第8話 イヌガミの媛(ひめ)
離れはまさに牢獄だった。
窓は小さく、蛇のシェイプシフターも通り抜けられないよう、目の細かい金属の網が溶接されている。
扉は分厚い鉄で出来ており、風化し錆び始めた今も、力づくでこれを破ることは不可能に思えた。
「この中にいるわ。あなたの切り札になりえるものが」
彩音の唇は緊張のせいか乾いている。
彼女が取り出したのは、古びた大きな鍵だ。
表面には大きなでこぼこが刻まれており、なるほど、特注の鍵である。
「随分とアナログな仕掛けなんだな……」
「ただただ、物理的に強固な仕掛けならば簡単には破れないもの」
確かに、機械仕掛けであれば、鍵などなくても機械側からのアプローチで開けてしまう事も出来そうだ。
それが単純明快な、この物理的に分厚い壁と扉で外界を隔てるやり方なら、壁をぶち抜くか扉をぶち抜くか、鍵で真っ当に扉をあけるかしかない。
あとは、蛇のシェイプシフターが、何らかの工具を使って窓をこじ開けるやり方か。
マークが考えているうちに、軋んだ音を立てながら扉が開いた。
扉の厚みを見ると、ざっと10センチもある。これは力づくでは破れまい。
入っていくと、しのんと楓が、はーとかほーとか言いながら後ろをついてくる。彼女たちも入るのは初めてらしい。
「そりゃそうよ。ここの鍵なんて、御三家の直系じゃなきゃ触ることも出来ないもん」
「御三家?」
「狗牙、狗裂、狗咆の三つ。代々狼に変ずる三つの家柄は、日本の化人をまとめる役割を担っているのよ」
彩音が分かりやすく説明してくれた。
「つまり、私は狗牙の直系なの。狗裂の直系たちは、この間いろいろ騒ぎがあってほとんどが死んだわ。狗咆の直系は……ご存知の通りよ」
あの一人だけぽつんと座っていた娘が狗咆の直系か。
だとすると、彼女の一族はどうなったのだろう。
「その疑問への答えが先にある。狗咆はもともと、人と化人の業を合わせて様々な技術を生み出し、実験を行っていたの。考え方も革新的でね、それがお爺様と狗裂の小母様の逆鱗に触れたのね。二家がこぞって、狗咆を潰したのよ」
元より、御三家も長く続いたものではなかったらしい。一つの家だったものが分かれ、合わさりを繰り返し、現代において三つの家となっていたのだという。
狗咆は二つの家によって滅ぼされ、一族はたった二人しかのこっていないらしい。
「あなたを待つのは、イヌガミの媛。その最初の一人よ」
視界が開けた。
窓から差し込む日の光が眩しく感じる。
そこには大きな座敷牢が存在し、生活に必要そうなものは一通り揃っていた。
人影がある。
質素な和服に身を包み、座卓の前で膝を折っている。
そのサイズを除けば、まるで日本人形のような印象の女だった。
身の丈だけが、この中で最も上背のある涼よりも大きい。
「知らせもなく……。一体どなたでございましょう」
問いが響いた。
「狗牙家の彩音。あなたを連れ出しにきたわ」
「お断りいたします。今更私(わたくし)が出て行く謂れもございません。私は不要とされた身。このままここで朽ちて参ります」
答えは意固地だった。
女はこちらをふいとも向かず、座卓に向かっている。どうやら、本を読んでいるらしい。
見れば、座敷牢の奥には何冊も、本が積み上がっていた。
彩音がマークを振り返る。
マークは頷いた。
「初めまして、狗咆のお姫様。おれは化人でもない、ただの人間だ」
マークは己の名を告げる。
「マークと呼ぶものもいる。できれば君もそう呼んで欲しい。おれは君をここから連れ出しに来た。君の力が必要なんだ」
「ただの人間……?」
興味を惹かれた様子で、女はこちらを向いた。
美しい顔立ちをしている。
女は疑いを以って、顔を鉄格子へ近づけた。
かすかに鼻が動いたのを見ると、マークのにおいを嗅いだらしい。そして得心いったらしく、
「珍しい……。ただの人間など、生まれて初めて見ました」
「これからもっと見ることになる。人間たちの間で君は暮らすんだから」
「まあ」
女の表情に、驚きの色が見えた。口元に手を当てる仕草が、なんとなく時代がかっている。
「……なんかさ、イヌガミの媛って思ってたより乙女よね」
「テレビも……ネットも無いから……仕方ない。読み物に……影響を受ける……」
「なんか、悔しい」
乙女たちが後ろで、ほーん、という表情を作っているが気にするまい。
マークは目の前の女の性格を理解し、これぞ必殺、と思える言葉を口に出した。
「おれは革命を起こすためにやって来た」
「革……命……!」
イヌガミの媛と呼ばれた女の顔が、驚きに見開かれる。
こんな地に足が着かない言葉でも、いや、だからこそ現実と隔絶して架空の物語にばかり触れてきた彼女には強く響く。
かつて彼女に、こんな話を聞かせたものがいただろうか?
そして、一族から恐れられ、不要とされた彼女を欲する理由が、彼女が耽溺してきた物語のような理由であったならば……。
「それは、どうしても私でなくてはならないのですか? 誰か、他のものでは……」
「これは、君にしかできないことなんだ。世界中でたった一人、他でもない君にしか」
「まあ」
彼女の顔が紅潮する。
目はとろんとなって、今まで読んできた物語の数々を反芻し始める。
目の前で、マークが彩音に「彼女の名前は?」「嵐華(らんか)です」とかぽそぽそ会話しているのも目には入らない。
「狗咆嵐華」
「は、はいっ」
鉄格子に向かって、マークは手を差し伸べた。
「俺に力を貸して欲しい。君が必要なんだ」
魔法の言葉を投げかけた。
「はいいっ!」
決断は一瞬だった。
夢見がちな彼女は、呆気なく、夢の中へと飛び出す決心をした。彼女にとって、現実の世界こそが夢。
狗咆が生み出したイヌガミの媛二人。そのうち、最強の肉体を持ったものが解き放たれる。
彼女の全身が変化を起こす。
巨大な一匹の白狼に。
自らを束縛する鉄格子に前足がかかり、まるで熱された飴細工のようにひしゃげ、曲がる。白狼は外の世界へとその身を顕した。
「……きてる……すごい、数」
「マーク、やっばいよ、集まってきてるよ」
追っ手である。
嗅ぎつけられていたのか、それとも。
「お爺様の鍵を持ってきちゃったから」
「気にしないでくれ。お陰で心強い仲間ができた」
「狗咆のお姫様って中二病だったんだねぇ」
離れの分厚い扉をけり倒して、白狼が姿を見せる。
広がっていく、どよめきと、恐怖のざわめき。
蹂躙が始まる。
「ま、待て! お前は父の、一族の犯した罪を償わねばならんのだぞ! そう誓ったではないか……!!」
「私の存在そのものが罪……! それは承知しています。ですけれど、その私を必要と言ってくださる殿方が現れたのです。この燃え上がるような気持ち……これはもう、愛! この愛のためならば、嵐華は世界を敵に回しても構いません!」
「……どっちかというと……昔の少女小説……」
聞いている分にはちょっと痛い発言だが、聞かされるシェイプシフターたちにとっては恐怖でしかない。
「し、仕方あるまい! やれ、やってしまえ!!」
「忌まわしい化け物、殺しておしまいなさい!」
狗牙と狗裂の老人たちが吼える。
化人たちは一瞬躊躇して、それでも数に優る勢いか、何匹かが飛び掛っていった。
熊、猪、狼、蛇、猛禽、蜥蜴……その群れの只中へ、巨大な白狼が単身飛び込んでいく。
衝撃音が幾つか響き、熊が地に叩き伏せられる。猪が真正面から押し負け、跳ね飛ばされる。狼は掠った勢いで宙に舞い、猛禽は巻き込まれて地に落ちる。蛇と蜥蜴は勝負にもならず、踏み潰される。
ただの一撃で、イヌガミの媛は化人たちの心を折る。
続けて飛び掛る命知らずもあったが、それらは牙や爪を、白狼へ届かせることもできない。
たちまちの内に、そこには獣たちが作る肉の山が築かれた。だが、どうやら死者はほとんどいないらしい。
白狼は手加減をしていたらしく、皆うめき声をあげ、ぴくぴくと動いている。
「ば……ばかな……」
「私たちの一族が……。化人の規律が……」
この時、老人たちは悟った。
自分たちがこの巨大な化け物を律していたのでは無いのだと。
この怪物は、戯れに自ら檻に入っていただけなのだと。
積極的にかかってくる者がいなくなると、白狼は手近に生い茂る草木に触れた。すると、なんとそれは肉体に同化し始める。
「シェイプシフターは、あくまで自分と同じ質量のものにしか変わることはできないが……」
己以外の有機物を取り込むことで、本来のそれを超越した質量の存在に変化する。
そういうものがいるのだと、マークは理解した。
取り込まれた有機物が、形を変えていく。
白狼の背中に、出現する。本来有り得ざる、昆虫のような巨大な薄羽根が。
「さあ皆様、お掴まり下さい!」
嵐華の声に、慌ててマークは走った。
こういう時は考えてはいけない。一瞬躊躇している彩音と楓の手を取り、嵐華の体にしがみつかせた。
しのんは近くにいた涼にくっついた。いつの間にやら、手にしたスマホで動画を撮っているらしい。
イヌガミの媛の飛翔が始まる。
風が巻き起こり、体重の軽い化人たちが吹き飛ばされる。
巨体がふわりと宙に舞い、一瞬のホバリングの後、急加速した。
今度は、二人の乙女に吊り下げられる形になったマーク。彼と、二人の口から悲鳴が漏れる。
「おおおおおおおおおおおお」
「ひゃあああああああああ」
「いいいいいぃぃ……」
背後を追うように、涼がしのんを掴んだまま飛び上がる。その姿はすでに大鴉のそれだ。
「ひゃっはー! いい絵が撮れたよー!」
大興奮でしのんが叫ぶ。
化人たちは地に伏せ、畏敬に満ちた目で空を飛ぶイヌガミの媛を見やった。
ただ一人、渡り廊下に立って天を仰ぐ小さな人影。
「もう一人の……」
彩音が呟く。
もう一人の狗咆。小さなイヌガミの媛。
彼女はうっすらと微笑み、手を振って見せた。
「ごきげんよう、お姉さま」
そう、唇が動いたように見える。
「なんて優しい笑顔。あの子、恋をしたのね」
嵐華が呟いたのが聞こえて、彩音はギョッとした。
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