ナポリターノくんと、わたし

Dexter Gordon 2016

第1話 ナポリターノくんと、ノリコちゃん

 しいて言えば痔には悩まされております。歩いているときに痔が出ることがよくあります。肛門にじんわりと体液がにじんできて下着が尻に貼りつき、しばらくすると冷たくなり、ああ、また痔が出てきたんだな、とわかります。はみ出してきた痔をひっこめようとして、空を見上げて歩きながら、尻の両側を持ち上げるように肛門にちからを入れて肛門括約筋をぐっと締めますが、そのときにはみ出していた痔がぜんぶ元通りにひっこむわけではなく、たいがいは小指の第一関節くらいははみ出したままです。そんなふうに中途半端に出たままでいると体液がよけいににじみ出てくるので、もういちど肛門括約筋を締めますが、そうかんたんにはひっこみません。しかたがないので周りを見渡してから民家の塀を背にして立って右手を背中から下着のなかにつっこみ、人差し指と中指ではみ出た痔を中に押しこみます。いちどで戻ることもありますが、指先からつるっと逃げることもよくあります。そういうときはもうあきらめて手近にある公園のトイレを探すしかありません。トイレに行ってゆっくり押しこまないと、かえってたくさん出てきてしまうことがあるからです。だから、わたしは公園のトイレがどこにあるのかをよく知っています。

 歩いていると痔は出やすくなりますが、痔が出るのに歩く距離は関係ありません。歩きはじめてすぐに出てくることもあるし、さんざん歩き回ってもうすぐ家に帰りつくというときにはじめて出てくるときもあります。季節も関係ありません。四季を通じて出てきます。時間帯も関係ありません。昼夜を問わず出てきます。そのたびに右手の人差し指と中指をつかって歩きながら押しこみます。ですが、失敗ばかりします。失敗してよけいに下着に体液がついてしまいます。痔を戻すのにうまくいっても失敗しても、指についた臭いをつい嗅いでしまいます。他人の臭いは嗅ぎたくありませんが、じぶんの臭いなので平気です。でも、そういうことは人前ではやめたほうがいいと思っています。思ってはいますが、なかなかやめられません。


 ハローワークの建物の周りにはおおぜいの人がいました。外国の方の姿もありました。なにか事件でもあったのかなとおそるおそる近づいてみたら、そのおおぜいの人は仕事を求めて建物に入ろうとして入りきれないであふれている人たちでした。そこにいる人たちは怒鳴りあっているようにおおきな声で話していました。それでも人混みをかきわけて建物の中に入りました。中はたくさんの人がいて、二階につづく階段にも人が並んでいました。行列の最後がどこだがわかりませんでした。建物の外につながっているようでしたが、まったく見当がつきませんでした。それなので、あっさりと帰ることにしました。ハローワークの建物の中にちらっと入っただけなので、まるでハローワークまで散歩をしにきたようでした。帰ろうとして人をかきわけているとわたしが以前に勤めていた職場で午後から夕方までアルバイトをしていた男を見つけました。おそらくもう三十歳くらいにはなっているだろうと思いますが、彼はアルバイトの身分だと将来が不安だから正社員雇用の会社を探しに行きます、と言ってアルバイトを辞めました。しばらくしたら、会社に就職した、と事務所に連絡が入ったと聞いて安心しておりましたが、その彼をハローワークのひとごみの中で見つけてしまいました。彼はわたしに気がつかなかったので、わたしも声をかけませんでした。ハローワークで知り合いに会いたくなかったから彼もそうだろうと思ってぼんやりと彼を見ておりました。それにまだ三十代なかばの彼がなかなか仕事を見つけられないのですから、五十歳を過ぎたわたしを雇う会社はそうそう見つからないし、わたしとしてもこれといった資格とか特技は持ち合わせてはおりませんから、よほどもの好きな会社じゃないと採用はされないとじぶんでも思っているところでしたからつい彼に身の上話しをしてしまいそうになりそうでした。

 よく見かける募集広告ではトラックの運転手というのがありますが、それはわたしにはできません。自動車を運転するのが好きだからトラックの運転手をやっているという人と話しをするとたしかにその人は自動車を運転するのはわたしよりも好きなようです。いったんトラックで会社の外へ出ればあとはじぶんのペースで作業をすすめられるから気持ちも楽だと思います。ですが、公道でトラックを運転していれば交通事故に会う確率は事務所で仕事をしているよりも格段に高くなると思います。わたしは交通事故にはかかわりあいになりたくはありません。被害者にもなりたくはないし、加害者にもなりたくはありません。仕事を選り好みしている場合ではありませんが、どうしてもできない仕事というのもあるのです。わたしは、そのままハローワークから帰りました。ハローワークまで歩いていくときの、もしかしたら仕事が見つかるかもしれないという期待もあっと言う間にかき消されてしまいました。

 ハローワークに行くには私鉄の線路を右側に見ながらそれに沿って歩いていきますが、しばらく歩くと踏み切りにぶつかります。その踏み切りでは線路の向こうには渡らず、踏み切りに沿って車道を横断します。車道の手前側では踏み切りを渡りきったばかりの自動車が右側から加速してわたしの前を通り過ぎていきます。反対の車線では踏み切りが閉まる前に渡りきろうとする自動車が猛スピードで走ってきて停止線ぎりぎりで停まるのがほとんどです。それらの自動車の行き来を見極めて車道を横断するのはなかなか至難の業です。それでも自動車の流れをじっと見ていると流れの切れ目がわかってくるので渡ることができます。当たり前ですが、渡るときは急いで歩きます。日ごろの運動不足がたたって若いころのようには走ることはできませんが、できるだけ急いで歩いています。あと五、六歩で車道の向こう側に着く、というときに警報が鳴り出して踏み切りが閉まり始めることがよくあります。そんなときはなんだかガッカリしてしまいます。命がけというのは大げさかもしれませんが、そういうつもりで自動車の流れを見極めて車道を横断してきたのに向こう側の歩道にもうすこしで到着するという直前に警報が鳴り始めると、それまで注意深くしてきたことがバカらしく思えてきます。警笛が鳴れば身の安全がはっきりとわかるのはとてもありがたいことなのですが、それなら「あと三分で警笛が鳴ります」というような合図でも出してくれればもっとありがたい、といつも警笛を聞きながら考えます。もしも合図があれば、なにもあぶない思いをして車道をむりやり横断しないでも三分間くらいは歩道で待っていることだってできます。命の安全をもっと確実に確保できると思うのです。だれだって死にたくはありません。といってずっと生きていることができるわけではなく、だれもがいずれは死んでしまうのですが、それでも納得できる死に方というものを選ぶ権利は持ちえているはずだと思うのです。そうはいっても未来のことは五分先のことだってだれにもわかりません。わたしはそんなことを漠然と考えながら踏み切りの前の車道をいつもやり過ごしています。ここまで歩いてくると血のめぐりが良くなっているのか、どういうわけか、かなり楽しい気持ちになってきます。それからしばらくは平坦な道がつづき、線路を右側に見ながらわたしは線路脇に咲いたちいさな黄色い花を数えて歩きます。そのうちに小刻みにレールを叩く車輪の音がうしろから聞こえてきて、その音が近づいてきたなと思うと風を巻き起こして電車が前方に走り去っていきます。ちいさな黄色い花は風にあおられて右に左に揺れて、ときおり虫がその花から飛び立っていきます。わたしは花から飛び立つ虫を見ているとその虫がうらやましくなりました。虫はすなおに生きるよろこびを味わって、たとえ短い時間であってもすこしの時間も無駄にしないで精一杯生きていると思うからです。虫には生きる目的がひとつしかありません。それは生きることです。虫はどうしてじぶんは生きているのだろうなどとは考えていないと思います。ただすなおに生きている。わたしはそれがうらやましくなりました。道の左側には家庭菜園用に貸し出しをしている畑があります。夏になると割り当てられたじぶんの菜園で実っている野菜を摘みに家族連れがたくさん訪れます。ちいさいこどもは土いじりが楽しいのか畑の中を走り回っているのを見かけます。まだ春先なので畑には何も実ってはいませんが蔓を巻きつける細い棒があちこちに立てられています。その畑を通り過ぎると駅があり、その駅をやりすごしてどんどん歩けばそのうちにハローワークに到着します。目の前に新しい展開が広がっているときほど楽しいときはありません。もしかしたらあと数分後には仕事が見つかって就職の手続きをしているかもしれない。そう思うとハローワークまで行く足取りも軽くなります。ですが、ハローワークまで行って、元アルバイトの彼の焦った顔を見かけて、彼があれほど焦っているのに五十歳を過ぎたわたしに仕事が見つかるなどということはとうてい無理なお話しのような気がして、春先の太陽はわたしを明るく祝福してくれている、なんていうそれまでの根拠のない幸せな気持ちはどこかに吹き飛んでしまいました。


 わたしが会社を辞めたのにはとりたてて理由はありません。五十歳を迎えた直後に「いまだったらあなたにだけ退職金を五割り増しにしてやるよ」という会社の甘言を鵜呑みにして妻とも相談せずに会社を辞めてしまいました。もらった退職金はじぶんで考えていた金額よりも多くはありませんでした。妻には言い出せず毎日毎日出勤するふりをしていましたが、しばらくしたら国民健康保険の振込み用紙が送られてきたので会社を辞めたことが妻にバレてしまいました。それからはハローワークで毎日のように職探しをしておりますがわたしの年齢ではそうやすやすとは見つかりません。退職金を取り崩しながらときどきアルバイトをして食いつないでいます。愚かな選択でした。これと言った志もないのに会社を辞めたこと以上に、いま辞めるとお金をくれる、ということを選んでしまったことが愚かでした。それにしても、五十歳を過ぎたオヤジには小銭に目がくらむ以外に人生の目標というものがあるのでしょうか。どうしたら小銭が手に入るかを考えるくらいで、真摯な目標なんてあるわけがありません。それどころか、わたしは五十歳になるまで人生の目標なんてことは考えたことがありませんでした。いえ、五十歳になるまで、というよりは会社を辞めるまで、と言ったほうが正しいかもしれません。会社勤めのころは決められた事務所に毎朝出勤して、なんとなく仕事をして、気がつくと一日が終わって、夜になったらぼんやり酒を飲んで酔っ払っておりました。そうやって、なんとなく定年になってなんとなく死んでいくのかなあ、とあまり深く考えることもしませんでした。いつからそうなってしまったのかはわかりません。わたしだって生まれたときからオヤジだったわけではありませんから、それなりの若いころはありました。肌の艶はいまと比べようもなくすべすべしておりましたし、今日はどんなにきれいな女性に会えるのか、もしかしたらその女性と思いもよらない展開になるかもしれない、などと毎朝楽しみに目を覚ましておりました。そういう日々はたしかにありました。学校を出て就職先を探すのも学校には頼らず新聞広告で見つけたスーパーマーケットのチェーン店に就職できました。学校を出るときにはもしかしたら就職できないかもしれないなどとはまったく頭にありませんでした。多くの学生が就職課を頼るのにわたしはじぶんで見つけたのです。それはおかしな自信になりました。ほかの学生は目の色をかえて毎日就職課に行っていたのにわたしはそんなことはしませんでした。そもそも成績が非常に悪くて就職課では相手にしてくれませんでした。それが、行き当たりばったりであっさり就職できたのですから、この先もなんとかなると思って将来についての不安や心配なんかはまったくなかったのです。運がいい、なんでもできる、と、うぬぼれておりました。将来はなんにでもなることができる、いまはそのための準備期間だ、などといまからふりかえるとまことに恥ずかしい若僧でした。就職し、上司の言うとおりにからだを動かして、疲労がこころの充実感を満たし、毎日をそうやって過ごして一ヶ月に一度は給料がもらえる状態になったのでもう気持ちが楽になって将来は何かになろうなんていう青年らしい思いは吹き飛んでしまい、食事をしてお酒を飲んで寝て起きてという暮らしで充分した。ある意味では幸せな毎日でした。そうやって何も考えずに五十歳を迎えました。だから、人生の目標なんて何もありませんでした。そうやって人生を五十年以上も過ごして男に目標を持ちえるはずもないのです。

ふしぎなもので、失業をしてからじぶんのこどもの年齢とおなじくらいの青年と知り合うことができました。会社勤めのころにはそんなことがおきるとはまったく思ってもいませんでしたから、妙な気分でした。その青年はナポリターノくんでした。

 無職の初心者のころで、金もないのに駅前の立ち飲み屋でしばしば夜中にひとりで飲んでいたときに、その店のカウンターのとなりに立ったのがナポリターノくんでした。ナポリターノくんはじぶんの話しを聞いてほしいようでさかんにわたしに話しかけてきました。わたしはじぶんの失業がいまだに信じられない状態でした。どうして会社を辞めてしまったのか、小銭に目がくらんだのはわかっていましたが、どうして小銭に目がくらんだのか、じぶんでもわかりませんでした。安定して金を得る生活を失って、立ち飲み屋の油だらけの汚いカウンターに目玉のように浮かびあがっている木目をじっと見つめてビールを飲んでいるじぶんじしんが信じられませんでした。ですから、となりでナポリターノくんが

「世をすねているんですよ」

と言っているのはどうでもいいことでした。うるさいから早くどこかに行ってくれないか、と思っておりました。

「小説を書きたいんですよ」

という言葉に「くだらない」と思いました。書きたいなら書けばいいじゃないか、と思いました。書きたいなら書けばいいんです。それを「書きたいものが見つからないから書けない」とか「何を書いていいのかわからないから書けない」と屁理屈ばかり言うので、初対面で申し訳ないとは思ったのですが、じゃあ、こんなところで酒なんか飲んでいないで帰って書いてみたらどうですか、と諭しました。そんなことを言うなんてことはふだんのわたしからはとうてい考えられないことでしたが、言ってしまいました。ナポリターノくんは初対面のオヤジから思ってもいなかったことを言われたようで目を丸くしていました。わたしはグラスにビールを注ぎ足して飲みました。青年が怒り出してわたしに殴りかかってくるのなら、それはそれで受けて立とうじゃないか。負けるとわかってはいましたが、そのときは殴り倒されてもいい気分でした。ナポリターノくんはわたしの横に立ってビールの入ったじぶんのグラスをしばらくじっと見つめていたけれど、突然わたしのほうに向きなおり

「先生」と言いました。

「え?」

「いまから、あなたのことを先生と呼ばせていただきます」

「え?」

「いままで、ボクにそんなことを言ってくれるひとはいませんでした。じぶんでも薄々は気がついていたのですけど、それを認めてしまうのがいやでした。でも、いま初対面にもかかわらずそう言っていただけたのには、ボク、すごく感動しました。先生と呼ばせてください」

 立ち飲み屋にはほかにもお客さんがいるのに、ナポリターノくんは騒がしい店内のだれにでも聞こえるくらいの大声でもってわたしに迫ってきました。あまりの声のおおきさにケンカでもおきたのかとほかのお客さんは急にしずかになりました。しばらくすると店内の端のほうから

「いよ! 先生。いいぞ!」

とかけ声がかかり、それにつられていっせいに拍手が鳴りました。酔っ払いの拍手ですからちから加減ができず、夜も遅いのにやたらにおおきな拍手でした。

「先生、その若いのを弟子にしてやれよ!」

「先生、おれからも頼むよ」

「おれも先生の弟子にしてくれよ」

あちこちからかけ声がして、店内にはとつぜん異様な熱気が充満して、そのうちに誰かが「どんぐりころころ」を歌いはじめました。それにつられて手拍子が入り、となりのひとと肩を組んで歌いだすひともいました。

「先生、先生、あんたも歌わなきゃダメだぞ、歌え、歌え」

 となりに立っているナポリターノくんを見ると顔をまっかにして歌っていました。わたしは店を出ようとしましたが、ナポリターノくんがわたしの左手をぐっと掴んで引き寄せるので、しかたなくわたしも「どんぐりころころ」を歌いました。それ以来、その立ち飲み屋に行くとわたしは「どんぐりころころの先生」と呼ばれています。


 ナポリターノくんは大学で経済学を専攻している学生ですが、経済学を専攻したのは他を専攻した学生よりも就職のときに有利になると母親に言われたからそうした、とわたしに話してくれました。本当は文学部に行きたかったそうです。ちいさいころから本を読めと言われていて、いつの間にか作家に興味を持ち、じゃあじぶんも作家になりたくなったから、文学部に行けば作家になれると思っていたそうです。作家になって何を書きたいのか、じぶんでもまったくわかっていなくて、でも何だかカッコイイ感じもするから、高校生の最後の夏に両親にそう言ったら、父親が激怒して、自衛隊に入隊して性根を叩きなおしてもらえ、と怒鳴られたそうです。作家なんてとんでもない。文学部に行ってもふつうの就職口はそうそう見つからないし、とくにおまえなんか出来のいいほうじゃあないから経済学部にしろ、でなければ自衛隊に入隊して家計を助け国民を助けなさい、と母親からもさんざん言われ、じゃあちいさいころからたくさん本を読めと言ってきたのは何だったのかと、そのとき愕然としたそうです。ナポリターノくんじしんは親孝行のつもりもあってそう言ったのかもしれませんが、頭ごなしにダメ出しをされて、やけになって経済学部に入ったそうです。ふつうの就職口とはどんな就職口なのかはわたしにはわかりませんが、たしかに経済学部の就職先は他の学部よりはたくさんあるとは思います。しかしナポリターノくんが大学の経済学部に入学したのは二年間の浪人のあとで、卒業するときの年齢を考えたら、もうその時点で経済学部出身の就職の有利性はほとんどありませんでした。大学に入学した時点で就職への有利性がなくなっていたのは両親もぼんやりとはわかっていて、就職も数年先のことなのであまりくちやかましくは言わなくなったそうです。気持ちが楽になってからナポリターノくんは経済学部なのにときどき文学部の講義にもぐり込んで受けていました。でも、作家になるための講義はぜんぜん見当たらず、やがてじぶんが関心を寄せる講義が文学部にはひとつもないことがわかり、もとより経済学部にも関心はありませんでしたから、やがて大学にも行かなくなりました。ナポリターノくんはそれでも作家になりたいと思っていましたが、そんなことはもう考えるのがだんだんめんどうくさくなり、働いてもいないのに世をすねたような生活をするようになったそうです。


 小銭に目がくらんで会社を辞めてしまったことよりもハローワークに行けばすぐにでも前途が開けると思ったじぶんがばかだったと見当ちがいに気落ちをして駅前を通り過ぎ公園にさしかかるとホラ貝を吹いているような音が聴こえてきました。何かが中につまっているような音で、よく聴いてみると音階のようでした。その音を聴いているうちにもしかしたらホラ貝ではなくてバクパイプかもしれないと思いました。バクパイプを生で聴けるのはかなり珍しいのであたりを見回すと、公園のまんなかあたりにある水の出ていない噴水のそばに青年が立っているのが見えました。奇妙な音はその青年のそばから聴こえていました。わたしはゆっくりとその青年に近づいていきました。その青年は両肩を小刻みに震わせてからだを前後にゆすっていました。そのたびに音がおおきくなったりちいさくなったりしていました。よく見ると、その青年はナポリターノくんでした。

「ナポリターノくん」

 わたしが声をかけるとナポリターノくんはビクッとからだを震わせました。

「そんなにおどろくことはないだろう」

「いや、ビックリしました」

「それはどうしたの? 」

 わたしはナポリターノくんが首から下げている楽器を指さしました。

「これはサックスです」

「そりゃ、見ればわかるよ」


 わたしが痔になったわけのひとつには若いころにサックスを吹いていたことがあると思います。学校を出て働きはじめるようになったらすこし手もとに金が貯まるようになりました。わたしは金の遣いかたを知らなかったし、おまけに就職できたじぶんに酔っていて、気がおおきくなりなんでもできるとうぬぼれてもおりました。それで衝動的に中古のサックスを買いました。見た目がハデな楽器ですから女の子にもてるだろうと思ったからです。演奏の経験などそれまでまったくありませんでしたのでサックスについていた付属の教則本を見ながら楽器を組み立てました。ところが、教則本通りに組み立てていくら息を吹き込んでみても音がまったく出ませんでした。有名なサックス奏者のエッセイには「サックスは走っている電車の窓からマウスピースを外に出しただけで音が出る。それほど音を出しやすい楽器だ」と書いてありましたが、いくら息を吹き込んでもウンともスンとも言いませんでした。プラモデルを組み立てるよりも簡単なのに教則本通りにやってもまったく音が出ないのはおかしいのでもう一度教則本に書いてある絵を見るとどうして音が出ないのかがわかりました。わたしはマウスピースそのものの天地をさかさまにして取り付けておりました。それほどの素人であったのです。それでマウスピースをつけ直してようやく音が出るようになりましたが、出る音はすべて豚の悲鳴のような音ばかりでした。音階にはほど遠い雑音ばかりで、わたしが音を出すと近所の柴犬がびっくりして遠吠えをはじめるという具合でした。出てくる音の音量だけはおおきいので家の中で吹くと近所迷惑になり、近くの公園で練習をすることにしました。が、そこでは柴犬が吠えるかわりに草むらの中から垢だらけのおじさんが出てきました。わたしはそのおじさんに怒鳴られるのかと身構えましたが、そのおじさんはわたしを哀れむような目をして

「君、楽器をマスターしたいのなら先生についた方がいいよ」

と、その風貌に似合わない紳士的な物言いで話しかけてきました。わたしがぽかんとしていると

「だって、ドの音が合っているかいないか、君、わかってないだろ」

と、おだやかに言ってがさがさと草むらに消えていきました。言われてみれば、まさしく、その通りでした。じぶんの出している音のチューニングが正しいのか正しくないのか、その当時のわたしにはわかっておりませんでした。それから先生について練習を重ね、ついにはライブハウスで演奏できるようになりました。そのうち、わずかではありますがギャラもいただけるようになりました。女の子にもちやほやされたことも何回かはありました。ちやほやされはじめたころ、尻の穴から痔が出てきたのです。管楽器を吹くには腹式呼吸が大事で、それを日常的に続けていたから、とうとう痔になったのです。志がなかったから痔になったのかもしれません。そういう具合なのでサックスには馴染みがありました。

「このサックス、どうしたの? 」

「家の押入れから出てきたんです」

「え? ナポリターノくんのじゃないの?」

「どうも親父のらしいです」

「へえ。ずいぶんモダンなおとうさんだね」

「え?いまどき『モダン』だなんて言いませんよ」

「そうか。じゃあ、何て言うの? 」

「イケてる、でしょ」

「ちょっと、吹いてみてよ」

 わたしがそう言うとナポリターノくんは得意そうにニヤッと口を曲げました。ですが、ナポリターノくんの出す音は残念ながらサックスの本当の音ではありませんでした。ナポリターノくんは顔を真っ赤にして苦しそうに吹いているので、わたしは思わず

「ズボンのベルトをひとつ締めて吹くといいかもよ」

と言ってしまいました。ナポリターノくんはふしぎそうにわたしを見ましたが、すなおにベルトの穴をひとつ縮めてから、もう一度サックスを吹きました。すると、さきほどよりも音に芯が出てきました。

「先生、良くなったです」

「そうだね」

「どうしてベルトを締めると良くなるって知っていたんですか? 」

「重量挙げの選手がお腹にベルトを巻いているからさ、それとおなじかなと思ったんだよ」

「へえ。そうですか」

 ナポリターノくんはじぶんの音が変わったのがわかったのか調子にのって吹き続けました。

「さっきより楽に吹けますよ」

「そりゃ良かった。あとは好きなサックス奏者を見つけて、そのひとの真似をするとうまくなるよ」

「本当ですか? 」

「最初はすべて真似からだからね」

「へえ。そんなもんですか」

 ナポリターノくんは意外にあっさりとしていたのでわたしも若いころのよけいな話しをしないですみました。

「サックスってけっこうデカい音が出ますよね」

「そうだね。デカいね」

「ところで、小説はどうしたの? 」

「ああ、あれは書こうと思えばいつでも書けるからいいんです。それより、あの女の子、うるさそうな顔をしていませんか? 」

 ナポリターノくんがあごでしめした方にはベンチに座った女の子がいました。女の子はベンチに座って足をぶらぶらさせていました。

「べつに、そんな顔、していないよ」

「そうですか」

「そうさ。どっちかというと笑っているようだね」

公園の端に据えつけられたベンチにひとりで座っていた女の子はわたしとナポリターノくんのやりとりをずっと見ていたようでした。さっきまではだれもいないと思っていたのに、いつからベンチに座っているのか気がつきませんでした。

「あ、こっちに来ましたよ」

 その女の子はベンチからずるずると降りるとわたしたちに向かって走ってきました。そんなに走ると転ぶぞ、と声をかけようとしたとたんにその女の子は転んでしまいました。ナポリターノくんがサックスを首からぶら下げたまま急いで駆け寄ってその女の子を抱き起こして、ほこりを払ってやりました。女の子はナポリターノくんに抱き起こされてすこし安心したのかにこにこ笑って、ナポリターノくんと手をつないでわたしのところにやってきました。ピンクのかわいいワンピースを着てあたまにはおおきなピンクのリボンをつけていました。

「おじさん、わたし、お使いなんだ」

 女の子はにこにこしてわたしにそう言いました。

「そうなの。えらいね。いくつ?」

「四歳。お使いなの」

「おかあさんは?」

「おうちにいるの」

「え、じゃあ、お使いにはひとりで来たの?」

「そうよ。ひとりでお使いなの」

 女の子はちいさい手の平を広げてわたしに見せてくれました。右手には葉っぱが一枚載っていました。風が吹いて葉っぱが飛びそうになったので女の子はあわてて左手でぱちんと葉っぱを押さえました。

「これがないとお使いできないの」

「そうなの? 」

「そうなの」

「でも、きょうはもういいの」

「お使いはおしまいなの? 」

「うん」

「ひとりでおそとに出るとこわいおじさんにさらわれちゃうから、ひとりでおそとに出ちゃだめだよ」

「おじさん、こわいひとなの? 」

「そうかもね」

「おじさん、あしたも来る? 」

「さあ、わからないな」

「あたしは来る。だから、来てね」

「雨が降らなきゃいいけどね」

「そうね。雨降りはあたしもいやなの」

 女の子は握っているナポリターノくんの手をうれしそうに前後にゆすりました。

「おうちはどこなの。おじさんが送っていってあげるよ」

「すぐ近く」

「ここから近いの? 」

「すぐ近く」

 そう言って女の子は公園のとなりの塀に囲まれた大きな二階家を指差しました。門の中には公園とおなじような木が何本もある広い庭があり、その奥には白い玄関の扉を見えました。

「じゃあ、玄関まで送っていってあげるよ。もうおうちに帰りなさい」

「うん。そうする。一緒にいこう」

 思いのほか聞き分けがいいな、とわたしはすこしうれしくなり、女の子と一緒に歩きはじめました。ナポリターノくんは、もうすこしサックスを練習します、と言って公園に残りました。

 女の子と一緒に門の前にたどりつき、わたしが広い庭にみとれているといつの間にか女の子は門の中に入っていました。どこかにこどもが入れる隙間があったのかもしれません。わたしはかがみこんで門の中にいる女の子に話しかけました。

「あぶないからひとりでおそとにいっちゃだめだよ。わかった? 」

「うん。わかった。おじさん、明日も来る? 」

「わからないなあ」

「あたしは来るよ。じゃあね、バイバイ」

 ちいさな手を振ると女の子は玄関まで走っていって、それから振り返ってもういちどわたしに手を振ってから家の中に入っていきました。わたしは胸の中にあかりが灯ったような気持ちになりました。ナポリターノくんはサックスを持ったまま、わたしが戻るのを待っておりました。

「かわいい女の子でしたね」

 ナポリターノくんもにこにこ笑っていました。

「ああ、かわいい子だったね。それにしても、こどもをひとりで外に出すなんて、どういう料簡の親だ」

「そうですよね、あぶないですよね」

「サックス、しまいなさい。わたしの家でビールでも飲もう」

「え?」

「落ち着いてビールを飲もうと言っているのさ。さあ、早く片付けな」

 わたしは、子ども用の棺おけのようなサックスケースをぶら下げているナポリターノくんといっしょに家に帰りました。すこしだけ気分が晴れた帰り道になりました。


 翌日は朝から雨が降っておりました。わたしはあの女の子との約束があったのですが、雨が降っているので女の子も外には出ないだろうし公園に行くのはやめにしようかと軒先の雨を見ながら考えました。ですが、もしも女の子が公園で待っていたら約束を破ったことになってしまいます。それに、ひとりで待っているかもしれません。雨の日にちいさなこどもをひとりで外に出す親なんていないでしょうから、公園にいるとすれば親に黙ってこっそり出てくるにちがいありません。いくら公園の前に家があるからといって四歳の女の子がひとりで雨に日に出歩くのはあぶない。うっかりおかしな約束をしたな、と悔やみましたが、あの女の子の親でもないのに家にいてあれこれ心配をするよりは公園に行って見てくれば気持ちもおさまるので傘をさして出かけました。

 踏切の前の二車線の道路をやっと渡りきったわたしはゆっくりと歩きながら傘からぽたぽたと滴る雨粒を見て、バディ・ボールデンの逸話を思い出しました。バディ・ボールデンのコルネットがあまりに素晴らしいので外で降っている雨が空中で止まったという話しです。そんなことはありえないのですが、それほどすばらしい音色であれば一度だけでも聴いてみたかった。線路脇で雨に濡れてうなだれている花のつぼみを見ました。花のつぼみは春の雨を浴びてから太陽の日差しを受ければ白や黄色の花を咲かせるのですが、わたしじしんは雨に濡れたら濡れたままで、そんな花を咲かせることなどできません。このまま仕事も見つからずに蓄えを食いつぶして死んでしまうのだろうかと、線路脇の花のつぼみがとてもうらやましくなりました。花のつぼみの近くを電車が通り過ぎましたが、その音はなんだか遠くから音が聞こえてくるような気がしました。

 公園にはだれもおりませんでした。わたしひとりだけでした。公園の端にはおおきな桜の木が何本も植えられていましたが、春のはじまりというよりも冬のおわりといった枝ばかりで寒々として、ときおり吹いてくる風がいっそう寒く、雨の日に公園なんかに来るもんじゃないな、とくやみました。さびしさが、公園まで雨に濡れてひとりで歩いてくるわたしのためだけに用意されていたようで、わたしは後頭部から髪の毛が知らないうちに一本一本抜けていく気がしました。靴は冷たい水に濡れてつめたく、わたしはやけくそになって水溜りもおかまいなしに公園の中をぐるぐる歩きまわりました。歩きまわったところで雨が止むわけでもないし、失業しているわたしがどうなるわけでもありません。そんなことはわかってはいましたが、じぶんじしんが情けなくなってきて、歩きまわらずにはいられませんでした。水溜りばかりの、土がむきだしの地面を見ながらうつむいて歩いていたので公園を何周まわったかはわかりませんでした。歩きつかれて帰ろうとして公園の出口に来たときにナポリターノくんといきなり会いました。

「先生」

「あ」

「あの女の子、いないですか? 」

「ああ、いないようだね」

「よかった」

「どうして? 」

「だって、心配ですよ」

「そうだね」

「そうですよ」

「じゃあ、ひきあげようか」

「さびしいけど、そうしましょう」

わたしたちは公園を出ました。考えてみれば、女の子が心配で公園までやって来たので、その女の子のすがたが見えなかったというのは安心すべきことでした。わたしは無駄足じゃなかったと思って歩きはじめました。すると、うしろから声がしました。

「おじさん」

 振りかえると腰より下のところにピンク色のちいさな傘がくるくるとまわっておりました。

「おじさん、来たの? 」

 わたしはとてもおどろきました。ナポリターノくんとほんのいままで公園を見ていたときにはたしかに公園にはだれもおりませんでした。それがものの数秒もしないうちにわたしのうしろでピンク色の傘がくるくる回っていました。どこから現れたのかわたしたちには見当もつきませんでした。

「おじさん」

 その声は昨日の女の子の声でした。ピンク色の傘がうしろにさがったと思ったら、傘の下から女の子がうれしそうに顔を出しました。

「あ、おじさん、濡れているよ」

「そうなんだよ。困ったな」

 わたしはあわてて女の子に言いました。

「おじさん、かわいそうね。おにいさんは、楽器、きょうは持っていないの? 」

 女の子はませている、とは言いますが、なんだか四歳の女の子とは思えないようなくちぶりでした。

「あ、あ、あ、雨だからね。雨の日は楽器が濡れちゃうからね」

「そうなの」

「そうなんだよ」

「おじさんたち、これから帰るの? 」

「そうだよ」

「じゃあ、わたしも帰る」

「そうしなさい。お家の前まで送っていくよ」

「うん。いっしょに帰ろう」

 私たちは公園の反対側の出口まで歩いて行きました。公園の中は水溜りがあちらこちらにあってまっすぐには歩けませんでしたが、女の子はピンクの長靴で水溜りに走りこんで水がはねるのをよろこんでおりました。不意にこちらを振りむいてわたしに駆けよってくると、

「あたし、ノリコっていうんだ」

と言いました。ノリコちゃんのはねあげる泥水がわたしのズボンの股間あたりまで飛んできました。

「そうなの。ノリコちゃんっていうんだ」

「うん。おじさんは? 」

 わたしはじぶんの名前を言いました。すると、

「おじさん、いい名前だね」

「そうかい。ありがとう。ノリコちゃんだっていい名前だよ」

「おにいさんはなんていうの? 」

「ナポリターノ」

 ナポリターノくんがわたしのうしろで答えました。

「ふーん。へんな名前」

 そう言ってまた水溜りに走りこんで行きました。わたしは女の子が水溜りでころばないかハラハラしながら見ておりました。公園の出口に近づくとノリコちゃんは、

「あそこがあたしの家だよ」

と、昨日も見た家を指差しました。家は雨に煙っておりました。広い庭のすみにはちいさな鳥居と稲荷の祠が木の陰にぼんやりと見えました。くすんだ幟が雨に濡れているのにゆらゆらしておりました。ノリコちゃんの家の門の前でノリコちゃんはわたしを見上げて言いました。

「もう帰る」

「こんどはひとりで外に出ちゃだめだよ」

「うん。わかった」

 自動車がわたしたちのそばを通り過ぎようとしておりました。わたしとナポリターノくんはノリコちゃんをかばうように門の近くに立ちました。目のすみでピンク色の傘がくるくると回っているのが見えていました。自動車はゆっくりとわたしたちのそばを通り過ぎていきました。ノリコちゃんを門の中に入れようと振りかえったら、門はぴったりと閉ざされていて、ノリコちゃんはもうすでに庭の中に立っていました。わたしは

「あれ、ノリコちゃん、もう庭に入ったのかい? 」

と言うと、ノリコちゃんはにこにこ笑いながら

「うん。そうだよ。あたし、早いんだ」

とうれしそうに傘をくるくると回しておりました。ナポリターノくんもおどろいて、わたしとノリコちゃんの顔をさかんに見比べておりました。門はわたしたちが自動車を避ける前とおなじようにぴったりと閉まっていて、だれかが触ったようなには見えませんでした。だいいち、音がまったく聞こえませんでした。上から門の内側をのぞき込んでみるとカギがおろされておりました。庭の中にひとがいればカギがおりているのはふしぎではありませんが、四歳の女の子がやったにしては素早すぎるのでどうにもわけがわかりませんでした。それでもノリコちゃんが無事に家のなかに入っていったのが見えたのでわたしたちは公園を横切って帰りました。


 ハローワークの窓口で紹介された会社は運送会社でした。トラックの運転などはできませんから、とお断りしたところ、募集しているのは運転手ではなくて総務職だと言われ、窓口の係員がむりやりその運送会社に電話を入れて、「これから面接をするからすぐに行ってくれ」と勝手に約束をとりつけてしまいました。

 ふたつ隣の駅で下車してから地図にしたがって二十分くらい歩きましたが、見えるのは民家ばかりで会社らしい建物は見当たりませんでした。浅い春の風はまだつめたかったのですが、午後の日差しの中を三十分も四十分も早足で歩き続けていたので背中にもじっとりと汗をかいてきました。気持ちの悪い汗でした。面接に行っても歳が歳だからダメだろうとは思いましたが、約束をしてしまったからにはどうしても約束の時刻までには行かなくてはわたしじしんの気持ちが済みません。ふくらはぎが攣りそうになるのを我慢して歩き続けました。それでも、会社らしい建物は見つかりませんでした。とうとう地図に記されているひとつの目印の公園のベンチに座り込んでしまいました。公園では学校が終わったこどもたちがおおぜい遊んでいました。もう帰ろう、と思って顔をあげたら、とても読みにくく達筆なのかそうでないのかも区別できない文字が書きつけてある木の看板が目の前の民家の玄関脇に打ちつけてあるのが見えました。その看板の木はどこかで拾ってきたような薄いベニヤ板で、玄関の脇に釘で打ちつけられていました。ハローワークで言われた会社名のように見えたのでその玄関ドアに近づいてチャイムを押そうとしたら、民家の中からおおきな笑い声が聞こえてきました。こどもたちの喚声しか聞こえないような住宅地でその家のなかから野太い声が聞こえてきて背中の汗が急に冷たくなりました。

 わたしがチャイムを押したのは約束した時刻にぴったりでした。玄関が開いて、サングラスをかけた赤い顔の、あたまの薄くなった七十を過ぎたような男が出てきました。その男はくちをもぐもぐさせながらわたしの姿を上から下までゆっくりと眺めまわしてから奥にむかって

「ドドナリ!」

と叫びました。その男はどうやらかなり酔っているらしく、ドアノブにつかまっていてもからだが左右にぐらぐらゆれていました。生臭い息で

「いま、ドドナリを呼んだから」

とわたしに言いました。

「あんた、面接の人か? 」

「はあ」

「そうか、そうか。おい!ドドナリ!早くしろ!」

 男はそう叫びながら奥にひっこんでいきました。入れ替わりに三十代なかばの若い男が出てきました。あたまを短く刈りこみ頬骨の出っ張った顔は、ひと目であの男の息子だなとわかりました。さきほどとおなじようにわたしの姿を上から下まで眺めまわしてから、試すような上目づかいで、

「面接の人? 」

と聞いてきました。この若い男も目のふちがほんのり赤くなっていて、息も生臭く、いままで酒を飲んでいたようでした。

「ねえ、面接の人でしょ? 」

「はあ」

「まあ、入ってください」

 わたしは言われるままにその民家に入りました。カチャカチャとすだれのあたる音のする数珠ノレンをくぐると板の間に通されました。元々の色が茶色だったのか赤だったのかがわからないくらい変色したカーペットを敷いてあるその板の間にあるテーブルの上には固定電話が一台あり、電話が隠れるくらいに書類が散らばっていました。その書類の隙間にはビールのロング缶が数本と焼酎の入ったおおきなペットボトルが置いてあり、テーブルの周りには三人の男と女がひとり、わたしがこどものころに見たような古い椅子に座っていました。さきほど出てきたサングラスの年寄りは板の間の上座と思われる場所に座り焼酎の入ったおおきなペットボトルを手元にひきよせて、そのなかの透明な液体を寿司屋の湯飲みに注いでがぶがぶと飲んでいました。そのとなりに座っている女はその男の奥さんらしく、しきりに男の湯飲みの中をのぞきこんでいました。残りのふたりは向かい合わせにテーブルについていました。あたまの薄くなった小太りの男で、顔つきから察するとどうやら双子の兄弟のようで、それが缶ビールを飲みながら書類をめくっては置き、めくっては置きを繰り返していて、手のひらがテーブルにあたるたびに、ぺったん、ぺったん、と音をさせていました。そのふたりのしぐさを見ているとおかしな角度から鏡を見ているようでめまいがしてきました。部屋中が酒臭く、どうやらかなり前から酒を飲んでいたようでした。

「まあ、座ってくださいよ」

 ドドナリと呼ばれた若い男が玄関にいちばん近い椅子を指さしたのでわたしはそこに座りました。

「何しに来たの? 」

 テーブルのいちばん向こうで焼酎を飲んでいる男がわたしに聞いてきました。

「え? 面接ですけれど」

「ああ、面接か。面接だったよね。さっきハローワークから電話が来たな」

「お父さん、何言っているのよ。さっき、言ったじゃない」

 横から女が割り込んできました。その声は駄菓子屋の売れ残ったお菓子を食べてのどに詰まらせたようなしわがれた声でした。

「ウチはねえ、お父さんが全部ひとりでやったのよ」

「そうだよ。全部わしがひとりでやった」

「そうよねえ。お父さん」

 双子はにやにや笑いながら、ぺったん、ぺったん、とテーブルに手をあてていました。

「あなたには総務をやってもらう」

「え? 」

「だから、合格だ。採用だよ。履歴書を出して」

「ですけど、まだ面接は受けていませんけど」

「わしはジュンジという。わしがいいと言うからいいんだ。採用だ」

「ですけど」

「いいから、四の五の言わずに働け」

 ジュンジ氏がわたしから履歴書を奪い取るとテーブルの上に積まれた書類の山に差し込んでしまいました。あわてて履歴書を探し出そうとしたらドドナリと呼ばれた若い男が横から名刺を差し出しました。その名刺には「営業部長 横縞 百々成」と書かれていました。

「ボク、ヨコシマ、ドドナリ、と言います」

 若い男は立ったままとろんと酒に酔った目でわたしを見下ろして言いました。

「この会社はもう二十三期を迎えます。つまり、創業以来もう二十三年目になるのです。そこにいるボクのおやじが創業者です。どうです、総務をやりませんか? 」

「はあ」

「いまや時代は運送がなければ成り立っていきません。あなたもそれくらいはわかるでしょう。ねえ、わかるでしょ。運送業ほど魅力的な仕事はほかにはありませんよ。あなた、ボクの言うこと、わかるでしょ」

 ドドナリさんはテーブルの周りをぐるっと回ろうとしましたが、部屋の中がせまいので歩き回れずにじれったそうにその場で足踏みをしていました。床はそのたびに、ちぃ、ちぃ、と鳴っていました。

「こら、ドドナリ。あんまり床を踏み鳴らすな」

 いきなりジュンジ氏が老人とは思えないおおきな声で叫びました。叫んでからあわててくちを手で押さえました。どうやら入れ歯が飛び出そうになったようでした。さきほどからずっと何かを食べているようにくちを動かしていましたが、叫ぶときにあわててくちを押さえたので入れ歯であることは見当がつきました。

「そうよ、ドドナリ。お父さんの言うことを聞きなさい」

「わかっているよ。うるさいなあ」

「ドドナリさん、ビールはもう飲まないの? 」双子の右側が言いました。

「そうだよ。ドドナリさん、もうビールは飲まないの? 」双子の左側も言いました。

「いや、飲むよ。飲みますよ。でも、さあ、いま、面接の最中でしょ」

「じゃあ、その人にも飲んでもらえばいいじゃん」双子の右側が言いました。

「そうだよ。飲んでもらえよ」双子の左側も言いました。

「そうだな、そうだな」

 そう言ってドドナリさんは冷蔵庫から冷たい缶ビールを取り出してわたしの手に握らせました。

「まあ、飲んでください」

 わたしが黙っていると、

「あんた、いいから飲みなさい」

とジュンジ氏がテーブル越しに怒鳴るように言いました。

「まあ、いいから飲んでください」

 ドドナリさんはそう言うとじぶんで持っていたロング缶を開けて飲みはじめました。

「ドドナリさん、ビールはうまいかね? 」

 双子の右側がドドナリに言いました。

「ああ、うまい。仕事が終わったあとのビールは格別だね」

「おい、ドドナリさんが、ビールはうまいとさ」

「ああ、そうだね。ビールはうまいって言っているな」

「ああ、うまいって言っていたよ」

 双子はテーブル越しに顔を見合わせてにやにやと笑っていました。ドドナリさんは風呂上りにコーヒー牛乳を飲むように腰に手をあててビールを飲んでいました。わたしが呆けたようにドドナリさんの飲みっぷりを見ていると双子がふたり同時にテーブルの上を片付けはじめました。慣れた手つきで盛り上がった書類を手際良く揃えてテーブルの端にきれいにまとめると、書類の下からはさきほど差し込まれたわたしの履歴書といっしょに柿の種やウインナーやポテトチップが載った紙皿が出てきました。と、いきなり紙皿の上のものをわしづかみで食べはじめました。ふたりとも掴めるだけ掴むとおおきく開けたくちにぐいぐいとつめて、音を立てて四~五回噛むとノドを鳴らして飲み込んでいました。

「これ、ぜんぶ、食べちゃっていいの? 」

双子の右側がドドナリさんに話しかけました。ドドナリさんはテーブルの脇に立ったままぼんやりしていました。

「ドドナリさん、本当にいいの? 食べちゃって」

「え?」

「ですから、ぜんぶ食べちゃいますよ」

「ああ、はいはいはい、はいはいはい、そうだね、そうだね」

「おい、ドドナリさんが、はいはいはい、だってよ」右側が左側に言いました。

「聞いたよ」左側が答えました。

「おれも聞いたんだよ」右側がまた言いました。

「そうか」

「おれも聞いたよ」双子は顔を見合わせておおきな声で笑いました。それにつられてドドナリさんも笑いました。ドドナリさんが楽しそうに笑うのを見てジュンジ氏もそのとなりに座っている女も笑いました。わたしは何がおかしいのかわからずに黙って椅子に座っておりました。窓の外からは公園で遊んでいるこどもたちの笑い声が聞こえてきました。

「そう言えばさぁ」右側は左側に言いました。

「シムラがさ、荷台から荷物落としちゃったんだって」

「知ってる、知ってる。うしろの観音扉開けっ放しで走ったときだろ」

「そう、そう。シムラ、走り方、なってねえよな」

「なってねえよ」

 それを聞いていたドドナリさんは二人に向かって言いました。

「なってねえな」

「ドドナリさんもそう思います? 」左側が言いました。

「ああ、なってねえ。おれだったら、落としたりしねえな」

「そうなんですか? 」

「まかせておけよ。おれはプロだぜ。観音扉、何回も開けっ放しにして走っているけど、一度も落としたことねえぜ」

「おい、聞いたかよ。一度もねえって」

「ああ、聞いたよ。すげえな」

「すげえぜ」

「それから、あいつ、坂道に停めたとき、荷台から荷物落としたことがありますよ」

「え? どうして? 」

「あいつ、上り坂で停車して後ろの観音開けたんですよ。そしたら、中の荷物がいっぺんになだれ落ちてその下敷きになったんですよ」

と右側が言いました。

「そうです、そうです。観音を開けようとしたとき、いつもより重くてなかなか開かなかったそうです。でも、もう納品の時間が迫っていたから力任せにストッパーを外したら、観音が勢い良く開いてそれが顔に当たってうしろにひっくり返ったところに荷物がからだの上に落ちてきたって言ってましたよ」

と左側が続けて言いました。

「あ、あ、あ、あいつ、バカか。おれだって、そのくらいわかるぞ。物理の法則だろ、そんなの。引力じゃねえか。プロじゃねえな」

 ドドナリさんは手に持った缶ビールを握りしめて笑いながらそう言っておりました。

「それ、事故の集計にカウントしておきますか? 」

 右側が言いました。

「しない。言わなきゃだれにもわかんないから、カウントしない。ケガもじぶんの保険で処理するように」

「処理? 」左側がドドナリさんに聞きました。

「そうさ、処理だ。労災なんか使わないからな」

「それでいいんですか? 」

「いいんだよ」

「いいんだって。聞いたか? 」 左側が右側に身をのりだして話しかけました。

「ああ、聞いたよ」右側が答えました。

 わたしはもうそこから出ようとして椅子から立ち上がりました。わたしの座っていた椅子のガタガタという音で双子が同時に食べるのとしゃべるのをやめ、ドドナリさんがくちを半開きにしてわたしを見て言いました。

「どうしたんですか? 」

「え? 」

「帰るんですか? 」

「ええ、まあ」

「まだ面接の最中ですよ」

「しかし、皆さん、お酒を飲んでいるし」

「それがどうしたと言うんですか? 」

「え? 」

「面接のときに酒を飲んでいるのがどうしたと言うんですか? 」

 ドドナリさんは気色ばんで酒臭い息を吐きながらわたしに詰め寄ってきました。

「そんなことはどこの運送会社でもやっていることですよ。ウチだけじゃない」

「そうは言っておりませんが」

「いや、言った。いま、そう言った。おれにはそう聞こえた」

とドドナリさんは双子をふりかえると、双子はにやにやと薄ら笑いを浮かべて

「こいつ、いま、そう言いましたよ」と左側が言いました。右側も

「言った、言った。おれも聞いたぞ」と言いました。

「そうだろ、そうだろ。言っただろ。そうさ、あんたはいまそう言ったんだよ。これだけ証人がいるんだから、あんたがそう言ったのはまちがいないんだ」

 ドドナリさんは勝ち誇ったように天井を見上げて声を張りあげました。わたしもその声の勢いにつられて、つい天井を見上げてしまいました。天井にはおおきな雨漏りのシミがたくさん見えました。

「そうだよ、そうだよ、あんたはいまそう言ったんだよ。きゃーはっはっは、きゃーはっはっは」

と、いきなり怪鳥のような甲高い声を出しました。双子もそれにあわせていっしょにくちをおおきく開けて笑いました。

「ハー、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ」「ハー、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ」

 それは、楽しくて思わず笑ってしまった、というのではなくて、笑うよりもうほかにどうしようもなくて笑うしかないから笑う、と言ったむりやりしぼり出されてきたような笑い声でした。双子の目はふたりとも目をおおきく剥いて宙を見つめていました。くちの中の食べかすがあたり一面に飛び散って、わたしの履歴書の上にもべたべたとついておりました。

「なあ、あんた」

 ジュンジ氏が話しかけてきました。

「なあ、あんた。わしはじぶんが良ければそれでいいんだ」

「え? 」

「だから、じぶんさえ良ければ、あとは何でもいいんだ。だから、運転手は免許だけ持っていればそれでいい。稼ぎたいやつがいれば稼げるだけ稼がしてやる。そいつが稼げばわしも儲かるならな。稼げなくなったら、それでおしまいだ。稼ぎと儲けは意味がちがうのがあんたはわかるか?

「つまり、運転手は使い捨てだってことだよ。免許さえ持っていれば使えるだけ使ってやるんだ。創業以来、そうやって今日まできた。それが正しかったことはいまわしがこうやってあんたに話しているというこの事実があるから正しいとわかるはずだ。これが証拠だからな。理念なき経営ってヤツだ。それが成功しているからわしはいまこうしてあんたと話しをしているんだ。

「わしが考えているのは、こういうことだ。つまり、使い捨てにされるにんげんはそうなる運命だったということだ。そういうやつを使うのはとてもむずかしい。それはやってみればわかる。

「だが、あんたはちがう。あんたはどこか毛並みがちがう。見ていてそう感じた。だから、使い捨てにはしない。まあ、わしを信用しなさい」

 外から聞こえるこどもたちの喚声にまじってカラスが鳴いていました。ドドナリさんはジュンジ氏の話すことをうっとりした顔で聞いていました。わたしは黙ってテーブルの上の履歴書を見ておりました。履歴書に貼ってあるわたしの写真には柿の種の食べかすが飛び散っていました。わたしは立ち上がりました。テーブルに手をかけてゆっくりと立ち上がり、わたしの持参した履歴書を眺めました。深呼吸をして脱いだ靴の位置を思い出してから静かに玄関に向かいました。わたしが床のうえを歩くたびに、ぺたっ、ぺたっ、と足音がおおきく聞こえてきました。そのうちカラスの鳴き声がだんだんおおきく聞こえてきました。部屋を出ていこうとするわたしをひきとめるひとは誰もいませんでした。みんなじぶんの話すことに夢中になっていました。


 その翌朝、わたしは家の近くのコンビニへ納品に来ているトラックのドライバーをお店の前で待っていました。面接に行った運送会社のことを聞いてみたかったからです。おなじ運送業界で、それも地元の会社ですから多少の噂はあるはずです。納品が終わったドライバーは年配の男性で、荷おろしが終わったころをみはからって話しかけると渋い顔をしてわたしをにらみつけました。

「つぎの納品の時刻に遅れちゃうからね、話しなんてできないよ」

 すぐにでも出発しそうな素振りだったのでポケットに入れていた缶コーヒーを渡して

「五分もかかりません。ちょっと教えてほしいことがあるんですが」

 その年配のドライバーは差し出した缶コーヒーを渋々受け取りました。わたしは昨日面接を受けた会社の名前を言いました。すると

「あんた、そんなこと聞いてどうする? 」

と缶コーヒーを返そうとするので

「いえ、採用面接に行ったけど、どうもよくわからない会社だから、何か知っていることがあったら教えてほしいと思って」

とわたしは答えました。

「じゃあ、まだその会社の人じゃないんだね」

「そうです。まだ採用も不採用も決まっていません」

「そうかい」

と年配のドライバーは缶コーヒーを両手で揉むようにしてから缶のプルリングを開けました。

「そうかい。これからかい。この業界はさ、人の出入りが激しくてさ、噂はすぐに広まるんだよ。物流センターで別の会社のドライバー同士で話しをしているからさ、どうしたって噂は広まるものさ」

「そうなんですか? 」

「そうさ。あんた、運送の仕事、したことないの? 」

「ないです」

「じゃあ、トラック、運転できないだろう」

「そうです。だから、採用するなら総務だって言われました」

「ああ、そう」

「噂はあるんですか? 」

「あるよ」

「どんな噂ですか? 」

 わたしはその噂がいいものであることを願いました。

「ここじゃ寒いからトラックの中で話してあげるよ」

 年配のドライバーは親切にわたしをトラックの助手席に乗せてくれました。室内は暖かく、目線が乗用車のそれよりもはるかに高い位置にありました。年配のドライバーはタバコに火をつけると

「ほんとうにまだそこの社員じゃないんだよね」

と念押しをしてきました。わたしがもういちど昨日の面接の様子を話すと

「変わっちゃいねえな」

と言いました。

「むかしからそうなんですか? 」

「そうさ。面接に行ったのはふつうの家みたいなところだろ」

「そうです」

「気味の悪い双子はまだいたんだ」

「いました」

 運転席にはタバコの煙でいっぱいになりました。年配のドライバーは窓を細めに開けました。

「噂じゃ、双子はあのオヤジのせいで自己破産したそうだ」

「自己破産」

「詳しくは知らねえが、オヤジのせいで自己破産したらしい」

「どうして他人のせいで自己破産なんかしたんですかね」

「さあ、それはわからねえ」

「ふたりとも自己破産したんですか? 」

「噂ではそうなっているねえ」

 ふーっとタバコの煙を吐き出すと

「ふつうは見も知らない人にこんな話しはしないんだよ。でも、あんたを見ていると運送業には向いてねえなあ、と思ってさ、おれもつい話しちゃったんだ」

「はあ」

「悪いことは言わないから、あそこだけは止めたほうがいいよ」

「え、どうしてですか? 」

「なんか、あんたを見ていると気の毒になっちゃってさあ」

「そうですか」

「ああ、あそこの経営者は金の亡者だって噂だもんな」

「そんな噂があるんですか」

「金の亡者だけじゃねえぜ。あのオヤジ、女の子も轢いちゃったって噂だよ」

「ほんとうなんですか?」

「だから、噂だよ。ほんとうのところは俺も知らないよ。もう二十年くらい前の話だって言うしさ」

「へえ」

「さあ、もう時間だから、これくらいでいいだろ。コーヒー、悪かったね。あんた、おおきなお世話かもしれないけど、よく考えた方がいいよ」

 わたしはお礼を言って助手席から降りました。トラックが動き出したときに年配のドライバーは窓から顔を出してふりかえり

「よく考えた方がいいよ」

と言いました。トラックはそのまま走り去って行きました。


 ハローワークに文句を言おうとは思いませんでした。結局、仕事が見つかるのはそのときの運しだいで、資格があれば有利な就職ができるというわけでもないし、ハローワークの斡旋先がわたしに合っているかどうかなんてハローワークの人にはわからないわけで、わたしにしたってそこに行ってみなければ合う合わないなんてわかりません。運が悪かった、と思うほかにはないわけで、でもいまのところはなんとか暮らしていけているのですから一概に運が悪いとは言えません。運が悪いというよりもツイていなかったというのか、言われるままに行ったわたしが間抜けでした。運送会社であり、有限会社でもあるところはいくらでもありますが、運送会社でありながら昼間から事務所でお酒を飲むなんてことはいくらなんでもふつうはしないと思います。わたしが間抜けでした。ツイていなかったと思うしかありませんでした。最初に建物を見てなんだかあやしいなとは思いましたが、ジュンジ氏の話しを聞いているうちに、この会社はこれから先はどう転んでも発展することはない、いまそう言ったからね、聞いていないおまえさんが悪いのだ、わかっているね、発展するのはわしとわしの一族だけだからね、と公言しているようなものだとはっきりと気がつきました。横縞親子、横縞一族が発展するのが大事で、会社組織もそこで働く社員も横縞一族が発展できるための道具のひとつでしかなくて、金を出せば社員なんかいくらでも集まるし、金を出せばにんげんなんて何でもやる、じぶんだけ良ければそれでいいというのがジュンジ氏とその息子のドドナリさんの考え方で、この先もそれでやっていけると考えているのだから、わたしはそれをどうこう言うつもりはありません。こういう人たちも世の中にはいるものなんだなあ、と思う程度でした。

 そう思う一方で、わたしはその運送会社からの連絡を待ってもいました。待っていたのは、もちろん合否の連絡です。いくらおかしな会社でも、もしかしたらそこで働いて安定した収入を確保できるかもしれないと思えば、藁をもつかむ気持ちになったってふしぎではありません。その場でジュンジ氏が言っていたことはわたしの聞き間違いで、コンビニの前で聞いたことも、それは噂であり、噂は噂でしかないのだからそれほどのことはないだろうと期待しました。その期待は日増しにおおきくなってまいりました。履歴書にはわたしの連絡先をはっきりと記していたので、創業者のジュンジ氏があのように言ったからには正式に採用の連絡が入ると待っておりました。しかし、三日過ぎても何の音沙汰もありませんでした。そうしたときにはどうしたらいいのかわからなかったのでハローワークに相談に行きました。

 ハローワークまでの道のりはすっかり春めいて、歩いているとだんだん楽しくなってきました。正午直前のあたたかい日の中で咲きはじめた線路脇のちいさな花やその花をめざして飛んでくる虫やしっとりと湿った畑の土の匂いがわたしのからだを軽くしました。とはいうもののなんとなく気持ちは落ち着きませんでした。

 わたしはお祭り騒ぎのようになっている人混みをかきわけてハローワークの窓口にたどり着きました。顔なじみになった職員さんがいたので事情を説明すると「すこしお待ちください」と言って、その運送会社に電話を入れました。誰かが出たようで職員さんは丁寧な口調でわたしの合否をたずねてくれましたが、電話に出た相手にはまったく話しが通じないようでした。さんざん話しをしてくれましたが、相手がいきなり電話を切ったらしく、職員さんは顔をまっかにしてふーふーと鼻息を荒くしていました。二度、三度と深呼吸をしてから

「あなた、よした方がいいよ」

とわたしに言いました。

「え? 」

「いや、悪いことは言わないからちがう会社を探したほうがいいね」

「どうしてですか? 」

「創業者って言う人が電話に出ました」

「そうですか。わたしはその人ともお話しをしました」

「酔っていましたよ」

「え。まだ昼前ですけど」

「昼前でも、酔っていました。ロレツが回っていませんでした。それに、うしろからポンとかチーとかロンとかマージャンをやっている声が聞こえてきました」

「会社でマージャンをやっていたのですか? 」

「そのようですね。マージャン牌をかき回す音もしていました。そういう会社もなかにはあります」

「何を言っていたのですか? 」

「支離滅裂でした。あなた、ちがうところを探したほうがいいですよ」

「ちがう会社のトラックのドライバーにその会社の噂を聞いたのですが」

「どんな噂ですか? 」

「あそこの経営者は金の亡者だっていうのです」

「ああ、そうかもしれませんね。今だって、まともに話しができないくせに二言目には金だ、金だって言っていました」

「そんなにひどかったですか? 」

「ひどかったねえ。あたしも長いこと、この仕事をしているけど、あんなのははじめてだねえ。ともかく、あなた、ここだけはやめなさい。あたしは勧められないねえ。あ、そうだ、思い出した」

 職員さんはうしろのキャビネットから分厚いファイルを取り出してパラパラとページをめくって何かを探しはじめました。しばらくその姿を眺めていると

「あった、あった。これ、これ。これを読んでごらんなさい」

と開いたページを差し出してきました。

 そこにはその運送会社の求人票と手書きの書類が数枚綴じられていました。

「それはその会社で働いていた人の感想文です。書く必要はまったくないからうちではいらないって言ったのに、いいから書かせてくれって言うひとが一時期は何人も来たんですよ。だからファイルしておいたものです。職場で不当な扱いをうけたら本当は労基署に行ってもらなくちゃならないんだけど、そこまではしたくないって皆さん言っていましたよ。でも、誰かには話しておきたいと言っていました。それも一人や二人じゃなかったからねえ。かなりめずらしいですよ。このひとみたいにずっと勤めていた方もいてねえ」

 職員さんはページを何枚かめくってから

「ああ、これですね。これですよ」

と、あるページを開いてわたしにファイルを差し出しました。そこには下手くそではありますが丁寧に書かれた文字でつぎのようにありました。


『おれは時間を無駄にしていたことに十六年間まったく気がつかずにいた。あの会社には希望がない。行けども行けどもまっくらやみだ。十六年間はまっくらやみの中にいることにも気がつかなかった。会社を辞めてからそれに気がついた。十六年間をもう取り戻せないことにやっと気がついた。それだけだ。あの会社にいて得たものはそれだけだった。おれは使い捨てにされた』


「この人は新しい仕事が見つかったのですか? 」

「いや、わかりません。ただ、会社が求人票を出しているからには求人ファイルがあるはずだから、そのファイルにこの紙を差し込んでくれとやって来ただけです。新しい職を探すように勧めたような気はしますが、そのときにはそんなそぶりはしなかったような気がしますねえ」

 わたしはその職員さんにお礼を言ってハローワークを出ました。外は暖かい春の陽気でしたが、わたしだけ季節が逆戻りしたような気分でした。どうでもいいような会社でしたからはじめから就職をする気もなかったし、もしも採用の連絡が来たらその場でお断りしようとしていましたが、実際に面接の場でわたしのことを持ち上げて採用だと言ったにんげんがわたしのことをすっかり忘れていて話しがまったく通じない、というのは裏を返せば、わたしというにんげんがその程度にしか見られていなかったことになります。それも午前中から酒を飲んで酔っ払っているにんげんからそう思われていたのは情けないやら腹立たしいやら、あんなにんげんが人並み以上の生活をしてわたしはわたしで青息吐息で職探しをしているなんて世の中不公平だ、と、情けなくなりました。


 公園まで歩いているうちにノリコちゃんのことを思い出しました。ちいさい子どもがひとりで買い物に外に出るなんてあぶないから、もしも公園で見つけたら母親にすこし注意してやろうと思い、公園をぐるっと見渡すと、ノリコちゃんが以前とおなじピンクの服でナポリターノくんと仲良くベンチに座って足をぶらぶらさせて笑っておりました。ノリコちゃんはナポリターノくんがひざの上に乗せているサックスを指でつついて笑っていました。ナポリターノくんはノリコちゃんが楽器をつつくたびに何か声を上げていましたが、その声もおかしいのかノリコちゃんはますます笑い声をあげていました。

 わたしがゆっくりと二人の座っているベンチに歩いていくと、ノリコちゃんはベンチからポンと飛び降りてわたしの方に走ってきました。公園の地面はでこぼこなので、どうか転ばないでくれ、とハラハラしながらノリコちゃんの走り寄ってくるすがたをじっと見ておりました。もしもわたしに孫がいたらこんな気持ちになるんだろうな、とぼんやりしていたら、

「ぼんやり立っていちゃダメよ」

と足元に立っているノリコちゃんに言われました。

「さあ、ベンチにいっしょに行きましょ」

 わたしはノリコちゃんに手をひかれてベンチに座りました。真ん中がノリコちゃんで右側がわたし、左側にナポリターノくんが座りました。日差しがあたって暖かいベンチでした。

「おじさん、元気ないね」

「そうかい」

「うん」

「ちょっと、疲れちゃってね」

「おとなってたいへんだね」

「たいへんだよね」

「でも、こどももたいへんなんだよ」

「そうかい」

「そうよ。おじさんだって、むかしはこどもだったから、わかるでしょ」

「ああ、そうだった。そうだったね。おじさんも、むかしはこどもだったから、わかるよ」

「そうでしょ」

「ノリコちゃん、来年、幼稚園に行くの? 」

「そうよ」

「ずいぶん、おませさんだね」

「なあに? おませさんって」

「しっかりしているってことだよ」

「そうかしら」

「そうだよ」

「わたしね、おとなになったら、この楽器、やりたいの」

 ノリコちゃんはナポリターノくんのひざのうえに乗っているサックスを指さしました。わたしはノリコちゃんにむかしはおじさんだってこどもだったんでしょっと言われて、そう言えばこどものときにくらべて世の中はずいぶんと便利になって、ずいぶんと裕福になったものだなあと思いました。わたしがこどもの時分はナポリターノくんの持っているような楽器にふれる機会はまったくありませんでした。家が貧乏だったせいもありますが、それにしても近所にも楽器を持っている人は見当たりませんでした。それに比べたらノリコちゃんはちいさいうちから目にすることができるから、時代も変われば変わるものだと思いました。

「この楽器、どんな音がするの?」

「え? さっきからナポリターノくんの音を聴いていたんじゃないの? 」

「そうだよ。さっきからいっしょにいて、そばで聴いていたじゃん」

「でも」

「でも、どうしたの? 」

「だって、このお兄さん、あんまり上手くないんだもん」

「そりゃ、そうさ。習いはじめたばっかりだもん」

 ナポリターノくんは顔をまっかにして言いました。

「じゃあ、どうしてほしいの? 」

 わたしはノリコちゃんに聞きました。

「わたしねえ、本当の音が聴きたいの」

「本当の音? 」

「そうよ。この楽器が出せる本当の音。おじさん、出せるでしょ」

 ノリコちゃんはそう言うと黒くくりくりした目でわたしの顔をのぞき込んできました。わたしはサックスを吹くなんていうことはだれにも話してはおりませんでしたから、どうしてノリコちゃんがそういうことを言うのかふしぎでしたが、こどもの直感というのはときどき思った以上にするどいこともあり、またおとなはみんなサックスを吹くものだと思っているこどもらしい勘違いかもしれないと思いました。それにその目を見たとき、ノリコちゃんの目は飼い主のことを信じている小犬の目に似ていました。これから捨てられに行くのに、小犬はじぶんが捨てられるなんてことはつゆほども疑わずいつもとおなじ散歩に行くつもりでうれしそうにはしゃいでいるときの飼い主を信じきっている目でした。世の中の見るものすべてがめずらしく、見ることじたいが楽しい、それも飼い主といっしょに見ることができてとてもうれしい、そういう目でした。そういう目がわたしの顔をのぞき込んでおりました。わたしもかつては持っていた目なのかもしれませんが、いつのまにか失ってしまい、いまではもうとりもどすことのできない、あの目でした。わたしはみょうにどぎまぎしてしまい、声がうわずってしまいました。

「もう無理かもね」

 わたしは言いました。そこへナポリターノくんが大きな声で言いました。

「先生、吹けるんですか? 」

 わたしはサックスの音のイメージを思い出そうとしました。本物の音ではないかもしれませんが、昔はじぶんの音が出ていたと思います。ほかのサックス奏者とはちがうじぶんの音です。その音のイメージを思い出そうとしました。ですが、それは無理なお話しでした。二十年以上もじぶんの音から遠ざかっていたのですから、目をつむって二、三分考えたってつかめるはずはありません。

「吹けないよ、ノリコちゃん」

 ノリコちゃんはベンチに座って足をぶらぶらさせながら黙って聞いていました。

「ノリコ、なんだか、おじさんの気持ち、わかるような気がする」

 不意にノリコちゃんが言いました。そのときのノリコちゃんはくちびるを歪めてすこし笑ったような顔をしましたが、よく見ているとそれはわたしの思い過ごしでした。ですが、背中の汗が急に冷たくなった気がしました。

「もう帰る」

そう言うとノリコちゃんはベンチから飛び降りてさっさとじぶんの家の方に歩きはじめました。わたしはあわててノリコちゃんのあとを追いかけました。ナポリターノくんは「あ」と言って楽器を首から下げたまま、リードやワスプやらを乱暴に放り込んだハードケースを左手で持ってわたしのあとをついてきました。ノリコちゃんを先頭にわたしとナポリターノくんは金魚の糞のようにあとから歩いていきました。


 わたしたちはノリコちゃんが玄関の中に入っていったのを見届けたので門を離れようとしました。すると、閉まったばかりの玄関ドアが勢いよく開いて、家の中からわたしと同年代らしい女性が飛び出してきました。わたしたちがびっくりして門のところで立ち止まっていると、駆け寄ってきながら手招きをしておりました。ナポリターノくんは逃げようと身構えましたが、逃げると追いかけられるからその場で立ったままでいるように注意しました。五十過ぎたオヤジが女性に追いかけられて町中に逃げ回る姿をさらしたくはありませんでした。ノリコちゃんのことで苦情を言われるのなら、それはそれでお話しを伺わなければなりません。わたしたちは門の前で神妙に立っておりました。わたしたちに体当たりをするような勢いで門まで駆け寄ってきた女性は息を切らせながら言いました。

「こどもを見たのですか? 」

「こども? 」

「そう、女の子を見たんでしょ? 」

「ああ、ノリコちゃんのことですか。ノリコちゃんは家に戻りましたよ。ここから見ておりました」

「ノリコって」

「そうです。玄関に入っていきましたよ」

「ボクも見ていました。ちゃんと玄関に入っていきましたよ」

 横からナポリターノくんが得意気に女性に話しかけました。

「ノリコって、どうしてごぞんじなの? 」

 女性はうめくような声を出しました。

「だって、ノリコちゃんがじぶんで言いましたよ」

 ナポリターノくんはどういうわけか顔をまっかにして答えました。

「ノリコちゃんがじぶんでそういいましたよね。先生」

「じぶんでそう言っておりました」

「ノリコがじぶんで言ったのですか? 」

そう言ってからその女性は門にもたれかかりながらぐずぐずと地面に座り込んでしまいました。

「だいじょうぶですか? 」

 話しかけても女性は座り込んだまま立ち上がらず、助け起こそうと思っても目の前の門扉がじゃまで手を添えることもできず、そうかと言ってそのまま立ち去ることもできず、わたしはただおろおろと見ているだけでした。女性の肩はちいさく波を打つように震えておりました。しばらくして、女性が門扉にすがりついて身を起こし、わたしたちに言いました。

「失礼いたしました。ノリコに会ってやってください」

「え? いままでいっしょにいたけど」

「どうぞ、お入りください」

 そう言って女性は門扉を開けてわたしたちを強引に招き入れました。しかたがないのでわたしたちは言われるままにしました。ナポリターノ君は首からサックスを下げたまま、棺おけのようなハードケースをだらしなくぶら下げて、ぼんやりと女性のあとをついて歩きはじめたので、わたしはあわてて門扉を閉めてあとにつづきました。

 ノリコちゃんの家の庭にはおおきな木が何本も植えられていて、玄関までの道に入るとあたりの騒音が周囲の木々に吸い取られているようで、突然別世界に放り込まれたような気分になりました。すこし外れた薄暗い木陰には稲荷のちいさな祠と鳥居があって、鳥居の脇にはくすんで色抜けのした赤い幟が何本も立てられていました。幟には白い文字が染め抜いてありましたが、何と書いてあるのかは読めませんでした。わたしたちはおそるおそる玄関で靴を脱いで家にあがりこみました。

「ノリコはここにいます」

 ノリコちゃんの住んでいる家だからノリコちゃんがここにいるのはあたりまえで、わざわざそんなことを言うなんておかしいなあ、もしかしたらこの女のひとはキチガイなんじゃないかなと思いながら、女性が指を差したほうを見ると、そこにはおおきな仏壇がありました。そのおおきな仏壇はわたしたちが通された部屋の奥に置かれたいました。仏壇には写真が立てかけられていて、その写真にはさきほど見たノリコちゃんが写っておりました。ついさっきまでと同じピンクの服を着て笑っているノリコちゃんの写真で、写真のとなりにはピンクの花とお菓子が供えられていました。わたしは何だかわけがわからなくなって、横にいるナポリターノくんを見ると、首からサックスを下げたまま、手には棺おけのようにおおきなハードケースを持って、写真をじっと見つめてぼんやりと立っておりました。

「この写真の女の子はノリコちゃんですか? 」

 ナポリターノくんが女性に聞きました。

「ノリコです」女性がそう言うとナポリターノくんは

「さっきまで、ボク、いっしょに公園で遊んでいました」

 そうつぶやくと手に持っていたハードケースを畳のうえで開いて、首から下げていたサックスをストラップから外し、急いでサックスを分解しはじめました。カチャカチャと金属の当たる音がしずかな部屋に響きました。それにしてもやたらとカチャカチャと音がしていたので、ナポリターノくんを見ると手がこきざみに震えていました。

「どうした? 」

 わたしがナポリターノくんに聞くと、

「帰りましょう、先生。帰りましょう」

とまっさおな顔をして言いました。

「どうして? 」

「だって、だって。さっきまで、ボク、ノリコちゃんと遊んでいたんです。さっきだけじゃない。何回もいっしょに遊んだ」

「わたしもそうだ」

「ボク、こわい」

 わたしはあらためておおきな仏壇のノリコちゃんの写真を見ました。写真のノリコちゃんはすこし前までいっしょに手をつないで歩いていたあのノリコちゃんとおなじ顔をした女の子の写真でした。その写真を見ているうちにノリコちゃんのおませなセリフやこどもらしい声を思い出し、手にはノリコちゃんのちいさな指のやわらかい感触がじんわりとよみがえってきました。いつのまにか手のひらにねっとりと汗をかいておりました。

「あなたがたも、ノリコがこわいのですか? 」

 ふいに女性が言いました。

「あなたがたもノリコがこわいんですよね。いままで、この写真を見たら、みなさん、すぐにお帰りになりました」

 わたしは手にかいた汗のにおいを嗅ぎました。そのにおいは肛門に痔を押し込んだときに指につくにおいとおなじでした。ああ、いつもとおなじにおいだ、と思ったら、下着の尻の部分が冷たくなっているのがわかりました。知らず知らずに痔が出ていたのです。下着の濡れ具合から公園にいるときにはすでに出ていたと思います。そうなるとノリコちゃんとお話ししているときにはもう出ていたはずです。わたしはじぶんの肛門から痔が出ていることに気がつかずノリコちゃんとお話ししていて、そのノリコちゃんはじつはもうこの世の女の子ではなくて、それに気がつかずにふつうにお話しをしていて、こんどはこうやってノリコちゃんの遺影を前にしている、そういう一連のことがきゅうにふしぎな気がしておそろしくなり、睾丸が縮みあがってきました。わたしはこの世の女の子ではないノリコちゃんとお話ししたことはすこしもおそろしくはありませんでした。それよりもこの仏間でノリコちゃんの遺影と対面してしまったのがおそろしく、それ以上に目の前で畳に正座をしてじっとわたしたちを見ている女性がおそろしかったのです。

「ノリコちゃんはお孫さんですか? 」

 わたしは女性に聞きました。

「いえ、わたしの娘です」

 女性はじぶんの名前を名乗りました。でも、わたしは聞いたそばから忘れてしまいました。

「ノリコは幼稚園に通う前に亡くなってしまいました。家の前でトラックに轢かれてしまったんです」

 ノリコちゃんのおかあさんはぼんやりと立っているわたしを見上げて話しはじめました。

「もう二十年も前のことです」

 不意にわたしはジュンジ氏の顔を思い浮かべましたが、その運送会社の名前はノリコちゃんのおかあさんには言えませんでした。ナポリターノくんはサックスをハードケースのなかにしまい込んで、腰を浮かし気味にひざをついてすぐにでも出て行けるような姿勢をしておりました。

「ノリコにお線香をあげていただけますか? 」

 わたしは出てしまった痔を押し込みたかったのですが、ノリコちゃんのおかあさんに言われたので仏壇にお線香をあげました。ナポリターノくんは仏壇に近寄るのがこわいのか、思い切り手を伸ばしてお線香をあげていました。

「先生、もう、引き揚げましょう」

 わたしもこどもの頃は仏壇に近寄るのがなんとなくいやな気持ちになっていたことがあり、それはきっとこどもの本能的なものだったのかも知れず、もしかしたらナポリターノくんもそう感じるものがあってびくびくしていたのかも知れませんが、ナポリターノくんがそう感じたからといって、はい、そうですか、とすぐに帰ることはできませんでした。それにすぐに歩きはじめると、さらに痔が出てくるような気がしていたからです。わたしは肛門括約筋を締めながらノリコちゃんの遺影にむかってお線香をあげました。わたしたちがお線香をあげたのを見届けてからノリコちゃんのおかあさんは安心したように話しはじめました。

「庭にあるお稲荷さんをごらんになったと思いますが」

 ノリコちゃんのおかあさんが言いました。

「ときどき、風もないのに幟が揺れているときがあるんです。ノリコが遊びにきているような気がするんです。あ、いま、お茶を持ってきますね」

 さっと立ち上がると、ぱたぱたと部屋を出ていきました。



 ノリコちゃんのおかあさんがお茶とお菓子を持って部屋に戻ってきました。落ち着いた様子でわたしたちの前にお茶とお菓子を出してくれました。わたしはノリコちゃんのおかあさんが戻ってくる前に畳の上に正座をしておりましたが、ナポリターノくんは正座ができなくてアグラをかいていました。座りが悪いのか何度も後ろにひっくりかえりそうになっておりました。

「そちらの若い方には椅子をお持ちしましょうか?」

「いえ、すぐに消えますから大丈夫です」

 ナポリターノくんはそう言ってからまた後ろにひっくりかえりそうになりました。わたしたちは勧められたお茶を飲んでお菓子を食べました。

「もう二十年もたつのに、まだノリコが哀れでね」

 ノリコちゃんのおかあさんが畳の目をなぞりながら話しはじめました。

「もうわたしはノリコのおばあちゃんくらいの年になってしまいました」

 ノリコちゃんのおかあさんが畳の目をなぞっているので、わたしもつられてなぞりはじめました。隣を見るとナポリターノくんも畳の目をなぞっていました。

「わたしはノリコが亡くなったなんて、まだ信じられないのです。でも、毎朝、鏡を見るとじぶんの顔がだんだんと年をとってきて、それでノリコが亡くなったことが本当なんだと思うのです」

 ノリコちゃんのおかあさんが畳の目をなぞるときには目に沿って指を這わしてはいましたが、ときおり、文字を書くように指をひねりました。じっと見ているとその文字はひらがなの「の」にも見えるし「ぬ」にも見えました。

「ノリコはねえ、ひらがなが書けるようになったって言って、とてもよろこんでおりました。ノリコが書いたひらがなは、まあ、こどもが書く字ですからねえ、読むのにもひと苦労でしたよ。その字のなかでも『ぬ』が裏返しになっていたんですよ」

 ノリコちゃんのおかあさんは、

「ノリコの書いた裏返しの『ぬ』を見るたびに、いつもおかしくて笑っちゃうんですよ」

とその裏返しの『ぬ』が書かれたノートを見せてくれました。

「ノリコは何度言ってもふつうの『ぬ』が書けなくてねえ、わたしがやかましく言うものですから、ひとりで練習していたらしくて、ほら、こんなにたくさん『ぬ』が書いてあるんですよ」

 ノリコちゃんのおかあさんはわたしにそのノートを手渡してくれたので、開いてみました。『ぬ』はノリコちゃんのおかあさんの言うとおりになっていました。

      

ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ

ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ

ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ

ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ

ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ

ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ

ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ

ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ

ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ

ぬぬぬぬぬぬぬぬめぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ

ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ

ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ


 わたしはそれを見ているうちに胸がつまってきました。ちいさなあの手で鉛筆を不器用に握りしめ足をぶらぶらさせてつくえにむかっていっしょうけんめい『ぬ』の字の練習をしているノリコちゃんの姿が目の前にぽっと見えていました。わたしはそのノートをめくっているとナポリターノくんが横からのぞきこんできたので、ノートを渡そうとすると

「いえ、ボクはいいです」

「どうして? 」

「だって、その字、なんだか動いているように見えて、こわいです」

「ノートに書いてある字が動くわけないじゃないか」

「そうなんですけど、やっぱり、いいです。カマドウマがたくさん並んでいるようでこわい」

 わたしはノートをおかあさんにお返ししました。そのノートを受け取るとノリコちゃんのおかあさんはノートを開いてそこに書かれている裏返しの『ぬ』をじっと見つめていました。

 わたしたちはしばらくしてから庭に出ました、庭の端のほうにあるちいさい稲荷の祠を見ているとノリコちゃんのおかあさんが、

「ときどき、ノリコが遊びにきているような気がするんですよ」とぼんやりと言いました。

「でも」

 足元を見るようにうつむいて

「わたしにはノリコの姿が見えないんです。あなた方には見えたのに、わたしにはノリコの姿が見えないんです」

 ノリコちゃんのおかあさんは「ああ」とうめいてその場にしゃがみこんでしまいました。急に風が吹いてきて稲荷神社の赤い幟がバタバタと音をたてていました。

 遠くの方で踏切の警笛が鳴っていました。

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