第三話:夕暮れ

 あれは、嘘のように綺麗な夕暮れ時だった。



 一年を何度繰り返しても、あの時の記憶が色褪せてしまっても。あの鮮やかな紅色の空だけは、永遠に忘れないだろう。

 そう、何度でも言おう。


 ────あの時の夕焼けは、これから起こることを皮肉ったかのように美しかった。


「……ごめんね」


 生暖かい風が、音もなくゆっくりと屋上に流れた。

 フェンス越しに、そっと声が掛けられる。女の声だ。

 俺は、そいつのそばにいながら、その顔を見れない。背中合わせになりながら、俺達は『お互いの前』を向く。


 一人は、生きる方へ。

 そしてもう一人は――――死に逝く方へ。


「ごめんね……本当に」

「……お前が謝ることじゃない」

「でも……相川くんは私の事を引き摺っちゃうよね? どんなに素直じゃないことを言おうと、多分、これから一生このことを引き摺ってくれるよね」

「…………」

「だから、ごめんね……こんな死に方で。わざわざ二人の目の前で、見せつけるように死んじゃって」


 どうしてこうなった? 

 何が狂って、こんなことになったんだ? 

 何度でもやり直せる? 

 リセットすればまた元通り? 


 違う。そう簡単なことじゃないんだ。


 バタフライエフェクトは、ムゲンループに無限の可能性を彩る現象。だが、そのあまりに幅の広い可能性故に、生まれる弊害がある。

 何の要素がどう先の展開に絡むのか、ゲームのようにはっきりしていない以上、一度見た結果を確実に回避出来る方法が存在しないのだ。


 あの時、ああしてたら。あそこでこうでなく、そうしてたら。

 そうやって意識的に分岐変更しても、違う経過ルートを辿っても。

 ――――もう一度、こんな結末が待ち受けている可能性が生まれるのだ。


「私は、汚い人間だから。二人に心残りトラウマを作れて、ちょっと嬉しいの。だって、私はずうっと、二人に忘れられずにいられるから」


 ……そんな。

 そんな、ささやかな願いでいいのか。お前は、それだけで満足なのか。

 きっと馬鹿な周囲は、世間は、そしてきっと肉親でさえも。何も知らないまま、これをとある高校生の身勝手な自殺と嗤うだろう。


 そんなお前を見送る奴が……たったの俺だけでいいのか。


「本当、二人に酷いこと言ってるって分かってる。けど……」

「……お前は、夕平よりも底抜けの馬鹿だ」

「それも酷いなあ……」

「酷くない。馬鹿だ。大馬鹿だ。お前が死ぬ必要なんて……全く無いのに。夕平のことも、俺のことも、全部見捨てりゃいいのに」

「…………」

「お前が犠牲になることなんて……ないのに。なんで」


 自己犠牲なんてつまらないもの、今時流行りゃしないってのに。


「二人の犠牲になれるから、私は『飛べる』んだよ。そうじゃなかったら、そんなことする勇気なんて無いよ」

「……そんなもん、勇気どころか無謀ですらないっつの」

「勇気だよ。だって、二人のためにやることだもん」


 そんな言葉を、何てことないように言い切るもんだから、俺はもう何も言えない。


「そう思わなきゃ、やってられないよ」


 ……ああ、そうだな。

 それは確かに、無謀なんて言葉で片付けるにはあまりにももったいなさすぎる。



 お前は、優しいんだ。



「じゃあ、その……逝くね」


 なんて、なんて寂しい言葉。


 やめろよ。

 行くなよ。逝くなよ。

 俺は、まだまだ、言いたいことはいくらでも……。


 くい、と。

 ほんの小さな力で、服の裾が引っ張られた。


 それは、俺の顔を振り向かせるには十分な力だった。


 強い西日で、その顔には影が差している。その顔は、俺からは窺い知れない。


「欲を言えば……何があっても私の事を忘れないで欲しい。やっぱり引き摺ってて欲しい。夕平にも言っておいて。厚かましいお願いだって、思うかもしれないけど。それなら私も、報われるってもんだよ」

「……謙虚だな。そんなんで、いいのか」

「うん」


 でも、分かる。

 分かってしまう。


 ――――その表情は、いつものように柔らかい笑顔を浮かべているのだと。


「……分かった。約束だ。俺は、お前の事を絶対忘れない。……例え世界が変わっても」


 こう言ってやるのが精一杯だった。

 こんな気休めにもならないことしか言えない自分をどこまでも呪った。


「あはは、それは凄いなあ。嬉しいよ、凄く……」


 そう笑って、初めて彼女の方から振り返った。



「……ありがとう」



 その言葉は、耐え切れなくなったかのようにかすかに震えていて。


 彼女の、この世界さんしゅうめでの最後の言葉だった。



◆◆◆



「相川くん?」

「…………」


 ……今のは、夢……。

 随分と昔の夢を見ていた。


 遠い過去の記憶バッドエンド。その時の、夢────。

 あれからしばらくの間、文字通り何も喉を通らなかったし、眠れば必ず俺を苛んだあの悪夢。


 今みたいに、懐かしい過去として受け入れることが出来たのは、それからさらに世界を何巡かしなければならなかった。


 そして、今みたいにこうして、もう一度とあの時の少女――――立花暁と会話出来るようになったのは、この世界に入ってからのことだった。


「今までずっと寝てたの? もうみんな帰っちゃってるよ?」


 暁が、柔らかく微笑む。あの時の笑みも、きっとこんな感じだったはずだ。


「ああ……やっちまったな。もうこんな時間か」


 人っ子一人いない教室で、ずっと机に突っ伏して寝てしまっていたらしい。俺らしくもない。


 というか誰か俺を起こしてくれるヤツはいなかったのかよと。

 ……いなかったんだろうな。この世界では、他のヤツとそんなことしてくれるような交友関係を広げる余裕は無かった。

 そもそも今回の目的は友達作りじゃないし、その気になれば、経験を頼りにいつでもお手軽に出来る。今は、夕平と暁とだけ知り合っていればいい。

 そうすれば、また同じ出来事が起こるはずだ。


「あれ、夕平は? 暁だけか?」

「あ、うん。私今日掃除当番だったから校門で待ち合わせてたんだけど……」

「だけど……?」


 俺が訊くと、暁は小さく肩をすくめた。


「私が行ってもいなかったの。教室にもいないってことは、多分忘れて帰っちゃったね」


 誰だ、アイツはモテるなんて言った奴。

 ……でも実際モテるんだよなあ、何故か本当に。ラノベに出てくる鈍感系主人公ってやつか?


「それにしたって、彼女ほっぽって先に帰るとか……」

「か、彼女!? 違うよ、私、そんなんじゃないからっ」


 わたわたと暁が慌てて手を振る。

 その様は、照れているというよりかは、反応に困っているようにも見えた。


 正直、付き合っててもなんらおかしくないような距離感だと思うが。まさかお互い、そんなこと一度も気にしたこともないなんてことは無い……と思う。

 まあ、訊いてみた方が早いか。


「そうなのか? じゃあ今から付き合ったりとかはしないわけ?」

「しないしない。だって、今までずっと一緒だったんだから。今更付き合ったりなんて」

「えー。キスしたいとか、身体が火照って無性に夕平の身体にむしゃぶりつきたいとか……」

「なんか言い方が生々しい! ゆ、夕平は私にとって弟みたいなもんなんですー! そんな風に見たことなんて一度もありません!」

「んじゃあー……いっそ夕平とCまで行ってみたいとかは?」

「~~~~~~っ!!」

「ははは、初々しい反応だな」


 三周目の時もそうだった。結局こいつらは最後まで、友達以上恋人未満の関係のままで、どこか決定的な一歩を怖がっているかのようにも見えた。

 距離が近づいたと思ったら遠ざかる二人に、見てるこっちがもどかしくなったものだ。


 まあ、今の精神ジジイの俺には、あの時の青臭さが眩しくて仕方ないと思えるようになったってだけの話だが。


「……あ、あれ。怒ったか?」


 少しからかい過ぎてしまっただろうか。頬の赤みはそのままに、その目は言外に俺を咎めるように細められていた。


「別にー……ふんだ。相川くんのばぁーか。エロ親父」

「え、エロ親父ってなあ……」


 あながち間違いじゃないから返答に困る。


「もう知らない。家帰る途中でどぶに足突っ込め」

「ずいぶん可愛らしい悪口だな。……いや、すまんすまん。遊び過ぎちまったな。反応が面白かったからつい」

「面白かったからって、相川くん――――わっ!」


 半ば無意識的に、まだ不満そうだった暁の頭に手が伸びた。

 そして軽く撫で付ける。

 座っていてもそのつむじに届くくらい、相変わらずの小さな背丈だった。

 一体この身体のどこに、あんな事が出来るだけの度胸があるのやら。


「ごめん。もう言わないから、な?」

「……ずるい」


 そんな時だった。

 その手を跳ね除けるわけでもなく、彼女は一言、消え入るような声でそう呟いた。


「え……?」

「ずるい、っていうか……そんな顔されたら、私もう何も言えないよ。今日私達と話してた時だってそう」


 暁なりの言葉が、俺が二人に対して抱えるしこりのような『何か』をうっすらと見抜く。

 俺の様子を介して、その存在に彼女は曖昧ながらも勘付いた、ということだろう。


「……ずっと聞きたかったの。どうして時々、思い出したみたいにそんな顔するの? って」 

「…………」


 彼女の心情は、筆舌に尽くしがたいものだったに違いない。

 この一ヶ月、俺が二人と積極的にかかわった中で、暁自身が俺に感じたこと。その正体を明かすために、常人の理解を超える世界の秘密も語るなんて、俺には出来なくて。 


 不審感というには、それは少し猜疑的過ぎて。

 違和感と呼ぶには、それは少し的確過ぎた。


「相川くんは、夕平と私をどんな風に見てるの? どうして相川くんは……そんな顔してまで、私達と仲良くしてくれてるの?」

「……そんな顔って、どんな顔?」

「…………」


 話を反らすように、暁の問いかけに応えないように、逆に訊き返す。その意図を、もはや隠そうともしなかった。


「教えてくれよ。俺今、どんな顔してた?」


 長い長い沈黙が降り立った。チキンレースでもしているかのように、お互い見つめ合ったまま動かない。

 お互いに違う感情で、目の前の相手を推し量っている。

 言葉にならない会話が、そこにあった。


 やがて、ふっとため息を一つこぼして、観念したかのように暁が静かに言葉を落とした。



「――――……泣いてるように、笑ってる顔」

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