シェイプシフター

あけちともあき

第1話 月の夜

 偉大なる漫画家、手塚治虫と彼が残した名作「バンパイヤ」に捧げる




 あの日の夜、僕はすこぶるご機嫌だった。

 難産であった作品の入稿を終え、編集の山本氏と祝杯をあげた帰りだったのだ。

 僕はさほど有名ではないが、作家の端くれに名を連ねている。

 作品を書き上げた時の喜びは、何者にも変えがたいものだ。

 そこに少々、アルコールの酩酊感を交え、僕は正気では無かったと思う。


 電車を降りると、終着駅に程近い街に降り立つ。僕が住む街は山間に近く、ほぼ終電というこの時間には、人の気配もほとんどない。

 僕はご機嫌で鼻歌など奏でつつ、自分ではしっかりしていると思う足取りで我が家へと向かう角を曲がった。

 そこは細い路地になっており、田舎町といった風情の表通りよりなお寂れている。

 街灯は一本しか立っておらず、両手を広げれば路地を挟む家々の壁に手がついてしまいそうだ。

 排水溝を兼ねた道は、歩くたびにガタガタと音を立てる。

 もうすぐ、狭くも愛おしい我が家である。

 僕はバッグのベルトを担ぎなおし、心もち、歩みをゆるめた。

 見上げる。

 明るい街灯のせいか、田舎町といえど、星空は寂しい。

 一等星やそれに準ずるくらいが、ちらほらと瞬く程度だ。

 だから、それらを圧して煌々と輝く月は、何よりも印象的だった。

 良い月の晩だった。

 たとえアルコールの力を借りていなかったとしても、気分も良くなろうというものだ。


 不意に、遠吠えのような音を聞いた。

 それは存外に近くて大きく、僕は一気に我に帰ってしまった。

 かっか火照った頭に冷水をぶっ掛けられたようなものだ。


「おいおい、犬か? しつけができてないな」


 思わず一人ごちる。

 僕は独り言が多い。寂しいわけじゃなく、そういう癖があるのだ。

 それにしたって、こんな夜中に遠吠えなんて。常識のある飼い主ならきちんとしつけているものだろう。

 僕はゆったりだった足取りを速める。

 いやな予感がした。

 なんとなくここにいてはいけないような、そんな予感だ。

 やがて、一本きりの街灯の真下へと差し掛かった時だ。

 急に飛び出してきた人影に、僕は真正面からぶつかってしまった。


「うおわっ!?」

「っ……!」


 心臓が止まるかと思った。慣用句的によく聞く表現だが、まさにそれ以外言い表しようがない。

 だが、ばくばくと高鳴った心臓を押さえながら見下ろすと……そう、相手は見下ろすほどの小さな体格だった。

 そこにいたのは、中学生くらいだろうか?艶のある黒髪を長く伸ばした女の子だった。


「君は……」


 僕が口を開く暇もなく、街灯の少し先にある暗がりから、先ほど聞いた遠吠えの主が現れた。

 排水溝を兼ねた道が、その足取りで微かにカタつく。

 そいつの足取りは静かだった。

 暗闇の中でも、街灯か、月光か。光を反射した瞳が青白く光る。

 四本の足を慎重に進めながら、姿を見せたのは大人の男ほどもある大きさの、犬だった。

 ……いや、違う。

 僕は違和感を覚える。

 毛並みにしろ、顔つきにしろ、犬という種類のそれとは何か違う。

 あれはむしろ……。

 獣が口を開いた。真っ赤な舌が漏れる。

 間違いない、狼だ。日本の狼は、はるか以前に絶滅してしまっている。いくら田舎町だからと言って、こんなところにいるはずがない。

 だったらこれは何なのだ?

 僕は混乱した。そして、これがアルコールの見せる幻であることを願う。

 だが、狼の姿は消えない。それどころか、そいつは獲物を見る目ってやつで僕をにらみつけ、じりじりと近づいてくる。


「……」


 ぎゅっと僕の胸元がつかまれた。

 僕とぶつかった女の子の手が、シャツの布地を握り締めている。

 そうか、どうやらこの狼は、この女の子を狙っているのだ。

 理由はわからなかったが、僕はそう理解した。


「に、逃げるんだ!」


 僕はかばんのベルトを肩から外して、女の子をかばう様にした。

 どうだい、このかっこいいこと!

 僕は狼に向かって踏み込むと、自分でもわけの分からない叫び声をあげて、かばんを振り回した。

 それなりに大きいかばんだが、携帯電話くらいしか入っていない。僕程度の非力さでもこうやって振り回せるのだ。

 狼はギョッとした様子で、僅かに後ろへ下がった。

 その姿があまり動物らしくなく、まるで人間が引いてるような様子に見えた。

 だが、この状況も長くは続かない。

 僕は本来座って物を書いている仕事だから、体力にはまったく自信がない。それに、声をあげながらやっているのだから、消耗も二倍ではないか。

 すぐにかばんを振り回す手もだるくなり、遅くなった。

 きつい。つらい。もうやめたい。

 そう思いながら狼を見ると、あいつは低く身構えていた。

 あ、やばい、と思う。

 歯をむき出して、全身のばねを溜めるように低く、低く。

 そいつは、僕が思わず一歩退いた瞬間、飛び掛ってきた。

 僕の体重は下がった足にかかっていて、咄嗟に動くことができない。

 だめだ、と思った時だ。

 僕の視界の下を、何かが駆け抜けていった。

 絶叫が響いた。ほんの一瞬だ。

 声をあげたのは、僕に飛び掛ってきた狼。その叫びが途絶えたのは、そいつの喉笛にもう一匹の狼が喰らいついていたからだ。

 もう一匹は最初の狼よりも一回り小柄で、異様だった。何せ、人間の服を着ているのだ。

 ……待てよ、あの服、今さっき見たような気がする。

 その間にも、もつれ合う狼二匹は地面に落ちた。そして、何か無理やり引きちぎる音がして、大きなほうの狼が声にならない声を漏らした。

 人の服を纏った狼が立ち上がる。

 そこで僕は我に返った。

 あの服は、さっき僕がかばった女の子が着ていたものだ。

 どういうことだ? まさか、女の子が狼になったとでも言うのか。

 僕は混乱と恐怖と、その他わけのわからない感情に包まれて、その場にへたりこんだ。

 呆然とする僕に、女の子の服を着た狼が近づいてくる。

 そして、その血にまみれた鼻先で僕の顔の辺りを嗅ぐと、じっと僕を見つめた。

 濡れたような瞳をしていて、僕は本能的に、これは人間の目だと感じた。

 どうやらそこで緊張の意図が切れたのか、僕はばったり倒れこみ、一歩も動けなくなってしまった。

 何がなんだか分からない。

 ただ、仰向けで眺めた夜空の中、見事なまでにまん丸な月はきれいだった。

 今夜は十五夜だったのだ。

 いつの間にか僕の周りから、気配はなくなっていた。

 どれほどの間寝転んでいたのだろう。

 僕は固い地面の上に寝たせいで、痛む腰や肩をさすりつつ立ち上がり、そしてまた驚愕した。

 僕から少し離れた場所で倒れていた狼は、すっかり事切れていた。

 喉笛を食い千切られたのだ。流れ出した血は排水溝に注ぎ、鉄の臭いを漂わせている。

 その狼の姿が変わっていく。

 四肢が変形し、鼻面が縮み、全身を覆う獣毛が薄れていくのだ。

 見る間に、そいつは全裸の男の姿に変わっていた。


「おいおいおいおい……なんだよ、なんだよこれは」


 僕は呟いた。

 頭がおかしくなりそうだった。

 何とか起き上がると、恐々、男の死体に近づいていく。

 ……と、背後で排水溝の蓋が大きく鳴った。

 誰かが近づいてくる。


「勘弁してくれ……!」


 僕はカバンを拾い上げると、駆け出した。

 死体に関わっている場合じゃない。これ以上の厄介ごとに巻き込まれてたまるものか。

 今度こそ命が危ない。


 少しして、僕は懐かしき我が家に帰りつき、玄関口でへたりこんだ。

 そして、パンツが濡れていることに気づき、これから行うであろう洗濯のことを考えて、陰鬱な気分になった。

 これが、僕と彼らの邂逅である。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る