第72話

 平常心を保とうとすればするほど何をしても上の空だった。気が付けば太陽は地平線の彼方に沈んでおり、代わりに大きな月が数多の星を引き連れて窓の外に輝いている。

 食事を終えてからにしよう。

 お風呂に入ってからやろう。

 言い訳のような誤魔化しを続けてきたが、後はもう寝るだけになってしまった。寝てしまえばは終わる。

 習慣にしている就寝前の読書も内容が全く頭に入らない。ただページをめくるという作業をしているだけだ。

 レクスは呪術が解けた今でも前と変わらず読書中のサラの背中を自分の胸に抱いている。この行為に呪術は全く関係なかったことを、昨日の夜初めて知った。


「サラ」

 突然耳元で囁かれ、無理矢理に現実へ引き戻された。


 わかっているけど――。


 レクスは振り向けずにいるサラの読んでいた本を閉じるとそっと取り上げた。


 もうすぐ日付が変わる。いつまでも起きてはいられない。


 サラは小さく溜息を吐き、首元に巻き付いているレクスの腕を振り解いてゆるゆると立ち上がった。今まで背中に感じていた温もりがなくなり、暖かい部屋の中でもどうしようもない寒さを感じた。


 棚の上に置いた二つの腕輪を取ろうとした手を伸ばす。ふと辺りが急に暗くなり、同時にサラの手の上に大きな掌が優しく被せられる。

 振り返るとレクスがすぐ後ろに立っている。サラは彼の影に覆われていた。

「あなたが傍にいるだけで良かったのに」

 部屋の明かりを背負った彼の顔は逆光になってしまって暗い。

「今はその先を望んでしまう」

「――レクスさん?」

 だから少しだけ怖い、と思ってしまった。

「後悔しています」


 あなたに会ったことを。

 そう言われそうな気がしてサラは俯いた。


「遠慮などせず、あなたを抱けば良かったと」


 全く想像していなかった言葉に思わず顔を上げた。しばらく見つめ合った後、その意味を理解してしまったサラは慌てて視線を外した。


「でも、レイが現れたので残念ながら叶えられなかった」


「どうして?」って聞くのも変だし「そうですか」と言うのもおかしいし、こういう時はなんと言えば――。


 悩んだ挙げ句、サラは上目遣いで見るだけで精一杯だった。

 レクスは真っ赤になって視線の泳がせるサラを見て微笑むと、暖炉の火のように赤くて熱いその頬に右掌を添える。

 サラの身体が小さく震えたのは、レクスの手が冷たいせいだけではなかった。


「あなたが自分ではない自分と愛し合っている姿を見せつけられれば私もあいつも壊れてしまう。だからどちらも互いに牽制し合い、あなたに触れられずにいます」


 サラはレクスの口から囁かれる扇情的な台詞にどう対応して良いかわからず、ますます顔を火照らせて視線を泳がせる。

 レクスはそんなサラを見て密かに口の端をつり上げた。

「あなたの初めてになれるはだけでしょう?」


 二人同時には流石に無理でしょうから、と真剣な声音でサラを追い詰めた。


 それ以上言わなくていいです!


 サラはのぼせすぎた頭のせいか激しく打つ鼓動のせいか、ひどい目眩を覚えた。


「せめてこれくらいは許してほしいのですが」

 そう言ってサラの首元にすっと顔を埋めてきた。

 汗ばむ肌にレクスの冷たい唇が落とされ、サラの身体が跳ねる。

「んっ――っ!」

 思わず漏れた声に唇が嬉しそうに首を這う。けれどすぐに名残惜しそうに離れていった。

「やはりこれが限界のようです」

 レクスは潤んだ瞳で見上げているサラを見て心底残念そうな顔で溜息を吐いた。

「代われ、と言っています」

「――レイが?」

「無理矢理引き離されるのも癪なので代わります」

 レクスの顔は穏やかな口調とは裏腹な凶悪な人相になっている。アスワドの言ったとおり、レイの方が力は強いようだ。

 サラと目が合うとレクスは表情を和らげたが、すぐに何かを思い出したように視線を下げた。

「あなたの傍に最後までいられないことが心残りです」

「私はずっと傍にいます」

 サラの迷いない言葉にレクスは一瞬だけ驚いたような表情になり、そして微笑んだ。

 涙を堪えて笑顔を作るサラをレクスは優しく抱きしめた。

「あなたが付けてくれたレクスという名前は私だけのものです。誰にも渡さないでください」

 耳元で囁かれた声は切なさを滲ませている。


『名前を思い出しても、レクスと呼んでくれますか?』


 前にレクスにそう聞かれたことを思い出した。あの時はレクスが失敗した呪術のせいで産み出された人格であることも、別人格であるレイの存在も知らなかった頃だ。 だからレクスという名前はだけのものだ。

「私の中でレクスさんはレクスさんですから」

 サラは以前と同じ台詞を口にしたが、あの時とは違い涙声になっている。それでもレクスは嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとう、レクスさん」

 サラは最後になるであろう名前を呼びながら、彼の背中に手を回した。

「愛しい人。あなたの心に傷を残してしまうことを許してください」

 サラは詰まって出なくなった声の代わりに大きく首を横に振った。

「でもその傷が残っている間は、あなたの中に留まれることを嬉しく思います」

 レクスはわずかに毒を含んだ艶やかな微笑みでサラの唇を塞いだ。

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