神様の愛した娘

牟田かなで

第1話 「再出発」

惟楽かんながらの者。


その者達は神に愛された者の呼び名で、私たちは彼らを敬わなければならなかった。なぜなら彼らは八百万やおよろずの神々の声を聞き、時にはご神体の役割を果たす方々だったからだ。


だから彼らは偉かった。また、国の政治にも大いに介入してきた。

信者を導く彼らは国民にとって神そのものであったし、神様をその身に宿した彼らは【奇跡】という人智を超えたわざを扱えたのだ。


当然、私たちは疑うこともなく、惟神の方々を神様と同じに崇めた。


「ハユ……キ!」


だからといって、時には神でさえ間違いを犯すことを忘れてはいけない。


「いや……」

阿鼻叫喚につつまれていた辺りは、ぱちぱちという火の気のあがる気配と煙ばかりになった。


「いやだ……やめて」


ほとんどの者が地面に倒れてぴくりとも動かない中、私の友人は一人、私の身を案じてボロボロの体を引きずる。

——やめて、来ないで。来ないで!


叫びはからからになったのどの奥につかえて、外には出てこない。自分のものでなくなった身体は、怪我を負った友人を目の前に少しも動いてはくれなかった。


「ハユキ」


私の名前を呼ぶ友人が、負傷している右手をこちらに伸ばしたとき。

私に触れようとした彼の苦痛に歪む顔が、悲鳴が、頭から離れなかった。


「お前のせい……じゃ…な——」

それから彼は、地面に倒れ込んで、動かなくなった。


声にならない悲鳴が、校庭に響き渡る。



***


「……ハ…キ…ユキ…」


もそりと、彼女は布団の中で寝返りをうった。


「ハユキ!」


心地の良い時間は自分の名を呼ぶ大声に遮られ、彼女はううと唸るばかりで布団から出ようとしなかった。


「起きて!」


二度目の呼びかけで、少女は大儀そうに布団を少し押しのけて、目を開く。白い陽光につつまれた少年が、眉根を寄せてハユキを見下ろしていた。


「いい加減起きて」


天使と見まごうような、白い肌に美しいブロンドの髪に、透き通るようなコバルトブルーの瞳。


「……おはよう、アンディ。怖い夢をみたの」


ハユキは言いようのない安堵を覚えて、彼に手を伸ばした。彼はちょっと戸惑いながら、差し出された彼女の手を握ろうと自らの手を伸ばす。


「アンディ」


確かめるようにもう一度名前を呼んだ。天使のような傍らには、見慣れた騎士が笑みをたたえてハユキとアンディを見守っていた。


眩しいくらいに明るい部屋の中で、そうやって、ハユキはつかの間の幸せを確かめるように手を伸ばした。



——————がたん。



「ハユキ様」


その振動に、やっとのことで彼女は

目を開けても辺は薄暗く、肌寒い。荷馬車の荷台に同乗させてもらったこと思い出して、ハユキは慌てて自分の両の手を見た。


伸ばしたはずの手には何も握られておらず、指先は冷えきっていた。隣にいた騎士は自らの上着をハユキに羽織らせ、落胆を隠しきれていない主を気遣って自分に寄りかからせた。


「夢を見ていました」

唐突な少女の呟きに、騎士は静かに頷いた。


「久しぶりにアンディの夢を見ました。それと、【星の消えた夜】の日の夢も」


騎士は少女の肩を抱いて、子供をあやすように優しくさする。


「さようでございますか。それではよくお眠りになれなかったでしょう。しかし夢に気を揉んでも仕方ありません。リビティの町までまだ時間がありますから、もう少しお休み下さい」


騎士の言葉に頷きはしたものの、初めに見た夢が、ただの夢でなく過去の記憶であったので、気を揉むな、と言われても無理な話であった。


二人を乗せた馬車はやがて、小さな町へと到着する。


さて、このハユキという少女は、様々な町を点々と旅していた。

これは彼女の旅の物語と、彼女達がいる神の国の物語である。


”君は神に愛されすぎてしまった”


そんな少女が、旅の転機となるその少年に出会ったのは、リビティの町に着いて二日目の夜のことだった。


……日の暮れる町

【リビティ】……


——重い。


ハユキは夜の重みに足を取られながら、宿の一室を掃除していた。冷たい水にぞうきんをくぐらせ、ぎゅっと絞ると手のひび割れにぴりっと痛みが走る。旅を始めてから、彼女の手は以前の綺麗なものでなくなっていた。


「ふう」


ぞうきんがけが済み、仁王立ちになって部屋を見渡す。なかなかに綺麗に掃除されれた部屋はきもちがいい。


「おいお前、ひと部屋掃除すんのにどんだけかかってんだよ」


満足ぞくげな表情をしたハユキの後ろ、部屋の扉がいつの間にか開いていて、そこから一人の少年が掃除用具を抱えて呆れた顔をハユキに向けていた。


「あ、すいません。えーと、どちらさま?」


嫌なところを見られて少し気恥ずかしそうにしながら振り返ると、少年の特徴的な青い髪が真っ先に目に入ってきた。

少しクセのある、くすんだ青の柔らかい髪の毛。きつい角度で一直線につり上がった眉と瞳。ただ身長だけはたいして変わらず、歳が近いことが伺える。


「あれ?あー、言ってなかったっけ。俺はこの宿屋の息子、レオルドっての」

「はあ、はじめましてレオルドさん。私はハユキです。今日はこちらの宿に安く泊めていただくかわり、お手伝いを……」

「知ってるよ」


レオルドはハユキの言葉を最後まで聞かず、強い口調で話を遮る。きつくつり上がった眉もそうだが、少し短気そうな印象を受ける。しかし次には、その表情は年相応の可愛らしい笑顔に変じた。


「父さんから聞いた。俺のことはレオって呼べよ。あんた、アリバーから来たんだってな。いいなぁ、都会じゃん。てかさ、なにしにこんな田舎に来たんだ?」


レオは息つくことなく勢いよく言いきって、その目を輝かせる。

彼はそう言うが、リビティもそこまで田舎ではないし、ここよりもっと北に行けば閑散とした町もよっぽど多い。


レオルドは田舎町の外にあこがれを抱いているふうだったが、色々な町を旅して知ってきたハユキは複雑そうな微笑を浮かべた。


「ちょっと探し物を……」

「探し物?」

「ええ、まあそんなところ」


これ以上何も聞いてくれるな、という意思表示のためハユキは精一杯困った顔を作ってうつむいた。

——ばれるのは得策じゃない。保身のためにも、彼のためにも。



「ふうん。ま、いいや。悪かったよ、よけいなこと聞いて」

思ったよりも明るい声で言われたのが意外で顔を上げると、レオが苦笑を浮かべてこちらを見ていた。黒だと思っていたけれど、よく見ると蒼の混じった暗碧の瞳が妙に綺麗だと思う。

それに、このレオという男の子は存外察しがよいらしい。


「あんたさ、前の客が神書汚したんだけど、新しいの下から取ってきてくんない

?受付のカウンターに親父がいるから。……ったく、バチ当たりそーで恐ろしいよな、神書汚すなんてよ」


『神書』とは神話や神道についてまとめられた本だ。神道は国教として定められているため、分厚いその本はどの家庭でも最低一冊はおかれている。

しかし、一神教の流入で昔ほどの権力を有さなくなったためか、宿屋の各部屋に神書がおかれているのは珍しいことだった。


例の一神教の宗教では、そういった神話などをまとめた書籍を『聖書』と呼んでいるらしい。


「わかりました。とりに行ってきますね」

「あんた、隣の部屋の掃除まだだろ?俺、やっとくから。神書よろしくな」


結局レオはハユキの掃除のトロさを見かねて神書をとりに行かせたのだろう。

レオはすぐに掃除に取りかかった。

慣れているだけあって、卒のない動きで仕事をこなしていく。

ハユキも見ている場合ではないと思い、とりあえず神書を取りに階段を下りて、受付をしている店主さんのところへ向かった。


「あの、すみません」

店主さんはカウンターから身を乗り出して身長の小さいハユキを見つけると、いかつい顔にパッと人懐こい笑みを浮かべる。


「どうしたんだい?何か困ったことでもあったのかい?なんでも聞いてくれていいんだよ、かわいい旅人さん」

その物言いに多少ひっかかりを感じるのは、ハユキが今年で17歳になるなんて思ってもみない口ぶりだからだ。

だが訂正する気も起きず、愛想笑いを返す。なぜかはわからないが、夜が更けるごとにハユキの身体は重くなるのだ。


「いえ、あの、掃除を頼まれた部屋の交換する神書をとりに来たのですが……」

「ああ、神書ね。さっき届いたばかりだから、これ、頼むよ」

店主さんがカウンターにしゃがんで取り出した、分厚く真新しい神書。

表紙のくすんだ深い赤い布地は昔から馴染みのあるものだからか、触れているだけで気分が和らぐようだった。


あっ、と店主さんの声が上がったので、ハユキは神書から目を離して上を見上げた。

「それ届けたらレオのやつも呼んで下におりてきてくれないか?晩飯にしよう……レオってのは俺の息子なんだが……」

「レオルドさんならさっき会いましたよ。この神書を持ってきてほしいって私に頼んだのもレオルドさんですから。いま、呼んできますね」

「よろしくたのむよ」

「はい」


ひきつらないよう注意しながら笑顔を作ると、やっぱり店主さんも人好きのする笑顔で応えてくれる。

できれば夜は動きたくないが、泊めてもらう代わりにしっかり働かないと、と思い直して重たい体を引きずり先ほどの部屋を目指した。

それでも少し息が上がるので階段の途中で少し足を止め、真新しい神書の表面をそっと撫でる。

これはハユキにとって一生関わりを持つであろう本だ。

その本の間に指をかけ、たぱたりとそのままページを開いた。


——45ページ目

『惟楽の者』——


かんながらのもの。


——神に見込まれし

惟楽の道を示す者


八百万の神の御心を

汲み、民のために

これを伝えるべし


汝こそご神体

決して軽んじ

軽んざれるべからず——




偶然に開いたページは、ハユキの特に思い出にあるページであった。


“別に、僕らの知っている神様は侮られることを恐れちゃいない。軽んざれるべからずの一文は、僕らの国において僕らの権威が重要であるからこそ付け足されたんだ。神様は案外そういう礼儀とか威厳とかには頓着しないよ”


「ハユキ?」

突然降ってきた声に驚いて神書を勢いよく閉じると、暗碧の瞳がすぐ目の前でハユキを覗き込んでいた。

「あ、レオ……さん」

「さんとかつけんなよなー。そんな堅かったらこっちも気ぃ使うじゃん。それよりお前ってほんととろいよな、神書とりにいくだけでこんな時間かかってるし」

「あ、ごめんなさい」

「いいよ、怒ってないって」

言ってにいっと笑うと、口元の両端から覗く先っぽの尖った八重歯が可愛らしかった。

レオは言葉遣いこそぞんざいではあるが、笑顔となるときつい印象が薄らいで、父親似よく似た人懐っこい表情がハユキの警戒心を解かしてくれた。

「あの、宿主さんが神書を置いたらレオ……と一緒に降りてきてご飯にしようって」

ハユキはつられてにこりと笑いながらそう伝えた。

こうやって温かい人たちに接し、口元が綻んでしまってから、ふと思うこともある。

思い出すとそれはすぐに冷えた気体が充満したような不安の闇の底に、ハユキはすとんと落とされる。


——クライドは、どうしているのだろうか。私はひとり、この暖かい宿で、受け入れてくれる暖かい人たちの元で笑っていて、それでいいのだろうか。


「そっか、んじゃ早く神書置いてきてよ。その部屋、すぐ客入るからさ」

「わかりました」

ただ返事をしただけなのだが、途端にレオルドは笑顔を引っ込めて、ずいと顔を近づけてきた。

あまりにも近くに鋭い目が迫ってきたので、思わずハユキは少し身を引く。

「敬語、やめろよ。あんた、しばらくウチに泊まるんだろ?堅いのは止めようぜ」

するとレオはまたにっと大きく笑った。

「返事は?」

「あ、うんっ」

やっぱりいい人だと思って温かくなると同時に、底に沈殿して溜まった闇がかき混ぜられて広がる。


——クライド、またあなたばかりに押し付けてしまった。

足手まといになるのはご免だけど、何もしないでただ人の厚意に甘えるだけの自分が、どうしようもなく情けなかった。


「ハユキ?どうしたよ」

「いや、なんでも。じゃあ、行ってくるね」


ハユキはレオに背を向けると堪らなくなって神書をぎゅっと抱き込んだ。

「クライド……」

小さく溢してしまった名前の主を思いながら本を撫でると、ざらざらとした布の表面が酷く冷たく感じた。


***


「ハユキ様、どこまでもあなたにお供致します」

跪いて頭を深く下げた若い騎士が私の目の前に居た。

誰かが供なうなど、私はそれほどの価値を持たないというのに。

「ハユキ様なら」

騎士の力の籠った強くて揺るぎのない声が私の胸を殴った。

私にとって期待ほどの重荷——いや、そんな甘いものではなく、身動きすら封じ込めてしまうほどの枷はない。

真っ直ぐに突き刺さった騎士の瞳に、私は目を逸らさずにはいられなかった。


「随分と買い被ったのものですね。私は……」


私は何の奇跡も起こすことなど叶わない。生まれつき持ったただ重たいだけの地位に鬱ぎ込んでいる、人一倍脆い人間だというのに。

「わた……し……」

自分を蔑む言葉ばかりが頭の中に溢れんばかりにわきあがってきて、膨らみ始めた自責の念が涙となって頬を伝った。

「くっ……ふぅ……」

急に泣き出した私に騎士は狼狽することなくゆっくりと立ち上がると、私の頭を優しく撫でた。

その時腕に抱えていた新書の手触りが、どうにも心地よく感じたのは気のせいだったのだろうか。


——これは、私の世界が少しずつ回り始めた、優しい記憶。

幼い私が抱え込んだ現実はあまりに重く、悲惨だった。

そんな時、頭をしきりに撫でるごつごつとした手がとても温かかったのを今でも覚えている。

それは変わらず傍にあって私を支えてくれる、大きな手。

そう。私がどんな大罪人であったとしてもその手は変わらずに……。



「そうご自分をお責めにならいでください。あなたのそのようなところに私はついていこうと思ったのです、ハユキ様」

私をいたわるように、大きな手のひらが私の頭を滑り落ちて頬に伝う涙を拭う。

「己の力を過信せず、無力を嘆かれる、あなた様についていこうと」

夜風に揺れる蒼いサリミレの花が月光の元に輝いていた。


小高い丘の、天然のサリミレ畑が見下ろせるその場所には、二人を守るようにして大きな老木が一本、どっしりと佇んでいる。


「あなた様に仕え、どんな旅にもお供致しましょう」

さわさわと風が木の葉を揺らした。

そして幼いながら私はひとつ理解する。


「あなた……は、私の幼さゆえに私を選んだのではないのですか?」


目の前の騎士は私が幼さゆえに教育できるということをわかっていて、仕えると言っているのではないか。

育った環境によって、幼い私の未来が、人間性が決まっていく。教育は、時として洗脳になりかねない。


「私をあなたの思うように教育することも可能です。もしあなたが私の側近となるのならば……」

「なるほど聡明なお方だ。確かにそのような気が一切ないと言えば嘘になりましょう。ですが、あなた様は私などに左右されてはならないのです。ご自身を責められるのは結構ですが、もう少し自分のことも信用なさってください」

厳しい口調でそんなことを言ってくれたのは、あなたが始めてで、その時からあなたはいつでも私の側に居た。


クライド。




***



「最近じゃ仏教徒が増えてるらしくてね、何で神書があるんだって怒られたこともある。なんだかねえ。自分の国の宗教だって言うのに」

夕餉の席で店主さんがパンを頬張りながらそんなことを言った。


「それはおかしいのでは?」

ハユキはおいしそうに湯気の立つトマトのスープを掬い上げたまま手を止めて、その話に抱いた疑問を口にした。


「何がおかひいんだ?」

もふもふと一生懸命パンを咀嚼しながらレオルドが聞く。


「神道と仏教は確かに違うけれど、教えとして反発し合うものでもないの。神道と仏教、どちらも信仰している人はたくさんいるし、僧と惟楽の者も友好的なの。問題は私たちの国教が多神教なのに対して、一神教の教えが広まっていることね」

「へえ、あんた詳しいんだね」

感心して見つめられ、ハユキはごほごほとむせ込んだ。

——ううむ、ちょっと調子に乗って喋りすぎたようだ。年頃の女の子がぺらぺら喋るような内容ではない。

「沢山色々な場所を旅しているから……?」

「いや俺に聞かれても知らねぇよ……」

「まっ、そんな感じ!」

適当すぎる言い訳をごまかそうと急いでスープを口に運ぶと、その美味しさに思わず美味しいと興奮気味な声をあげる。


「ほんとうにおいしい!」

じっくり煮込まれたであろう深いコクと程よい甘さに、さりげなく利かせたスパイスが後を引く。

「あら、ありがとう。なんだか娘ができたみたいで嬉しいわ。ハユキちゃん、ここにいる間は遠慮とかしないでゆっくりしていってね」

「はい、ありがとうございます!……ええと、奥様のお名前は?」

奥様と呼ばれることがこそばゆかったのか、奥様だって、と可笑しそうにくすくす笑った。


「ダリアよ」

「ダリアさん、今日から少しの間ですがお世話になります」

「なんなら、ずっといてもいいのよ」

ダリアさんは冗談めいてみせたけれど、なぜかどうしても目だけが真剣に見えた。瞳はレオと同じ暗碧だ。

「それで、ハユキちゃんはどうしてここを旅をしてるの?アリビティなんて何もない町」

「何もないことありませんよ。みんな温かい人たちばかりです」

「それは他所の人が珍しいからよ。なかなか旅人さんなんて来ないから」

「そうなんですか。私は探し物をしてここまで来ましたけれど、ここは落ち着きます。最初はちょっと目つきが悪くてびっくりしましたが……」

「なぜそこで俺を見る?」

「あらやだ、何でもないの。ははは」

という冗談はさておき、本当に今まで色々な場所を旅して、ここが一番落ち着くかもしれない。

ハユキ自身の、生まれ育った故郷よりも、ずっと。


「そう言えばあんた、一人で旅してるわけじゃないんだろ?連れは大丈夫なの?それともボッチ旅?」

「”ぼっち”て言うな。一人旅と言いなさい一人旅と」

さっきのお返しと言わんばかりににやにやするレオルドだが、ハユキは”彼”のことを思い出してしまって手が止まり、スープ用のスプーンが皿の底に触れてかちりと短い音が鳴った。


「連れは……いるけれど……。私は見た目通りとても貧弱でか弱いから、腕のたつ剣士が同行してくれているの」

「か弱い……?」

なぜその言葉に疑問を持つ。レオルドめ。


「そいつ、ここに泊まんないの?」

今度は普通に聞いてきたので、ハユキも怒りを納める。

「うん、彼は用事があるから今は別々に行動しているの」

近頃は何かと物騒な事件が多発しているけれど、クライドもこの町は安全と思ったらしい。

だから今、ハユキの側に彼は居ない。

この旅は本当は、ハユキのためのものだというのに。


「ハユキちゃん、大丈夫?」

声にはっとして無意識にうつむいてしまっていたらしい顔をあげると、ダリアが心配そうにことらを窺っていた。

「はい、なんでもありません。大丈夫です」

そう言ってダリアさんを安心させるようにハユキはパンを一つ千切って口に放り入れてみせた。


「そういえば、この宿には神書が置いてあるんですね、今時珍しく」

ハユキはすぐに話を変えようと、先ほど気になった神書についてを話してみた。

「ああ、それは俺が……」

すると店主さんは熱心に神書を扱っている理由について話し始める。


「俺は、本物の惟楽の方を見たことがあるのさ。なに、修行の旅だって言ってたな。惟楽の方ってのは位のとびきり高い方々だから滅多にお目にかかれるものじゃないが、運よく雨が降ってきたってんで次の町に行く前にこの宿に泊まったってわけよ」



どきり——とした。

惟楽の方、とは、王族や役人とはまた別の権力者であり、二統政治の内のひとつで、神様に仕える立場にある。お酒を飲んだわけでもないのに店主さんの声は徐々に張り上がっていき、気分は高揚しているようだった。


「その時俺は初めて奇跡をこの目で見た。惟楽の方が奇跡を起こせるってのは本当だったんだ。それまではずっと不満で仕方なかったが、だからあの方々は生まれつき高い位いなんだと思ったよ」

それ以来店主さんは神道の上に立ち導く惟楽の者を崇拝するようになったらしい。

「それで、その惟楽の者はどんな奇跡を起こしたのですか?」

何となく話を変えるために聞いてみたことだったが、ハユキは既にその話を夢中になって聞いていた。

もしかしたらと、隅の方に僅かな期待を抱きながら。


「その日は急に凄い雨が降りだしてさ、そこですぐ近くの川で遊んでいた子供が流されそうになってるって知らせを聞いたんで助けに行ったんだ。——それで、そこにあの方も来て、川の水を止めたんだ」


一時、心臓が脈をうつことすら忘れてしまったのかと思うほどの動揺と喚起と焦りを一編に覚えた。いや、もっと色々な感情が混ざり込んでいたかもしれない。


「川の水がまるで生き物のように動いていたが、あれは惟楽の方が操っていたのさ。俺は見た」


—————僕は見たよ。ちゃんとこの目で、君の力を。それを不幸、と言ってはいけないのかもしれないけれど、とにかく君の力は悟られちゃいけない。さもないと————……



旅に出て久々に、あの人の声を思い出した。



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