらゆる種類の亜人が作り出されていったのだ。

 

 5000年の間に亜人が人間社会に溶けこみ、彼らが生まれたいきさつも、もはや忘れ去られようとしていた今、他方では新たな問題が浮上する。

 

複雑高度化してゆく社会の中で、亜人と亜人でない者との間に対立が生まれるようになった。

 

亜人の存在意義に疑問を唱え、けがれとして排除すべきという考えを持った人間が現れたのだった。

 

 彼らは自らを、“純血派”と呼んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ペテュニアは次第に怖れをいだくようになっていった。

 

自分が殺した男の息子を誘拐し、あまつさえその子の側仕えとしてストリンガー伯爵邸でメイドの仕事を続けさせられたのだから。

 

 予想だにしなかったことに、アステルは極めて聞き分けが良い。

 

両親のもとへ帰りたいとだだをこねる様子もなければ、突然すり替わった生活環境に疑問のひとつも口にしなかった。

 

まるで自分が、とらわれの身であることを自覚しきっているような、あきらめにも似たいさぎよさが感じられた。

 

 彼の姿を見るにつけ、彼をだまし続ける罪の重さにペテュニアは押しつぶされそうになるのだった。

 

かと言って、手を引きたいと談判しに行った師父には“今さら怖じ気づいたのか”とまでなじられ、この城に半ばアステルとともに閉じこめられてしまった状態だ。

 

彼女にとっては、全く八方ふさがりだった。

 

 そうしてひと月が過ぎた頃。

 

3日降り続いた雪が、山野さんやを白く染め上げた日の夜に、ペテュニアはそれまで全く顔を見せなくなっていたパキラ・ストリンガーに突然呼びつけられたのだった。

 

 

ペテュニア「失礼いたします。

だんな様、ご用でございましょうか」

 

 

パキラ「ふふ、使用人の仕事が板についてきたようだな……」

 

 

 彼の居室へおもむき、ドアをノックするところから一連の手順を経て入室すると、大きな腹をつき出したスーツ姿の伯爵がこちらをながめて吐き捨てた。

 

久しくまみえる依頼主のかんばせは、前にも増して余裕のない表情だ。

 

 部屋の中央で後ろ手に立っていた伯爵からの当てこすりに、こちらが何の反応も返さずにいると、彼はにわかに不機嫌そうに顔をひずめた。

 

横目でにらんできて、彼が言う。

 

 

パキラ「……つい最近、メルヴィル城の城主が、殺されたことを知った」

 

 

ペテュニア「…………」

 

 

 来た。

 

 予期してはいたが、あの夜の失態も、とうとう彼の知るところとなったのだ。

 

その声はおだやかだったが、押し殺した険しさは隠しきれていなかった。

 

 

パキラ「……お前が、やったのか」

 

 

ペテュニア「……はい」

 

 

 うなずくと、伯爵の顔色が一変する。

 

 

パキラ「なぜだ!

なぜ殺す必要があった……!

腕は確かだと言ったのは、お前の師だぞ!

子ども一人を連れ出すだけのことに、なぜ死人が出るのだ!」

 

 

ペテュニア「あなたがやとったのは人さらいではなく、アサシンよ。

それに、手段を問わないと言ったのは、あなた自身だった。

とがめられる筋合いはないわ」

 

 

 急に激して居丈高いたけだかになるパキラに、ペテュニアはうんざりとして言い返した。

 

こちらの放った正論に、わなわなと怒りに身を震わせたパキラだったが、しょせんは初老の貴族。

 

何か事を構える算段でもあったのだろうが、殺しの専門家に対抗するすべがないとみると、うなるような大息を吐き出してからあきらめて向こうを向いた。

 

 平静を取りもどす間を置いて、彼は再び口を開いた。

 

 

パキラ「ところで、亜人といつわってあの城にもぐり込んでいたそうだな……」

 

 

ペテュニア「いつわってなどおりません。

正真正銘、わたくしは巨人族のワンエイス、亜人の血を引く者です」

 

 

パキラ「…………」

 

 

 こちらを振り向いて、彼が疑問と驚きの入り混じったまなざしをよこす。

 

 

パキラ「ああ、なるほど、そうか……

巨人族ジャイアント”か……」

 

 

 言いつつペテュニアを確かめるようにながめ回して、身構えたまま近付いてくる。

 

 

パキラ「たしかに……言われてみれば、

亜人の雰囲気が感じられる……なっ!」

 

 

【ズン……ッ!】

 

 

ペテュニア「ハッ……!」

 

 

 油断していた。

 

完全に相手を甘く見ていた。

 

 彼の手にナイフがにぎられていたことを、彼女は気付けなかったのだ。

 

左横腹に衝撃が走り、初めて刺されたのだと知った。

 

 とっさに伯爵の手首をつかみかかって、これ以上刃が体内に侵入しないように踏んばる。

 

意識が痛みに追いつき、刺された所から不気味な感覚が広がってゆく。

 

 

ペテュニア「くゅうぅぅ……」

 

 

 食いしばった歯から、情けもないうめき声がもれる。

 

致命傷を許したのは、かつて無かったことだ。

 

憤慨と動揺で、そこからの対処法が頭の中からすっかり飛んでしまった。

 

 

パキラ「お前が殺したのは、私の息子だった。

亜人ではなく、人間の……!」

 

 

ペテュニア「アアッッ!!」

 

 

 必死でもがいて、鼻先にある相手の顔面をめがけ、掌底しょうてい打ちをたたき込む。

 

【パァン!】

 

 

パキラ「がっ……!!」

 

 

 長身長腕ちょうしんちょうわんからの攻撃とはいえ、女の腕では鼻頭に衝撃を与えて相手をひるませるのが精いっぱいだ。

 

ただしそれでも、体勢を整えるくらいの時間は稼げる。

 

 よろめいた伯爵からすばやく飛びすさって、右手で引き抜いた血染めのナイフを左手に持ち変えた上で、右手で傷口を押さえつけた。

 

 

ペテュニア「ハッ……ハッ……ァ、ハッ……くっ」

 

 

 足に力が入らず、がくりと両ひざをつく。

 

呼吸がおかしい。

 

肺に穴が開いてしまったか。

 

 

ペテュニア「こォ……こんなことをして、師父がだまっては……いないわ!」

 

 

パキラ「師父……?

ふっ……ふはははは」

 

 

 鼻を押さえつつうずくまって、不快な笑い声を上げる伯爵。

 

ひじ掛けイスのひじ掛けに半身でもたれかかると、彼はこちらをにたりとにらんだ。

 

 

パキラ「のだ、この私に。

100万フラウでな!」

 

 

ペテュニア「!?」

 

 

パキラ「ははは、弟子の代わりならたくさんいると言って、喜んで金を受け取っていったぞ。

今なら私は、お前をどのようにもできるというわけだ……。

例えば、息子を殺された恨みをお前の命で晴らすこともな……!」

 

 

ペテュニア(師父が…………?)

 

 

 頭が真っ白になる。

 

それこそでまかせだと信じたかったが、最近の師父の態度を思い合わせてみれば、うまく言い返すこともできなかった。

 

 激痛のあまり、意識を取り落としてしまいそうになる。

 

 

ペテュニア「……よまいごとを。

師父がわたしを売るわけがない……!」

 

 

パキラ「ふっ、あわれな娘だ。

お前のその師父が、どんな人間なのかも知らずに……」

 

 

 聞きたくなかった。

 

耳を背けたかった。

 

師父だけが唯一かりそめにも信じられる存在だったのに、殺し屋に依頼し慣れてもいないただのかたぎの貴族に否定されようとしている。

 

 彼女は傷ついた体にむち打って、即座に大窓へと駆け出した。

 

 

パキラ「ハッ!

そうはさせぬ……!」

 

 

【ガシャァァン!!】

 

 気力の残っているうちに、この場を脱しておきたかった。

 

ペテュニアは肩から窓ガラスを突きやぶり、わずかな血路に望みをかけて外へ飛び出したのだった。

 

 

パキラ「おのれ!」

 

 

 天地が逆さになり、伯爵のくやしげな声が響く闇の中を落下してゆく。

 

【ドガッ……!】

 

 

ペテュニア「ぐっ……!」

 

 

 下階の張り出しに背中を強く打ちつけて、反動によって再び宙へと投げ出される。

 

最後に地面に到達した時には、体勢を取り損ねてそのまま一回転し、かろうじて片ひざをつくかっこうで雪の上に降り着くことができた。

 

 

パキラ「まぁいいさ、その傷では長くはもつまい。

せいぜい、この世の見納めをすませておくことだ!」

 

 

 頭上から伯爵の下卑げびた大声が聞こえたが、ペテュニアは構わず駆け出した。

 

未だ持っていたナイフを投げ捨て、くるぶしまで積もった雪にふらつく足あとを刻みつつ、通用門のほうへ向かって走った。

 

閉ざされた格子門の門柱を駆け上がり、またたく間に邸外へと脱出する。

 

 

ペテュニア「はぁっ、はっぁ、はぁっ」

 

 

 視界にうす白い呼気がまとわりつく。

 

足を前に出すたびに、押さえた横腹がずきずきと痛みを生じる。

 

雪をかぶる林の中へ逃げのびたとしても、耳が捉えるのはただ自分の息づかいと足音だけ。

 

 脱出しおおせたところで、助かる見込みなどなかった。

 

なぜなら、彼女には味方がいなかったのだから。

 

 たかだか3年一緒に暮らした師父も、しょせんは弟子を商品としか思っていなかったのだ。

 

それが証拠に、アステルを連れ出した夜には馬車まで用意して待ち付けていたはずの彼の姿も、今夜は全く見えない。

 

行くあてもなく、ただ伯爵邸から反対の方角へ、ペテュニアは木々の間を盲進していった。

 

 やがて寒さと出血によって手足の感覚があいまいになり、歩みももつれて何度も倒れそうになる。

 

いつの間にか小雪がちらつくようになっていた。

 

うす雲のかかった月明かりは弱々しかったが、それでも一面に降り積もった雪が見分けのつく程度にほの白かった。

 

 

ペテュニア「はぁぁっ、はぁぁっ、はぁぁっ」

 

 

 もはや全身の震えが止まらない。

 

横腹の傷に加えてガラスで切った傷、背中を打ちつけた傷が危険なまでに痛みを主張しなくなった。

 

 何をやっていたのだろう……自分は。

 

任務の失態で恨みを買い、依頼主に手傷を負わされたあげく、師にまで裏切られてしまうとは。

 

理不尽な境遇にいきどおりを募らせるとともに、ペテュニアは自分がとほうもなくばかでみじめに思えてきてしまった。

 

 やがて走る気力も失せ、行く先も生きる目的も見失って、うつろな目をして歩き出す。

 

孤独と絶望に全身をさいなまれ、眠気をともなった焦燥感のみを胸上にいまつわらせてふと前を見上げると、闇の中に奇妙に浮き上がる、赤いたてがみがあった。

 

【ブルルル……フシュ】

 

 そのたてがみが身ぶるいをすると、かすかに積もっていた上皮の小雪がはらはらと揺れ落ちた。

 

立ち止まって目線をただよわせてみれば、それが黒赤毛の馬であることが分かる。

 

メルヴィル城で副兵長をつとめていたルドベキアという城兵が確か乗っていた戦馬だ。

 

 もしそうだとするならば、馬上にある人影は彼女なのだろう。

 

 

ペテュニア「ルド……ベキア……」

 

 

 力の入らぬ腕でスカートの横すそをたくし上げ、ももに仕込んだナイフを取り出して身構えてみたが、腕は思ったほど上がらなかった。

 

【……トサッ】

 

 頭がもうろうとし、記憶が途切れかかって、気が付けばペテュニアは根雪の上に倒れ伏していた。

 

【ザッザ……】

 

 降馬して軍靴ぐんかで地を踏みつけ、こちらへ近付いてくる足音が聞こえたが、そこで今度こそ本当に意識が途切れてしまった。

 

 

 

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