第百十二話:動乱
『フンフン、フン、フフフフーン♪』
その一室に、ご機嫌な鼻歌が響く。
『フンフン、フフーン♪』
耳コピされた音楽を記憶頼りにリズムよく歌いながら、彼は濡れた上半身を冷まし、湯気が上る髪をタオルで拭う。
バスタブから上がったばかりの服をも纏わぬ格好で、ペタペタと歩き回る。
ワンルームの半分ほどを占める広々としたベッドには、二人の女性がいた。どちらも日本人で、歳は彼よりも一回り若そうだが、やや化粧の濃さが目立つ。
彼女らは上下ともに派手な下着姿を晒し、充電のコードを繋げたスマホを弄っていた。
そのうちの一人が、彼に話しかける。
「ね~ぇ、それ何の歌~?」
「ん、これ? 僕の新曲」
男の名前は、リユルド=タイラー。
知る人ぞ知る、世界に羽ばたくアメリカ音楽界の人気シンガーソングライターである。
「後でパソコンに入ってるの聞かせてあげようか。まだどこにも公開してないから、ホントはダメなんだけどね。ま、君らが世界初のお客さんってことで」
「え、マジ? ウソーすごぉ~い!」
ウットリした女の黄色い嬌声に、彼は柔和な笑みを溢した。
────女にもっとモテたい。彼がミュージシャンを志したのは、そんなシンプルな理由だった。
若い頃にそう思い立ち、いたって平凡な大学を辞めて始めた音楽活動が、今や世界に羽ばたくビッグビジネスになる程の大飛躍を遂げることになるとは、人生分からないものだ。
おかげで女に困ることなど全く無くなった。一年の大半が飛行機の中という忙しい日々だが、どこに行こうが誰かは自分を知っており、パブに行けば話のネタは尽きない。
今回初めて来日した彼だが、この見知らぬ土地でも自分を知り、こうして初対面相手にホテルにも誘える。それの何と凄まじいことか。
『……物事ってのは何事もシンプルが一番さ。だから一度このイヤ~な世界を、全部リセットしてやるよ』
シンプルな動機。そしてシンプルな欲望。
それこそ自分がミュージシャンとして成功した秘訣だと思っている。
人はよく、やりたいことや目的に幾らでも理由をこねくり回し、難しく考えようとする。そして結局、やろうともせず諦めるか、実行しようとしても自分で自分の首を絞めるのだ。
彼からしたら馬鹿な話だ。人はもっと、簡単に生きていけるはずなのに。
人間は、頭が良くなり過ぎたんだと思う。迷わず一本に引き絞った意志は、本来リスクなど度外視できる程強固なものだというのに。
何事も刹那的に、享楽的に生きるべきだ。にも関わらず、いかに自分の人生を安全にするか、そのことばかりの考えが美徳だと世の中に蔓延しすぎた。
人生は百年にも満たないのに、その間に考えられるどん底やリスクなど、その百年の時間に比べてなんとちっぽけなことか。しかしその生き方を、人は忘れてしまったのだろうか。
その点では────『あの少年』は自分と同じ人種だと思った。
自分のなすべき事しか見ていない。自分の若かりし頃を思い出させる、思想の燃える目をしていた。
何物にも囚われていないし、何者をも寄せ付けない、孤高の目。
面白そうだと思った。
ただそれだけの理由で、表の顔『リユルド=タイラー』を駆使し、彼の助けになろうと思ったのだ。そういう風に、彼は生きてきた。
こうあるべきだ、と彼の思う理想像がそこにあった。だから今、ここにいる。
そして自分と同じように『あの少年』の下に付く者が、他にも何人かいるというのを、後で知った。
自分なぞ比べるべくもない、一体何を見たらああなるのか想像もつかない『人としての話し合いが通じない
そんな奴らと入り混じって、自分がこの危ない火遊びに興じていられるのも────『ムゲンループ』とやらが一体何なのか、彼自身よく理解していなかったが────要は、何をしても一年前に時間が遡り、誰にも咎められることはないのだという話だったからである。
『ベイベベイベベイベ♪ カモンカモン、ヘイカモーン♪』
どうせ元に戻るのであれば。何をしてもいいのであれば────下積み時代に培ったプログラムの勉強を活かし、一つ『プログラマーとしてやってみたかったこと』を、彼は実行する。
『────リセット・トゥー・ユー♪』
まるでネットショッピングでもするかのような、そんな気軽さで。
持参したノートパソコンのエンターキーを、指で軽やかに叩いた。
放たれた悪意の矛先は────
◆◆◆
午前九時二十二分。
祈は、車に揺られている間も、口を重く閉ざし物思いに耽っていた。
今までの全ての記憶を足掛かりに、頭の中の数式は踊り、パズルのように形取ろうと組み合わさっていく。
恐れがないと言えば、嘘になる。助かったとはいえ、命を狙われたこと。殺されかけたこと。
ぽっかりと小さく空いた、自分を殺すための銃口は、確かに祈の頭の片隅に残っている。祈はそれを忘れられない。
「……ホテルシミューズっての、嬢ちゃん知ってっか? ここいらじゃそこそこ名が知れてんだが……ありゃウチの系列でな。あそこまで行きゃ、そう手出しは出来んだろーぜ」
落ち着きなく指で窓枠を叩く同乗人の男────清道が、果たして気遣いか退屈しのぎか、そんな祈に話しかけた。
あの後すぐ、警察に事情聴取に連れていかれそうになるより前に祈を迎えに来たのだが、その際のことを思い出す。
大宮グループ最高権力者、大宮清道の力は凄まじく、彼のたった一声が、群がる警官達はあっさりと祈から離れ、方々へと散らしたのだ。
「手筈通り、こっからお前さんの身柄は大宮グループが保護する。信頼出来るSP達を呼び寄せてあるから、少なくとも、警察よりゃ安全なはずだぜ」
「ありがとうございます。私のためにここまで」
「乗り掛かった船だ、礼は最後まで面倒見切ってからにしな」
ことも無さげに、そう鼻を鳴らす清道であるが、そんな警察組織にも通じる彼の権力は、先程見せた通り、拓二をたやすく取り押さえることに成功した。
恐らくは、こと日本においてこれ以上無い『番犬』────その実力の程を見せつけた結果であった。
「……とまあ、ここまではマクシミリアンの奴と話した通りなわけだが」
「…………」
「ひとまず作戦は無事成功、とか────まさかそんな呑気なこと、考えちゃいねえよな?」
「ええ……まあ」
祈はあっさり頷き、口を開いて、
「────嫌にチョロすぎる」
「────あっけなさすぎます」
同時に言い放った二人の結論が、それぞれの思考の合致を示すはっきりとした響きを残した。
清道はそれを聞いて、満足げにニヤリと笑みを浮かべ、こう話を続けた。
「俺ぁ商売人として、自分のために色んな
「…………」
「嬢ちゃんは、どうしてそう分かった? 曲がりなりにも、これはお前が思い付いた策だろ?」
「……笑ってたんです」
「あん?」
「警察に捕まって連行されるあの時……チラッと見えた口元が、緩んでたんです。アレはとても、一巻の終わりという顔ではなくて。まるで、『まだまだこれからだぞ』、と言ってるようでした」
祈の目は、しかとその一瞬を捉えた。
楽しさが堪らず表情に出たような、あの顔。連行されているその間でさえ、今にも飛びかかられそうな錯覚を抱いた。
そんな、予感のような祈の言葉は────まさに今この瞬間裏付けられることとなるわけだが、この時の彼女らは、そんなことを知る由も無い。
「……えれえ奴に目ェ付けられたモンだな、嬢ちゃんも。……おい、聞いてただろ、蔵石?」
盛大なため息を吐き、運転を続ける健馬を呼ぶ。
清道は険しい顔を崩さずに、後ろに流れていく車窓の外に視線を落としていた。
「細心の注意を払え。いつ何が起こるか────」
「社長」
と、その拍子に健馬が遮る。
しかししばらく、その後に続く言葉はなかった。やがて焦れた清道が、運転席をドンと蹴り出し、怪訝な視線を向ける。
「ンだよ、蔵石。人のこと呼んどいてよ」
急かされる返答を、それでも健馬は発しなかった。
その様子に、清道が再度口を開いた────その時、
「社長には……確かお母上が、こちらでお住まいでいらっしゃいましたよね?」
「あ?」
脈絡の無い話し振りに、頓狂な声を清道が上げるも、健馬は語り続ける。
しかしそれは、あまり響きの無い声だった。壊れたラジオのノイズのように、それは会話ではなく、世間話よりも意味の無い言葉の羅列のようだった。
「以前一度だけ、グループ創立記念祝賀会場の場で、遠くの方から拝見しました。とても品の良さそうな方で……ああいうのが貴婦人と言うんだろうなって、思いました」
信号とともに、車が停まった。
その時に、後部座席の祈と清道にチラリと振り返ってこう言った。
「ではもし────例えば社長宛に、お母上の身の危険を内容にした脅迫が届いたら……貴方は、脅迫者相手に従いますか? それとも、いつもの仕事のように肉親を見捨てますか?」
その顔は────なんとも言えない、困った眉を顰めさせた苦笑いだった。
「……蔵、石?」
「私は────出来ませんでした。だって、実の親なんですよ……? きっと誰でも、私と同じことをします。だって……また、同じように……『あの子』の時と同じように、身寄りの誰かの死に顔を見にだけ、故郷に帰ってくるなんて……あんな辛い思いは、もう……堪らなく嫌だった……」
『あの子』という言葉に、祈はハッとする。
立花暁……彼もまた失った者が自分達と同一であること、自分と同じ立場……いやむしろ、自分などよりも感傷に触れるものが大きいだろうことが、今更にして思い出された。
「……社長の経営手腕を、数年程の僅かな時間ながらお側で見続けてきました。世間じゃ冷酷非道な成金だとか、色々言われてるのも知ってて、一時はそんな貴方を疑ったこともあって……ハハ、最後まで私はそんな恩知らず、物知らずな若僧でしたが、私は……俺は、本当に尊敬してました。本当に」
「おい、おい……何言ってんだ。蔵石、お前……」
「……まさか」
────祈は、油断は一切しなかった。
信じる筋書きのまま、己のすべきことを見据え、相手を見切ったつもりだった。
「話そう話そうと、ずっと思っていました。ですが……もし社長であればどちらを選択するのか……その本心を、浅はかな私に推し量ることはついぞ出来ませんでした。だから────……」
しかし────だからこそもっと深く、広く考えるべきだった。
脅威は、より残忍に、より狡猾に己の身に迫って来ているということを。
『例えどんな手を使っても』────その意味を、自分がまだ理解しきれていなかったということを。
「……申し訳ありません、社長。柳月さんも。……こんなことに、なってしまって」
健馬は最後にそう謝ってから、ふっと笑いかけた。
「拾ってもらったご恩、死んでも忘れません。『さようなら』、大宮社長」
「蔵石────ッッ」
清道の言葉は、そこで途切れた。
────突如として、その出来事は起こった。
目の前の十字路を横切って走り抜ける車列に、その車はぐんと踏み出し、突っ込んだ。
そしてそのうちの一台と破壊的な音と煙を上げて、十字の真ん中で二台は衝突────次の刹那、重々しい地響きと共に、激しく爆ぜた。
「爆破、確認……」
その一部始終を目撃した雑多の混乱の中に、そんな微かな呟きが溶けて消えた。
◆◆◆
人間の弱点とは、目である。
神経が集中し、そのくせ骨にも肉にも守られていない。一度塞がれてしまえば、動くことすらままならないほど致命的であるのに関わらず、だ。
────そう、あの千夜川桜季ですら、そのご多聞には洩れなかった。
もっともあの時、目を奪っても仕留めきれなかったのはひとえに彼女が色々と規格外すぎたからではあるが、しかし勝因として大きく貢献したのは間違いない。
拓二はその経験から、強く確信していた。
「ぐあああ……ああ、ああああ……!!」
「め、目ぇ……目ぇぇえ……!」
目を封じれば、人はこんなにも容易く無力化されるということ。
────そう、まさにこんな風に。
耐え難い痛みに悶え、口の端から泡を吹くのも厭わずに地べたに這いつくばる無様を晒す。
「こ、こいつ……っ! お前、い、一体何をした!?」
「さあ? ────そら、動くなよ」
まだ立っている警官の男に向けて、腕を振るう。
白い左腕が、包帯の端切れと錠の鎖が揺れるとともに空を扇いだ。
警官を殴り付けるというのではなく、拳はただただ宙を空振る。たったそれだけ。
しかし────
「ぐ、ぐぁあああああ!?」
しかしその間もなく、男は悲鳴をあげ、目を抑えたその手の指と指の間からは鮮血が流れ出した。
「……言っても、アンタには分からないよ」
そう言う拓二はやはりその場から一歩も動いておらず、自身の足元で血の涙を流しのたうち回る彼らを、上から眺めているだけだ。
触れることも近付くことも一切せず、拓二はこの場に駆け付けた応援人員である十四、五人の警察を相手取り、蹴散らした。
腕を振るったというその動作に、その光景の答えががある。
もっと言えば、何重にも包帯を巻きつけているその左腕。連行していた警官達も、迂闊か止む無しか、包帯の隙間に挟まれた何本もの仕込み針には気付かなかった。
針はダーツの矢のように改良され、数メートルの射程において真っ直ぐ飛ぶようになっている。
もちろん狙って飛ばすには相当の訓練が必要であり────ましてや目を当てようとするなど、よっぽどのコントロールが要される。
だがそこは考えられていて、目に真っ直ぐ直撃しなかったとしても問題は無い。一度当たれば身体の自由を奪い、筋弛緩を誘発させる神経毒が針の先端に塗り込められている。
まさに拓二の経験の全てが生きた、拓二流の暗器。
しかしこれを暗器として実戦で巧みに操れる、現在の拓二の実力の程は想像に余りあるものがある。
ムゲンループでの研磨は、運動神経や頭の中での感覚こそ鍛えあげられても、身体そのものは伴わない。
であるから今までの拓二は言うなれば、身体が頭に追いつけていない、『不完全な状態』だった。
しかしこの一年でのイギリス事件、桜季との死闘という過酷な苦境を乗り越えたことで、飛躍的に心身の同調が行われ、『思い通りに動かない』という感覚の齟齬も少なくなっていった。
やり直し、積み重ねてきた経験の集大成こそ、ここにいる相川拓二である。
何十年と知れぬ試行錯誤を内に貯めこんだ、謂わば完成形としての『相川拓二』の真価に辿り着こうとしつつあった。
────そう、今の拓二はまさに
それは今までの彼自分自身と比べても、圧倒的に。
「う、ぐううぅ……」
「っ……」
その時、拓二の足首を手が掴んだ。
その力は弱々しく、目を潰されて倒れていた警官の一人が、当てもなく手を伸ばした先に偶然に引っ掛かったらしかった。
果たしてそれは、一人間として誰かに助けを求めたものだったのか、それとも警官として凶悪犯を逃すまいという最後の意地だったのか。
それはもはや、誰にも分からない。
『────汚い手でご主人に触るな、下郎』
〝次の瞬間には、その血塗れの手をニーナが思い切り踏み潰したからだ〟。
ばきりばきりと折れる骨の音が伝わる。獣のような絶叫が木霊する。
続けざまにニーナは銃把を握り締め、一発、そしてまた一発とその警官の頭に血の花を咲かせた。
『この、この、この、この』
『おいよせ。もう死んでる』
既に事切れた屍が、容赦なく弾を埋め込まれていく度に跳ねる。
その追い打ちを流石に見兼ねた拓二が、ニーナを制した。そこでようやく彼女は引き金から指を離す。
「……あらかた片付けたか……」
拓二もそれ以上彼女に何か言うこともなく、出来上がった周りの血だまりを見回した。
通行人も住民も、姿を現さない。連発する銃声に逃げ惑う声や家の中の押し殺した悲鳴が聞こえた気はするが、向かってこようなどという無謀は流石に誰も犯さなかった。
「っと……『もしもし?』」
しかしそろそろ大きく移動を始めなければ、と拓二が考えていたところに丁度、ニーナから手渡され装着した通信機から合図の発信を受け取った。
拓二は、しばし通信を続け、
『……あっちも成功だ。いのりを乗せた車はもう動かない。逃げる足を失ってる今が好機か……』
『ご主人』
しかしニーナによって、それ以上の言葉は封じられた。
『……いるよ。ちょっと強そうなのが』
そう告げると、明後日の方向に銃を突きつけ────
「みんなさあ。戦争っていうのが何なのか、まるで分かってないんだよね」
────否、ニーナと銃が睨む矛先から、日本人と引けを取らない流暢な日本語が飛び出した。
「戦争っていうのはね、『相手の大将格を削ぐこと』さ。直接的にでも精神的にでも、どっちでもいい。軍を動かす、たった少数のトップ。兵士を動かす核となるエネルギー。それを容赦なく断つことさ。だって結局、それこそが終いに訪れる結果なんだからね」
銃口が狙っていると『奴』も分かっていながら、一向に構うことなく朗々と語り続ける。
「だったら、今の我々が最も討ちやすいであろう君が、陣形に戻ろうとしている今のこのチャンスを誰がみすみす見逃すと思う?」
まるでここにいるのが当然と言うように、神出鬼没に。
拓二達の眼前にふらりと現れたのは、二人の見知った人物だった。『彼ら』もまた同様に、牽制としての銃をこちらに向けていた。
「────会えてとっても嬉しいよ、弟くん?」
「マクシミリアン……!!」
ネブリナファミリー・アンダーボスこと、マクシミリアン。
そしてそのネブリナの中でも指折りの武神、ジェウロ=ルッチア。
────ネブリナにおける二大
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます