第35話

 レクスは長剣を鞘から抜くと、襲いかかってきた蜥蜴男の胸へ光る刃を振り抜いた。男は慌てて身を引いたがその硬い皮膚は横一線に切り裂かれていた。

「てめぇ――よくも」

 動揺しながらも蜥蜴男は素早く身を翻し、太い尻尾をレクス目掛けて振り薙いだ。

 レクスはそれをかわさず身体で受け止めると左腕で抱える。

 蜥蜴男は必死で尻尾を抜こうとするが細身の身体はびくともしない。

 レクスは剣をゆっくり掲げ、空気を切り裂くような速さで真っ直ぐに振り下ろした。尻尾は根元近くから切断された。前のめりになった蜥蜴男にレクスは切れたそれを投げ返した。

 蜥蜴男は苦悶の表情で振り返り、さっきまで自分の一部だった尻尾を何とかかわした。血をまき散らしながら地面に叩き付けられたそれはびくびくとうごめいている。

 体勢を立て直せないままの蜥蜴男の首に銀の刃が下りてきた。手の甲で防ぐも剣の勢いまでは殺すことが出来ず、くの字に折れ曲がる。鱗は砕け、血と共に地面に散乱する。

 蜥蜴男は怯えた表情で地面にへたり込んだ。目の前の魔族を見上げて情けない声を上げる。這って逃げようとするふくらはぎを、レクスは躊躇なく剣で突き刺し地面に縫い止めた。

 蜥蜴男は泣き声のような悲鳴を上げ、恐怖の染まった目で振り向いた。

 レクスは口の端をつり上げる。上の向けた左の掌にはいつの間にか赤い炎が揺らめいている。

「や、止め――」

 蜥蜴男はガクガクと身体を震えさせた。


「うわぁああぁあああっー!」

 上空から悲鳴とも雄叫びともつかない声が降り注いだ。振り仰ぐと上空の梟男がレクスに火の玉を投げつけてきた。

 レクスは自分に向かってくる火の玉に向けて左手の紅蓮の炎を解放した。

 魔王の炎は火の玉をあっさり消し去ると、速度を落とすことなく梟男に向かっていく。

 梟男は慌ててレクスの魔術を防ごうとしたが、張った防御壁は難なく破られ、炎は彼の全身を飲み込んだ。一瞬で炎に包まれた男は藻掻きながら地面に落下する。燃える身体を地べたに転がし、火を消すと微かな呻き声を上げてうずくまった。


 サラは目の前の光景が信じられなかった。

 レクスは確かに相手に対して容赦しない。けれど愉しそうに笑いながら痛めつけることはしなかった。

 今のレクスは別人にしか見えない。


 あれは誰?

 

 レクスの姿をした別人は気を失った蜥蜴男の足から剣を抜くと、黒焦げの身体で呻く梟男に向けて剣を掲げた。


 戦意を喪失した相手に向けて止めを刺そうとしている。

 サラは咄嗟に叫んだ。

「止めてっ!」

 レクスは動きを止め、視線をサラに向けた。

 

 近づいてくるレクスに身体が竦む。すぐ目の前で見下ろす無慈悲な瞳に指先一つ動かせない。

 レクスは剣を地面に突き立てるとサラの両手首を掴み壁に押しつけた。

 背中を硬い石壁に打ち付けられ、驚きと痛みで開いた唇が強引に塞がれる。同じなのに全く知らない人のような、噛み付くような欲望に任せた突然の口付けに、胸の高鳴りより戸惑いが勝る。

 冷たい右手が手首の拘束を解くとサラの身体を伝って下りてくる。いつの間にか太ももの間にはレクスの足が割り入れられていた。

 自由になった左手でサラは厚い胸板を突き放す。唇を離したレクスはつまらなそうに見下ろした。

「あなたは誰?」

 ようやく絞り出したその問いにレクスは見惚れるほどの妖しい笑みを浮かべる。

 感情の見えない瞳にサラの背筋は凍った。

「おかしなことを。誰に見える?」

 喉を鳴らして笑う声はどこまでも冷たく無機質だ。

「わからないけどあなたはレクスさんじゃない。誰なの?」

 揺るがない声にレクスの表情が一変する。サラの腰に回されていた右手が首元に宛がわれる。

「気付かなければ良いものを。やはり邪魔だな」

 そう言うとレクスの姿をした男は無表情のまま五本の指をサラの首に食い込ませた。

 驚きで見開かれた茶色の瞳に男は満足そうに微笑んだ。

「つがいが死ねばこいつは壊れる」

 金色の瞳は呪術の文字が浮かぶ自身の左手を忌々しげに見遣る。

「呪われて死ぬとしても、わずかな時間でも俺は自由になれる」

 サラは両手で食い込む指に抵抗するが、打ち込まれた釘のようにそれは抜けない。冷たい指はじわじわと確実に締め付ける。呼吸が出来なくなり意識が薄れる。


 目の前の男は楽しそうに笑っている。けれどサラの霞む視界にはレクスが苦しそうに、涙を流しているように見えた。締め付けられた喉から微かに声を振り絞る。

「レ――クス――さ、ん」


 泣かないで。

 痺れる腕を伸ばし、その頬にそっと触れた。

 男は目を瞠り、驚いたように右手を離した。解放されたサラは咳き込みながらずるずるとその場で座り込んだ。

 視線の先で、レクスは左手で右手を押さえ俯いたままで膝を突いていた。

「サ――ラ」

 いつもの声だった。レクスに近寄ろうと手を伸ばす。

「来る、な」

 苦しそうに吐き出された声に伸ばした手が止まる。

「レクスさん」

 レクスが顔を上げた。苦しげな表情が驚きに変わり、そして辛そうに歪められる。 彼の視線が自分の首元を見ているとわかり、何気なく触るとぬるりとした感触があった。

 指先には赤い血が付いていた。彼の指が食い込んだ時かその指を剥がそうした時か。いつ負った傷なのか自覚がない。

 レクスは剣を地面から抜き取ると、その剣先を自分の喉に宛がった。

「ダメッ!」

 サラは無我夢中でレクスの首にしがみつき胸の中に飛び込んだ。

 剣の動きがピタリと止まる。

 レクスの手が引き剥がそうとする。けれどサラは精一杯の力で自分の腕を掴み続けた。

「死んじゃだめっ!」

「このままではあなたを――」

 レクスはぎりりと歯噛みし、その後の言葉を飲み込んだ。かげる金色の瞳は必死に訴えていた。

「今のうちに――早く、離れて――」


 聞いたことのある言葉にサラの心臓が大きく反応した。

 


 目の前で男の人がうつぶせで倒れている。

 手の甲や首筋には黒い文字が刻まれていた。

 力なく上げられた顔も禍々しい黒い文字で覆われている。皮膚の色や表情もわからないほどだ。でも文字の隙間から真っ直ぐにこちらを見る薄緑の瞳が、いつも自分も優しく見守ってくれているものと同じだと気付いた。


『――離れ――て――早、く』


 聞いたことのない苦しそうな声や、大好きなその人を喰い尽くそうとしている黒い文字が怖くてその場から逃げだした。

 

 それが、父を見た最後だった。



 今まで忘れていた、心の奥底に沈めていた記憶が朧気ながらよみがえる。サラは震える唇で無意識に叫んでいた。

「い、や――離れない。もう離れないから!」

 掴む指先に力を込める。


 離れてしまえばもう会えない。その恐怖だけが心を埋め尽くす。

 だからレクスを苦しめるだけだとわかっていても自分の我が儘だとわかっていてもどうしても離れることが出来なかった。


 甲高い音が耳に刺さる。

 その音でサラは我に返った。

 レクスの手から剣が落ちていた。ぐったりとしたレクスがもたれ掛かってくる。

 動かなくなってしまったレクスに全身の血の気が引く。震える手で背中に手を回す。掌に微かに感じる呼吸に合わせた動きにサラはほっと胸を撫で下ろした。


 顔を上げるとコルヴォがレクスに向けて掌を翳していた。目が合うと悪びれもせず苦笑する。

「そう怒りなさんな。ただ眠らせただけだから」

 

 久しぶりの密着に身体が熱くなる。が、残念ながら小柄なサラはレクスを支え続けていられない。

「お、重い」

 意識のないレクスに押し倒される寸前でコルヴォが彼を後ろに引き倒し、サラはようやく自由になった。

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