「ヒーローなんていない」って言ったやつ、とにかく相手になってやる

新田五郎

第1話

小説 「ヒーローなんていない」って言ったやつ、とにかく相手になってやる

序章


 新宿から1時間に一本しか出ない特急に乗って三十分。

 おれの育ったのは、東京に比べたら何にもない街、N県K市。八十年代頃まで都心のベッドタウンとしてもてはやされたこの街も、九十年代半ばを過ぎてから、どういうわけだかさびれてきた。このK市と都心の「間」の地域にドーナツ化現象が起こり、空洞化して早くから荒廃してしまっているというが、どうやらそのあおりをK市も受けてきたようだ。

 古くなったマンションが、昔のマンガにあった「核戦争後の地球」に出てくるビルのように何本も放置されている。キラキラしているのは大型スーパーマーケットとパチンコ屋だけだ。

 そして、そんなK市有数の不良高校、中学校の進路指導の時間、教師さえ行くのを止めろと言われている高校。それが黒烏(くろからす)学園である。

 おれ・鬼戸タケル(おにと・たける)は、迷わずそこに進学し、卒業するまでの三年間、ケンカ三昧の日々を過ごした。

 明けても暮れてもケンカ、ケンカ。

 そしておれは一年生の二学期に学園全体の次期リーダー候補の地位を手に入れ、その後も卒業までケンカ、ケンカで駆け抜けた。

 ケンカと言っても、おれなりのポリシーを貫いたつもりだ。おれは武器は使わなかったし、不意打ち、闇討ちもしなかった。とくに嫌いなのが後輩やしくじった者への「ヤキ入れ」ってやつで、そんな光景に出くわしたら必ずぶち壊した。

 基本的にはタイマン勝負。得意なのは、生まれもった脚力を活かした技だ。最近のケンカではタックルで押し倒してボコ殴り、なんてのがよくあるし、立ち技は片方の膝が破壊されればおしまい、などと知った風な口を聞くやつがいるが、おれには関係ない。

 カツアゲや上納金などの妙な制度は、大嫌いなのですべて潰した。どこの世界でもいちばんやっかいなのが金の問題だから、これには苦労した。おれが卒業してから、また上納金制度が復活していても不思議はない。

 だが、他校とのいさかいや、まれにやくざが出てくる場合など、生死に関わるくらいの問題でなくてはOBは在校生に口を出さないのが黒烏学園のルールだ。だからおれは後輩たちには何も言わない。また、万引きやひったくりなど、学園の外での犯罪も防ぎようがなかった。詐欺行為? 黒烏学園の生徒に、そんなことのできる頭のやつは滅多にいない。

 そして、三年間の高校生活をケンカで駆け抜けて何が残ったか。

 何も残らなかった。

 仲間たちも、大半がニートかフリーターと成り果てた(ちなみに三分の一くらいは卒業できずに退学している)。家業を継げるやつも、景気の冷え切った商店街や町工場で苦戦を強いられている。ヤクザやアウトローになった者もいるが、そこでもあまり景気のいい話は聞かない。

 言っておくが、おれは学園内では大ヒーローだったのだ。歴代の黒烏の頂点に立った者の中でも、突出してケンカが強いと言われていた。人望もあった。

 だが、おれはアウトローにはなりたくなかった。そこで自慢の身体能力を活かし、総合格闘家になろうと思ったのだが、いくつもの格闘技団体とパイプを持つアウトローのOBとトラブルを起こし、デビュー前から干されてしまったのだ。

 卒業後、おれはすぐに東京に出てきていた。都内有数の繁華街であるS地区に歩いていける距離にあるH町。ここの築八十年くらいのボロアパートに一人で住んでいた。が、これはあくまでも格闘家デビューしてその収入が入ると目論んでのこと。

 高校時代にバイトしてためた貯金は日々減ってゆき、テレビもない部屋で、一日じゅうスポーツ新聞だけを読んで、読み終えるともう一度最初から読むという煮詰まった生活。

 しかもタバコひと箱買えない。こんな現状をなんとかしたいと、おれは考えた。そこで、三分の一はシャッターの閉まったH町の商店街でおれが見つけたのが、クリーニング取次店のアルバイトである。

 まだ肌寒い三月の初旬、求人の張り紙を見ておれがフラリと入った「クリーニング サクラ」は、都心一帯に勢力を伸ばしているクリーニング店のグループ、「ホワイトチェーン」と契約している店だった。

 通常のクリーニング店よりもだだっぴろい店内では、三十歳くらいの女性とゴツい男が二人で働いていた。



 すぐに店内に入り、店長とおぼしき女性に働きたいと申し出た。一瞬ひるむくらいの、清楚美人だった。彼女は、最初は身長百八十センチ以上あるおれのガタイに少しビビったようだったが、すぐに優しくきれいな声で「履歴書を持って来てくれ」と言った。

 おれはその日のうちに履歴書を持っていって、すぐに採用となった。

 これが、おれが「ヒーロー」になる最初のきっかけなのだが、ここまで話しても信じる者はいないだろう。

 「クリーニング サクラ」はかなり繁盛している店で、通常のクリーニング取次店の二倍の広さがあり、カウンターの受付けは二個あった。

 ところが、どんなに混んでいるときでも、どうしてもむかって右のカウンターの行列が長くなってしまう。店長の佐倉美波が接客しているからだ。

 彼女は美しく、対応も丁寧、客の顔と名前は一度頭に入れたら忘れない。客層は独身サラリーマンと主婦、半々くらいだったが、だれもが美波店長の接客を受けたがるのも無理はない。

 カウンターのもう一方では、小柄だがゴツい太った男が無愛想に接客している。声は小さいし、愛想も悪い。客はどこか居心地悪そうだ。

 コイツが、おれより前からアルバイトとして入っている、根津純蔵(ねづ・じゅんぞう)という男だ。

「今度、新しく入りました鬼戸タケルと言います。よろしくっす」

 おれは、初対面のときに彼にきちんと挨拶をした。不良モードの凶悪な雰囲気を隠すのは、おれにとっては日常化していることで問題はない。白いビニール袋に入ったたくさんの洗濯物に埋もれながら、パイプ椅子に座って休んでいた根津は、おれをチラリと観ると不機嫌そうに「ああ」と挨拶を返してきた。

 なんだよこの野郎、感じ悪いなと思って顔を見ると、とにかく陰気くさい表情をしている。身体に比べて顔が大きい。それは何か、インカとかアステカとかの古代文明の巨石像を思わせた。手足は短く、腹は出ていた。量販店で売っていそうな衣類を、無造作に身にまとって、その上から薄汚れたホワイトチェーンの白いエプロンをしていた。年齢は、おれより十は上だろう。

 よそは知らないが、「クリーニング サクラ」の店の奥には、お客さんから預かった洗濯物が白いビニール袋に入れられて、足の踏み場もないほどに積み上げられている。この洗濯物に、伝票を見ながらひたすらにタグを付けていくのがバイトの主な仕事だ。単純作業だが、実に面倒くさい。

 それを、おれと根津――いちおう先輩なので根津サンと呼ぶことにする――の二人で、店の奥に入って黙々とやるのである。最初はおれも一生懸命だったが、半月もやるとウンザリしてきた。


 我々の作業中、佐倉店長はずっとお客さんに対応中だ。

「なあ、根津さん」

 おれは小声で根津サンに話しかけた。だが無視された。

 もう一度、聞く。

「根津さん、『ジャスティスビート』って何すか?」

 根津純蔵が、マンガみたいにビクッ! と身体をふるわせた。おれはここで警戒されないようにと思い、急いで愛想笑いをしながら、話す。

「いや、この間、根津さんのバッグからチラシがはみ出ているのを観ちゃったもんですから……。気に障ったのならすいません」

 チラシの件は、本当だ。根津サンは、「まずいところを見られた」という顔をした。どうやら焦るとすぐに顔に出てしまうらしい。

「……おれが関わった自主製作映画だよ」

 根津サンはしぶしぶ認めた。同僚と仲良くなっておこうと思って話しかけただけだったが、ことは意外な方向に進んでいった。

「映画?」

 おれはおうむ返しに聞いた。

「だから、自主製作映画だよ。もういいだろ、そのことは」

「見せてあげたらいいじゃないですか、鬼戸さんに」

 澄んだ声がした。根津サンがさっさと話を打ち切ろうとしたとき、客が途切れたらしく、店先から佐倉店長が笑顔で奥に入ってきた。

 根津サンは、佐倉店長の顔を見るとまたビクッ! とふるえて、下を向いてしまった。

 ああ、この人は店長に惚れているのだな、とおれにはすぐにわかった。こういうことに敏くないと、不良もつとまらない。とくにリーダーは。

「根津さんの映画、本当にすごいのよ。店を閉めたら、見せてもらうといいわよ」

 佐倉店長が屈託なく言うと、根津サンは何とも複雑そうな顔をした。ほめられたのが迷惑みたいな顔だった。



 午後九時、店を閉めると、店の奥の作業スペース(おれと根津サンがタグを付けるところ)のさらに奥にある事務所兼休憩所に、おれと佐倉店長と根津サンは入った。

 ここは、ドアが付いていて店頭からはまったく見えない。主に佐倉店長が閉店後デスクワークをしたり、食事をしたりする場所で、小さなキッチンも付いている。おれや根津サンも、弁当を食うスペースとして利用することもある。テレビも、DVDの再生機も付いている。

「これよね、『鋼鉄戦士ジャスティスビート』」。

 佐倉店長は、小さな本棚から白いディスクを取り出した。赤いテープが張ってあり、

それに「鋼鉄戦士ジャスティスビート」と書いてある。

「じゃ、観るよ~」

 佐倉店長がディスクをセットすると、暗い画面の中からタイトルが浮かび上がってくる。

 長さは二十分程度の、特撮ヒーローものだった。内容は、異次元からやってきて日本を支配しようとする怪人に立ち向かうため、サイボーグとなったヒーロー「ジャスティスビート」が戦う、というもの。おれはこういうものの良し悪しはわからないが、低予算なのは予想がつくものの、その出来の良さに素直に感心した。

 「ジャスティスビート」の外観は、軍服を思わせる暗いカーキ色に、フルフェイスのマスク。目の部分は楕円形に近い丸い目になっていて、薄いオレンジ色に光っていた。両肩、両肘、両膝には黒いプロテクターを付けている。鈍く光る、銀色のブーツを履いていた。足首くらいまである白いマフラーが、風にたなびいてカッコよかった。

 対する怪人はまた凝っていて、素人のおれにはどうやってつくったのかまったくわからなかった。トカゲを二本足で立たせて、ものすごくカッコよくしたようなデザインだった。口をあけると歯が二重にはえそろっていて、舌が動いた。

 この二体のアクションシーンには、息を飲む迫力があった。

 二十分の上映時間は、すぐに終わった。

「おお~。これを根津サンがつくったんスか。すごいんじゃないですか?」

 おれは、感動を隠さなかった。だが、根津サンの顔は曇ったままだ。

「おれがやったのはキャラクターのデザインと、スーツ製作、後は雑用だよ。監督は中村キミオという大学時代の同級生で、コイツはすでに映像業界で働いてる。何にしても、これくらい撮るのは大学の映画研究会でも普通にいるからねぇ……」

 どうも彼には、自分の作品を見せたいのに見せたくない、というアンビバレンツな心理があるようだ。チラシを持ち歩いていたり、特撮趣味のまったくなさそうな佐倉店長にディスクを渡していることからも、それはわかる。

「根津サンは、映画監督を目指しているのよね!」

 無邪気に言った佐倉店長の言葉で、根津はこっちが驚くほどまたビクッ! となった。

「いや、もうなれないです。あきらめましたよ。そのことは前に店長に言ったじゃないですか」

 なぜか早口になる根津サン。何かいわくがあるのかと思ったが、無理やりほじくり返すこともないかと思って、おれは押し黙る。

「タケルくんは、何か目指していることがあるの?」

 店長が澄んだキレイな瞳でこちらに水を向けてきたので、場の空気を変える意味も含めて、自分が総合格闘家志望だったことを語った。

「それが先輩とトラブっちゃいましてね」

 面白おかしく話をすると、佐倉店長はすまなそうに少し、笑った。

 そして、驚くべきことに、根津サンも何か感じ入ったように、おれのことを見つめているのだ。なんでだ?

 何か言い出しそうだったが、彼はその場では結局何も言わなかった。

 夜も遅いので、おれと根津サンはその場を辞した。佐倉店長は、しばらく雑務をしてから帰ると言い、その場に残った。

 根津サンは、帰り道、最後まで何か言いたげな顔をしていたが、結局、夜道で別れるまで何も言わなかった。



 おれが「クリーニング サクラ」でバイトを始めて三ヶ月経った。六月になり、クリーニング店はヒマな時期に入っていた。最初のうちはうまくごまかしたつもりだったが、結局店長にも根津サンにも、おれが元黒烏学園のアタマだったことはバレてしまった。地方の黒烏学園の名前は、やはり不良高校として知られていたようだ。

 だが、二人ともほとんどおれとの接し方は変わらなかった。佐倉店長は、最初からおれの風体を見ても何も言わなかったし、根津サンは、おれがむやみと暴力をふるったりキレたりしない人間だということを、だんだんと理解してくれたらしい。ありがたい話だった。

 ある日、火曜日の午前中という、いちばんヒマな時間帯に、奇妙な客が来た。

 二人の、見た瞬間それとわかる若いチンピラを連れた、三十代前半くらいの男だった。

 ラフなかっこうだが、いわゆるオラオラ系の不穏なファッション。半そでからのぞく両腕には、ビッシリと小さいタトゥーが入っていた。しかも、目をこらして見るとそれらのタトゥーは、すべてが梵字だった。なんだそれ。意味がわからないだけに、気味が悪い。

 中肉中背で身長はおれと同じくらい。しかし何かトレーニングをしているのか、ものすごい筋肉が服の内側から爆発しそうだった。確実におれよりも上半身の筋肉はすごかった。顔はいかにもな都会の不良ヅラで浅黒く、不敵な表情に口ひげをはやしている。

 クレームでも付けているのかと思ったら、そうでもないらしい。あくまでも佐倉店長に対し、口調は親しげなのだ。正確に言えば、親しげな口調に三割くらい、恫喝のニュアンスが入っている。

 佐倉店長は、あからさまに困っている、という対応をしていたが、トラブルがあったときはおれを呼び出すことになっていた。履歴書に「黒烏学園卒業」と書いてあり、なおかつおれのガタイなら、何も聞かなくてもケンカの強さに関しては予想がついただろう。どうもボディガード代わりにおれを雇ったらしい。

 呼び出しがないのでおれはただ、洗濯物にタグを付ける手を止めて後方から様子をうかがうのみだ。

 ふと様子を見て、あまりのことに二度見してしまったのが隣の根津サンだ。まるで仁王のように憤怒の形相で、不穏な客を見つめ続けている。もちろん仕事の手は止まっていた。いつ飛びかかっていくかわからないように思えるが、震える右手を左手で掴むという、変なポーズをとって怒りを抑えているようだ。

 数分後、不穏な男はチンピラ二人を従えて、ゆうゆうと立ち去った。

 すぐにおれは佐倉店長に駆け寄った。

「だれなんです? ずいぶんとヤバい系の人みたいでしたが」

 佐倉店長は、深いため息をつくとカウンターの後ろにあるパイプ椅子にへたりと座り込んだ。そしてひと言、言った。

「昔の夫よ」

 意外だった。佐倉店長の服装はと言えば、化粧っ気はなく、なんとなく「主婦」っぽい、地味なコーディネート。それに「ホワイトチェーン」の白いエプロンというのがお定まりで、美人だがとても地味な外見だったからだ。昔はイケイケだったのかもしれないし、案外こういう地味なタイプがオラオラ系を好むのかもしれない。黒烏は男子校で、周囲には女子高がなかったこともあり、その辺の女性の細かいことは、おれにはよくわからなかった。

 やがて、雨が降ってきた。シャッターの閉まった店の多いこの商店街は、雨の音に包まれて、ますます静かになった。

「寒川猟(さむかわ・りょう)だよ」

 急に声が聞こえたのでふりむくと、根津サンだった。まだ憤怒の形相を保っている。

「何でも、知る人ぞ知る愚連隊だそうだが、あんたの方がそういうことにはくわしいんじゃないのか?」

 当然、根津サンはおれが元不良(この店では、自称だが。おれが実際何をやってきたかを、彼はくわしくは知らない)だということは知っていた。

「いちおう、説明しておくね」

「いいか、寒川猟ってのはな……」

 佐倉店長と根津サンは同時に話そうとして、顔を見合わせた。二人とも、よほど何か言いたいことがあるらしい。

 店長と根津サンが交互に語る話を総合すると、以下のようになる。

 佐倉店長、すなわち佐倉美波が高校一年のとき、同じ高校(ちなみに不良はいるが黒烏学園ほどではないところ)の三年の寒川猟とつきあい始め、佐倉店長の卒業と同時に二人は結婚した。

 繰り返しになるが、人は見かけによらないとは佐倉店長のことだ。寒川猟は、中学一年から地元であるS地区の周辺に名前がとどろくかなり大物の不良だったからである。その名は遠く、黒烏高校にまで聞こえていたから相当なものだ。

 とくに彼はケンカの強さと人をまとめる能力が突出しているということで、中学三年時には「本職」のスカウトが何人も来たといううわさもある。

 ケンカの方のうわさもすさまじい。とかくうわさには尾ひれがつくものだが、外人レスラーを半殺しにしただとか、元柔道家を素手でノックアウトしただとか、そんな話がどこまで本当かわからないままに、おれが高校在学中も流れてきたものだった。

 そんな彼は、高校入学と同時に裏ビジネスに興味を持ち、地元の人脈と情報を得て、十九歳の頃にはもういっぱしの愚連隊だったらしい。

 寒川も、逆に黒烏学園の頭だった頃のおれの名前くらいは知っているかもしれないが、片田舎の学園最強程度では、すでに忘れてしまっているだろう。

 で、いろいろあって、若く恋におぼれていた佐倉店長も、彼の凶暴性とオンナに対するだらしなさにやっと気づき、数年前に離婚した。

 意外にあっさりと離婚は成立したものの、寒川は数ヶ月に一度はこの店に来て、金の無心をしてくるのだという。

「金の無心? 年間、数億稼ぐ、ってなんかの雑誌に載っていたけどな」

 これは仲間から聞いたかなりリアルな情報だったが、寒川みたいな男と同類だと思われてもイヤなのでおれは「雑誌で知った」とウソをついた。すると佐倉店長から、

「やつの陰湿ないやがらせなのよ。私がお金を貸すかどうかを見て、忠誠心をはかっているような……。もう別れたのにね。きっと似たようなことをやられている女性が、他に何人もいるのよ。よその街に行くことも考えたけど、父の残したこの店を売る気にもなれなくてね……。数ヶ月に一回、憂鬱な日が来るってわけ」との答えがあった。

「警察は何をやってるんだ! なんであいつは捕まらないんだ!?」

 根津さんが声を荒げて言う。どうにもならないことに、自己嫌悪感すら抱いているようだった。

「なんとかならないんですか?」

 おれも本当にそう思ったので、たずねた。

「無理ね……」

 佐倉店長は、即答した。

「私もあいつもずっとこの街で育ってきて、S地区の繁華街はここから歩いていける距離でしょ? 彼が自分の拠点をよそに移すことは考えられないし、私もこの街を出て行く気もないし……」

 佐倉店長の力のない声は、外の雨に吸い込まれていくようだった。一瞬、ぼーっとしていた佐倉店長はハッ、と我に帰ったように立ち上がり、言った。

「まあ、気を取り直して行きましょう。私もタグ付け、手伝うから」



 おれがマジメにバイト生活に入ってから、さらに三ヶ月が過ぎた。クリーニング店の繁忙期はおれがバイトに入ったときの三月。新年度を迎える直前で、ヒマなのは真夏である。季節は、夏を過ぎて秋に入っていた。もうしばらくすると、衣替えでまた忙しくなってくる。

 その日の午後二時頃。シャッター商店街はいちばん人通りがない頃だ。たまたまコンビニに買い物に行くとかで、佐倉店長はその場にいなかった。

 ちなみに、おれが出会ってすぐの頃は無口だった根津サンは、だんだんと口数が多くなっていった。というより、自分の好きな話題、得意分野についてはいろいろ話すのだ。彼が作業中に話すのは、もっぱら映像業界に対する愚痴と、自分の業界内での立ち回りの不器用さに対する後悔だった。

「で、根津サンはもう映画には関わらないんですか?」

「だからもう無理なんだよ。境遇はあんたと同じ。いやそれ以下かな」

 根津サンは、映画の話をふると真っ暗な表情になる。

「おれには業界の師匠に当たる人物がいてね。細かいことは言えないが、それをしくじっちまって……。彼の怒りを買ったら、まず今後の映像業界に入り込むのは無理だな。他の人はどうか知らないが、おれの場合は無理」

 これはあくまで根津サンの私見である。映像業界がそのようなシステムになっているのかどうか、おれは知らない。一人の人物ににらまれたらすべてが終わりな世界かどうか。だが、彼が言うならそうなんだろう、と思うしかない。

「それに、そんな人間関係の問題だけじゃなく、おれは師匠から『おまえには映像をつくる決定的な才能が欠けている』とも言われているんだ。要するに実力がない、ってことなんだ」

 根津サンの暗い話を聞いて、おれはあいまいにうなずくしかなかった。そうこうするうちに、ひさしぶりに店長の元夫であり、愚連隊の寒川猟がやってきた。この間とは違うチンピラ二人を連れていた。

 やつは、なんとなく前よりガラが悪かった。クスリでもやっているのかと思ったが、近づいたらものすごく酒臭かった。

「美波はいないのか」

 美波とはさっきも説明したとおり、佐倉店長の下の名前だ。

「店長は今、ちょっと席をはずしておりまして……」

 仕方ないのでおれが応じた。おれは寒川に「不良のにおい」をかぎ取られないように気配を消した。今のおれは彼には「ちょっとイキったにいちゃん」くらいにしか見えないだろう。

 一方根津サンは、また憤怒の形相になっている。彼に任せたら、どんなトラブルが起こるかわからない。というか、おれがバイトに入る前は寒川と二人きりになったとき、どうしていたのだろうか。そっちの方が不思議だ。

「そうか。……ちょうどいい。今日はな、コイツらが新入りとしてつとまるかどうか、テストしようと思ってんだけどな」

 寒川の背後のチンピラ二人は、前回のやつらよりよほど若かった。まだ十代のように見え、またひどく緊張していた。

「おまえら、この場で殴り合え。勝った方が、仲間にしてやる」

 寒川は、残忍な笑みを浮かべた。

「いいか、ケイサツが来るとか野次馬が集まるとか、そういうことも全部おまえらで対処するんだぞ。その上で勝った方だけ、仲間にしてやる」

 そう聞かされて、チンピラ少年二人の顔は汗でびっしょりになり始めた。身体もガクガクと震えている。二人が親友同士なのは、すぐにわかった。おそらく二人で話し合って、勇気を出して寒川に接近したのだろう。

 それでこの扱いだ。

 二人は顔を見合わせてうなずくと、すぐに距離を開けてファイティングポーズを取った。人通りはまばらだが、商店街だ。こんなところで、しかも昼間からケンカをするやつを見たことがないが、とにかく二人は戦おうとしていた。

「ぐぬっ」

 後ろで変な声が聞こえたと思ったら、根津サンだった。また憤怒の表情を浮かべている。怒りをこらえて顔が真っ赤になっている。まさか止めに入ろうというんじゃないだろうな。寒川の気まぐれとはいえ、そんなことをしたら後々面倒なことになるのは間違いない。というより、ケンカはおろかスポーツもしたことがなさそうな根津サンは、半殺しにされてしまうだろう。

 しかしおれも、全身が緊張せざるを得なかった。黒烏学園時代、このテの「いじめ」があったら「戦え」と言ったやつをボコボコにしてやったものだが、相手が愚連隊の寒川では、カタギになろうとしているおれには手も足も出ない。

 どうするか。

 迷っているうちに、少年二人の殴り合いが始まった。たぶん親友同士、最初はおそるおそるだったが次第にヒートアップしてきて、間合いが詰まってくる。もともと血の気の多いやつらだ、いったんケンカが始まるとお互い、理性が飛んでしまったのか次第に壮絶な殴り合いとなっていった。

 みるみる二人の顔が腫れ上がり、血まみれになっていく。

 最初は面白そうに眺めていた寒川だったが、すぐに飽きて、殴り合っている二人の間に突然、乱入していった。

「違う違う! そうじゃねえんだよお!」

 泥酔していた寒川は、殴り合っている少年二人の襟首をそれぞれひっつかむと二人をひきはがし、ものすごい腕力でブン回し始めた。

「気合いが足りねえんだよ気合いが!」

 右手と左手、双方に少年一人ずつを掴んで、腕の力だけでブンブン振り回す。長身、細身の身体では考えられない力だ。少年二人の身体は、宙に浮いていた。

 五回、六回と振り回すと、寒川は二人のチンピラ少年の襟首を同時に離した。遠心力で二人はとんでもない方向に飛んでいき、それぞれ別方向の店のシャッターに激突し、気を失った。

「ぎゃはははははは! ぎゃはははははは!」

 寒川は面白そうに腹を抱えて笑うと、今度は少年二人に蹴りを入れ始めた。サッカーボールを蹴るときのような、本気のキックだ。

「おら、立て! 二人とも倒れちまったんだからノーカウントだぞ!」

 意識を取り戻した二人の少年はなんとか自力で立ち上がった。

 おれと根津サンは、二人でその光景を暗澹たる気持ちで見つめていた。

「美波がいないなら、帰るわ。ぎゃははははは!」

 寒川は、二人の少年を両脇で抱えるようにして立ち去っていった。

 数分後、ちょうど入れ違いにコンビニ袋をさげた佐倉店長が戻ってきた。

「あれ? 二人ともどうしたの?」

 おれと根津サンは、お通夜のような顔をしていたに違いない。

 寒川が来たことを話すと、佐倉店長もまた、お通夜のような顔になった。



 バイト終わりのその夜は、根津サンの方から「一杯やっていかないか」と声がかかった。実はオレもそう思っていたのだ。おれたち二人は、商店街の路地を入ったところにある赤提灯に入った。

 おれは生ビールを注文し、根津サンはウーロンハイだった。

「今日はいやなものを見ちまったな」

「……そうっスね」

 おれと根津サンは肩をすくめて乾杯した。根津サンはおそるおそる、ああいう場合でもおまえは手も足も出ないのか、と聞いてきた。非難ではなく、不良界のことをよく知らないことについての純粋な「質問」だった。

「店の場所は知られちゃってるし、ああいうときにむやみに手を出したらその後、どんな報復に合うかわからないっスよ」

 おれは素直に答えた。

「……やっぱりそうだよなァ」

 根津サンは、何度目かのため息をついた。

 彼はけっこういけるクチらしく、いったん飲みだしたら止まらなくなった。最初は、いかに自分が映画人としての実力がないかについて専門用語をまじえて話していた。それがひと通り済むと、今度は自分の世渡りベタについて語り出した。確かに聞いてみると根津サンはあきれるほど世渡りがヘタで、過去に何度も、普通ならしなくていい損をしていた。

 さらに時間が深まると、彼はこの世の不条理さについて語り出した。たとえば、映像業界にかぎらない、さまざまなところでのいじめについて語り倒した。某ビジュアルロックバンドのボーヤがバンドマンに鉄パイプで殴られているのを見たとか、兄弟子を落とし入れて師匠の激怒を誘い、才能ある芸人を業界から追放した才能のない芸人の話とか、女性ライターに対してセクハラを受け入れないと仕事をくれない編集者がいるとか、聞いているこっちがイヤになってくる話ばかりだった。

「おれはさあ、そういうことがガマンできなくていちいち文句を言ってきたんだよ。でもほとんどの場合、そういうのって解消されないんだよな。報復に合ったこともあるし、それまでいじめ程度で済んでいたことがもっと悪くなってしまったこともある。そしておれは次第に相手にされなくなっていく。どんなことでも、おれにはどうにもならないんだ」

 おれも酒を飲んで根津サンの話を聞いているうちに、だんだん過去のことが思い出されてきて、いつの間にかペラペラといろいろなことをしゃべっていた。

 おれも弱いものいじめは嫌いだった。黒烏学園では、いじめやカツアゲなどはすべて潰していった。

 しかし、そのためには上の世代とも戦わねばならなかった。ときにはOBとも。彼らは「黒烏の伝統」という言葉をよく使った。だがたいていは、その「伝統」とは四~五年のスパンでだれかが語り出したことにすぎない。たとえば「上納金制度」なども、くわしく調べていくとそのときどきのアタマの都合でずいぶん変更がある。アタマの権力が弱いときは合議制だったりして、下からまきあげた金を数人で山分けしたりすることもある。

 あるいは、もっと無法だった頃は複数のアタマが取りたい分を取りたいだけ、おのれの権力で下から取っていたこともあった。下級生は二重取り、三重取りされていた者がいたということだ。

 おれがそういうことを徹底的に潰して痛感したのは、いじめ、カツアゲ、リンチなどは、学園内でゼロにすると、今度は他校に不良たちの牙が向くということだ。これはゼロにすることはできなかった。おれがトップだった頃が学園はいちばんクリーンだったはずだが、他の不良校との緊張関係は、いちばん大きかったとも言われている。

 おれは悟った。こんな小さな学園でさえ秩序を保てないのなら、本物のアウトローの世界は恐ろしい無法地帯なのだろうなと。だからこそ、さまざまなところからのスカウト、もちろん本物のやくざからのものもすべて断って、おれはカタギになろうとしたのだ。

「つまり、あんたは『学園』という閉鎖社会でのみ、ヒーローだったというわけだ」

 酔ったいきおいで、根津サンはずばりとひどいことを言った。さすがにおれがムッとして顔が凶暴になりかけたとき、奇妙な間があいて、「おれはあんた以下だ」と、根津サンがつぶやきはじめた。

「おれは『ヒーロー映画』という架空の世界をつくっていただけだ。現実には何もできやしなかった。だからあんた以下だ。お互い、なりたいものになれぬ者同士だと勝手に親近感を抱いていたが、あんたはおれとは違う。あんたは偉いよ。偉すぎる」

 今度は持ち上げ出した。そう言われると、逆にくすぐったい。

「いや、まあ、そう言われると、ねえ」

 おれは酒が入っていたこともあり、ニヤケ笑いが止まらなかったが、そこに根津サンがとんでもないことを言い出した。

「寒川猟をやろう」

「えっ?」

「だから、寒川猟をやっちまおうと言うんだよ。おれたちは本物のヒーローになるんだ。本物の『ジャスティスビート』にな!」



 木曜日。「クリーニング サクラ」の休日に、おれは根津サンの住むアパートの部屋を訪れた。

 それは、「これがオタクの部屋か」と、あきれを通り越して感心してしまう部屋だった。

 撮影機材と思われるわけのわからない機械と、パソコン関係と思われるさらにわけのわからない機械の間を、毛細血管のように大量のコードが走っている。その間には数本の黒い木製の本棚が置いてあり、中には本や雑誌が無造作にギッシリ詰め込まれていた。この部屋の中心は、すぐわかる、座椅子とパソコンがあるところだ。

 ここが、根津サンのこの部屋での定位置なのだろう。座椅子の周囲には、使い古しのマグカップと、おれが名前の知らないロボットのフィギュアが何体か飾ってあった。

 本棚に入っているのはほとんどが映画関係の書籍だが、片隅にコンビニで売っているような実話誌が積まれた一角があった。

「寒川については、おれなりにいろいろと調べたんだよ。ここに書いてあることが本当かどうかはわからないがな」

 寒川は、「注目のアウトロー」としてたまに実話誌に載ることがあった。根津サンは、それをこまめに収集していたのだ。

「ネットの情報も集めたが、こっちは雑誌の記事以上に玉石混交で何が本当かサッパリわからん。いくつか質問していいか?」

 予想どおり、根津さんはパソコンの前の回転する座椅子に座り、おれはぼろい座布団を用意され、ブリキ製のマグカップに入れたペットボトルのお茶を出され、根津サンにぶしつけに質問された。

 まあ、ネットの情報よりは役に立つだろうと思い、おれの不良ライフにおいて小耳に挟んだ寒川猟情報は、ひととおりしゃべった。

 根津サンは、ウンウンとうなずきながら聞いていた。

「要するに、やつのやっている裏の仕事の情報は、あくまでウワサ程度に流れてきただけなんだな?」

「そりゃそうでしょう。証拠があれば、とっくに逮捕されてるっスよ」

「じゃあ、こいつはどうだ?」

 根津サンがキーボードのどれかのキーを押した。パソコンの画面に、どこかの室内が映し出される。なんだか薄暗いし、画像も不鮮明だ。

 そこに映っていたのは、寒川と佐倉店長だった。

「これは……」

「佐倉店長の自室。数日前の映像だ」

「自室って、彼女の自宅アパートってことっスか?」

「そうだ」

 根津サンはあっさりと言った。

「もしかして、監視カメラ!? こりゃ犯罪じゃないですか!」

 おれはビクついて大声を出した。

「盗聴器も付けてある。以前、引越しの手伝いをしたときに取り付けたんだ。大丈夫、バスとトイレには付けていない。寝室には盗聴器のみだ。彼女は寝室とバスでしか着替えないから、何も観ていない」

「そういう問題じゃねえだろ!」

「『ダークナイト』で、バットマンだって盗聴していたじゃないか。まあ黙って見ていろ」

 根津サンの言うとおり、おれはパソコンのモニターの中の録画映像をじっと眺めた。佐倉店長と寒川猟は、お互いリビングの中で突っ立ったままだった。寒川は右手にゴルフのドライバーを握っていた。張り詰めた空気がモニター越しに漂ってくるようだ。音声はかなり鮮明に聞こえてくる。

「何度も同じことを言わせないでくれ。さあ、あの金はどこにある?」

「だから何度も言ってるでしょ。あなたに言うわけない」

「ふざけるな!」

 ドスーン! とすごい音がして、寒川がドライバーを部屋の中の戸棚に突っ込ませた。遠心力が加わって、戸棚には弾丸のようにドライバーの先端がめり込み、穴を開けた。

 それを見ても、佐倉店長はまゆひとつ動かさなかった。

「もう何度も言ってるだろう。早く金を渡せ!」

 寒川は、明らかに焦っていた。佐倉店長の方が、優位に立っているらしかった。

「よく映画やドラマなんかで、『私がいなくなれば、情報が新聞社に行くように友人に頼んである』みたいなのがあるけど、あれを本当にやろうとしたら、私も苦労したのよ。『友人』がだれなのか突き止められたら終わりだし、私が殺害されるだけならまだしも、金のありかが知りたいあなたは、間違いなく私を拷問にかけるわよね?」

 ずばりと言ってのけた佐倉店長の言葉に、一瞬、寒川はひるんだ。別れてからも、女に手をあげるような男には見られたくないらしかった。

「あ、ああ。間違いないな」

「私を拷問にかけて口を割らせるのに、最短で三十分くらいで済んでしまう。女が、顔に傷でも付けられると脅されればね……。そこで考えたのは、私が金のありかをしゃべってしまってから、それを燃やすなり別のところに移動させるなりの時間がかかればいいということなの。あなたちが金の居場所を突き止めて動き始めたときには、金はもう別のところに行っていればいいのよ」

「そうだったな。つまり……」

「金は海外よ」

 なるほど、佐倉店長が海外の金の隠し場所をしゃべってから、寒川が現地に行くまでにかなりの時間がかかる。その間に、金の管理人が佐倉店長の異変を察知してしまえば、そこでアウトだ。

「おまえが口を割ってから、どこにも連絡できないように監禁し、時間をかせぐことだってできるぜ」

「バカね。『私が定期連絡をしてこない』のが合図になってるのよ。私から規定時間内に連絡がなかったら、その時点でアウト。逆に言えば、私を監禁して、それが発覚するまでの時間を使ってもたどりつけない場所に金はあるということだけどね……。私の代わりに似た女の声で定期連絡をすることも無理ね。秘密の合言葉があるから。では、脅して私にやらせる? それも無理ね。『金を燃やせ』と命ずる合言葉もあるのよ。私がそれを言った段階で、終わりよね。金は燃やされる」

 寒川は、ゴルフクラブをいらだたしげに振り回しながら、負けずに言い返す。

「こっちはこっちで、いろいろと考えているのを忘れるなよ。おまえのたくらみもいつかは必ずほころびができるんだ」

「だったら、今家に入ってこなくてもいいじゃない」

「その態度がイラつくんだよ!」

 寒川は癇癪を起こして、ゴルフクラブでそこらのものをバンバン、壊し始めた。佐倉店長は、それを冷たい目で見つめている。

「金が入ったら、命はないと思えよ」

 捨てゼリフを言って、寒川は部屋を出て行った。

 バン! とドアが閉じる音がすると、佐倉店長は深いため息をついて、へなへなとその場に座り込んだ。

 そこまでの映像だった。

「なんなんスか、こりゃあ」

 おれはいろいろな事実に驚き、あきれた。

 根津サンは冷静に話し始めた。

「寒川は、今でも佐倉店長のアパートに出入りしている。だがそれは元妻に未練があるとかそういうことじゃない。寒川の仲間に、S地区で敵対する不良グループを襲撃して殺害してしまったやつがいる。名前は野木秋一」

「ああ、『野木派』って言われているやつらのリーダーね。でもやつはすでに逮捕されて塀の中なんじゃ?」

 おれはネットニュースか何かで、そのことについては読んでいた。根津サンはうなずいた。

「そう。だが寒川を含む野木の仲間たちは、野木の海外への逃亡資金を用意していた。その金額は一億五千万。そしてその金はどこかに消えてしまって、どこへ行ったと探しているうちに、野木は国内で逮捕されてしまった。この金を横取りしたのが、寒川だと言われていた。だが本当に横取りしたのは、寒川の手口だと見せかけた、佐倉店長なんだ」

「!」

 おれは絶句した。佐倉店長、なかなかやるもんだ。ふだんの優しい接客からは想像もつかない。

「ぜんぶ、盗聴した佐倉店長と寒川との会話からわかったことだけどな。裏は取りようがないんだ」

「だけどそんなヤバい金、カタギの人間が使えないでしょう? 持っててもしょうがないスよねえ?」

 根津サンは、重々しくうなずく。

「佐倉店長が野木の逃亡資金を盗んだ目的は、大金がほしいからじゃなかった。おれも知らなかったが、寒川は店長だけでなく、別れた女性にわざわざ会いに行ってはちょっかいを出すという、異常な性癖を持っている。それは暴力であることもある。死んでしまった女性がいるといううわさもある。離婚後、身の危険を感じた佐倉店長は、野木に寒川を殺害させるために金を横取りしたらしい」

「恐っ!」

 おれは思わずそう叫んでしまった。

「金は、自分が盗んだとわからないように、寒川が殺された後に野木にすぐ戻せばいいと思っていたんだろう。ところが野木は意外にアッサリ逮捕されてしまった。やつが寒川に報復するのは、出所しただいぶ後のことになるだろう。佐倉店長の計算は狂ってしまい、今のような変な緊張関係が、店長と寒川の間に生まれてしまったというわけだ」

「しかしあの佐倉店長の金の隠し場所の話、本当なんスかね?」

「知らん。だが佐倉店長が寒川とのつきあいを通して、協力者を得たことはまったくありえない話ではないな」

 数秒沈黙が続く。

「店長は、部屋に仕掛けられた監視カメラや盗聴器のことは知っているんですか?」

 当然とも言えるおれの質問に根津サンは、「それは知らない。っていうか、明かせるわけがないだろう」と、顔をしかめた。

 一億五千万もの金を海外に持ち出した女が、部屋中の監視カメラや盗聴器に気づかないというのもおかしな話だが、おれは黙っていた。

「ずいぶんややこしいことになってるんですねえ」

「確かに、実にあやういバランスなのが現状だ。このままでは寒川が、店長を殺してしまうようなことはないだろうが、同時に店長が寒川と完全に手を切ることもできない。店長がやつと完全に手を切るには、別の要素が必要だ」

「それで、あれをやれって言うんですか」

「ああ、それで、だ」



 その日は月が路面を照らしていた。すでに路上にはだれもいないほど、夜はふけていた。慣れぬ狭い視界のおれには、そんな光でもありがたい。おれは佐倉店長のアパートに向かっていた。ロングコートの下には、撮影用の「ジャスティスビート」のコスチュームを付けている。顔にはフルフェイスの「ジャスティスマスク」をかぶって、その上にはマスクが見えないようにマフラーを巻いていた。

「これはおれが考え抜いた作戦なんだ。おれが佐倉店長にできるのは、これくらいのことしかない。協力してくれ」

 根津サンはあの日、おれに向かって狭い自室の中で土下座した。根津さんのゴツいからだが、まんじゅうのように丸まった。

「ちょっとちょっと、何やってるんスか! 顔をあげてください!」

 おれはあわてたが、根津サンは顔をあげ、いきなりパソコンが置いてある机の中から 分厚い封筒を取り出しておれに差し出した。

「二百万、入ってる。あんたがトラブったっていう総合格闘技の興行師が、落とし前として二百万円の金を要求したことを、おれは知ってしまったんだよ」

 それを聞いて、おれは驚く。

「まさか、おれの家にも盗聴器を!?」

 それがもし本当だったら、おれも元不良としては根津サンに対して何らかのおとしまえをつけざるを得ない。

「違う違う。『クリーニング サクラ』に電話がかかってきたんだよ。忘れたのか? おれが電話を取り次いだのを」

「だれからの電話を?」

「鮫野勇二、って人だった」

「ああ……」

 おれは黙ってしまった。黒烏学園OBの彼は東京に出てアウトローとなり、興隆しつつある新しい総合格闘技ムーヴメントの中心的存在となった人物である。裏社会ともつながっているため、そういうのとあまり関わりたくないおれとささいなことからトラブルになり、すっかり嫌われて干されてしまったのだ。

「おれが電話に出ると、いきなり『鬼戸タケル、いるか。やつが二百万用意したら許してやる、試合にも出してやる、やつにそう言っとけ』と言ってきたんだ。店の電話にそんなことを話すとは……その後、すぐにあんたに取り次いだんだが」

 確かに鮫野勇二という人はそういうめちゃくちゃなところがあり、それがおれとのトラブルの一因でもあり、おれは二百万をどう工面しようか悩んでいたのだ。

「映画を撮ろうと思ってためていた金だ。でももう、おれには必要ない。これをやるから、おれの最後の『作品』に出演してくれないか? この『作品』を撮ったら、おれは映像業界への未練は断ち切ることにするんだ」

 根津サンは封筒を両手に持って差し出してきた。人間、金には弱い。そのことは前から痛感していたが、遊ぶ金とこの二百万円とは価値が違う。おれはついつい、打算的な表情になってしまった。

「話を聞かせてもらいましょうか」

 おれは古いアパートの二階にある、佐倉店長の部屋の前で、マフラーを脱ぎ、ロングコートを脱いだ。闇の中にフルフェイスのマスク、カーキ色のスーツが現れる。両目は暗闇でオレンジ色に光っている。今のおれは、完全に自主制作映画のヒーロー「ジャスティスビート」の姿をしていた。

「いいか、おれが佐倉店長のいない夜、彼女のアパートに寒川をおびき寄せる。佐倉店長の部屋には数十箇所に高性能の監視カメラと盗聴器が取り付けられている。前にも言ったとおり、バストイレ以外はな。そこで寒川猟をボッコボコのバッキバキにしてほしい。すべてのカメラと盗聴器が、その様子をとらえる。画像と音声データを撮ったら、おれが編集して『ジャスティスビート』と寒川の戦いの動画をネットに流す。それで作戦完了だ」

 佐倉店長の部屋を合鍵で開けるとき、おれは根津サンの説明を思い出していた。

「これはおれにとって最後の映像作品だ。ジャスティスビートが、本物の悪人をぶちのめすんだ。この動画がネットにアップされれば、寒川のアウトローとしてのメンツは丸つぶれになるし、おれたちの正体がわからない以上、恐怖でもうやつが佐倉店長にちょっかいを出すこともないだろう」

「一億五千万の大金を、やつはあきらめることができるんスかね?」

「確かに獄中の野木には申し開きが立たないだろうが、そうなると寒川と野木の間で全面戦争になるだろうな。だが、その方が寒川も、正体不明の敵と戦うよりはマシだろうよ。むしろ、おれたちを野木の差し金だと思う確率も高いしな」

 おれは音がしないようにそおっとドアノブを回す。手袋をはめた指先が、どうもなじまない。

 緊張から来る荒い呼吸で、口の周りが熱くなっている。

 これは、あまり戦いに適した服装ではない。

「これでもアクション用に、動きやすいよう工夫したんだ。伸びる素材を使っているし、防弾、防刃ベストも装着している。通気性は悪いが、三十分以内に決着が付くなら問題はないだろう。首に結んだマフラーがどこかに引っかかったり、相手に利用されたりするようなことのないように気をつけろ。もっとも、思いきり力を入れるとちぎれるようになっているがな。それより……」

「それより?」

「本当に一対一で寒川を倒せるんだろうな?」

 ジャスティスビートのスーツを試しに着用したおれは、根津サンの顔面に、無言で寸止めの右ストレートを見舞った。

 根津サンは、目を見開いて固まったままだった。顔と拳の間は、2センチもなかった。

「わ、わかった。疑って悪かった」

 根津サンはうろたえたが、「違う。左側を見てみろ」おれはマスクの中からくぐもった声を出す。おれが言うとおり根津サンが自分の左側を見ると、ピタリと静止したおれの左足が目に入る。高々と上がった、おれの寸止めハイキックだった。

「あらためて言う、疑って悪かったよ」

 根津サンの顔は、汗でびっしょりになっていた。

 その後も、おれは「ジャスティスビート」としての立ち居振る舞いの指導を、根津サンから受けた。そこにはかなり面倒なものも含まれていた。

「必ず、相手が手を出してきてから反撃してくれ」

「戦いは、打撃中心が望ましい」

「数箇所、カメラの場所を教えておくから、そこで決めポーズをとってほしい」

 相当むずかしい注文だったが、二百万ももらっているため、できるだけ注文に答えようとは思った。

 ドアを開けると、暗闇の中でタバコの火が目に入った。

「やはり罠だったか」

 寒川猟の声だった。やつはすでに来ていて、部屋の真ん中に突っ立ち、一人タバコをくゆらせていたのだ。

 かなりの余裕だ。

 しかし、おれの全身像を見て、驚いたようだった。

「なんだ、正義のヒーローか? いや何者だおまえ? 野木の手下か? しかしなんだってそんな格好をしている?」

 おれは決めポーズをとりながら、くぐもった声で根津サンから指定された「セリフ」を言う。

「悪により改造されたこの肉体で、必ず正義を遂行する! それがジャスティスビートの使命だ!」

 ポーズの流れの中で、壁のスイッチをさりげなく押す。蛍光灯がつき、室内がものすごく明るくなった。他にも数ヶ所、明かりが点ったところがある。これは根津サンが「いい絵」を取るために必須だと言った「照明」だ。一度スイッチを入れたら、切っても消えない仕組みになっているそうだ。あらかじめ、根津サンが仕込んでおいたものだ。

 寒川は光のまぶしさに、眉をしかめた。おれは根津サンの指導どおり、寒川に向かって右手の人差し指を突き出した。

「寒川猟! おまえを倒す!」



「面白い。金の手がかりになりそうだ。おまえをぶちのめして、洗いざらい聞いてやる」

 寒川猟は、むき出しの、梵字のようなタトゥーをびっしり入れた両腕でファイティングポーズをとった。

「やはり、コイツはできる……」

 ジャスティスビートの姿をしたおれも、同じくファイティングポーズをとる。傍らには、以前寒川がゴルフクラブでめちゃめちゃにした戸棚がそのままになっている。

 心なしか、寒川の全身が膨れ上がったように感じた。年齢は三十ちょい過ぎ、おれとはかなり年の差がある。ウェートはたぶん同じくらい。ボクサーだったら三十過ぎた寒川と二十代のおれではおれの方が有利かもしれないが、ケンカは場数が左右する。

 おれと寒川はじりじりとお互いの間合いを詰め、根津サンの命令どおり、やつの左ストレートを自分の左頬で思いきり受けた。来るとわかっているものをわざと受けるのは、かなりの恐怖だった。なにしろ、拳の中に何を仕込んでいても文句は言えないのである。

 激しいマウンティングの世界である不良社会では、なんでもありで、カッコつけていても負けは負け、だからだ。寒川は情報からすると、ステゴロに理解(?)のある方に思えたが、実際にはどうか、わからない。

 フルフェイスの撮影用マスクの口の部分が、やつの拳で軽くひしゃげた。根津サンは、これで反撃しても正当防衛になる、と言っていたが、それ以前に佐倉店長の家に入った段階で、不法侵入なのではないのか。関係ないだろ。

 そんな考えが一瞬脳裏をかすめたが、次の瞬間、おれの中で何かがはじけた。

 ケンカに明け暮れていた日々の感覚が、突如戻ったらしい。

 おれと寒川は、足を止めてすさまじい打ち合いをしていた。

 寒川の拳は、確実におれのゴーグルの部分を狙っていた。一対一で、一度片方の目をやられてしまうと遠近感がつかめなくなり、その時点で大幅に不利になる。武器を持っての戦いの場合は、そこで雌雄が決することもある。

 繰り出されてくるのは、中高一本拳。中指だけを突出させ、折り曲げて関節の部分で突くやり方だ。おれの楕円形のゴーグルの素材が不明なため、それで確実に突こうと思ったのだろう。

 おれはそれを、反射的にすさまじい速度で両手で払いのける。実はこのゴーグルはダミーで、その真下にのぞき穴があるのだが、目を狙われる恐怖に身体が勝手に反応する。

 そして、拳のかたちを変えてきたということはやつが武器を持っていない可能性を大きくする……。

 パンチの乱打から、不意に極端にリーチの長い何かがおれの頭上に振り下ろされてきた。ゴッ、という音がして、それはおれの脳天を直撃した。寒川が背後に隠し持っていた、ゴルフクラブだった。しかも詰まった間合いに合わせて、クラブを短く持っていた。

 パンチの連打は様子見、かつフェイントだったのだ。一撃必殺、こちらが死んでもかまわないというゴルフクラブの使い方だった。

 少しの痛みを感じたが、ダメージは少なかった。フルフェイスのマスクは、かなり頑丈につくったらしい。おれはゴルフクラブを振り下ろしたために生まれた寒川のわずかの隙を利用して、やつの鼻先に思いきり左ストレートを叩き込んだ。

「ぐぬっ」

 寒川はおれのパンチをもろに受け、背中を壁に強く叩き付け、そのままズルズルと座り込みかけた。やつの手から、ゴルフクラブが離れて転がった。

 おれは心の中で、「撮影用とはいえ、防御スーツを着てケンカする」ことの利点を初めて感じていた。防御に関して、余計なことを考えなくていいのだ。スーツの下には防弾・防刃チョッキが仕込まれ、股間には金的攻撃防御用のカップが入っている。

 問題は視界だが、このヘルメットは通常撮影するものよりもずっと大きく外が見えるように工夫されていた。

 このとき、おれの心に余裕が生まれ、部屋の中に仕込まれたという監視カメラの位置も思い出していたが、カメラに移るように相手を殴るのは、残虐に感じてイヤだった。早く決着を付けてしまいたい。

 おれは寒川の胸に、渾身の前蹴りを叩き込もうと、後ろに下がった。

 こういう大仰な技を使えというのも、根津サンの支持だったが、どちらにしろこれで決めるつもりだった。

 壁に背をもたせた寒川は、ちょうど部活のときにやる「空気椅子」のような状態になっていた。鼻血がやつの服を汚していた。戦意を喪失していると判断し、おれはとどめの前蹴りを叩き込もうとした。

 だが予想よりずっと早く、寒川はおれに低いタックルをくらわせてきた。蹴りのタイミングはまったく合わず、おれはタックルをもろに食らってしまった。

(寝技に入りたいのか)

 倒されるのはまずい。なぜまずいかというと、関節技や締め技よりも、馬乗りになられ、ゴルフクラブを拾われて、上から打ち下ろされたら終わりだからである。

 少なくとも、手の一本、足の一本は持っていかれてしまう。

 そうなったら、後は料理のされ放題である。

 かつて「クリーニング サクラ」の前で、片手で少年のえり首をつかんで振り回していた寒川の力は、すさまじいものだった。ウェートはおれとそう変わらないと思うが、やつのタックルの力は強かった。

 やがて、やつはおれを倒そうと思っているのではないことがわかってきた。おれに組み付いたまま、両腕の力で背骨を砕こうとしていたのだ。

 寒川の両腕が、ミリミリと万力のようにおれの身体を締め付けてくる。これはまずい。防弾も防刃も、この締め付けには通用しない。

 おそらく、こいつのケンカの強さの秘密はこの怪力にあるのだろう。やつのうわさの中にレスラーや柔道家が登場するのは、怪力を使って勝って来たからに違いない。

「やっぱりこれがいちばん手っ取り早いよな……。喉でなくても締めればどこでも関係ないからな。鎧を着てたって関係ない。後で疲れるのがイヤで、面倒なときは武器を使うんだが、おまえのようなわけのわからんやつはこれで死んでもらうよ」

「ぐ……ぬ……」

 体中からメキメキと音がしてくるようだった。両腕は空いていたが、ここまで身体をくっつけられるとあまり使いたくない技を使うしかない。以前、タックルしてきた相手の耳たぶを引きちぎったことがあったが、ああいうのはやりたくない。

 それより、こいつは両耳をひきちぎっても離れないかもしれない。

 ジャスティスビート、一巻の終わりか……そう思ったとき、寒川の背後から大声がした。

「寒川の、クズ野郎!!」

 根津サンの声だった。予想外の出来事に、寒川の腕の力がゆるんだ。

 その瞬間、おれは渾身の力でやつを突き飛ばした。やつとおれの間に、再び間合いが生じる。

 おれは、テレビで見た技をお見舞いすることを決意した。

 確か中国拳法の技だった。おれは寒川の左腕に立ち関節を決め、ミリッ、と音がした瞬間にやつの胸を前蹴りで軽く蹴った。寒川は二、散歩あとずさり、よろめいた。

 すかさずおれは寒川に向かってダッシュし、みぞおちにとび蹴りを食らわせた。

 普通なら骨折するほどの重さの鉄パイプを落としてもびくともしない安全靴が、ジャスティスビートの靴に使われていた。その硬さを持った全力のキックである。

 この靴自体が、一種の武器なのだ。

 そして、寒川の「武器」が怪力なら、おれの「武器」は人並みはずれた脚力、ジャンプ力にあったのだ。

「グギャアアーーーーー」

 おれのとび蹴りで寒川は後方にふっとび、窓ガラスをブチ割ってベランダに飛び出してしまった。

 そのまま昏倒してしまっていたが、おれは寒川の脈をとり、死んでいないことを確かめ、やつの身体をかつぎ上げた。病院の前に捨ててくるためだ。こんなクソ野郎でも、死なれてはおれが困る。

「よお、聞こえるか?」

 再び、部屋の同じようなところから声がした。根津サンだった。

「聞こえるよ。カメラと盗聴器だけじゃなく、スピーカーも仕込んであるとはね」

 おれはあきれて言った。小さなスピーカーは、どうやら花瓶の中に入っているようだ。

「これ一つだけだよ。何か役に立つかもしれんと思って、仕込んでおいたのだがこんなことに使えるとは思っていなかった」

「……まあ、お礼は言っとくよ。本人が来てくれれば『ジャスティスビート1号、2号』のそろい踏みでもっと面白くなったのに」

「よせよ、できるわけないだろ」

 おれの身体は緊張が解け、軽口を叩くくらいの精神的余裕ができたが、その代わりに身につけたスーツが一気に重く感じるようになっていた。普通にスイッチを切っても消えない明かりを、根津サンから支持された方法で消し、そのシステムも元に戻し、寒川をかついだまま外に出る。

 そして、部屋の外に置いたマフラーとロングコートを身に着け、そそくさとアパートを後にする。真夜中の路上には酔っ払い一人、いなかった。

 近くの病院の前に寒川を転がし、落ち着いたら再び、顔を覆っているフルフェイスのマスクが気になってきた。窮屈なのだ。数百メートル歩いてから、路上にだれもいないことを確認して、マスクを脱いだ。

 ホッとする。無性にタバコが吸いたくなり、ロングコートのポケットから出して一服した。

 後は、根津サンに後始末を任せるしかない。「奪われた場合、簡単に足がつく」という理由で携帯電話は持たせてもらえなかったので、根津サンには連絡もせずそのまま自分の家に向かって歩く。

 疲れた。

 月は、まだ出ていた。



 根津サンのもくろみは、恐ろしいほどうまくいった。

 「ジャスティスビートVS寒川猟」の映像は、根津サンの入念な編集の後にネットにアップされ、大評判を呼んだ。

 後に、「ジャスティスビート」のスーツは寒川と戦う前に、監督の中村ミキオの工房から盗まれて、被害届が出されていることを知った。むろん、根津サンが盗んだのだが、まさか普通に「貸してくれ」と言ってすんなり借りれるものを、わざわざ鍵を壊して侵入し、根津サンが盗んだとは中村ミキオも、警察も、寒川の仲間も思わなかったらしい。つまり、だれが動画をつくったのかはだれにもわからず、追及の手は我々にまで及んでいない。

 映像の最初と最後には、わざわざジャスティスビート(つまりおれ)が、バイクに乗って登場するところと、去っていくところが挿入されていた。後から撮影したものを入れたのだ。

「本当は映画でヒット・ガールが乗っていた『ドゥカティ 1199 Panigale』を用意したかったんだが、借りるだけでも足がつくのでやめておいたよ。でも、おれの旧車でもそれなりにカッコいいと思わないか?」

 根津サンはその部分について嬉々としてしゃべったが、おれには何のことだかわからない。

 その他の部分も、ドキュメンタリーの迫力を残したままで編集されていることが、わかる者にはわかるのだそうだ。

 ネットには検証サイトまで登場したが、「鋼鉄戦士ジャスティスビート」も、おれ・鬼戸タケルも、ネットに情報なんかほとんどないのだから、いくらネットの野次馬どもがパソコンの前でカチャカチャやったところで何がわかるものでもない。

 野次馬はジャスティスビートの正体の追求にはすぐに飽きて、寒川猟の悪行探しに興味は移っていった。

 寒川は、確かにピタリと「クリーニング サクラ」には来なくなったし、佐倉店長の住むアパートにも来なくなったようだ。

 S地区の繁華街をめぐるアウトロー同士の対立は、今後熾烈をきわめるだろう。だが、それはもうおれたちにとっては別の話である。

「お客さんも途切れたし、ちょっとお茶にしましょうか」

 佐倉店長が、根津サンの話を聞いた後では考えられない優しい声で言ったので、おれも根津サンもお茶をいただくことにした。

 店の奥にパイプ椅子を引っ張り出し、裁縫の作業台にティーカップを乗せて、三人でゆっくりと飲む。

「あの……店長」

「なあに」

 ほんわかした口調で、佐倉店長が聞き返す。本当に、この人が元夫を殺すためにアウトローから一億五千万円盗んだとは思えない。

「なんか、変わったことはありませんでしたか?」

「変わったことねえ……」

 おれと寒川との格闘で、自室はめちゃくちゃになってしまったはずだが、そんなことはおくびにも出さず、

 「別にないわねえ」と言って、佐倉店長はくすりと笑った。

「鋼鉄戦士ジャスティスビート」を知っている彼女が、事件とおれたちとの関係に気づいている可能性は非常に高いが、何も言ってこない。謎だ。

 もちろん、一億五千万円がどこにあるのかも……。

 しかし根津サンは、そんな店長の横顔を見てとても満足そうだった。彼は一生、店長の騎士(ナイト)ででもいるつもりなのだろうか。だがおれにはそんなことを考えているヒマはない。もうすぐ総合格闘技のデビュー戦を控えているのだ。

 興行師の鮫野勇二とは二百万で手打ちになり、おれの公式戦デビューが決定した。それを聞いて、根津サンはわがことのように喜んでくれた。まったく、この人も佐倉店長と同じく、何を考えているのかわからない。

 佐倉店長は、根津サンの中年純情恋心を利用しているのだろうか? 黒烏学園の歴代ナンバーワンリーダーと言われたおれがそんなことを言うのかと思われるかもしれないが、実はいくら考えてもそこがわからないのだ。

 なお、警察にとっても寒川たちにとっても重要な証拠物件であるはずの「ジャスティスビートスーツ」は、クリーニングされて戻ってきたたくさんのスーツにまぎれて、ここ「クリーニング サクラ」のハンガーに、無造作にかかっている。

(了)

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「ヒーローなんていない」って言ったやつ、とにかく相手になってやる 新田五郎 @nittagoro

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