第4話 「謎の子供」



神様は、この国で一度滅びかけた歴史を持つ。その歴史は表だって人々の口から語られることはない。しかしそれは密やかに語り継がれるのである。


その歴史と同様に、その町ではある噂が陰で囁かれていた。



***




「納得いかねー」

スカーレットに向かう道中うんうん唸りながら考え込むように顎に手をあて、やがて私をじっと見るレオに、殺意がわいた。


「なに、レオ?」

「だから納得いかねえよ。クライドが24歳ってのはわかるけど、はお前17って外見してねーぞ?俺のひとつ上……」

「つまり?」

「もっとガキかと思った」

今まで和やかに続けてきた旅が、レオルドの乱入のおかげでずいぶん賑やかになった。


「クライド、そこのバカをどこかへ売り飛ばしましょう。連れてきたのが間違いでした。……ああでも、これじゃあ大したお金にはなりませんね」

「これって言うなよ!しかも神様のハーフっていうプレミアを捕まえてたいしたお金になんないなんてこたねーだろ」

それを聞いたハユキがにっこりと笑ってレオルドを見たので、彼が微かに身構えるのがわかった。


「あなたどうしても日の暮れ泥む町へ行きたいようですね。まあここにおいていけばあのラシンがしっかり回収してくれますよ。こう言うのは癪に障りますが、あの人は優秀ですから」

なにか謝罪か文句を言ってくる事を期待していたのに、じっと真っ直ぐハユキをを見てくるレオルドに少し戸惑う。

ハユキは時々彼に戸惑う事がある。


「お前、あいつが大事なんだな」

彼の瞳は、あまねくものを見据える神のそれと、よく似ていた。だからハユキ時々、レオにどきりとさせられる。

ハユキは何も言わなかった——というより言えなかった。

それが図星を意味する事だとわかっていながらレオルドも、それ以上何も言ってはこなかった。


「安心してくださいハユキ様。あの忌々しい銀髪頭のイケメン気取りは私が跪かせてハユキ様の前に引きずり出します」

「え、何お前そんな言葉どこで覚えてくんの?ていうか恐。男の嫉妬は見苦しいぜ。ハユキに色気があれば少しは納得できんだけど、ハユキだぜ、ハユキ」

ハユキはレオの前に回って向き合うと、思わずため息を漏らした。

「レオ、少しは静かにしてよね」

するとレオはムッとした顔をして、そっぽを向く。


「だってお前、俺の母さんのことまだ引きずって、俺が黙ったらどうせその事しか考えないだろ」

鋭い。確かにそうかもしれない。

ハユキは何か言い返そうと口を開いたが、言葉は出てこなかった。

「静かにしてほしきゃ気にすんなよ」

レオはクライドの手から自力で逃れてそう言った。


「で、次の町ってあれだろ?スカーレットとかいう……」

別名、鬼の住む町。

「そうだよ。よくない噂もあるし、注意していかなきゃね」

「よくない噂?」

「そ。昔祀られていた鬼が復活したって噂。実際に子供が行方不明になる事件が近頃多発してるらしいし、少しくらい国都から軍人が派遣されてるんじゃない?」

ハユキはそう言ってちらりとクライドを盗み見た。

相変わらず綺麗で整った顔には微塵の動揺も表さなかったが、長らく一緒に時を過ごしてその微々たる変化を感じられるまでになっていた。


「大丈夫ですよ、クライド。どうせ見知った顔はいないでしょう」

クライドは苦笑してこちらを向いた。

「お気づきになりましたか。主人に励まされるとは従者として失格ですね。しかしご心配には及びません。あなたのそばを離れたりはしませんよ、絶対に……」

真っ直ぐに見つめてくる力強い紅の瞳はいつ見ても安堵を与えてくる。


しかし、ハユキはクライドにそう言われて気づいた。不安だったのはむしろ私の方だったのかもしれない、と。


「どういうことだよ?」

話についていけていないレオが口を尖らせて不満そうに言った。

「クライドは貴族なの」

ハユキが言っても、レオは特に意外そうな顔はしなかった。

確かにクライドは品があるし、貴族と言われても全く不自然じゃないどころか、逆に納得してしまうほどだ。


クライドは説明を引き継ぐ。

「アリバーの騎士学校には騎士道と剣を学びに行っていただけで、初めは騎士として惟楽の者の仕えるつもりはありませんでした。親ももちろんそのつもりでしたし、私は長子でしたから」

そう言ったクライドの表情はやはり変わらないが、ハユキは騎士学校にいた頃の彼を知っていた。

今とは違い荒んだような冷たい目をして、自分が学校に入学した理由を「厄介払いのようなものです」となげやりに言う、昔の彼を。

その理由も未だに笑ってはぐらかしてしまうクライドだが。


「私はハユキ様にお仕えすると決めました。家からは散々帰ってこいと言われましたが……まあ今でも時々帰ってこいと便りをもらうのです。しかし私はハユキ様についていくこと決めましたから」

いつものようにクライドが優しく笑いかけてくれる。この言葉がどれだけ嬉しいことか。

もはやハユキは、クライドなしでいることなど考えられないくらい、依存しきってしまっていた。


「そっか。軍事に関わるのは貴族や王族だもんな。軍人の中に顔見知りがいたら困るよな」

「そういうことです。ウェルザークの人間——ウェルザークは私の姓なのですが、その家の人間が騎士学校にも押し掛けてきたらしく、どうやら無理にでも連れ帰りたいらしいのです」

「あら、クライドが拳にものを言わせてお家からのお使いを追い返してから、しばらく静かになったんじゃなかったのですか」

「それは旅に出て所在が掴みにくくなったからです」

そう言って微笑むクライド。


だがクライドの腕に恐れおののいて使者がぱたりと来なくなったのは事実である。その使者がどんな怖い目を見たのか——あまり想像したくはなかった。


「たまにはお父様とお母様にお顔を見せてあげたら?」

「必要ありません」

きっぱりとそう言ったクライドは王族の側近を務めるほどの名門貴族。

本当ならばいい生地のいい服を着て、城で役職を貰って立派な貴族となっていたのだろう。


そのクライドは今、決して綺麗とは言えない旅の服を着て、自分に仕えてくれている。ハユキは彼の人生を狂わせてしまったのではないかと、後ろめたい気持ちをずっと引きずってきたのだ。

それでもクライドにお城に戻ってもいいだなんて本気では言えない。

彼もハユキが本気で帰っていいだなんて言っていないことは承知していた。

もうすっかり依存して、クライドがいないだなんて考えられない。


「なんて顔をしているのですか」

とん、と頬に大きな指の間接が触れた。

「ハユキ様、これは私の決めたことです。私がそうしたいのです。それともハユキ様には重荷ですか?」

「そんなこと——ッ!」



「それなら——」

クライドの手大きな手がぐにっとハユキの柔らかな頬をつねった。

「いひゃっ!」

「もうそんな顔しないでください」

ぐっと彼の手にまた力が込もって頬の痛みが増す。

「いひゃいいひゃい!はなひてくらひど!」

「嫌です。でも、あなたがもう私の選んだことに悩んだりしないと言うのなら放しますよ」


笑ったクライドの顔が少しだけ悲しそうに見えて、ハユキはすぐに答えられなかった。それでも一度こくりと頷くと、クライドの手がやっと離れた。

「すみません。少し赤くなってしまいましたね」

そう言ってクライドは優しくハユキの頬を擦る。


——わからない。クライドは私のことをわかってくれているのに、私はクライドが何を考え何を思っているのかよくわからない。わかりたいのに、クライドの表情は何かを隠すようにいつも笑っていて、何も言わないんだ。


「そんなに痛かったですか?」

ハユキの表情の変化を見逃さないクライドは、困惑して聞いてくる。

「いいえ」

もしどこか痛いとするならば、きっとそれはもっと彼の手の届かない奥の方だ。

「なにか心配されているようでしたら、安心してください。私はあなたのお側を離れませんよ」


ハユキは思う。なんだって、あなたはいつでも私の欲しい言葉をくれるのか。この、私を甘やかしてやまない大きな手に、大好きな手に、いつまでも甘んじていて本当にいいのだろうか——と。


「おーい、あんまり口はさみたかないけど、お前ら俺のこと忘れてね?それとクライドさんあんた、ちょっと過保護すぎるんじゃないの」

レオルドの呆れ返った声に二人ははっとした。


「あ、レオ。なんかごめん」

完全に失念していた。口を挟みたくないとか言いつつ思いっきり口を出してきたレオに、クライドは取り繕うように微笑みかけた。

「そうですかね。まあたしかに少し過保護すぎるかもしれませんが、惟楽の方というのは敵や危険も多いものでどうしても心配で」

「そうじゃなくて——ああいや、そうだな。ハユキじゃ心配になっても仕方ないか」

レオはなにか言いかけたことを誤摩化すようにハユキを見た。しかし。


「ちょっとレオそれどういう意味かな」

「いやだってハユキどっからどう見ても年上に見えないし……」

くすっとクライドが忍んで笑った声は、聞かなかったことにしよう。

「レオ君、ちょっと顔貸して?」

「そう言われて素直に貸すアホいないだろ。ていうかお前まで拳にもの言わすタイプ?そういうのそこのお付きだけで十分じゃない?」

「ほほう、ご指名が入りましたよクライドさん」

私が言うとにっこりと素敵な笑顔をレオに向けるクライド。


「なるほど、拳にものを言わせるのは私の役目でしたか。では役目を果たすことにしましょう。レオルド君しっかり歯を食いしばってくださいね?」

「え?あっ、いや、ごめん。ごめんって!!どうかそのままの素敵で紳士な優しいクライドさんのままでいてください!だから来ないで!!ごめんってえぇぇぇぇぇええ——」

レオルドのおかげでずいぶん賑やかになったものだと、しみじみ思った。



……鬼の住む町

【スカーレット】……


一歩町の中に足を踏み入れたときから、ハユキは違和感を感じていた。それはレオも同じらしく、少し顔をしかめている。

「着きましたね。夕暮れまでそう時間がありませんから、先に宿を探しましょう。食事はその後です」

昼食も摂らず歩き通しで、お腹は既にぺこぺこだった。

しかしアリビティで捕まえたごろつきの中に賞金のかかったものが数名いて懐は温かいから、とうぶん食費と宿代は心配なさそうだ。


一行は道を歩き、宿を探しながら町を見渡した。

スカーレットの気候は一年を通して暖かく湿度の高いため、その肥えた土から珍しいフルーツや作物が採れたりして経済の安定したいい町だと聞く。

額に汗が滲むが、心地よい風が通り抜けて、見たこともない葉を広げる木々を揺らして去っていく。建物も露店の数も多い。

しかし、それにしては人通りが異様なほど少なかった。


「すみません」

市場にさしかかった時、お店のおばさんに声をかけた。

「なんだい?」

「この近くに宿は……」

「あるよ。この先の分かれ道を右に曲がればすぐさ」

答えたおばさんは少しなげやりな感じがして、顔色をみれば疲れがたまっているようだった。


「それより旅の人、何か買っていかないかい?」

買うつもりはなかったが、自然と品物に目がいく。

そしてその値段に驚いた。

——高い。


りんごの値段が普段の五倍。他の見慣れない作物も似たような値段だったが、それも同じように値上がりした値段に違いない。

「たっけ」

「ちょっとレオ!」

さすがにそれを口に出したレオをたしなめたが、これはいくらなんでも法外な値段だった。


「いいさ、仕方ないよ」

そう言っておばさんが苦しそうに笑った。

「何かあったのですか?」

そんなおばさんの様子を見てクライドが質問すると、その表情が曇る。

「なにって、惟楽の者だよ。つい二月くらい前にここにきてから、お供え物だって色んな物をお金も払わずとられてね。そりゃ偉い人だろう?初めはご利益があるだろうって喜んでお供えしてたけど、今じゃその権力のいいなりだよ」


惟楽の者は、そうと認められた日から老若男女問わず相当な権力を有する。逆らえば罰が下るし、危害を加えたとなっては命まで危うくなる。


「それだけじゃなくて、このところ子供の行方不明者が多くてね。やってらんないよ。この町はもう終わりさ」

絶望が渦巻いていた。よどんだ空気が押し寄せて、ハユキを圧迫する。


「ありがとうございました、おばさん」

一行は険しい顔をしながら、市場をあとにして宿へと向かった。

もうじき夜が来るが、この町ではアンディを探す前に、やっておかなくてはならないことがいくつかあるようだった。


「どうしますか?」

ハユキが首を突っ込もうとしていることなどお見通しらしいクライドは、苦笑をたたえながら主人に問う。


「決まっています」

——このまま放ってなどおけるものか。惟楽の者にあるまじき愚行を行っている馬鹿がいる。

ハユキはまだ見知らぬ愚かな同輩を思って、日の傾き始めた空を睨み上げ、拳を握った。

「クライド、私のわがままに付き合ってくれますか?」

「今更なんです?いつものことでしょう」

呆れたように苦笑するクライドを振り返って、ハユキはにやりと笑った。


「あら、そうだったかしら。じゃあまずは役所に行って役人に話を聞きましょう。子供の行方不明の事もありますから」

「仰せの通りに」

レオはそんなハユキを見てため息を漏らしたが、なにも言ってこないところを見ると賛成らしい。


人に道を尋ねながら役所に向かうと、後ろからばしっという鞭の音と馬の鳴き声が響いた。振り返ると、豪勢な馬車。

馬のひづめがぱかぱかとレンガ造りの道を踏み鳴らし、その後に繋がれた車ががしゃがしゃと豪快な音をたてて迫っていた。


「あいつらじゃねーの?惟楽の者って」

道をあけるために横にずれながら、淋しげな町をひた走る豪華な馬車を見やって、レオルドが言った。色々なものを搾取され疲弊した町で贅沢をするのは、きっと馬鹿な惟楽の者にちがいない。その予想はおそらくあたっている。

今すぐ馬車から引きずり出して拳にものを言わせたいところだが、相手がどの程度の惟楽の者かわからない限り、ハユキ達はあまり迂闊に手を出せなかった。


ぐっと怒りを押さえるために、視線を馬車から逸らす。

すると、役所の前の道端に小さな男の子が立っていた。


馬車は役所の前に近づいているが、少年はいっこうに道の端に避けようとしない。

——まさか、馬車に気づいていない……?


もう馬車はすぐそこまで迫っていて、このままでは男の子がひかれてしまうと思うと、ハユキの体は勝手に動いていた。

助けなくてはと、後先考えずに男の子のほうに走り出す。


「ハユキ様——ッ!」

そんなハユキの行動に遅れて気づいたらしいクライドの悲痛の声が飛ぶ。

ハユキはなんとか馬車が通る前に追いついて、男の子を抱えると道の外に避けようとした。

踏み出すときに顔を少し後ろに向け馬車の位置を確認すると、思ったよりも距離が開いていないことに気づいた。


——やばい、間に合わないかも。

ハユキは必死に走りながらも、ぐっと目を瞑った。


その時、誰かの手でぐいっと前に引っ張られた。

がしゃがしゃと音をたてた馬車は何事もなかったかのようにハユキのすぐ後ろを通り過ぎていく。

その際にハユキの服が馬車にかすったことから、誰かが引っぱってくれなければ確実にぶつかっていたことを悟った。


引っ張られた反動が押さえきれないまま、ハユキは抱きかかえた男の子と共に助けてくれた誰かの胸の中に飛び込んだ。

かたい胸板とがっしりとした腕がしっかりと二人を受け止める。

助けた誰かとハユキの間に挟まれた男の子がうっと小さく唸った。


どくどくと心臓の音が激しく鳴り、今になって不安と汗がどっと全身から滲みだした。

一呼吸おいて落ち着くと 、ハユキはゆっくりと顔を上にあげる。すると無表情で鼻筋の通った男の顔が、冷ややかにこちらを見下ろしていた。

身長が平均より高いこともあってか、威圧感があってちょっと怖い。


「あ……」

お礼を言おうと口を開きかけたとき、その男の怒号がハユキの声を打ち消した。


「危ないだろう!何を考えているんだッ!」

少しびっくりしたが、これは心配からの言葉であることはわかっていたので、怖くはなかった。

そして自分もなんとなしに下の男の子を見て少し怒ってみる。


「そうだよ。馬車が来てるのに避けなきゃ危ないでしょ?」

「お前にも言ってるんだ!馬鹿かッ!」

今度はさすがにびびって思わず肩と首を縮めた。


「私っ?」

それから男との近すぎる距離に気づき、さっきから大人しいままの男の子を抱え一歩後退する。

「そうだお前だ。間に合わないとわかっていてあんな行動する馬鹿はお前しかいないだろう」

男の鋭い目が言葉と共にハユキに突き刺さる。そしてここまで言われて、ハユキもそう心穏やかなままではいられなかった。


「ちょっと、間に合わないかどうかなんて分らなかったし、あのまま放っておく方がおかしいでしょ!」

「ほう、間に合うと思ってたのか。どうやら救いようのない方の馬鹿だったか」

「ちょっとばかばか言わないでよ!ばーか!」

言ってからガキのような反論だと我ながら思った。

しかしこの高圧的な態度はどうなのだろう。男はクライドより年上のように見え、さっきから睨んでくる切れ長の目は黒く、より一層冷たさを感じた。

長めの黒髪を後ろで結わえた男は、ふんと鼻を鳴らした。


「あれか、お前の両親は命の恩人に”ばーか”とお礼を言えと教わったのか。奇抜な教育法だな。忙しいからもう行っていいか」

とは言うものの、さっきまでこの男もバカバカ言ってたじゃないか。


「ふうん、じゃあ忙しいのになんであなたはこんな所をうろついているのですか?」

「ここが俺の仕事場だからだ」

そう言って男は顎で自分の後ろを示す。

そこはハユキの用のある場所だった。


「お役所……?」

言ってハユキは再度男をまじまじと見つめた。

悔しいが結構男前だ。

しかし今度は男全体を凝視して、あることに今更ながら気がついたことがある。上着を脱いでいたのでよくわからなかったが、彼が着ているのは王都の軍人が着る軍服だった。


「王都からの派遣の軍人っ!?」

ハユキは驚いて声をあげた。

「ふん。今ごろ気づいたか、トロいやつだ。俺は仕事に戻るがもう二度とあんなバカなことはするな。お前の死体を処理するのは俺達だ」


ハユキは怒りのあまり身構えたが、自分の無謀な行動を振り返って握りしめた拳を解いた。

この男に助けてもらわなければ、この男の子も自分も今頃はただでは済まなかったかもしれないのだ。


「あの、軍人さん」

「その呼び方は好かん」

「じゃあお名前を聞かせてもらえますか?」

今度は態度を改めたハユキを男の方がじろじろ見る番だった。

品定めするような、ちょっと驚いたような目つきだ。暫くして男が口を開く。


「……ギドだ」

聞いてからハユキは深々と丁寧に頭を下げた。

冷静になって思う。命があって本当によかったと。

「ギドさん、助けてくれてありがとうございました」

——私はまだ、こんな所で死んだり足止めされたりしているわけにはいかないのだ。


顔を少しあげてみるとギドさんはハユキに背を向けていた。

「……無事でよかったな」

そう言い残してギドは、居心地が悪そうにそそくさとお役所の中に入っていった。


「ハユキ様!」

男が立ち去ってから、クライドとレオが駆け寄ってくる。クライドはさっきの男が役人であったために、一応接触するのを避けたのだろう。


「怪我は……見当たりませんね」

クライドはすぐに怪我の有無を調べ、無いとわかって安堵のため息を漏す。レオも元気そうなハユキの顔を見て、安心して胸を撫で下ろしたようだった。


「ねえ」

そんなときに妙にしっかりと芯のある声がした。その声はすぐ近くから聞こえたのだが、あたりに人影はない。

ハユキとクライドとレオルドの三人は顔を見合わせ——そして見下ろした。


「いい加減、苦しい」

先程から腕に抱いていた五歳ほどの小さな男の子だ。

「あ、ごめんね」

ハユキは手を離すが、ずっと少年を抱いていた腕が少し寂しいような気がした。しかし、この男の子も見れば見るほど不思議な容姿をしていた。


鮮やかな赤い髪に深紅の瞳。それに子供とは思えない無表情。まるであどけなさがない。ついさっきまで馬車にひかれそうだったにも関わらず、平然として三人を見上げている。


「それで、君は……?」

訊くと、男の子はハユキを見上げ、その深紅の瞳でじっと覗き込んできた。

——何かが、足りない。ふと、そう思った。

透き通るような白い肌に整った顔立ちをした彼は、見ただけで不安になるような男の子だった。


「ユシィ」

男の子から唐突に発せられた単語はなんのことかと思ったが、名前なのだとやっと気づいて微笑む。

「そう、ユシィ。これから道を歩くときは気を付けてね」

「……待ってた」

どうやら話が噛み合ってない。それなのに、ユシィは目をそらさずに真っ直ぐハユキを見据えていた。


「待っていました」

今度は丁寧に言う。


「おいハユキ、よせ」

ハユキに近づいて肩に手をかけ、刺のある声で更にユシィに話しかけようとするのをレオが止めた。


「そいつは、まずい」

真剣なレオの目がハユキを捉えて離さない。

それでもやはり、ハユキにはこの何かが欠けている男の子を放っておくことはできなかった。


なんとか目を逸らしてユシィに変わらず笑いかける。

「誰を待ってたの?」

「おいハユキッ!」

今度は力強く肩を捕み、ユシィから遠ざけるようにレオは彼女を少年から引きはがした。

「俺が危ねぇって言ってんのわからねーの?」

「わかってる」


レオの目はユシィが人ではないことを黙に告げている。

「なら——」

「ごめんレオ。それでもなんだか、この子と私は似ているような気がするの」

幼い頃の自分を思い出して、ハユキはゆっくり息を吐いた。

何もかも失って、それでもハユキが前に進めたのは、周りの人々が支えてくれたからだった。差し伸べてくれた手があったからだった。


決心して、強くレオを見つめ返す。すると、少しだけレオがひるんだ。

「勝手にしろっ」

そう言って力強く肩を握っていた、その手を離す。

肩に痛みが走ったが、この痛みは、それだけレオがハユキのことを心配してくれたということだ。


「ありがとうレオ」

そしてハユキは再びユシィに視線を落とした。

「ユシィ、あなたは誰を探していたの?」

「助けてくれる人。だけど見つけた」

そう言ってくりっとした大きな目はハユキをじっと見つめる。


「私?」

「そう。ユーデュレムの人」

ハユキははっとしてユシィの口を塞いだ。


ハユキは医者の家庭で何不自由なく、普通の子供と変わらない環境で育った。その家系は特別なものではなかったし、ハユキ自身、惟楽の才に恵まれている他、特出しているものは別段見当たらない。


それなのに、どんな神様も決まって“ユーデュレム”と意味深げに言う。

だから私はユーデュレムという姓が嫌いだし、名乗ってはならないとあの人に言われていた。


「いきなり口を塞いじゃってごめんね。私はハユキ。できればそっちで呼んでもらえるかな?」

「わかった。ハユキ、ユシィを助けてくれる?」

子供らしさはまるで無いと思っていたけど、そんなこともないみたいだ。

「うん、いいよ」

「じゃあ、まず町の人を助けて」

まず——ということは、少年のお願いは二つ以上あるようだ。


「惟楽の者の件?」

「そう。町の人、苦しそうだから」

「まだあるんでしょう?」

「もう一つは後でいい」

ユシィは軽くうつむいて、一人納得したようにまた顔をあげる。


「もう一つは、まだ見つかってないから大丈夫」

なにか、ヤバそうな香りがして、ハユキは眉をひそめた。

見つからなければ大丈夫ということは、見つかったら大丈夫じゃない可能性があるということだ。


「ハユキ様、お待ちください」

クライド心配そうな顔で口を挟むのに、ハユキは子供のようにふいっと顔を背けた。

「嫌です。あなたはさっき私のわがままにつきあってくれると言いましたよ」

強い口調で突っぱねるようにそう言い、ユシィをぎゅっと抱き締めると、クライドはなぜかふふっと笑う。


「わかっていますよ。あなたのことです、言い出したらどうせきかないのでしょう?ただ、あの男が少し気になるのです」

あの男——と言われてハユキは、先程のあの偉そうな軍人を思い出す。


「ギド……?」

「ええ。彼はたぶん貴族ですよ。その名前を聞いたことがありますから。ギドという人物はそれなりに有名でしたし、王都からきたというのなら尚更です」

あの口のききようからなんとなく想像はしていたが、やはりあの男はお偉い貴族の軍人さまらしい。


「申し訳ありません。ですから私はお役所にはいけません。もしハユキ様がお役所に行かれるのでしたら、私は戸を開けはなして外であなたの会話を聞きます」

クライドはお役に立てず申し訳ありませんと言って苦々しく笑った。


「もちろん、あなたに危険が迫った場合は別ですが……」

笑顔を引っ込めたクライドは、そっと、わがままな主人の頬に手を添えた。


「それから……私はあなたが引かないとわかっていても、やはり心配なのです」

ここまで誰かに心配してもらえるなんてありがたいことだと、ハユキは嬉しくなって、口元を緩めた。


「心配はいりませんよ、クライド」

そう口にしたハユキ自身、心配などしていなかった。


「だって、騎士学校主席の実力を持った騎士と、神様のハーフが一緒なんですよ。心強すぎじゃありませんか」

さも当然のごとく言い切ったハユキを目の前に、主席とハーフのご両人はきょとんとして顔を見合わせた。あ、ちょっと面白いなと思ったことは黙っておくことにする。


「あほか」

さっきまでずっと不機嫌そうに押し黙っていたレオが、急にハユキに向かってそう言った。

「こっちだって自分の身守るのに精一杯なんだよ。分けも分らず神域の惟楽の者に追われるし、ついて行こうと思った奴らは色々なことに首突っ込んでいくスタイルだし。でも、そうだな」

真っ直ぐで真摯なレオルドの視線を、ハユキは受け止める。


「そういうスタイルは嫌いじゃない。自分のことを顧みないで馬車にひかれそうなやつを助けるお前なら、まあ、できる限り手助けしてやるよ。助けてくれた恩もあるしな」

ため息まじりに言ったレオは、照れ隠しでもするかのようにユシィの前にしゃがみ込んで、そのめずらしい赤色の髪をわしゃわしゃとなで回した。


「悪かったなユシィ。俺はレオルドで、あっちがクライド」

「レオルド……クライド」

「俺はレオでいい」

ユシィは幼い見た目にそぐわないてきぱきとした動きで、丁寧に頭を下げた。

「よろしく、お願いします」


私はその小さな手を取って、少年とともに事情を伺うため役所の中に足を踏み入れた。


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