第8話 脳腫瘍と、もうひとりのノリコちゃん
無職でぶらぶらしていても、病気にはかかってしまう。あたりまえのことだけれど、すぐには信じられないものだ。
わたしの場合、そのとき、突然、左半身だけが急に重たくなり、うまく動かせなくなった。
四月の終わりころの夜、自宅の居間でパイプ椅子に腰かけて、床に置かれた皿に顔を突っ込んでエサを食べている猫の、ちいさく揺れる丸い後頭部を見下ろしていたら、わたしの左足の裏が痙攣しはしめて足の裏の肉が縦に三つに割れた。親指、人差し指と中指、薬指と小指のそれぞれの骨が足の裏で束ねられたようになり、皮膚の下で肉が指先から踵にかけてすこしずつ縦に三つに分かれていった。足首の力も抜け、やがて全部の指が内側に丸めこまれていき、足の裏がジャンケンのグーをしているようなかたちになった。ふくらはぎも正座をしたあとのように痺れ、それがじわじわと太腿まで這い上がってきた。試しにつねってみたが痛くはなかった。猫の丸い後頭部はちいさく揺れているのがよく見えた。左腕を伸ばして何かに掴まろうとしたが、左腕は上がらず、指先にも力が入らなくなっていた。左の脇腹は冷たくなり、つねっても何も感じなかった。呼吸はいつものようにできた。
猫がエサを食べ終わったころ、その発作は治まり、左半身はいつものとおなじように動かせるようになった。
翌日、主治医でいつも腰痛の治療を受けている脳神経外科のA医師の診察を受けた。酒を飲むと脳への血流量がいつもと違うようになり、そういう症状がでることがある。その発作はしばらくすれば治まることが多く、今回もそれに似た症状だから様子を見ることにしようとA医師から言われた。しかし、その発作が起きたとき、わたしは酒を飲んではいなかった。
発作は、そのあと日をおいて、二回起きた。
二回目の発作は最初の発作から二週間は過ぎていた土曜日の午後、駅前をぶらぶら歩いていたときに起きた。なかなか決まらない就職先が気になって足の裏のことはもう忘れていた。そのとき、歩いていたら急に左足から力が抜けて立っていられなくなった。左足を引きずりながら歩道の端のガードレールまでゆっくり進んで、そこに腰をかけて発作が治まるのを待った。季節のわりには太陽が強く照りつけて尻をのせたガードレールが熱くなっていた。わたしのすぐ横を自動車が何台か通り過ぎ、駅の改札に向かって歩いていく人もたくさんいた。体の左側から力が抜けていたが、不気味に思ったのはつねっても叩いても体の左側にはまったく痛みを感じていないことだった。じりじりと太陽に晒され、額から汗が垂れた。
三回目の発作は、わたしからの知らせを聞いたA医師が急いで紹介してくれた市立病院でMRI検査をする直前に起きた。じつは、二回目の発作が起きた土曜日の午後、診療時間ではなかったがかまわずA医師に電話をいれて症状を伝えたら、MRI撮影の設備がある市立病院にMRIの撮影予約を入れてくれた。
わたしは、翌週の指定された日時に市立病院へ着いた。それまで普通に動かせていた左半身は、受付のカウンターで検査の申込書を書いていたときに、ダメになった。まず、左手から力が抜け始めた。右手で左の脇腹をつねっても痛くなく、そのうち左足が体重を支えきれなくなった。わたしは受付カウンターの近くにある椅子に座って動けなくなった。手招きで受付カウンターの中にいた女性を呼んで症状を伝えると、二~三人の病院の職員が来て、車椅子に乗せてくれた。左足がすこし痙攣しているように見えた。わたしは検査着に着替えるために車椅子に乗って更衣室まで運ばれた。二畳ほどの更衣室には背もたれのない丸いパイプ椅子があり、それはわたしの家にあるパイプ椅子と同じ色をしていた。
わたしはその椅子に座って、ワイシャツを脱ごうとした。しかし、左手でシャツのボタンを外せなかった。更衣室の外から看護師が声をかけてきた。わたしは天井に取り付けてある蛍光灯の白い光を見上げて、もし電車に乗ろうとしているときに発作が起きたら駅のホームから線路に転落していただろうとぼんやり考えた。
MRI検査が終わり、発作も治まっていたのでそのまま帰ろうとしていたら、撮影技師が小走りにやってきて、所見があるから来てくれと言う。
「所見?」
「そう、所見です」
「なんで?」
「そのようにお伝えするように言われました。診察室まで来てください。歩けますか?」
「いまは普通に歩けます」
だれもいない廊下を歩いて診察室に入っていくと、わたしよりもかなり若い医師がMRIの撮影画像を見せてくれた。その画像には頭頂部よりすこし右側のところにひとくちドラ焼きの皮くらいの白い部分があった。
「検査の前に発作が起きたと伺いましたが、いまはどうですか?」
「あなたは?」
「わたしは脳外科医のBといいます」
「いまは普通です」
「左手の指は動かせますか?」
わたしは左の手を握ったり開いたりしてみせた。B医師はそれを見てから
「じゃあ、ワイシャツのボタンをひとつだけ外してみてください」
発作が起きたときには動かせなくなっていたが、左手の指だけで普段のようにワイシャツのボタンを外すことができた。
「これがあなたの頭の中にあるものです。腫瘍です。左半身の感覚がなくなったのはこの腫瘍が原因です。発作は一過性脳虚血症というものです」
B医師がモニター画面に映っているわたしの脳の画像を拡大した。腫瘍と聞いて
「はあ、そうですか」
と間の抜けた返事しかできなかった。
「これだけ大きいと手術で摘出しなければなりません」
医師が話しかけているのはわたしに違いはないのだが、もう一人のわたしがすぐ横にいて、医師はそのもう一人のわたしに話しかけているような気がした。左側が痺れるのは脳血栓や脳梗塞とかの前兆で酒や食べ物に注意すれば大丈夫だろうと考えていたので、手術と言われたときはなんだかじぶんのことのようには思えなかった。
「髄膜が瘤のようにかたまって脳の左半身の運動神経野と感覚野を圧迫しています。だから左側だけ力が入らなくなったり、痺れて何も感じない症状が現れました。これだけ大きい腫瘍は珍しいです」
「どうすれば、いいんですか?」
「いまもお話ししたように、開頭手術で摘出するしかありません」
「それは痛いのですか?」
もう一人のわたしがまた間の抜けた質問をした。
「痛い? 全身麻酔だから痛くもなんともないですよ」
「痛くないんですね」
「あなた、この大きさだと手術で摘出するしかありません。そうしなければ左半身の麻痺が再発するのは確実です。この病院で手術を受けますか?」
「すぐに手術をしなければならないんですか?」
「そうではありませんが、早い方がいいです。この画像から判断すると、いつ発作が起きてもおかしくない状態です。たとえば自動車の運転中に発作が起きたら非常に危険です。ほおっておくと発作の起きる間隔がだんだん短くなり、麻痺している時間はすこしずつ長くなります」
B医師はボールペンの尻の部分で、モニターに映し出された腫瘍の白い輪郭をぐるぐるとなぞった。確かにB医師の言う通りだった。最初の発作よりも検査の直前に起きたときの方が長かった。そして、治まりかけたと思っても、二回目の発作のときとはちがって、もう一度同じように麻痺が始まったのだ。
「効く薬はないんですか?」
「一時的に発作を抑えられるかもしれませんが、根本的な治療にはなりません。先ほどもお話ししたように発作は、いつ、どこで起きてもおかしくない状態です」
モニターには頭蓋骨にへばりつくように白い腫瘍が映し出されていた。B医師はモニターの脳の画像を今度はパソコンのマウスで縦にしたり横にしたりして腫瘍の厚みを盛んに計っていた。
「やはり、摘出するしかありませんね」
「ここの病院でないと手術はできないんですか?」
「この検査結果を、MRI検査のご依頼をしていただいたA先生にこちらから渡しておくから、どこの病院に入院するのか、お二人でよくご相談された方がいいですね」
わたしは礼を言って立ち上がった。するとB医師はあわてて
「歩いては危ない。この病院にいる間は車椅子で移動してください。病院から帰るときもタクシーでご自宅まで帰ってください。わかりましたね」
B医師は青ざめた顔でわたしに言った。この診察室までは歩いてきたのにおかしなことを言うと思った。
入院は、MRI検査を受けた病院ではなくて、A医師に紹介された東京の大学病院に決めた。市立病院ではMRI検査だけではなく手術もできる、とB医師は言っていたが、それを伝えるとわたしの父親くらいの年恰好のA医師は白髪を撫でながら渋い顔をした。病院に専門医がいない場合には他の病院から応援に来てもらうことで手術自体はやることができる。それよりも注意すべきことは術後にその病院がどういう体制を整えられるかということで、専門病棟があればその症状の患者の急激な容体の変化にも慣れているから処置も早くできる、ところがそうでない場合には手当が遅れる場合もあり得る。最悪の場合は対処を間違える場合だって考えられる。今回の腫瘍の大きさから考えれば、退院後の通院も必要になるから専門医の常駐している東京の大学病院の方が安心して術後の回復に専念できる、というものだった。それでわたしはA医師の勧めに従うことにした。
病院はKND川沿いに建てられている高級マンションのような白い建物だった。それはSRG台の坂を歩いて上っていくと最上階からすこしずつ姿を現した。ゆるい坂道を上っているとだんだん汗が出てきた。病院に入ると、中は涼しかった。わたしはその建物の十八階の病棟に案内された。ナースステーションの近くに設けられている全面ガラス張りのロビーからはKND川が見下ろせた。KND川の向こうには高校を卒業して浪人していたころに通っていたSD予備校の看板が見えた。三十年以上も過ぎた五月の半ばに、そのSD予備校の看板を、脳腫瘍を患い、こうやって病院のロビーから見下ろすことになるとは考えもしなかった。当時の若かったわたしはどんな気持ちで毎日そのSD予備校に通っていたのか思い出そうとしたけれど、進学するだけで幸せになれると思っていた無知で吹き出物だらけのじぶんの顔しか思い出せなかった。KND川は昔に見たままの濃い緑色をしていて、そのKND川沿いを走っている黄色やオレンジ色の電車はおもちゃのように見えた。OCMZ駅に出入りしている大勢の人は虫に見えた。明日の朝、頭蓋骨の一部を開き、脳を外気に晒す手術を受けるのがなんだか他人事のような気がしていた。
翌朝、わたしは手術室でマスクを顔にあてられた。それは麻酔薬をかけられたわけだけれど、すぐに起された気がした。
「終わったよ」
だれかの声がした。いつもの通りに起き上がろうとしたが、左半身が重くて動かせなくなっていた。それで初めてわたしは手術台にいるのを思い出した。手術をうけたはやはりわたしだったと思った。数人がかりで手術台から大きなベッドに移されたとき、だれかが
「頭から出ているチューブに注意して」
と言った。廊下に運び出されると天井の蛍光灯が白く光っていた。何回も廊下の角を曲がり大きなエレベーターに乗るとベッドを押してきてくれた人の荒い息遣いが聞こえてきた。エレベーターの扉が静かに開いてわたしのベッドは集中治療室に運びこまれた。
しばらくしたら妻がベッドの脇に座った。ナポリターノくんもいた。妻はわたしの顔をのぞき込んで
「左手は動く? 動くの?」
と聞いてくるので、左手の指をすこし動かして見せた。妻は
「ああ」
と言って、黙ってしまった。ナポリターノくんも黙ったままだった。わたしはそのまま眠ってしまった。
だれかの話し声で目が覚めた。わたしは集中治療室のベッドで横になっていることを思い出した。交わされている話し声を聞いているうちにわたしのほかに部屋には三人の患者がいることがわかってきた。看護師とのやりとりを聞いているうちに、その三人はわたしよりも年上の人間ばかりだと思えた。
わたしの右足の太腿とふくらはぎには血栓防止用のマッサージクッションが巻きつけてあり、それがわたしの足をゆるく揉んでいた。狭いベッドなので右足の指先がベッドの柵に当たっていた。左足にもマッサージクッションが巻きつけられているようだったけれど、太ももから先の感覚がぼんやりしていて、右足のように左足の指先がベッドの柵に当たっているのかどうかもわからなかった。時折、看護師がわたしの両目に懐中電灯の光を当てて瞳孔の反射具合を確かめていた。
妻がいつ帰ったのかわたしは気がつかなかった。隣のベッドからは看護師が患者に睡眠薬を飲ませようと説得している声が聞こえてきた。それで消灯時間が迫っているのがわかった。やがて天井の蛍光灯が消され部屋は暗くなり、壁に設置された脈拍と血圧を絶えず測定している数台のモニター画面の薄青い光だけになった。
一定の間隔をあけて看護師がわたしのベッドに来て瞳に光を当て、わたしの名前と生年月日を聞いた。わたしは答えようとしたが声が出なかった。
「全身麻酔を施したときに麻酔のチューブを喉に入れていたので声を出しにくくなっています。だから無理して返事をしなくてもいいですよ」
と看護師は耳元で言った。それから看護師はわたしの足元の方のベッドに寝ている患者の方に行き、同じように名前と生年月日を聞いていた。それは男性患者の声で、高齢のわりにはっきりと答えていた。はっきりと話しているので軽い手術だったのかとおもっていたら、いきなり
「その声はパパだね。迎えにきてくれたんだね。ママはここです」
と隣のベッドからひび割れた大きな声がした。
「迎えにきてくれたんだね」
長年の野良仕事で鍛え上げてきたような野太く響く声だった。
「今の声は患者さんの声ですよ」
と看護師が言うと
「いや、パパの声にそっくりだったよ」
「旦那さんはもうお帰りですよ」
「じゃあ、カズヒロの声だね」
「ウエダさん、違いますよ」
「カズヒロ、どうしているんだい。ママはここですよ」
数台のモニター画面が一斉に点滅し天井がオレンジ色に染まった。続いて甲高い電子音が連続して鳴りはじめた。
「ウエダさん、ほかの患者さんは眠っているんだから」
「だって、そこのカーテンの陰にだれかが立っているじゃないか」
「だれもいませんよ」
「こんなふうに手も足も縛られているから身動きできないよ」
「ウエダさん、ゆっくり眠ってください」
看護師がウエダさんという患者のベッドの脇で何かをして声はしなくなった。周囲は静かになった。理由はわからないけれど、その声の主は拘束着を着せられているようだった。
しばらくしてから、看護師の巡回があったときも、さっきの男性患者の声にウエダさんが反応してまた大きな声をあげた。
「いまの声はカズヒロだね。わたしにはわかっているよ」
モニター画面が再びオレンジ色の不規則な点滅をはじめた。わたしは術後で左半身が麻痺して動けない状態なのに、ほんの一メートルも離れていない隣のベッドに大きな声でわけのわからないことを言いつづけている女が、しかも拘束着を着せられて寝かされていると思うとおそろしくなった。
「おい、ヨシヒロはどうした。ヨシヒロは。だれも来てくれないのか」
「ウエダさん、いまは三時ですよ」
「あたしゃボケてなんかいませんよ。この上着を脱がせておくれ」
「ウエダさん」
「何度も言っているだろ、ボケてないって。あたしは何年も会計士の事務所で働いていたんだ。みんなわかっているんだよ。そこのカーテンの陰に隠れているんだろう」
「皆さん、もうお家にお帰りですよ」
「じゃあ、ヨシヒロはどうした」
「ヨシヒロさんって、どなたですか?」
「なにを言っているんだね、あんたは。カズヒロもヨシヒロもあたしが産んだ息子だよ。なんべんも言っているだろう。ヨシヒロを呼んできなさい。ヨシヒロはねえ、お酒さえ飲まなければいい子なんですから」
「ウエダさん、もう三時ですので」
「ここはどこだい?」
「病院ですよ」
「病院?」
「そうですよ。ウエダさんは昨日手術して、もう一日ここで様子を見ることになったって、先生が昼間お話ししたでしょう」
「ああ、ああ、ボケてなんかいませんよ。あたしは会計士の事務所で何年も働いていたウエダノリコなんですからねえ、みんなわかっていますよ」
「じゃあ、静かに眠りましょう」
「あんた、なに言っている。あたしゃ、そこのカーテンに隠れているカズヒロを出せとさっきから言っているじゃないか」
「だから、だれもいません。それに今は午前三時ですよ」
「そこにいるのはわかっているんだ」
「だから、だれもいませんよ」
「じゃあ、なんでさっきからそこにだれかが立っているんだ」
集中治療室のすべてのモニターが激しくオレンジ色に点滅し、電子音が鳴りやまなくなっていた。わたしはまな板のうえの鯉になったような気がした。
「ああ、ボケてなんかいませんよ。ボケていないったら。ヨシヒロはお酒さえ飲まなければいい子なのに。はやく、この上着をとっておくれ」
「それは先生の許可がないとできないんですよ」
「会いたいの! 会いたいの!」
その怒鳴り声がした途端、わたしの血圧を測定しているモニター画面がオレンジ色から赤色になった。別の看護師が慌ててわたしのそばに寄ってきて、わたしの耳元に顔を寄せると
「血圧が高くなっています。このままだと縫い合わせた頭が開いてしまうので血圧降下剤を入れますよ」
と囁いた。隣からは
「ウエダさん、じゃあ、いったん廊下に出ましょう。廊下に出てお家にお電話してください」
と看護師が車椅子の用意をする音が聞こえた。
「血圧降下剤を入れますよ」
看護師がわたしに囁いた。隣からまた声が聞こえてきた。
「でも、上着は脱げませんよ。わたしが車椅子に乗せてあげますから」
「ちょっと待っておくれ。このままじゃ会えないからカツラを持ってきておくれ」
「どこにあるんですか?」
「わたしの個室だよ。持ってきておくれ」
それから、突然、集中治療室は静かになり、看護師の遠ざかる足音がした。やがて、看護師の戻ってくる足音が聞こえてきた。つづいて車椅子にウエダノリコさんを乗せる看護師の荒い息遣いと床の上を滑っていく車椅子のきしむ音がした。わたしはすこしまどろんだ。
不意に天井の蛍光灯が点いたので午前六時になったことがわかった。だれかがわたしの顔を覗きこんでから頭の三本のチューブを抜き、ベッドに載せられたままでCTスキャン室まで運ばれた。検査後、また集中治療室に戻された。ウエダノリコさんは隣のベットに横になっていた。夜中に大声で叫んでいた家族はだれも来ていないようだった。しばらくしたら看護師が来て、異常がないので一般病棟に移されたことになった、と言った。左足の親指にベットの枠の冷たさが伝わってきていた。左足の感覚はいつの間にかもどっていたのだ。
それから、まな板のうえの鯉。
わたしは数時間前のじぶんの状態を思い返した。まったく身動きができないのにすぐ近くでじぶんではどうにもならないことが起きそうな気配を肌身にせまって感じるおそろしさ、ふがいなさ、じぶんのちからだけでは避けることのできない事件が起きそうな予感。鯉は水のなかなら人間の手からいとも簡単に逃げられるのに、まな板のうえだと、水のなかにいるように逃げることはもう二度とできない。本来の逃げ方を知っているのに、そうやって逃げることができないで、意識だけは鮮明なのに、包丁で捌かれてしまうのを待つしかないもどかしさとくやしさ。わたしはその数時間は、鯉とおなじだった。
一般病棟に移動する前に排泄用のカテーテルを抜かれた。ベッドから車椅子に移されるときにカーテンの隙間からウエダノリコさんが見えた。ウエダノリコさんは顔を天井に向けて横になっていてまったく動かなかった。顔が天井に向いているから表情は見えているはずなのだけれど、顔のあたりはぼんやりとしていて、目のところだけは真っ黒だった。頭に乗せたカツラは後ろに落ちかかり、カツラ特有のくっきりと目立つ生え際が額のかなり上の方で線を引いていた。ウエダノリコさんは、拘束着を着せられた髑髏がその白い頭蓋骨にじかにカツラを被っているように見えた。
一般病棟のベッドにうつされると、集中治療室で見たことが全部夢だったような気がしてきた。でも、頭の上を指でそっと撫ぜると、三十センチくらいの長さでホチキスが一列にたくさん打たれて頭がでこぼこになっていた。集中治療室ではよく眠れなかったのですこし眠ろうとして、枕の上で頭の位置を変えたら、ゴボゴボゴボッというチューブ弁を通り抜けるときの空気の音が頭の中で突然響いた。わたしは枕の上で頭を反対側に寝かしてみた。けれど、もう音は聞こえてこなかった。
尿意を催したので看護師を呼んでトイレまで付き添ってもらった。五個のキャスターの付いた点滴台にすがってトイレまで歩いた。点滴台が杖代わりになって便利な気がしたが、体重をかけると点滴台が先に逃げて転びそうになった。
小便は出なかった。出そうになると根元の奥の方に尿が沁みて痛くて出すことができなかった。その代わりに筒先から屁をひるときのような音がして空気がぶるぶると出てきた。付き添いの看護師にそのことを伝えてもあまり取り合ってはくれなかった。
翌日の午後二時過ぎ、イヤホンをつけて適当にテレビのチャンネルを切り替えていたら女の子とシュモクザメが仲良くなるショートアニメが映った。その番組では『かれしはハンマーヘッドジャーク』という子供向けの歌が放送されていた。もう、わたしはベットのうえでなら普通に本やテレビを見ることができるようになっていた。
「あら、アニメなんか見るんですか?」
女の声がしたのでイヤホンを外して振り返ると看護師が体温計を持って立っていた。
「ヘンな頭の形ですね、そのサメ」
看護師は体温計をわたしに手渡した。
「目が離れすぎ」
わたしはその体温計を受け取って脇の下に挟み込んだ。
「相手が見えるのかしら?」
「見えるんだろうけど、同じものを見ても人間とは違うように見えるんでしょうね。そういう進化をしたんだから」
「だけど、ヘンな頭」
「人間はふたつの目を顔の前に配置させて立体的に物を見ることができるようになったけど、後ろはまったく見えないですよね。でも、このサメは後ろも同時に見ることができるんですよ」
「そうなると、サメから見れば人間の頭の方がヘンな形なのかしら」
わたしの脇の下の体温計から電子音がした。
「調子はどうですか?」
ベッドの脇のカーテンを開けてわたしの頭を開けたC医師が入ってきた。看護師は体温をノートに記録するとベッドの端に行った。
「ご飯は食べられますか?」
「普通に全部食べました」
とわたしは答えた。
「そりゃ素晴らしい。何しろA先生のご紹介ですからね。わたしも一生懸命やりました。A先生は、現役のころ、超音波検査の開発に関わっていて、CTスキャンプロジェクトとノーベル賞を競い合った方なんですよ。画像の解像度というところで一歩譲ったらしいですけど。しかし、いつもA先生に診てもらえるなんて、あなたも幸運な方ですね。回復も早くてまるで爬虫類並みだ。素晴らしい、素晴らしい」
看護師が声を出さずに笑っていた。
その夜、わたしは人間がどうして人間になったのかを考えた。人間をほかの動物と区別して人間らしくしている精神とはなにかを考えたのではなく、どうして木のうえの生活をすてて両手を使う生活にきりかえたのか、おおざっぱに言えば人類の進化についてぼんやり考えた。こんなことを考えたのは雨のせいかもしれなかった。病室のカーテンを閉めるときに窓のそとに雨が流れておちていた。夜景が雨ににじんでいるのをみて、わたしは若いころに観た「ブレード・ランナー」という映画を思い出した。ルドガー・ハウアーが主役のハリソン・フォードを喰っていて、そこが気に入っていた。「どこからきて、どこに行くのか。そんなことはだれにもわからない」というくさいセリフと雨とか水とかがやたらに出てくる場面が印象に残っていて、それが窓のそとににじむ夜景とかさなったからだった。
人類の進化、といわれているけれど、わたしは進化ではなく変化だと考えるようになっていた。そもそも普通の動物には「こうなりたい」という理想の姿を思いうかべることよりも「きょうのえさをどうするか」「子孫をどうやって残していくか」ということのほうが重要で、理想の姿なんていうのはまず関係ないのだ。
どうして木のうえの安全な生活を捨てたのかと言うと、木がなくなったからだ。環境の変化でほとんどの木が枯れて、木のうえで生活することができなくなり、仕方がないからエサを求めて地面を歩くようになったとしか考えられない。エサを求めて、歩く距離はだんだんと長くなり、長い年月をかけて、長距離を歩けるように下半身から骨格を変化させていかなければならなかった。もともと頑丈な爪とかもない非常にひ弱な生き物なので、個体だけの移動ではほかの動物のえじきになりやすいから集団で身をまもりながら移動しなければならず、どうじにたくさんの子孫を残さなければ種としては絶滅してしまうおそれもあり、季節に関係なくウサギのように出産できるようにしなければならなかった。
草原をさまよう人間の祖先の憂鬱。生きのびるためにからだの骨格を変化させていくことはできたけれど、木のうえで暮らしていたときに獲得した安全な出産方法を変えるにはすでに手遅れだった。季節に制約されずに一年中子孫を産むからだにはできたものの、母胎にいる期間を短くすることや、一回の出産で産むことのできる頭数を増やすことはできなかった。
ほかのどんな動物にくらべて貧弱な筋肉しか持たず、ひ弱で、一度の出産でも一人しか産むことのできない動物である人間の祖先は、木からおりて地上に立った瞬間から、自然界では、ほかの動物のエサでしかない存在だったのだ。
喰われる存在でしかなかった人間は、ある時期では全世界で人口一万人にまで減ったと考える研究者もいる。これは、もう、種の絶滅の寸前の数字だ。
長い時間をかけてからだの骨格を変化させ、本来は育てやすい時期がきたら子を産む本能まで変えてまで生きのびようとした人間の祖先は、いくつもの亜種を派生させ、滅んだ。
わたしは窓を濡らしている水滴を見つめて「ブレード・ランナー」のくさいセリフをどの俳優が言ったのかを思い出そうとしたが、思い出せなかった。
喰われるために生まれ、次々と滅んでいった人間の祖先の亜種のなかで、一種だけかろうじて生きのびた種があった。その種はある遺伝子が突然変異を起こし、その結果、偶然「声」を手に入れた。わたしたちが、いま、だれでも持っている「声」をその種は動物のなかではじめて手に入れたのだ。その「声」を手に入れることができたので、それまで自然界で喰われる動物だった人間が喰う側にまわることができた。そして「声」を手に入れた人間の祖先は、その時点から種が枝分かれすることはなくなった。種としての絶滅の危険が過ぎ去ったことが本能でわかったのかもしれない。
「偶然だ」
わたしはそこまで考えて、眠くなってきた。
二週間後にわたしは退院した。帰るときは心配していた発作も起きず、何事もなく家まで帰り着いた。家は妙に静かだった。猫は玄関先には出てこなかった。
「猫は?」
「いなくなっちゃたの。あなたが入院した日から見当たらないの」
「入院した日から?」
「あの日に病院から帰ってきたら、いなくなっていたの」
「だって、戸締りはしていったんだろう?」
「あたりまえよ」
わたしはフローリングの床に置かれたちいさな白い皿を見た。妻は病院から持ち帰ってきたタオルや下着を大きなカバンから出していた。
「もしかしたら身代わりになったのかも」
「身代わりって?」
「あなたの身代わりよ。あなたの手術は大変だったのよ」
「江戸時代だったら呪術だな」
「つまらない冗談は言わないで。そうじゃないの。予定では長くても六時間と言われていたでしょ」
「なにが?」
「手術の時間よ」
「ああ、そうだっけ」
「そうよ。だけど八時間もかかったのよ、八時間も。C先生が、ロビーで待っているナポリターノさんとわたしに、腫瘍は予想よりも大きくて全部取り切れなかったって言ったわ。もしかしたら、左半身に麻痺が残るかもって」
「なんでナポリターノくんが来ていたんだ?」
「自分で、ナポリターノさんを呼んでくれって言っていたじゃない」
「そんなこと、言ったか?」
「言ったわよ」
「それで?」
「だから、C先生が、もしかしたら、左半身に麻痺が残るかもって言ったの」
「そうか」
「そうよ。だから、わたし、左手が動かせるかどうか、すぐに聞いたじゃない」
「麻痺は残っていないよ。普通に動かせる」
「だから、猫が身代りになったんじゃないかと思うの」
「まさか」
「わたし、ナポリターノさんに聞いたの。かわいがっていた猫が急にいなくなるなんて、そんなことがあるかどうか。あなたの手術が長引いて、うまくいったから良かったけど、家に帰ってきたら猫がいないんだもの。だれかに聞きたくなるわよ」
「そりゃ動物だから、どこかに行っちゃうことだってあるだろ」
「でも、ナポリターノさんは、そういうことはあるって言っていたの」
「そういうことって?」
「だから、身代わりよ」
「偶然だろ、そんなこと」
「ナポリターノさんは、子供のころ、近所に病気の男の子がいて、その子が死にそうになったとき、可愛がっていた猫が急に姿を消したのに気がついたの。そして、しばらくしたらその男の子は元気になったって」
「猫はどこに行ったんだ?」
「そんなの、ナポリターノさんだって知らないわよ。でも、ナポリターノさんはそれから猫の姿は見てないって言っていたわ」
「今度のこともそれと同じだって言うのか」
「わからないわ」
「俺はそれほど可愛がっていたとは思わないけどな」
「あなたはそうかもしれないけど、あの子にとっては、そうじゃなかったのよ、きっと。とても嬉しかったのよ」
「だけど、なんでナポリターノくんを呼んだんだ?」
「だから、じぶんでそう言ったって、言っているじゃない」
「ナポリターノくんは、ノリコちゃんのこと、話していなかったか?」
「ノリコちゃんでだれよ?」
「もう、いいよ」
「よくないわよ。ノリコちゃんて、だれよ」
わたしはフローリングの床の上に置いてあるちいさな白い皿を左足の親指ですこし押した。指先に皿の冷たさが伝わってきた。妻はどんどんせまってきた。
「あ、頭に道がある」
と夕食を食べていた妻が髪の毛が不揃いに伸びてきたわたしの頭を見て、そう言った。
「道、道。頭に道がある」
わたしは右手の指を傷跡に沿って撫ぜてみたけれど、その道を辿ることはできなかった。
「そんなにはっきり見えるのか?」
「見えるときと見えないときがあるけど、見えるときははっきり見えるよ」
「そうか」
「面白いから、もっとよく見せて」
妻は椅子に座っているわたしの前に立ち、上からわたしの頭をのぞきこんだ。
「見える、見える」
「よく見えるか?」
「細い道がつむじの後ろの方まであるよ」
不揃いの髪を指で左右にかきわけてのぞきこんでいたが、しばらくすると
「あ」
と言った。
「足跡がある」
「え」
「動物の足跡がある」
「何だって?」
「動物の足跡みたいなのがふたつあるよ」
「頭にそんなのはないだろう」
「でも、ちいさいのがふたつある」
右手の人差し指で撫ぜてみたけれど、さっきと同じようにさっぱりわからなかった。
「見たい?」
「そりゃ、見たいさ」
「ちょっと待ってて」
妻はわたしの頭頂部をスマホで撮影した。
「これでわかるよ」
妻が手渡してくれたスマホの画面には見慣れない形の頭が写っていた。その頭を縦に割るように一筋の肌色の道があった。道はかなりはっきりと見えた。しばらくするとそこからまた髪の毛が生えてくるとC医師は言っていたけれど、その道を見ていると、そう簡単に生えてくるとは思えなかった。妻の言う足跡は後頭部の近くの道に沿ってふたつあった。
「なんか丸いのがふたつあるね」
「足跡みたいでしょ」
「まあ、そう言われてみればそんな気もするけどねえ」
「きっと、足跡よ」
「何だか、こじつけみたいだな」
「でも、小さいのがふたつあるよ」
「そりゃ、ハゲだよ。ただのハゲだ」
わたしがそう言ったとき、リビングの隅からチンという音が聞こえた。その音のした方を見たら、猫にエサをやるときにいつも使っていたちいさな白い皿が真ん中からふたつに割れていた。
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