第6話

 髪の毛のいい匂い。腕に当たる柔らかい感触。絡みつく太もも。志帆さんが俺に身を預けてくる。

 顔が近付いてきて、これはまずいんじゃないかと思い始めた。

「いや、ちょっと、ちょっとこれは……!」

 暑苦しさで目を覚ますと、ベッドの上だった。

「ゆ、夢オチでよかった……ちょっと残念だけど……」

 額の汗を拭おうと、右手を動かす。が、動かない。見れば、久遠が抱きついている。左は美世だ。

「昨夜は一緒に寝たんだっけか……」

 時計を見れば朝七時だ。

 俺はシスコンだと思う。が、こいつらのブラコンっぷりから見れば可愛い方だ。

 日曜日は一日中妹たちと一緒だった。昨日は志帆さんと一緒だったんだから、今日は自分たちの番だと。その流れでこういう状況が形成された。いや、悪い気はしないけどね。

 しかし、この年齢になってまで一緒に寝たがるかと疑問ではある。

「おい、起きろ。朝だぞ」

 二人の身体を何度も揺すった。腕に抱きつかれたまま揺さぶっているので、動かす度に柔らかいモノが当たる。

 嬉しくない、嬉しくないんだぞー。

「うん……おはよう……」

「おはようございます……お兄さま……」

「もう起きる時間だ。部屋に戻れー」

 二人を部屋から追い出して、俺はさっさと着替えを済ませる。リビングに向かうと母さんが朝食を作ってくれていた。

「おはよう。アンタまた二人と寝たの?」

「仕方ねえだろ、だだこねて泣き出しそうだったんだ。俺の意思じゃない」

 目玉焼きを焼きたてのトーストに乗せ、一気に平らげた。あとはコーヒーで胃の中に押し込む。これが日常的な朝だ。

「仲が良いいのはいいことだわ」

「いいのかよ。それじゃあ行ってくるわ」

 鞄片手にいざ登校。後ろからは二人もついてくる。ホント、イマドキの妹では考えられない。兄と登校したいから朝飯を急いで食べるなんて。

 例えば、妹たちが義妹だったら不思議はない。いやまあ男として魅力があるかどうかは別にして、可能性はある。しかし、俺と妹たちは実の兄妹だ。クラスメイトに聞いたこともある。実の兄妹は、あまり仲がよくないのだと。

「お前ら、もっとゆっくり食べたら?」

「そんなことしたら行っちゃうじゃん」

「当然」

「ちゃんと咀嚼(そしゃく)もしていますし、たぶん大丈夫です」

「でも、今から学校行っても授業まで時間あるぞ?」

「二人で勉強してるし、問題はないかな」

 こいつらが成績いいのって、そんなことしてるからか。俺も見習おう。

「お兄さまはホームルームまでなにをしてるんですか?」

「本読んだりゲームしたり、寝たり」

「じゃあ今日から勉強も取り入れよう!」

 って言いながら脇腹を殴るのはやめてください、久遠さん。

「はい、そうします」

 俺が早く出るのは、ある人物と登校時間をずらしたいから。しかも二人。二人分の時間をずらすのは骨で、早く登校するという選択肢を選ぶしかなかった。妹たちはそれを知らないが「どうして早く出るのか」なんて聞きはしない。我が妹ながらできた子たちだ。

「お兄さま、あれ」

 公園の前を横切るとき、美世が話しかけてきた。

「双葉じゃねーか、なにやってんだアイツ」

 登校時間をずらす理由と遭遇した。その姿は、あのときの下校時のまま。なぜここにいるのだろう。なぜこんなことをしているんだろう。

 聞きたい。聞いて、あげたい。

「行くよ、お兄ちゃん」

 久遠に腕を引っ張られ、俺は考えることをやめた。どれだけ俺が歩み寄っても、双葉はそれを許さないから。

 久遠は昔から双葉が嫌いだったっけ。理由は聞いてないけど、こういうのはなかなか聞けないものだ。

 そうして、学校に着いた。

 俺の成績は、学年別で下から数えた方が早い。なので、授業中は寝てなんかいられない。そこそこ真面目に授業は受けている。ただ、それが点数に直結しないだけ。この辺でも頭のいい学校だから、授業だけじゃダメなんだろうなとは思ってるけど。

「早朝の勉強、これからやるか」

 教室には俺一人、苦手な数学でも復習しておくか。

 ノートと教科書を開き「うしっ」と気合を入れた。

 しかしわざわざ早く来てるのに、それに合わせて登校するやつもいる。

「おーいイチロー! あっそぼーう!」

「うるせーな! ちょっと黙ってろ!」

 光啓本当に気持ち悪い。

 しかし、勉強を教えてくれと言えば、手取り足取り優しく教えてくれる。中学生のときもそうだった。

 俺はわからないところを光啓に教えてもらいながら勉強に励んだ。

 クラスメイトが来ても気にしない。そのままペンを動かし続けた。

「お前らー、ホームルーム始めるぞー」

 さすがにイッちゃんが来たので、俺は教科書を閉じた。

 鳴海依月先生は俺たち五組の担任。イッちゃんという愛称で親しまれていた。間違いなく美人なのだが、化粧はまったくしないし長い髪はボサボサ。そして常にダルそうにしている。話しやすい先生ではあるが、女性としてはどうなのかといったところ。

 ホームルームが終わり、イッちゃんは教室を出ていこうとした。みんな一時限目の体育のため、ジャージを取り出す。

「あーそうだ、言い忘れたが一時限目は一組と合同だぞー」

「そのテキトーな感じはイッちゃんらしいけど、一応理由くらい説明してくれ」

「一組の一時限目は先生が休みなんだよ。だから授業交換ってこと」

「なるほどね。了解した」

 イッちゃんはひらひらと手を振って、教室から出て行った。

 俺は肩を落とし、溜め息を吐いた。

 一組と合同なんて、気が乗らないに決まっている。一組には、録輔がいるんだから。

 だがそんなことも言ってられない。仕方なくジャージに着替え、グラウンドに向かった。

 一組と合流した後で、短距離走のタイムを計ることになった。三人一組で走り、走り終わったら次の走者のタイムを計るというローテーションだ。

「比較されるのは癪だが、光啓なら仕方ないと諦めもつくな」

「イチローって普段は素っ気ないけど、結局俺のこと好きなんだよね?」

「はいはいそうだね。それで、あと一人は?」

「俺が余ってんだ。入れろよ」

 背後から、知った声が聞こえてきた。

「録輔……」

「おめぇ、中学のとき二百メートルの選手だったよな? 結局、地区予選入賞もできなかったけどよ」

「だからどうした」

「百メートルで俺と勝負しようぜ? 負けた方が罰ゲーム」

「お前は昔からそうだったな。なにかと勝負事で遊びたがる」

「そうさ、俺は誰かと戦って勝つのが好きなんだ。で、やんのかやらねーのか」

「ロックの挑発になんて乗る必要はない。ここは普通に――」

「ヒロは黙ってろ。過保護なんだよてめぇは」

 間に入ろうとした光啓を録輔が制した。しかし、それで引き下がるような光啓ではない。

「お前はサッカー部のエースだっただろう。しかも県選抜に選ばれるレベルの」

「だから、おめぇには関係ねぇんだよ。で、イチローはどうすんだよ」

 地面を見つめたまま、そこから先が出てこなかった。

 録輔は小学校でも中学校でもサッカー部のエースだった。昔からサッカーが上手く、足も速かった。かたや俺は地区予選止まりだった。勝てるわけないじゃないか。

 思わず拳を握り込む。悔しいけど、もう答えは決めた。

「俺は、やらない」

顔を上げてそう言った。それを聞いて、録輔の顔が怒りに歪む。

「逃げんのか」

「録輔とじゃ、勝負になんてならない」

「まだやってもねぇのに諦めんのかよ」

「結果が分かってるんだ。罰ゲームを引き受けるようなもんだろ」

「ヒロが庇ってくれるからって、また人の陰にこそこそ隠れんのかよ」

 言葉の針が、心臓に突き刺さったみたいに感じた。

「それで主人公になりてぇだなんてお笑いぐさだな」

 また一本、針が増えた。これはもう針や釘なんかじゃない。大きな、杭だ。

「俺だって、できることなら隠れたくないさ。でも、俺はなにも持ってない……」

「そうやって自分で決めつけてるとこがムカツクんだよ」

 録輔は俺と光啓に背を向けた。

「もういいわ。おめぇ、つまんねぇし」

 離れて行く。物理的にも、精神的にも。

 いつか、この壊れかけた関係を修復したいと思ってた。いや、今でも思ってる。なのにいつもいつも、俺は上手く立ち回れない。

 でも一つだけわかるんだ。今ここで、録輔をいかせるわけにはいかない。

「待てよ、録輔」

「興味が失せた。もう話かけんな」

「勝負しろ、俺と」

 録輔の顔が、徐々に変わっていく。口が弧に開き、眉間にしわを寄せた。この怖い笑顔は、少なからず喜んでいる証拠だ。昔から、こいつの楽しそうにしているときの顔は怖い。

「ようやくその気になったかよ」

 勝負事を仕掛けるときのこいつの笑顔、昔から変わらないな。

「次のグループ、位置につけ!」

 先生に言われ、俺たちはスタートにつく。

「罰ゲームはそうだな、負けた方が双葉の前で全裸になる。これでどうだ」

「いいぜ、受けてやるよ」

 高校では部活に入らなかった。それは録輔も一緒だったはず。けれど俺は時間があれば走ってたし、筋トレだってしてた。。

 先生の手が上がる。

 無駄な力は抜いて、しなやかなスタートができるように構えた。

 そして、合図と共に踏み込んだ。簡単に、負けてやるもんか。

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