第2話 「奇跡」
「なん……だよ……」
ぽたり、と、くせっ毛だったはずの彼の髪は雨水に濡れて重みを増し、そこからしずくが滴っていた。
「なんなんだよ、お前」
レオの暗碧の瞳が恐れおののいて、歪んでいるのが見えた。
——ああ、この目には昔にも見覚えがある。確かあの時、その目をした彼を私は傷つけることしかできなかったけれど。
「き、奇跡だ……!」
一人の男性がそう叫んだので振り返ると、店主さんがそこに立っていた。
「ああ、惟楽の方だったのですか!」
集まった町の人たちが次々に地面に平伏していく。中にはハユキを拝むものもいた。雨に濡れてどろどろの地面などものともせずに、彼らは迷わず膝をつき頭を下げた。
やめてくださいと言っても、彼等が地面に額をこすりつけるその行為をやめないことは、経験から知っていた。
その中に一人、綺麗な暗碧の瞳をした少年だけがただその場に立ち尽くして、食い縛った歯に見覚えのある八重歯を覗かせていた。
以前は笑顔のときに覗かせたそれを可愛いと思ったが、今は、ただ、悲しかった。
「おい、ハユキ、お前惟楽の者だったのかよ?それに……俺……今……」
動揺にぐらぐらと揺れる暗碧と目を合わすのが怖くて、目を伏せた。
「レオルド!惟楽の方に何て口を利くんだ!」
「親父は黙ってろよ!」
宿屋の主は息子の気迫に気圧されて、二の句が継げないようだった。
しかし恐怖の色がレオから抜けることはない。
「レオ……黙っていてごめんなさい」
「……いいけど、だけど、説明してくれよ。
なんなんだ……それに何であの時お前、あんなこと——」
「ハユキ様!」
聞き覚えのある声がレオの言葉を遮った。
ハユキはもうこの居心地のよい町を出なくてはならないと思った。
いや、そんなことより今後レオをどうすればいいか決める方が先決だ。
——レオはもう自分自身悟ってしまっているようだし、レオの恐怖を取り除くにはこのまま黙っておくことなんてできない……でも——。
視界の隅の方に見えた同じ暗碧に、先程食べた温かいトマトのスープの匂いが思い出され、ハユキは口を一度閉ざした。
「ハユキ様、ご無事ですか!」
ああ、安心する声。
「クライド……」
こちらに駆け寄ってくる彼の背景には零れ落ちそうな程夜空に溢れる満天の星が、絶えず輝きを放っていた。
***
その騒ぎが起きたのは、ハユキがレオの家族との夕げを済ませ、ダリアさんが用意してくれた余り部屋の床につこうというとき。
長旅の疲れか目蓋の重くなった目を擦り、ベッドに座るとそのまま倒れ込んだ。
「ハユキ、いんの?」
二つの軽いノックの後に続いて、レオの声がする。
「うん、いるよ」
「入っていい?」
「どうぞ」
ハユキは返事をして体を起した。
「あ、わり、寝てた?」
「いや、寝転がってただけ」
「ならよかったよ。そんでさ、さっきの親父の話なんだけど」
レオはそう言って部屋に入ると、ドアを神妙な面持ちで閉めた。
「惟楽の者の?」
「そ、それそれ——」
「ね、まず座ったら?」
ハユキはすぐ話し始めようとするレオを見て、椅子にかけるようすすめる。
レオはああと薄く返事をして椅子を引っ張り腰かけると、わずかな時間も惜しいというように話し始めた。
「あれは親父の間違いだ。あの旅人は惟楽の者なんて大層なもんじゃない」
「……その人が自分から惟楽の者だって名乗ったのなら、そうかもしれない。惟楽の者をよく思わない人もいるから、もし本物なら旅の間は自分からばらすようなまねは控えるでしょうね」
自分であの人である可能性を否定していることに、ハユキはどうも良い心持ちではいられなかった。
はなからそうである可能性など低かったのだけれど。
「ちがくて。水操ったっつー、あれ。そいつがビビって逃げてるとこ俺見てんだよ」
レオは意味ありげに部屋に置いてある神書の方に目をやる。
「それに——」
神書を見つめた彼の表情が、曇った。忘れていた暗闇の重みが徐々に増してのしかかってくるようだ。
「や、やっぱこれはなんでもねーや……」
言いかけた話が気になったが、レオはなにか迷っているようだったので話してくれと無理は言えまい。それにしても——とレオと話していて思うことがある。
彼といるとなぜか夜でも身体が軽くなったように思えるのだ。ハユキはいつでも、夜の重みには苦しんできたはずなのに。周りの人間は感じない、ハユキだけが感じる、日暮れの後の暗闇の重さに。
「で、レオはわざわざそれを言いに?」
「ちげーよ。だから親父にさ、神書なんて置いとくなってお前から言ってくんないかなって」
「なんで私が」
「おいお前、思いっきり”めんどくさい”って顔すんなよ」
「いやだな、泊めてもらってる手前そんなこと……」
「思ったろ」
そんなハユキをレオはあの鋭い目つきでじっと見つめる。
「……思いました」
「素直でよろしい」
「で、何で私に?」
「俺が言っても聞かねーからだよ。でもお前の言うことなら聞くかもしんないだろ。お前意外と頭よさげだし……なんとか言いくるめてくれよ」
レオがそこまで神書のことに対して必死になるのもわかる気がした。
この国は確かに神道を国教とし、それを基盤として作られ、栄えてきた。しかしその多神教国家も今は外国から伝わった唯一神の宗教に悩まされている。
田舎とはいえ色々な人々が出入りする宿泊施設に神書が置いてあって、他国宗教の信者が泊まると面倒なことになりかねない。
「まあ、言うだけいってみるけど、いい結果が出ることは期待しないでね?」
「おう!助かるよ」
椅子から身を乗り出してレオの顔がぱっと明るくなった。
「頼むな!」
そう言ってにっと尖った八重歯を覗かせて笑うので、ハユキもつられてほろりと笑ってしまう。
「でもまあ、確かに神書はよくないよね……」
ハユキはあの猩々緋を見ながらぽつりと一言溢した。国教である神道の書に対し、よくないという意見は人前であまり口に出して言ってはいけない事だったが、レオの前で気が緩んでしまった。
矛盾を隠しきれないあの書は、本当にどうして——。
「なあ」
ハユキが呟いたことを疑問に思ったのか、レオが不思議そうにこちらを見ていた。
「それってどういう——」
コンコンと、レオが疑問を言いきる前にドアを叩く音がした。
「ハユキちゃん、いる?」
ダリアさんの声だ。
「はい、います」
「ちょっといいかしら?」
「どうぞ」
ドアを開けて入ってきたダリアさんはまずレオに目をとめて、あらと言った。
「ここに居たのね、レオ。お父さんが探していたから、行ってらっしゃい」
なんだよとぼやきながらレオは腰をあげる。
「んじゃ、さっきのこと頼んだからな。今日はゆっくり寝るといいよ。おやすみ」
そう言ってレオは部屋を出ていった。
レオの姿が完全に見えなくなり、足音すら消えるのを待つかのようにドアの外を見つめ続けたダリアさんは、やっとぱたりとドアを閉める。
そしてこちらに向き直る頃には、レオと同じ暗碧の瞳が揺らいでいるのがわかった。
「ハユキちゃん……」
重い。空気がまた
ダリアさんは一息ついて、再び口を開いた。
「あなた、惟楽の方でしょう?」
息が、止まった。
ろうそくの明かりが急に暗くなった気がして、どこからか吹いたわずかな風にゆらゆらと部屋を揺らす。
「その……間違ってたらごめんなさいね」
ふっと固まった場を解きほぐすようにダリアさんが苦笑してそう言った。
「私、よくするのよ、そういう……勘違いとか」
ふふっと笑ったダリアさんの目は、やはり真剣だ。ハユキは少し息を吸って、旅の中で身に付いた自然な作り笑顔を貼付けて向き合った。
「そうなんですか」
「そうなの。でも、ちょっと気になって……」
「あの、なにがです?」
「ハユキちゃん、有能な剣士を連れて旅をしているって言ってたけれど……それってなかなかできないことだし、惟楽のお方なら側近の騎士様がいるのも普通かなって思って」
——しまった、と思った。
こんな貧乏な旅人に有能な剣士など雇えるはずかない。
そして騎士というのは、惟楽の者に仕える役職であり、剣の腕は言うまでもなく一流である。
「あのね、もしハユキちゃんが本物の惟楽の人だったら……」
重っ苦しい沈黙にハユキは次の言葉を待つしかなかった。
ダリアさんの真剣な視線から絶対に目を逸らしてはいけないような気がして、額に浮かぶ汗もぬぐえないまま真っ直ぐに視線を返す。
「レオを——レオルドを連れていかないでほしいの」
お願い、と目に涙を浮かべて懇願するダリアさんの言っている意味がわからなくて、ハユキはえっと短く声をあげた。
「あの、連れていくって……?」
「『日の暮れ泥む町』によ!あの子は特別だからもうすぐ連れていかれてしまうわ!もうすぐ惟楽の方が迎えに来てしまう!」
ハユキは話が読めず、取り乱すダリアさんを宥めようと試みたが、ダリアさんはまだ話し続ける。
「ハユキちゃん、そうなんでしょう?あなたの格好、惟楽の人は必ず赤と黒は身につけないもの!」
ダリアさんはこちらに近づいて、そうなんでしょうとなおも問い詰めてきた。惟楽の者は神に仕える職であるため、血の赤不浄、死の黒不浄を連想させる色の服は避け、できるだけ白の衣服を着用する習慣がある。
否定は——出来なかった。
事情を聞くには肯定する他なかったし、この宿が惟楽の者に対して友好的であることは部屋に置いてある神書を見れば十分だった。
「ダリアさん落ち着いて。私はあなたのいう通りの者です。ですから、お話をちゃんと聞かせてください。私には話が見ません」
息を整えて、やっと落ち着きを取り戻したダリアさんは、ぽつぽつと理由を話し始める。
「あの子は——レオは、あの人との子じゃないの」
ハユキは大人の事情だと思って少し身を固くしたが、次にダリアさんから出た言葉は、とんでもないものだった。
「あの子は私と水の神、
「は。りゅう——おう、さま?それは……」
ハユキは驚きのあまり言葉が続かなかった。まさかそんな話が現実に起こりうるのか。神と人の子の神話は確かに残っている。しかしそれはあくまで神話であり、神道に関して神話は物語性が強く、必ずしも事実として信ずる物でもない。
童話や教訓として記されたものと認知されているが……それがまさか。
「連れていかないで……」
ダリアさんの声にはっとした。
「すみません、その話……本当なのですか?」
「本当よ。私が子供を産めないからだと分ってから、毎日土地神である龍凰さまに
日の暮れ泥む町とは、上級の惟楽の者だけが集い政治を行う”神域”だ。この国のど真ん中に位置する
「はい。私は神域の者ではありません」
「でも、同じ惟楽の者なんだから、なんとかできないの?」
「すみません、私には無理です。私はその日の暮れ泥む町に入るのを認めてもらうための試練として旅をしているのですから。神域の者は、惟楽最高責任者の依頼のものとに動いていますので、一介の惟楽の者にはどうしようもできないのです……」
ダリアさんの目から溢れ、ぼつりぼつりと落ちるその大粒の涙一粒一粒がシミを作る度、ハユキの心は締め付けられるようだった。
「困らせてしまったわね。ごめんなさい、無理を言って」
無理矢理作られた笑顔を向けられてハユキは、ぐっと下唇を噛み締める。
——私には、どうしようもできない。
人の存在でありながら神の血を継ぐレオは、惟楽の者よりずっと神に近いにも関わらず人と同じ。前例のない希少な逸材だ。神域の者が連れ帰ろうとするのは当然の動きだろう。
でも——。
目の前のダリアさんがあまりにも不憫で、今の自分には何もできないということが悔しくて仕方がかった。
「ごめんなさい、ダリアさん」
「なんでハユキちゃんが謝るの。仕方がないのよ」
そう言ってからダリアさんは思い出したようにこちらに向き直り、姿勢を正した。
「いえ、お謝りにならないでくださいハユキ様。惟楽の方とは知らず数々のご無礼を、どうぞおゆるしくださいませ」
「やめてください!」
半ば悲鳴のような声を上げた。
もう、たくさんだ。
不幸しか呼ばないこんな自分に頭を下げる人を見るのも、自分を頼ってくれた人を失望させるのも。ハユキはもう、たくさんだった。
部屋の外から階段を上ってくる人物の気配がし、それはハユキ達の部屋の前で立ち止まった。
「ハユキ、ちょっと入んぞ」
そう言ってレオがドアから顔を出す。
「この手紙、親父がお前に渡すように言われたんだって……って、母さん?」
レオが途中まで入ってきて母親の泣き顔を見つけ、その場に固まった。
しん、と誰もが何も言わない時がとても長く感じる。
もう少しびっくりすると思っていたけど、レオは思ったよりすぐに冷静さを取り戻して母親を見下ろし、それから何でもなかったようにハユキに手紙を渡してきた。
「差出人、クライドっていえばわかるって」
「クライド!?」
ハユキはその手紙を受け取るとすぐに開封し内容を確認した。そしてすぐに立ち上がる。
この内容を読んでしまっては、いても立ってもいられなかった。
「ごめんなさい、私」
「行くのか?」
「いや。でも……」
この場をそのままにしていくことなんてできない。声を殺して泣きながら、頭を下げ続けるダリアの丸まった背中から目をそらす事ができない。
「いいから、行けよ」
その声にやっと彼女から目を離してレオを見ると、彼は顔にどんな表情も浮かべることなく、ただ淡々した口調でもう一度言う。
「行けよ、大丈夫だから」
ここでこの場を去ることが、レオを見捨てることに思えてならなかった。神域に息子を連れて行かせまいとする母親は、ずっとそこで泣いていた。
自分の優先すべき事柄は違うというのに。ここに残ったところでハユキには何もできないというのに。いや、ここを出て行った所でそれは変わらないのかもしれないけれど。
「ハユキ、俺達のことはいいから。急ぐんだろ?」
レオは私を安心させようと微笑んでいた。すっと、頬に冷たいものが伝っていくのがわかった。
「ごめん、ごめんなさい」
それだけ言ってハユキは後ろ髪を引かれるような思いで、空気の重い外の世界に駆け出していった。
***
いつの間にか外は雨が降っていた。ずいぶんな土砂降りである。
濁った川の水に、分厚い雲に隠れた星など映るはずもなかったが、ハユキはそれを懸命に覗き込んだ。
——次の町に行くための橋が、見当たらない。
「ようハユキ。橋なんてもうとっくに切り落とさせてもらってるぜ」
背後からした聞き覚えのある声にハユキは背筋を強ばらせた。
彼を最後に見たのは確か、惟楽の者を育成する神学校で催された、神域へ行く者を激励するパーティだ。
「ラシン、あなたもここにいたのですか?」
振り返ってハユキは彼を思いきり睨みつける。
「こんなド田舎町、来たくて来た訳じゃないけど。ま、お前をいじめにな」
傘を片手ににやりと笑った短い銀髪の青年は、整った顔を不適に歪めた。雨に濡れたハユキを嘲るように、少し濡れた裾の端をハンカチで拭っている。
ハユキは雨で濡れた前髪をかきあげて、負けじと笑顔を作った。
「あーそう暇なんですね。暇すぎて橋を切り落とすまでに!」
「俺は忙しいけどな。その合間さいて来てやったんだ、感謝しろよ?」
「感謝?こんな時まで憎たらしい顔みせられて、こっちは慰謝料請求ぐらいなんですけれど」
「何言ってんだ、お前、金ならそれなりに持ってんだろ。お前さ、けっこう有名人だってこと自覚した方がいいぞ」
切れ長の目がさらに細められて、鋭い視線が私を射抜く。
「お前ってお供え受け取ってないだろ」
お供えとは神に捧げるお金のことで税金のようなものであり、この場合はそこから支給された惟楽の者の給料のことを言っている。
「国民から巻き上げた税金でしょ。個人の旅費にお供え物のお金は受け取れません」
「だからって賞金首取っ捕まえて旅費稼ぐか?それに旅費ってわけじゃない。お前がその札をもらった時から、その金はお前の給料だ」
ハユキは懐に忍ばせた惟楽の者の証である木製の札さりげなく触った。
これをもらったところで、自分は誰の何の役にも立っていない。給料なんて、もらう資格はない。そう、ハユキは思っていた。
だから。
「どうやってお金を稼ごうが、私の勝手です」
川を背にして、神域の者である彼を威嚇し続けた。こんな男が惟楽の、しかも優秀な神域の者だなんて、信じたくはないがそれは紛れもない事実だった。
「おいおいそんな怒るなよ。昔っからの付き合いだろ? ……それに、お前が何で有名なのかききたくないのか」
「いやべつに聞きたくないです。それじゃあごきげんよう」
「いやおい、ちょっと待てよっ」
ラシンの隣を通りすぎようとしたが、ラシンに肩をつかまれて無理矢理正面を向かされる。
「離して!」
久しぶりに向き合うそのむかつく顔を見て、ハユキの忘れてしまいたい過去が今にも鮮明に浮き上がってきそうで怖くて、顔を背けた。
いつもハユキの味方をして、優しい笑顔を向けてくれたあのラシンも、隠す事ない憎悪を自分に向けてきたあのラシンも、あの過去も。
「聞きたくなくても教えてやるよ。最近腕の立つ賞金稼ぎがここらを荒し回ってるって、悪党どもの間じゃもっぱらの噂だ」
「へえ、それはそれは心配してくださってどうもありがとう」
「はっ。夜なのにずいぶんと饒舌だな」
「体が思うように動かないぶん口が動くのです。まあ、あなたの腐れた口は昼も夜も関係ないようですけど」
「ふーん、ずいぶん可愛げがなくなったもんだな。まあ、昔もさほど可愛くなかったが」
このラシンの意地の悪い笑みは、きっとハユキにのみ向けられるものだった。それでも、ハユキはいつもいつも逃げてばかりはいられないと知っていた。だから、その変わってしまった彼を真っ正面から睨み返す。
「私に何か用があるのではないですか?」
「あるさ。だが本当に用があるのは俺じゃないがな」
がさっと背後から音がする。嫌な予感がした。
とっさに振り返るとそこにはガラの悪いごろつきどもが武器を片手に薄気味悪い笑みを浮かべて立っている。
「あまりにしつこいんで、お仲間を狩られた賞金首やら山賊やらに仇の情報を教えて差し上げた。お前の憎まれ口も聞き納めかと思うと多少は寂しいな」
じりじりとごろつきたちがこちらに距離をつめてくる。
ラシンが本気で殺す気なのだと知れると、どっと汗が噴き出してきた。そして、怖いという感情以上に、ラシンの殺意が悲しかった。
「たす、けて」
どうしていいか分らなくなって、その場で力なく呟くのが精一杯だった。
「たすけてクライド……っ」
「お前の側近なら来ねえよ。ちゃんと足止めしてある。……でも不思議だったぜ。騎士養成学校の名門、アリバー騎士学校の首席で高級貴族出身のクライドが、まさか惟楽の者の側近になるなんてな。ましてトロい小娘のだぜ?」
「ラシン!このっ」
ラシンは私を無視して楽しそうに笑う。
「じゃーな、ハユキ」
ラシンは私に背を向けるとごろつき達の間を抜けて遠ざかっていく。あの寂しい背中を、こんな状況でも私は心から憎むことはできない。
「まちなさいラシン!」
ラシンがこうなってしまったのは、きっと私のせいなのだから。ラガの兄は、昔もっと優しい顔をしていた。
「ラガは——」
「その名を呼ぶな!」
言いかけて、ラシンの怒声に声をさえぎられた。
「お前のせいだ」
低いラシンの声は、また深く私に突き刺さる。
涙で視界がぼやけ始めた。
泣いている場合などではないのに、拭き取っても拭き取っても次々にあふれる涙はなかなか止まってはくれない。
「らし……ん」
遠ざかるその背中を、ぼやける視界の中で精一杯追う。
「ラシン、兄さん……」
その時。後ろからばしゃっという不自然な水の音がした。
そして、信じられないものがハユキの目に映る。
水が宙を舞って、立ちはだかる壁となり、ごろつき達は一瞬にして水になぎ倒された。
ちっ、とラシンの舌打ちする声がきこえる。
「あんた、龍凰か……」
「そうだ」
その声の方に顔を向けると、濃紺の長く艶やかな髪とレオと同じ暗碧の瞳をした男が宙に浮いていた。
名前を聞いて思い当たる。この人がレオの父親だ。
「あんた、人助けが趣味かなんかなわけ?それならこのガキがいなくなった方が世のため人のためだぜ」
ラシンは忌々しそうにこちらを見てハユキを指差した。
「勘違いするな。我はお主をここで始末するために来たのだ。お主、日の暮れ泥む町の使者であろう」
「はっ、バレてたか」
ラシンはにやりといつもの憎たらしい笑みを浮かべて、神を見ていた。
まるで神と対等である。
「我を誰と心得る」
「ま、神様なら仕方ないか。どんな私情にもお見通し。あまねく全てをご存知の神々はお仕事の邪魔をするのも簡単にできていいな」
「その様な小さき事柄に介入などせぬ。我が息子をあのような不浄な場に行かせてなるものか」
「それが仕事の邪魔なんだよ。神様って営業妨害で告発できたっけ」
「まず無理だ。諦めろ」
「だよなー」
ハユキは二人の会話で理解する。ラシンは神域の者としてレオを日の暮れ泥む町に連れていくために来たのだ。
「じゃあ、今日の所はこれでお暇しようかね。怖ーいお父様もいらっしゃるようだし。でも、覚悟しとけよ。あんたが抵抗すると分った以上、今度は悪神鬼神を引き連れた惟楽の者が大勢でお迎えにあがるぜ。せいぜい今日息子を引き渡さなかったことを後悔するんだな」
龍凰の目が底知れない怒りを含んでラシンを見下ろした。
雨の勢いが急に増して目を開いていることすら精一杯だ。
——不味い。
神の怒りを買うのは本当に危険なことだ。
「ラシ——」
「ハユキ!」
ラシンと言いかけてある人の声を聞き、ハユキはそちらに目を向けた。
「まだ無事か!?」
視界のすぐ向こうが見えない中で、黒い影が土砂降りの雨を掻き分けて進んでくる。
「レオルド!」
すると急に雨足が弱まって、それと同時に神の気配が消えた。
龍凰様はまだ隠しておくつもりなのか。
「おい、馬鹿ハユキ」
呼ばれてハユキはレオルドに向けていた視線をラシンに移した。
黙っていれば相変わらず整った綺麗な顔だというのに、いつも嫌味ったらしく歪んだ笑い方をするのだから台無しだ。
「お前、惟楽の者として間違ってるぜ。どうしても日の暮れ泥む町に来るっていうのなら、来てみろ。その時は俺が潰してやる」
そう言ってハユキに背を向けた。
いつもいつも、いつだってラシンはそうやってハユキに背を向ける。
彼をそうさせたのはハユキに違いなかったが、それでも、ラシン兄さんと呼んで親しかったあの頃の思い出が頭から離れることはない。
——でも、それでいい。自分の罪は、忘れてはいけない。
ハユキはぐっと拳に力を込めて汗も雨も涙も全て握りしめた。
「行きます、絶対に!私は立派な惟楽の者になります!あなたこそ日の暮れ泥む町で怯えながら待っていなさい!その時はその綺麗な顔面に一発お見舞いして差し上げます!」
強がりだったのかもしれない。ただ、あの煙と炎の中でハユキは誰も助けられなかったように、今の彼女には何もできない。
だからせめて神域に行くことで、権力を持つことで、頼ってくれる人を救えるだけの力が欲しかった。
「あはは、ほんっと馬鹿だなハユキ。惟楽の者が立派なはずないだろ」
視界からラシンが消える前に、そんな言葉を溢していようとは、知るよしもなく。
「おいハユキ、今の男……ていうか、今の会話なんだよ……?」
あの会話を聞かれた後だ。ハユキが惟楽の者だと勘づいたに違いないが、さてどうやってレオに説明しようかと考えていた時。
「げほっ、げほぉっ」
そこに、水に呑まれて倒れていたごろつき達が、ひとりまた一人と目を醒まし始めていた。
一瞬クライドからの救援を期待したが、いや——と思って考え直す。あのラシンが足止めしたと言っていたのだから、すぐに助けに来るとは到底思えなかった。
——こうなっては仕方がない、神様の力を借りるしか……。
雨に濡れているのをいいことに、
ざあざあと背中から受けるけたたましい程の川の音に耳を傾け、荒れた川のその主の神を呼ぶ。
「河川を守護する神、
そうしてゆっくりと目を瞑った。
急に漂いはじめたいかめしい空気の中、ごうごうと流れる水の音の他にハユキは確かに神の声を聞いた。
《私を呼ぶか、娘》
——はい。わざわざお越しいただいて恐縮でございます。
《身体を貸すとな?》
——代わりに力をお貸ししていただきたいのですが、お聞き届けくださいますでしょうか。
《別に身体なぞいらぬ》
——では他に何かお望はございませんか。
そこで少し神様の笑った声が微かにした気がした。
《そうだな。酒とまんじゅうを供えて、少し話し相手をしてもらおうか》
神の了承を得たところで、今度は声に出して祝詞を唱えはじめる。
自分の身をご神体として、この身に神におりていただくのだ。
本来ならいくつか手順を踏まないといけないのだが、惟楽の才に恵まれていたハユキは経過を省いたにもかかわらず、いとも簡単に神様をその身に神を招き入れた。
体が軽くなって、それでいて窮屈な感覚。
目を開くとすぐ近くまで野蛮な武器を持ったごろつきが近づいてきていた。
《娘、力を貸し与えよう。思う通りに使うといい》
——ありがとうございます。
それから河伯様の声は聞こえなくなってしまった。
だが、体の内にくるくると渦巻く水の感触を覚えて、まだそこにいらっしゃるということが知れた。
「レオ、頭を下げて!」
ハユキの思う通りに川の水が動く。
雨で濁った濁流が思う通りに宙を舞い、形を変え、ごろつきどもに突っ込んで薙ぎ倒していく。
「なんだよ……これ」
地面に伏せたレオが頭上を自在に飛びかい、ごろつきたちをねじ伏せていく濁水をみて顔を青くした。そしてその目はそのままハユキに向けられた。
「ハユキ……」
小雨になったから、今ははっきりとレオの顔が見てとれる。
暗碧の瞳、水滴のしたたる紺の髪。
「どうしてついてきたのですか」
レオはなんでここに来たのだろうか。
これでは次の町に行きづらくなるではないか。
両親と引き離され、日の暮れ泥む町に連れていかれてしまうレオを置いてまで、ハユキはまたあの人を追いかけなくてはならないというのに。
それができなくなってしまう。
「どうして……」
両親と引き離される苦しみをハユキは知っている。
でも、今あなたがそうなろうという時に、見捨てていこうとしている。
レオは真っ直ぐにこちらを見据えていた。
「どうしてって、お前の後をあのガラの悪い連中が追いかけてんの見たからだよ。もうそろそろ大人たちも来る」
そう言ってレオは地面にばたばたと倒れて気を失っているごろつきに視線を落とした。
「それより俺の方が聞かせてくれよ!」
レオがまた一歩近づいて、真剣に問うて来る。
その時、大勢の足音がバタバタとこちらに向かってくるのが聞こえた。
その間にもレオの視線から逃れられず、私も浅く息をしながらその目を見る。
「きゃあっ」
なぜかその中で女の人の悲鳴があがり、ハユキはレオから逃げたいばかりにやっと視線を外してその声の方に駆けていった。
逃げ出した背中がどうしても重たくて、振り返らないように走った。
少し行くと川辺に繋がる細い道端に、ごろつきの残党に刃物を向けられた女性が恐怖に顔を歪めていた。
それをすかさず河伯様のお力をお借りして、水の塊をごろつきの顔面に高速でぶつける。
案の定その者は頭から後ろに倒れ込み、後頭部を強打して意識を失った。
よかった、助けられた、そう思って息を吐いた。
安心すると急に力が抜けて、息を吐くと同時に目を瞑った。
「動くな」
ひやり、と首筋に金属が触れる。
「少しでも変な動きをすれば命はないと思え」
低くどすのきいた声。
今自分は刃物を突きつけられているのだと気づくと、ハユキは恐怖に喉の奥がぎゅっと締め付けられて上手く声が出せなかった。
ぼうっとしていた頭が妙に冴えて、心臓の音がうるさい。
今少しでも動いたら喉を切られてしまうかもしれず、無理に河伯様の力を使うのはためらわれた。かといってこのままでもいずれは殺されるのだ。
一か八か、力を使ってみようかとも考えたが、命のかかった選択は恐怖のあまり実行できなかった。
考えれば考えるほど手足が震えて、焦りが増す。
「クライド……」
掠れた声でやっと絞り出した。
助けて——。
「おい」
ハユキの背後から、レオの声がしてはっとする。
「ああ?」
ごろつきが振り返った気配が伝わってきた。
その瞬間——。
ハユキの周り全てが水に包まれた。
物凄い勢いで水が押し寄せ、一瞬にして水中に引き込まれた。
それは川の濁水ではなく、透き通った綺麗な水。
その流れの中で流されていくごろつきを見た。
幸い、河伯様のお力でハユキは息もできればその中で立ってもいられる。
ちら、と遠くに深い深い水のずっと底のような暗碧を見た。
水が引いていくと、やはりそこにはレオが立っている。
これが、神と人の間に生まれた子の能力。
水が引いたとき、そこに立っていたのはハユキと、遠くに佇むレオだけだった。
「なん……だよ……」
騒ぎを聞きつけ、駆けつけた村人はその様子を見て次々にひれ伏していく。
「なんなんだよお前。おい、ハユキ、お前惟楽の者だったのかよ。それに……俺……今……」
おそらく、以前川に流された子供を助けたのは惟楽の者でなく、このレオルドだ。
逃げる惟楽の者を目撃したと彼が言ったあと、なにか言おうとしていたのはきっとこの事だ。
町の人々はこのガラの悪い輩を倒したのはハユキ一人と思っているようだった。
——この状況を私は、どうしたらいいのだろう。
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