第37話

 コルヴォはその場で再び膝を折る。眠っているレクスを見下ろすその顔は真剣だった。

「この呪術は暴走を防ぐためのもの?」

 頷くサラに、情報屋は抑えた声で続けた。

「それを解けば、きっとまたあんな風になっちゃうけど、それでも良いの?」

 手が自然と首の包帯に触れる。不安な気持ちを押し隠して上目遣いでコルヴォを見た。

「鎮めの巫女がいれば大丈夫でしょ?」

「巫女がいても暴走した例はある。どうしてそうなったか原因はわからないよ」

 それに、とコルヴォは言葉を続けた。

「巫女はその魔族が死ぬまで傍にいて力を抑え続けなければならない。だからごく自然に伴侶になることが多かったらしい」

 言葉の意味に衝撃を受けた。

 知らない女性に笑いかけるレクスを、後ろから見つめている自分の姿が浮かぶ。


 俯いたサラの顔を覗き込むコルヴォは、目が合うと同じ言葉を口にした。


「それでも良いの?」


 呪術を解いても良いの? 

 巫女が伴侶になっても良いの?


 呪術を解いて助けたい。死なせたくない。でも呪術が解ければ、巫女が現れれば、傍にいる理由がなくなる。


 良くない。

 離れたくない。


 目の縁から零れ出てしまいそうな涙と、唇の隙間から溢れ出てしまいそうな言葉を無理矢理抑え込んだ。

「――私がこの呪いを解くと約束したから」

「サラちゃんは解術師なんだ」

 コルヴォは「そっか」と自分を納得させるように息を吐いた。

「その気持ちが揺るがないなら協力する」

 サラが見上げると、コルヴォは厳しい顔をしていた。

「でもこれだけは覚えておいて。止める巫女のいない暴走した魔族が行き着く先は『死』だけだからね」


 言葉が容赦なく突き刺さる。重みで倒れてしまわないようサラは奥歯を強く噛みしめた。


 呪術でも暴走でも、どんな理由でも死んで欲しくない。例え離れてしまっても、例え知らない誰かと共に歩むとしても、生きていてくれればそれで良い。

 

 彼が幸せでいてくれるなら、それで。


 サラは膝の上で眠るレクスの髪を撫でた。溢れる涙を堪えながらも唇には自然と微笑みが浮かんでいた。


「――いい」

 コルヴォの呟きにサラは顔を上げた。

「懸命に耐えてそれで覚悟を決めたサラちゃん、最高ッ!」

 両肩を掌でがしっと掴まれた。

「はい?」

 思い切り顰めた顔もコルヴォには通用しない。

「巫女が見つかったら俺の所においで。慰めてあげる」

 熱のこもった瞳がサラに近づいてくる。

「な――」


 どうしてそういう話になるの?


 頭の中はぐちゃぐちゃですっかり混乱している。

「すぐに忘れさせてあげるから」

 真剣な表情のまま低く甘い声で囁かれ、サラは不覚にもどきりとしてしまった。近づいてきた唇を避ける動きが一瞬止まる。


 代わりに二人の顔の間に大きな掌が下から割り込んできた。

 褐色の肌の右手がコルヴォの顔面を思い切り掴んでいる。鷲づかみにしている指に力が込められている事は、筋張った手の甲で見て取れた。

「いたたたた!」

 手の持ち主は上体を起こしたが指だけは離そうとしない。その背中は不機嫌をとっくに通り越している。


 コルヴォの人間性は置いておいて、貴重な情報源をここで失う訳にはいかない。頭を潰されかけた猿男を思い出し、サラは慌ててレクスの背中を掴んだ。

「ダメです!」

 レクスはちらりと背後のサラを視線だけで見遣った。その隙にコルヴォはレクスの目の前に掌を翳した。

 掌から目の眩むような強烈な光が放たれ、サラは咄嗟に目を瞑って顔を背ける。瞼で閉じられた瞳でも大きな影が自分を覆っているとわかった。少しだけ目を開けるとすぐ鼻先にレクスの背中が庇うように目の前にあった。


「男の掌にキスしたってちっとも楽しくない!」

 目眩ましの光で上空に逃げたコルヴォは大袈裟に唾を吐き出し悪態を吐く。

 呆然と見上げているサラと目が合うとにっと笑った。

「また後でね」

コルヴォの投げキッスと同時に、レクスの掌から見えない刃が放たれる。色男は器用に全て避けると、掌をひらひらと降って空の彼方へ飛び立っていった。



 呆気に取られながらその姿を見送るサラは、立ち上がった背中に視線を戻した。

「レクスさん」

 レクスはその言葉に振り返り、まだ座ったままのサラに右手を差し伸べた。サラは何も考えずにその手を取って立ち上がる。


 ありがとう。

 そう言おうとして、そこで気が付く。握られたままの掌が小さく震えだす。

「どうして――」

 その後の言葉が続かない。首をまだ締め付けられているようだ。


 どうして――レクスさんじゃないの? 

 

 動けなくなったサラに、レクスの姿をした男は口の端をつり上げた。

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