第5話 「数字と札」
「帰れ」
派遣されて間もないからか王都の軍人であるからか、おそらく両方の理由で役所内でも目立つギドは、書類から目を離さずにそう言い放った。
「情報を提供してほしいのです」
ハユキは抱き心地のいいユシィを腕の中に抱きながら、迷惑そうにしているギドに対して臆面もなくそう言ってのけた。
彼はしばらく仕事を続けていたが、やがてせわしなく動かしていた手を止めて、大仰なため息をつく。
「断っておくが、そう簡単に役人が情報をやるわけにはいかんぞ」
そこでやっとギドは書類から目を離し、じろりと睨め付けるような視線を二人に向けた。
「で、いったい何の情報だ」
「二ヶ月ほど前に移住してきた惟楽の者についてです」
「駄目だ」
即答だった。めんどくさいから理由はきいてくれるなとその目が告げているが、はいそうですかと立ち退くわけにはいかない。
「なぜです?」
ハユキが聞き返すとギドは大人げなくちっと舌打ちをした。
「やつについては一切の情報も提供できない。そこまで言えばアホでも分るな」
「王都の軍人ともあろうお方が、ふって湧いたような惟楽の者に何を怯えてらっしゃるんですか。情報くらいくれたっていいじゃない」
今度は射すくめるような、相手を脅すための本気の睨みをハユキに向ける。
「俺の仕事は子供の行方不明者の捜索、及び犯人逮捕……それだけだ。はた迷惑な権力者のことは仕事に入っていない」
「そうですか……」
素直に相づちを打ったものの、ハユキは負けじとギドを睨み返した。
「ではなぜあなたは仕事に入っていない惟楽の者の情報を”提供できない”と言ったのですか。つまり情報は持っているということですよね。二ヶ月前にふらりと沸いた惟楽の者の身元を確認するにはそれなりに時間がかかると思いますが」
ギドに口止めを要求したのは軍の上司か、惟楽の者か。どちらにせよ、口止めせざる終えないほどの情報を、この男は持っている。
「ギド、あなたはその惟楽の者が気にくわないのではありませんか?そしてどうにかしようと思って調べた」
「惟楽の者など気にくわない者ばかりだ」
忌まわしそうにこちらを睨んでくるギドだが、それでもハユキは怯まなかった。悲しいことに、人からの避難や憎悪の視線には慣れてしまっていたのだ。
「どうにかしようと思ったことは否定しないのですね」
食い下がるハユキに今度は反論をせず、ギドは探るように少女の瞳を覗き込んだ。
「何が言いたい?そこまで言うからには、どこかにコネかなにかあるんだろうな。役人に情報を開示しろと言う割にはこちらに利益がない」
役人相手に物怖じしない態度が気にかかったのだろうか。なにか切り札か後ろ盾があると見たのだろう。
ふつう、貴族や王族の元で統治されている軍の役人に、ハユキのような態度をとる者はいない。
押せばいける、と思ってハユキの手に力が入った。
「私が、どうにかできるかもしれない、と言ったら?」
周りががやがやとうるさい中、彼女たちの周りだけ妙な静けさが漂っていた。
やがてギドがゆっくりと口を開く。
「……いいだろう。ただし身分は明かしてもらうぞ。言っておくが俺もそこそこの地位にはある。お前の手札次第で情報を提供してやらんでもない」
「わかりました。こちらの手札を明かします」
ハユキは厳重に腰にくくりつけた布の袋の中から、ひとつの御札を取り出した。
それは柊の木を特別に加工して作られてたお札。
それを見てギドが瞠目した。ハユキのような少女が持っていれば驚くのも無理からぬことだが、彼の反応はどこか様子が違っていた。
「お前、これをどこで拾った?」
ギドの声は微かに震えている。これは怒りから来る震えだ。
彼が様子を一変させたのはその御札に刻まれた“
それは、とてつもない権力を象徴する数字だった。
「拾ったのではありません。これが私の身分です」
ハユキは他の者に気づかれないよう細心の注意を払いながら、静かに言った。
そしてすがるようにギドを見る。けれど、ギドが惟楽の者をよく思っていないことが、その険しい顔つきをみれば明らかだった。
「……帰れ」
「えっ、でもまだ……」
「帰れと言っているッ!出ていけ!」
ハユキは思いがけず怒鳴られたことに驚いて動けずにいた。
この御札は逆らえば死罪さえ下りかねない惟楽の者の権力の証。
それを見て怒鳴る人など会ったためしがないし、あまりにもその時のギドが恐ろしくて、ハユキは言葉を失った。
役所の中の空気が凍りついたように固まる。異変に気づいた役所内の人間も、彼の怒声に凍り付いていた。
「何事です!?」
そのクライドの声にはっとして気づいたときには、ハユキを庇うように目の前に彼が立ちはだかっていた。
クライドの大きな背中に遮られて、ギドが見えない。
あまりに急な出来事に動けないでいると、ぎゅっ、と服の袖が小さな手によって引かれた。
「ハユキ、ギドは悪くない。でも、ハユキも悪くない。だから、止めて」
ユシィはハユキの腕の中でそう言って、心配そうな深紅の瞳でクライドを見上げた。
ユシィにつられてクライドに視線を遣ると、後ろ姿だけでも相当に、殺気だっていると知れた。それは悪寒を覚えるほどに。
たしかにギドの怒声もクライドをそうさせるほどのものではあったが、ハユキが今感じている恐怖はギドへのものか、クライドへのものか分らなくなっていた。
ぎゅっ。もう一度引っ張られてハユキはやっと身動きを取ることができた。
「クライド、何でもありません!ですから剣から手を離しなさい!」
役所の中が騒然として、いきなり現れたクライドに、他の役人達はいつでも剣を抜ける準備をしていた。
——このままでは、まずい。
「おいハユキ、ほんとに何でもないのか?」
遅れて役所内に足を踏み入れたレオに、ハユキはぎこちなく笑いかける。
「うん、大丈夫だよレオ。心配してくれてありがとう。……情報は自分達で探るしかないみたいだから、もう行きましょう」
しかしクライドは威嚇するように体勢を低くして身構えたまま、剣に手をかけて今にも抜きそうだ。
「クライド!もういいと言っています!私がいいと言っているのが聞こえませんか!」
そこでやっとクライドはゆっくりと姿勢ただして背筋を伸ばす。
迂闊だった——。
そう思ってハユキはもう誰の目にも触れないよう、惟楽の者に与えられるお札を左手でそっと隠すように包んだ。やはりこれは、簡単に人に見せるものではなかったのだ。
「お前、惟楽の者の護衛騎士か……。騎士道はそんな物騒なことをする教えなのか?」
ギドの声が聞こえたが、ハユキにはクライドの後ろ姿しか見えていない。
「これは忠誠です。神と——なによりも主への」
落ち着いた声の裏に含まれた怒りが、止めようと口を挟む余裕を与えてはくれない。
それは他の役人も同じだった。王都からの軍人と、ただ者ではない惟楽の者の側近との緊迫したにらみ合いの間に割って入ることのできるものはいない。
「なにが忠誠だ。そいつがなぜ偉い?何を救った?俺たちに何をもたらしたんだ?」
もう一度クライドを止めて、この場を去ろうと思ったとき。
ギドから噛み締めるようにゆっくりと発せられたその問いは、ハユキが今最も感じているコンプレックスを的確についていた。
「あ……」
声を出そうにも声が出ない。
全身からすっと血の気が引いて行くのが分かる。
のし掛かる空気の重みが、日暮れを告げた。
——私は誰の役にもたっていない。
何よりも誰かの役に立ちたいと思って行動してきたハユキだったからこそ、それがまったく成果というかたちで実現できていないことを知っていた。
分っていた。
自分がしたこといえば、クライドを騎士として自分に縛り付けることや、力不足でレオを自分のための旅に道連れにすること、そんなことばかり。
結局は何をした?何ができた?
ラガの時も結局——。
けっきょく。
役立たずの涙が、ハユキの視界を妨げた。
——ああ、だから嫌なんだ、夜は。
いや。嫌なのは夜なんかではなく、どこまでも無力で情けない自分だった。
こんな役立たずの身分が、なぜ高いのか。
振り返ってみれば、私はこれまで後悔ばかりしかしてこなかってはないか。だから、今度こそは、と——。
思い上がった途端、このザマである。
「ハユキ様!」
ただ立ち尽くして泣くばかりのハユキを、支えてくれる手があった。
ぎゅう、とクライドとユシィの確かな力強さと温もりが、真っ白に混乱したハユキに安堵を与えた。
「あ……はは。大丈夫。いつまで、泣いてんだか……」
思ったよりかすれた声が出た。
本当に役立たずの涙は、止まるどころかより一層クライド殺気立たせてしまった。
「ギド……ッ!」
今までに聞いたことのない、クライドの怒り含んだ低い声にハユキはどきりとする。
「ではハユキ様があなたに何をしましたか?何を害しました?あなたはハユキ様の何を知っているのですか」
クライドの腕に力が入る。
「あなたが惟楽の者を毛嫌いされるのは結構。しかし直接あなたに何をした訳でもないハユキ様を一方的に傷つけるような真似をこれ以上してみろ」
口調が、変わる。
「俺はあんたを許さない」
——ああ、また。
またいつでも無力な私を助けてくれるのは、クライドだった。
彼のその言葉が嬉しかったのと同じくらい、ハユキはいつまで彼に甘え助け続けるのかと苦しくなった。
でも、彼の服の裾を掴んだ、自分のこの手を離すのが怖い。クライドを不幸にしているかもしれないのに、離すことがどうしようもなく不安だった。
それでも少し、自分の足で立ってみようと思った。ちゃんと、自分の口でものを言おうと思った。
泣いてばかりいられない——ハユキはそう思った。
「行きましょう、クライド。私なら平気です」
ハユキはしっかりと自分の足で立って、クライドの腕から、離れた。
「私は理由もなく優遇されているのです。だったらそれ相応の義務や責を果たして当然なのです。けれど私にはその義務も責も一切果たしていない。何を言われても仕方ありません」
今度は近い距離にギドが見えた。夜の重みに負けないようにしっかりと両の足で自分を支え、顔を上げる。
今は自分を責めている場合ではない。ちゃんと、前を見て向き合わなければ。
——夜が辛い?体が重い?負の感情が纏わりつく?そんなこと、私がしなければならない事には一切関係ないのだ。
そうして、ギドにむかって微笑んだ。
「ギドやクライドの言う通りです。私には何もできていない。でも、それを私自身が一番もどかしく感じていることを、無責任な言い方だけれど、どうか理解してほしい。ギド、また会うことがあったなら、その時に同じ質問を私にして下さい」
ハユキが何をしたのか。
何を救えたのか。
何をもたらせたのか。
「きっと全てに答えられるようになりますから」
ハユキはそう言い逃げするように踵を返し、強い足取りで役所を出た。しかし外に出た瞬間、体から力が抜けてその場に崩れ落ちそうになった。
けれどその華奢な少女の体は、いつでもあの大きくて温かい手に支えられた。
「クライド……」
外に出て、彼の肩越しに日の隠れた西の空がうっすらと赤く色づいているのが見えた。その黄昏の景色から目を背けて、べっとりとした東の暗がりを見る。
ハユキの本当の本当の貴方への想いは、あの黒に隠して。
「私はレオを連れてきた時から思っていたことがあります」
自分は間違っている。最低だ。
そんな自己嫌悪に溺れて息ができなくなる前に、誰にでも胸を張ってクライドのの隣にいられるように。
「私はなにかをこの手に救いたいのです。誰かのためになんて大それたことは言いません」
ただ、自分のためだ。
自分が立っているための、エゴだという事は自覚しているけれども。それでもなにかできるなら、そうする方がいいと思った。
「そのためにはあなたが必要なのです。あなたがいなければ私はなにもできません」
小さく息を吸って、体を支えてくれているクライドに向き合った。彼はまたハユキが崩れ落ちてしまわないように、両の腕でしっかりと彼女を掴む。
綺麗な赤い瞳と、目が合った。
「私のわがままに、付き合ってくれますか?」
彼はなにか言いたげに口を開いた。
嬉しそうな、悲しそうな、見た事もない表情でハユキを見つめ返す。
クライドがそういった顔をする事はめずらしかったが、その深い意味を、ハユキはまだ考えないようにしていた。
「ハユキ様が私を必要だと言ってくださるのでしたら——」
クライドはハユキがちゃんと一人で立っていられる事を確認するように、ゆっくりと手を離すと、その場で膝を折った。
「あなたが、そうおっしゃるのでしたら、私はお供致しましょう」
強く、ただ力強く。クライドはそう言った。
いつか視界が開けて、その先に堂々とジ自分の歩ける道があると信じて、ハユキは「自分のための人助け」という獣道を進む事を決めた。
クライドに甘えて手を引いてもらうのではなく、支えとして隣に立ってもらえるように。
「その方がハユキには合ってると思うぜ」
声がして振り返ると、レオルドが私のすぐ後ろではにかんでいた。
「お前とは昨日今日の短い付き合いだけど、さっきのはちょっとかっこ良かったよ。言いたい事言って、やりたい事やった方がいいって。それにさ、さっきも言ったろ、お前には恩があるって。誰がなんと言おうと俺はハユキに助けられたと思ってる。だから——」
レオは戸惑いながらクライドの横に見よう見まねで膝を折った。
少し気恥ずかしそうにしながら、それでも力強い視線でこちらを見上げる。
「俺も、あんたについて行くよ」
そして丁寧に頭を下げた。
——敬意を示して行うその行為を、私はいつか堂々と受け止められる日が来るだろうか。いや、受け止められるようにかにかをしなければならない。惟楽の者として、誰かに助けられてばかりではなく、その責を果たさなければならない。
二人を見つめながらハユキは、そう決心したのだった。
「ありがとう……」
日暮れであるのが嬉しいと思う日は、子供時代意以来初めての事だった。
ハユキの泣き笑いのくしゃくしゃでみっともない笑顔が、夜の暗がりの中に紛れた。
そのとき。
「あの……!」
その聞いたことのない他人の声にハユキははっとして、レオとクライドの二人に立つように言う。二人もそのまま立ち上がり、声のした役所の方から駆けてくる王都の軍服を着た見慣れない男に目を遣った。
「すみませんっ」
ハユキは眉根を寄せて警戒するそぶりを見せたクライドを諌めると、息を切らしてやって来た男に向かい合う。
栗色の髪の、まだ幼いような顔つきの青年が膝に手をついて息を整え、それから唐突に勢いよく顔をあげた。
「ふぅ……あの、すみません。盗み聞きしたわけではないのですが会話を聞いた限りあなたは惟楽の方ですね?僕はジファ・レインダートと申します。王都から派遣された軍人です。先程のギド大佐の事なのです……が——」
ジファの話はそこで途切れたので不審に思っていると、彼の目線の先にはハユキにしがみつくユシィの姿があった。
ジファは少し顔色を曇らせて、ハユキに視線を戻す。
「この子はあなた方のお連れだったのですか?」
「いえ、ユシィはつい先程お役所の前で出会って、私共々ギドさんに命を助けられた縁でこうして一緒にいます。なんでも叶えてほしいお願いがこの子にはあるとかで、叶えてあげたくて」
「はあ、そうでしたか。いえね、その子はずっと“待ってる”と言って役所の前から動かなかったもので、てっきり置いていかれたのかと……」
「おい。だからお前は何を言いに来たんだ?」
尖ったレオの催促の声に、ジファは少しむっとしたように見えた。見れば見るほどジファは軍服ばかりが浮いて見え、レオと同じくらいに幼くも見える。
「ですからギド大佐のことです。先ほどの彼のご無礼を、どうぞお許し下さいませ。どんな責でも、わたくしジファ・レインダートが彼に変わり謹んでお受け致します。なにとぞ、ご慈悲を」
そう慇懃に言ってジファは畏まり、膝をついて頭を下げる。
深く頭を下げたジファの後頭部を見て、ハユキには込み上げてくるものがあった。
「なにとぞ……」
ジファは何を思ったか、プライドと戦うように震えるもう片方の膝も地面につけ、更に深く頭を下げようとした。
「やめてっ!!」
ハユキはジファに駆け寄って、無理矢理頭を上げさせると、覚悟を決めたその軍人に向かって叫んだ。
「頭を下げる相手を間違えないでくださいジファ・レインダート様!そのような真似を王都の軍人であるあなた様がなさいますな!あなたもギドも何も間違った事はしていないはずです!」
自分に対する怒りが、頭から指先まで言い様の無い苛立ちとなって全身を駆け巡った。
大声を出した喉が火傷のようにひりひりと痛む。
「だいたいこんなっ」
息が上がっていたが、ハユキの言葉は次々溢れて止まらない。
「こんなアホで愚図で世間知らずで!なりたくもない惟楽の職に就いて周囲に甘えて役立たずで!偉そうな権力ばっか無駄に持ってる煙たいお荷物に、あなたが頭を下げるような価値なんてありません!!」
あまりにも自分に腹が立っていて、呆気にとられる軍人の顔などハユキはまったく気づいていなかった。
「あ、あの……」
そのジファの声で我に返ってみると、なにかとんでもない事をこの軍人さんの前でまくしたてたこことをすぐに後悔した。
「えっと、まあそういうことでギドに私からなにか罰を与えるなんて事は一切ないので。暗いので足下に気をつけて役所にお戻り下さいね。あはは」
しばらく呆気にとられて口を開けていたジファも、ようやっと胸を撫で下ろしたように息をついた。
やがて彼は口を閉ざし、ふいに、ぐっと口角を引き上げた。
「はっ。あはは……」
そして遂には爆笑をし始めた。
「おい」
その行動を馬鹿にされたと思ったのか、レオが不服そうにそう声をかけた。
「あっはは…ああ…失礼致しました。僕は相当の覚悟をして申し上げたというのに、あなたときたら……ふふ、そんなことを言う惟楽の方なんて初めてですよ」
ジファのこの笑いは、安心からなのだろうか。
確かに、どんな罰が下るかなんてわからない。
たぶんハユキが段階壱の惟楽の者だというのは知らないだろうが、惟楽の者に意見するのは貴族であってもそれなりの覚悟を要する。
二統政治だなんだかんだ言って国の収入源は、惟楽の者のお供えが税金の八割を占めているためか、個人の権力で言えば惟楽の者の権力は、貴族のそれを上回る場合があるのだ。
「あなたが面白い方でよかった。……ギド大佐は僕の尊敬しているお方なのですよ。大きな声では言えませんが、あの方は軍の規律をはみ出してでも困っている人を助けてしまう。リレオン家の人だというのに未だに地方に飛ばされて燻っているのは、あの人に従わない性格のせいで一部の上層部から煙たがられているせいです。功績だけで言えば、お偉い上層部の何倍も手柄を立てておられるのに……っとこれは喋り過ぎでしたね、忘れてください」
膝をついたままそう語るジファは、本当に心からギドを尊敬しているような穏やかで輝いた顔つきをしていた。
そんなジファの様子を見て、ハユキは心底ギドに憧れると同時に、ふと、疑問に思う事があった。
なぜそのギドがハユキを惟楽の知ってあそこまで激昂したのか。
「あの、ジファ様」
「ジファで構いません。かわりに、不躾なようですがハユキさんとお呼びしてもよろしいですか」
ジファの幼い顔つきから出る言葉はどれもしっかりと芯があって堅いのに、声色はやはり少し高くて少年のようだ。
「もちろんです。さん付けもけっこうですよ、えっと、ジファ。ギドはなぜあそこまで惟楽の者を嫌うのか、きいてもいいですか」
「僕の口から詳しくは申し上げられませんが、そうですね、ギド大佐はある人物のせいで大切な方を亡くされています。その元凶になった人物が惟楽の者だった——とまあ、言えるのはこんな所まででしょうか」
なにか言おうとしてハユキは言葉を探したけれど、開きかけた口からは何も発する事はできなかった。
惟楽の者。ハユキが無条件に善人ばかりと信じていた職は、権力を笠に着て好き勝手している者も少なくないのだと、旅に出てから思い知らされた。
そんなハユキを見てジファは慰めるように微笑みかける。
「だからといってあなたが気にやむ必要はありませんよ。僕はギド大佐を尊敬しておりますが、今回の場合は公私混同してあなたを怒鳴りつけた大佐に非があります。なのに先ほどあなたは大佐に対し非難するでも罰するでもなく「自分が何をしたか」という質問に答えられるようにする、と言い切った。かっこいいじゃありませんか。そんなあなたがどうしてそんな顔をする必要がありますか」
幼さを際立たせるくりりとしたジファの目が、急に大人びたように見えた。
「どうやら僕はあなたを気に入ってしまったようです、ハユキ」
彼はただ尊敬の言葉としてそう口にしたに違いないのに、どうしてだろう。なにか他に含みがあるように聞こえたのは。
「と、ところで。ジファも王都から来たんですよね。まだ私とそう歳が離れていないように見えるのですが」
褒められたのが落ち着かなくて不自然に話を変えた事に、ジファは気づいているようでくすりと笑った。
「ええまあ、僕の家もまあそこそこ名の通った貴族でして……。レインダート家は本来策士や軍師の家系なのですが、他国との争いはここ何百年という単位でありませんので、現在では宮仕えの身です」
ほんの少し誇らしげに言うジファを胡散臭げに見やるレオは、どうも納得いっていないらしい。
「宮仕え、ね。ってことは城で仕えてるってことだろうに、なんでそんな立派な役職の軍人貴族様がこんな地方に飛ばされてるんだかな」
今までの柔和なジファの笑顔がそのレオの言葉で一瞬強張った。かろうじて口元は笑顔を保っているが、目が笑っていない。
「これでも佐官の地位にあります。階級章をご覧になりますか」
「佐官ねえ。貴族様はいったい今おいくつなんでしょうかね」
何がレオの気に障るのか分らないが、めずらしくレオの態度が悪い。でもまあしかしレオの言いたいこともわかる。この若さで佐官とはいったい。
「いえ、名門レインダート家のご子息となればあり得ない話じゃありません」
レオルドの発言に返答したのはジファではなくクライドだった。
名門貴族の子息の前での発言に少し心配したが、よくよく考えてみるとここまで若い彼がずっと騎士学校に居たクライドの顔など知っていようはずがない。
「レインダート家の方々は代々秀才揃いの信頼のおける貴族ですから」
「ああいや、そこまで立派な者でもありませんが……」
そうは言うが、そんなことを微塵も感じさせない自身たっぷりの笑みでジファは謙遜して見せた。
「そりゃ立派な貴族様だったら左遷されるはずないもんな」
ばちっと、ジファとレオのきつい視線がぶつかる。
「身分はこの際ともかくとして、年上には敬意を払うべきと思いませんか、少年」
「年上かどうかまず怪しいけどね」
「私はこれでも今年で19になりましたが」
ジファは意外と童顔だったようだ。ただそれにしても佐官という地位に対して若過ぎるのにかわりない。
ジファは先ほどの笑顔からは想像のつかない冷たい目でレオを見やった。
「ところであなたこそどういう方なのでしょう。見たところ騎士ではなさそうだ。では惟楽の方なのですか?段階は?」
「段階もなにも俺惟楽の者じゃねーし」
「やはりただのお付きしたか。礼儀を弁えておかないと、この国ではうまくやっていけませんよ」
「どうだかな。胡散臭いやつに媚びへつらってうまくやってくぐらいなら、下手に生きていく方が俺には合ってるよ。お前も性格直したほうが上手に世渡りできるんじゃないの。絶対友達すくねーだろ」
「必要ありません。が、一応ご心配いただきありがとうございますと申し上げておきましょう。しかし惟楽の方や貴族と行動を共にするならばおのずと高貴な身分の方と接する機会も多くなるはずです。礼を知っておいたほうがよろしいのでは。首と胴がいつ離れるかもわかりませんよ」
「さよーでございますか貴族サマ。こちらこそご心配いただきどーもありがとーございます。けど、礼儀を知らないだけで首をはねるような人間に礼を持って接しろって?違うだろ」
ジファはレオに正論をつかれて目を丸くした。ただのお付きの少年かと思えば、その眼は鋭く自分の内側まで見据えるような深い色を持っている。
レオはちらりとハユキを振り返って、もう一度動揺した名門貴族ジファ・レインダートをまっすぐに見つめ返した。
「礼とは敬意を示すものだ。だったら俺はお前なんかに礼を示す義理はない。俺が礼を尽くす相手は俺が決める。あんたが指図するな」
ハユキはこれ以上ジファの機嫌を損ねることを懸念して途中でレオを止めようと思ったが、それはできなかった。
“なにができるか分からないけど、俺はお前について行くよ”と行って不器用に私の前に膝を折り頭を下げたレオの先ほどの姿が思い出される。
「ふっ」
小さく吹き出す声の先には散々言われたジファがいた。しかし彼は予想外の反応をする。
「あっははは!全くその通りですね!面白い方々だ」
この表情の豊かさがジファの幼さを一層引き立てているようで、レオも恐れることなくそんな彼を睨み返した。
「ウケ狙ったつもりはねーよ!」
「ふふ、失礼。先ほどは必要ないと申しましたが、あなたみたいな友達ならほしいものですね」
「いや、俺はあんたみたいなのはちょっと……」
「冗談です。私だって世の中の不条理を受け入れならないような子供とお友達にはなりたくありません」
屈託のない幼い笑顔を浮かべながらジファはさらりと毒を吐いた。
多分こちらが本当の彼の姿であり、レオが胡散臭いとつっかかっていたのはきっとそのことを見抜いていたか、或いは直感していたためだろう。
「しかしそちらの惟楽の方とはぜひお友達になりたい。これは本当です。差し支えなければ惟楽の者の段階を、教えていただけませんか?」
それはハユキに向けられた言葉であり、突然の問いにハユキは動揺してどう答えていいかわからなかった。
惟楽の者としての段階とはつまり、惟楽の
「それ、俺も気になってたんだけど」
ジファをひと睨みしてから私の方を向いたレオは、何気ないようにそう聞いてきた。
「気に、なるよね」
ハユキは惟楽の者の印である御札の入っている袋を、汗と一緒にぎゅっと握った。惟楽の者の段階は零から九までの十段階に分けられている。
数字の少ない者ほど権力が高く、神と近しい存在。つまり、惟楽の者の中での最高権力者は段階零の者であり、次いで壱、弐、参と続いていく。
ハユキの札には“壱”の文字がある。
段階零はこの国に一人しか存在しないため、実質トップに次ぐ権力の証。
ジファはともかく、レオルドに隠しごとをするのは憚られた。
本当のことを言うべきか、それとも。
「失礼ですが」
ふっと、目の前にクライドが立ちはだかった。
見慣れたクライドの大きな背中。
「段階を安易にお教えするわけには参りません。子細あってハユキ様は現在アリバーの神学校に籍をおきながら旅をしておりますが、在学中ゆえ段階は確定しておりませんし、惟楽の者は段階によって待遇が違ってきます。手の内をそう簡単に明かすわけにはいかないのです。それに」
そのときハユキは思った。これは自分の口から言わねばならない事だったのではないか。
いつまで、彼に任せっきりにしているのか。
「段階を聞いてあなた方は絶対に態度を改めない、と言えますか?ハユキ様はそれを望んでおられません。ただ対等に、接していきたいとお考えのはずです」
ここで一度クライドが振り返ったので、ハユキは小さく頷き、言葉を引き継いだ。
「私がここで地位を言ってしまえば、社会的な上下関係がはっきりしてしまう。そうじゃなくて、ただのハユキとして、レオルド、あなたと旅をしていたいの」
いくらレオルドでも、段階を聞けば今までのまま、とはいかないような気がした。
この縦社会において、権力は絶対だと子供の頃から叩き込まれているはずだ。
馬の合わないジファはともかく、ハユキに対してレオの態度が変わってしまうことが怖い。
ジファとレオは、結局それ以上何も言わなかった。
「ひとつ聞いてい?」
いささか投げやりに、眉間に薄いしわを作ったレオが口を開いて沈黙を破った。
「日の暮れ泥む町——つまり神域の惟楽の者とはさ、権力が違いすぎるって言ったろ?お前もそこ目指してんのに、そんなに違うのかよ」
「違いますね」
すかさずハユキの代わりにクライドが答えた。
「神域の惟楽の者は上の命令で動いています。神域に居ても居なくても、個人の権力に変わりはありません。ただ命令を下しているのがこの国の最高峰、段階零の惟楽の者ですから、その命に逆らうということは国に逆らうということ。主命を受けた神域のものとは権力が違って当然です」
だから、ハユキは神域を目指していた。どこにいても、どんなにハユキがレオを庇っても、レオが追われることを止めることができない。政治や法に介入するには神域に行く他手がないのだ。
「あの、そろそろ僕は仕事に戻らなくてはいけないので、ここら辺で失礼させていただきます」
遠慮がちにそう声を発したジファは気まずそうに笑って、堅苦しく頭を下げた。
「では僕はこれで。ハユキ、またお会いしましょう。あなたにはぜひ懇意にしてもらいたい。もちろん、対等な立場で友達として、です」
「お仕事お疲れ様です。はい、さようなら」
挨拶をするジファにレオがすかさず別れの挨拶を述べたが、彼はそれを気にすることなくクライドの後ろに隠れていたハユキに手を差し出した。
「僕はもうすぐ国都に戻りますが、ギド大佐は残ります。あの人は不器用なのでどうか腹を立てずに気が向いたら手を貸してあげてください」
差し出されたジファの手に、ハユキはなんの警戒もすることなく手を握り返しす。
「わっ」
すると、ぐっと凄い力で引っ張られ、そのままジファのに抱き抱えられるような形になった。
幼い顔つきにそぐわない鍛えられた筋肉が厚い軍服越しにも分かる。
「また、貴女とは必ず」
ハユキの耳元で、ジファがそう囁いた。
「離れてください」
低く、響く。
クライドの声。
殺気さえ感じられるその声色にぞっと肌が粟立つのがわかる。
「失礼。しかし親しい友人への挨拶ですよ。そう怒らないで」
ぱっとハユキから手を離したジファは特にクライドを気にする様子もなくにこりと笑った。
あのクライドの威圧に少しも臆することのないジファは、やはりただ者ではない。
「それでは、皆さんもまた」
そう言ってジファは背を向けて去っていった。
「あれがヴェルザーク家のクライド……ただの過保護か。それより、あの鋭い少年と、段階壱のハユキには気を配っておかないと……」
そのジファが口許に笑みを浮かべてそんなことを呟いていることなど、ハユキ達は知らないまま。
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