陸 ‐ロク‐

 学生会室を後にした玲花は一階まで下りてそのまま屋外に出ると、正門から続く道の南にある中庭に向かって歩を進める。

 視線を上空へ向けると、薄墨うすずみにじんだような雲がはだかっている。少し離れた空で、雷が流れるように鳴った。


 じきに雨が来る。


 水気みずけを含んだ冷え冷えとした風が、玲花の長い髪を揺れ動かす。

 視線を前方に戻して、食堂のテラス席に目指す人物を見つけると歩みを速めた。

「どうかしたの? 玲花――」

 中庭に隣接した食堂のオープンテラスの椅子に座っていた女性は、近寄る足音に気づいて振り向いて、言葉を一旦いったん切る。

 九条学園高等部の非常勤講師である藤は、背後で立ち止まった少女を見て、わずかに瞠目どうもくした。

 大きな雨粒が玲花の髪に落ちてはじける。水滴が光を反射させて輝く髪を風になびかせて佇む玲花は、ほのかに笑みを浮かべる。

 流水のような気が少女の身を包んでいた。

流石さすがに、そなたを出し抜くことはかなわぬようだ」

「いえ、十分じゅうぶん驚きました。どうされたのですか?」

 身を切る真冬の水のような、清冽せいれつな空気を纏う少女に合わせて、藤は語調をがらりと変えた。

「『先見さきみ』の娘と、『土』の所のえない若造わかぞうが、余計なことを言い始めたからな」

「……九条楓と、沙頭雅紘が、ですか。彼らが玲花に接触してきた、ということですか?」

「そう。昨日さくじつ気吹いぶきが『火』の小倅こせがれに見られていた」


 ……ああ、そういうこと。


 藤の正面の椅子に腰かけながら発した少女の言葉で、藤は納得した。楓たちが玲花に接触してきたわけも理解できた。

 少女――玲花。

 幼い頃より、その純粋な心を持つがゆえか、神がいてきた。

 その瞬間を見たのであれば、彼らが玲花に関心を持つのも道理。


「九条楓たちは、どんな話を玲花にしたのですか?」

「『使い人』の説明を」

 玲花をうつわとしている祓戸大神はらえどのおおかみが、藤の質問に答える。

「『風使い』の一族のこともですか? まさか、朝凪家とのつながりに……」

「それはない。邪魔したからな」

 藤がいだいた危惧きぐの念を、玲花の内に宿る神はける。

瀬織津姫神せおりつひめのかみ――」

 藤は意を決して、玲花の中にいる存在の名を口にした。


 祓戸大神とは、つみけがれをはらい清める四神ししんの総称。

 今現れている瀬織津姫神は、禍事まがごとや罪穢れを大海へと洗い流す、川瀬かわせの神。

 海原の渦に集まる諸々もろもろの穢れを呑み込み集める水戸神みなとのかみである、速開都比売神はやあきつひめのかみ。そして、気吹戸主神いぶきどぬしのかみは、強い風を起こして罪穢れを地の底深くへと吹き放つ神。速佐須良比売神はやさすらひめのかみは、地の底の国に持ち込まれた穢れをのぞる神。


 その性質通り、苛烈かれつさが際立つ。

 藤は玲花に依り憑いた神の気を慎重しんちょうに読み取り、その名を間違えないように注意を払った。

 それこそ、逆鱗げきりんに触れないように。

瀬織せおりでよい。そなたたちは、我らを間違えぬからな。相良柾矢にも伝えておけ」

 藤のその努力を知る瀬織津姫神が、さらりと告げる。むくいを受けたことに驚きながらも藤は深く一礼をした。

「ありがとうございます。それで、瀬織の神」

 神からさずけられた恩恵が、過分かぶんなものだと知る藤は謝辞を伝えてから、もう一度――今度は与えられた呼称こしょうで――呼びかける。

「何だ?」

「このままでよろしいのでしょうか?」

「ああ、構わぬよ。近いうちに、この娘自身が知ることになるだろうからな。さて、ひと雨来そうだから、お戻り」

 そう告げた瀬織津姫神は立ち上がると、「この話はしまい」と言わんばかりに、ぱらぱらと雨粒が落ち出した。

 慈悲じひのこもった笑みを浮かべた神は、身をひるがえして来た道を戻る。その後ろ姿を眺めていた藤は大きく息を吐き出した。

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