第百十話:三月三十一日
三月三十一日。午前九時。
青々とした空が真上に開いた、心地の良い快晴だった。朝特有の、まだぼやけたような薄白い朝日が差し覗いていた。
新年度を迎える前日であり、末日でもある今日一日。
ある者は新たに巡る学校の始業に想いを馳せ、
ある者は新天地への先駆けとし、
ある者は代わり映えすることのない流れる時の一部を怠惰に過ごす季節。
思い思いに今を生きる誰もが、この先の未来が到来することがないことを知らない。
誰も────今日この日が、この世界の最後の一日であることを知らない。
「……もう、春なんですね」
頭上を薫風が通り抜ける中、祈は、なびく髪を軽く抑えて呟く。
春にしては、と言うよりも早春を告げる最後の冷たい季節風が、肌をよぎった。
しかし、日を浴びた穏やかな空気は、流れる微香に押し流れることなく纏わっている。桜前線が迫る明るい日差しは、まさに陽気という言葉を体現したかのようだった。
それらの様子からは、これから起こる出来事の予兆を一切感じさせない。
────思えば自分も、本来明日は高校生になるはずだった。
と言ってもエレベーター式に清上学園の高等部の四年生として繰り上がるだけで、受験も感慨も何も無いが。
しかしそれでも、夢を見ざるを得ない。きっと今頃自分は、中学生の『後輩』から高校生の『同年代』になったお祝いとして満面の笑みの夕平や暁達に近くのファミレスに誘われてから、訳も分からない内に奢りだと言う料理の品を食べ、それから────
そんな幸せな未来が、本当はあったかもしれない。
そんな何でもない日常が、理想ではない現実になっていたかもしれない。
「立花先輩のお墓には行かれましたか? とても良いところでしたよ。お墓を良いところというのも変な話ですが……とても日当たりの良い場所で、きっと安らかに過ごされている……と思います」
祈の言葉は続く。
合間に深呼吸のような、春の空気を取り込んだ深い息を吐いて、思い出したかのように言う。
「……あ、そうです。最近、夕平さんがやっとお墓参りに足を運ばれたんですよ。辛そうでしたが……ちゃんと見てきたようでした」
そう言うと祈は、にこりと小さな笑みらしきものを浮かべた。
彼女はそれを、かつてある人物に指摘されたことがある。
彼女特有の、緊張の時に浮かべるぎこちなく作られたその表情を。
「────……拓二さん」
祈が視線を流した先に────相川拓二は佇んでいた。
桜の蕾だか梅の芽だかの、開く前の花弁が重くなって落ちた小枝が散乱している地面を踏みしめて。
その薄い唇に細長いタバコを噛ませ、祈をじっと静かに見据えて。
ここは、かつて二人が初めて会った場所────まだムゲンループの住人としての会話さえ無かった公園だ。
町中にある割には大きな公園で、毎年四月初旬には地域を問わず花見客で賑わい、小さいながら中の通り道には屋台も並ぶ。
環境保全の名目で設けられた、自然豊かな市営公園と言った風体だった。
両者の距離は決して遠くない。
しかし、その両者の隔たりは、目に見えるものよりも遥かに遠くて険しい。
「もう……戻れないのですか……? もうこれしかないんですか?」
「…………」
拓二は嘘が少ない人間だ。常に彼は彼なりの筋を通し、いつも違えなかった。
そして三月三十一日の今日、宣言通りに、彼ら二人はこうしてここで対峙している。
「こんな……こんな事しか出来ないんですか。立花先輩のために、殺し合いなんてことしか私達は……っ」
こんな自分達の殺し合いを、暁は望まない────と言ってしまうのは、拓二の言う通り、自分のしたことを棚に上げた浅ましい詭弁だ。
暁は、死んだのだから。それは暁自身の言葉でないから。当然死人に直接聞けるはずのない言葉を、さも本人を代弁したかのように自分が言い募るのは、滑稽な芝居文句にもなりはしない。
だからその手の口説は、拓二には届かない。それは分かっている。
しかし、それでも。
こんな殺し合いの先で、その後もし暁が正しく救われたとして────そのことを彼女本人は知ることすらないのは、身の上を想像するとあまりにもおぞましく、そしてもの哀れに過ぎる。
「……戻れるさ」
冷ややかで低い声が返ってきた。
その手には、先ほどまで口を付けていた吸い口を挟み、指で細やかに弄んでいた。
「いや……俺が元に戻してやるんだ。この一年間であったことなんて、初めから無かったんだよ。暁が死んだなんてことも、千夜川なんて奴のことも……お前のことも。全部、ただの夢なんだ」
「拓二さん……」
「夢なら、早く覚めないとな。俺には、やることがある……」
届かない。届かない。
拓二はもう、こことは違う場所を見ているのだ。
ムゲンループという歪を生き続けた彼にとって、自分も────そして今ある世界も、既に見切りをつけた、切り捨てるべき
やり直すなどという現実逃避が叶う世界で。
あったことを忘れてしまえるこの世界で。
拓二は、さも当然というようにここにあるもの全てを否定する。
そうして彼は生きてきた。
ここにいる彼は、祈も誰も知らない様々な物を得て、そして失うというサイクルを繰り返して生きてきたのだ。
長い月日を、孤独に生きてきたのだ。
「…………」
「しかし、分からないな……どうしてお前は、暁の死を甘んじて受け入れようとする? 暁を死の運命から救おうとする俺を、何故認めようとしない?」
長年の月日によって矯正され熟されたその価値観は、同じものを見ているようでまるで違う。
人とムゲンループの住人の、決定的な差。人生を真の意味でやり直せないと知っている者と、一からやり直せると完全に思い込んでいる者の違い。
どちらが正しいのか、もはや判別もつかないこの現状で、それでも祈は自分が思うままに前者を選ぶ。
拓二は、何か間違えている────そのハッキリとした答えを未だ見つけられないまま。
「それじゃまるで、暁が死んでいて欲しいと思ってるみたいじゃないか」
「そうは言ってません……ですが、夕平さんは挫折から、少しだけ前を向きました。次は、貴方の番で……」
「『夕平さん』、ねぇ……ハハァン」
拓二の口元がぐにゃりと歪む。ヤニの付着した黄色い歯が、ちらりと覗いた。
「お前、夕平となんかあったか?」
「っ……!?」
唐突な言葉に、祈の目が瞠る。
拓二はかつての彼女のやり取りから、その動揺を目敏く見逃さない。今度は嫌な笑みでなく愉快そうな笑い声を上げた。その時だけは、どこか以前の拓二を思わせる、明るげで爽やかな姿を彷彿とさせた。
「それくらい見りゃ分かる。はは、なるほど。自分がもう一度暁と顔を合わせるのが、そんなに後ろ暗いか」
「そ、れは……それは、関係ない……っ! そんなわけ……っ、私はそんなつもりじゃ……」
「フン、お前が今まで信じて説いてきた正義とやらも、どうやら随分とくすんで見えるぞ?」
利を得たとばかりに、拓二はここぞというその饒舌を披露していく。
「お前自身、とっくにそれに気付いてるはずだ。だからお前はここに来た。自分の正当性を求めにな」
「……違います」
心を読み透かしたような、知ったようなその口は、否定する祈の様子を嘲笑うようにまとわりついて離さない。
柔らかな真綿で締め付けるように、静かに穏やかに祈の耳を劈く。
「『もう戻れないのか』と、さっきお前は訊いたな。でも分かってるんだろう。本当に戻りたいのは、自分の方なのだと。本当に許せないと思っているのは……目的を見失ってるのは、俺ではなく自分自身なんだとな」
「……違い、ます……」
「お前は孤独で、ずっと癒されない。自分の主張や愚かさを誰にも責められさえしない。醜いと罵られもしない。────正しいと、誰からも慰めてくれない。訳も分からなくなったさもしい自分を見てくれる、認めてくれる明白な『線引き』が欲しいから、お前は」
「────違う!!」
ついに祈は声を荒げた。
どこかで小鳥が飛び立つ音がした。その後は、少しだけしんと空気が止まった。拓二の声も止まった。
出来ることなら大声だけでなく、霧を霧散させるように手で払いのける仕草でもしてやりたかった。聞こえてしまう耳を覆ってしまいたかった。
そして拓二はまるで何事もなかったかのように、こう続けた。
「……お前も俺ももう、真っ当に暁を想って何か物を言える立場にないんだ。〝同じ穴のムジナ、さ〟。ご立派な高説を垂れ込むお立ち台から降りて、やましい正義を喚き合うしかない、惨めな成れの果て。それが俺達だ」
「…………」
「断言する。お前に俺は止められないよ、いのり」
悔しいことに、そうかもしれないと思っている自分がいる。
拓二の言葉は、神経毒だ。じわりじわりと染み込んで、気付いた頃には全身を巡っている。
言うこと全てが事実であると思わない。そうではないと信じている。
が、それならどこまでが虚言でどこまでが認めざるを得ない部分なのか。
一理あると認めてしまったせいで、確かに自分の中にある信念と
これこそが拓二の真価であり、本領。人の心理につけ込み惑わす老練巧みな口八丁こそ、彼独自の持つ才覚なのである。
「……なあ、見えるか? いのり」
「……?」
そして、祈が混乱覚めやらぬまま、拓二が再度口を開く。
さらにこれ以上に揺さぶる気かと身構えたが────
「お前の後ろ……すぐそこに、千夜川がいるぞ。あいつもお前の肩を叩いて、お前のことを呼んでる。おいでおいでと、手招きしてる……」
そして指の間でまだ煙を燻らせるタバコを、再び口に付けた。
それは、何やら思っていたのとは違う、打って変わって突拍子も無ければ脈絡も無い、支離滅裂な言葉だった。
意図が理解出来ない。後ろに注意を逸らすための暗喩かと思えば、別に気になるような物や見間違うような物は無かった。
拓二は、ニタニタと不気味に目を笑みの形で緩ませたまま動かない。口元から手を離すと、一度身体に取り込んだ煙を大きく吐いた。
「……拓二さん。そんなものはいません、千夜川桜季は死にました、もうここにはいません」
「いるさそこに。ほら……今、笑ったぞ」
拓二はもう一度、同じことを繰り返す。
「……拓二さん」
祈が名前を呼びかけても、返ってくる反応は鈍い。
よくよく見ると、その瞳は、どこか別のところを見ているかのように虚ろ気で────
「拓二さん……先ほどから吸ってる『それ』……何ですか」
祈は、そこでとある物に気付いた。
拓二が今も口に咥えて紫煙を吐く、祈も先ほどまでずっとタバコだと思っていた、その『物』。
気付いて、そして────ゾッとした。
「────っ、拓二さん!! どうか目を覚ましてください!! 貴方は……!!」
「お前こそ、暁を本当に想うのなら。────どうかここで死んでくれよ」
堪らず叫んだ祈を、拓二が迎える。
それは、いつの間に手元に引き抜いていたのか。タバコもどきを手にしていた右手ではなく、その逆。
包帯で巻かれた白い左手に、黒い塊が宿っている。
点のように小さく、奥深くまで真っ暗なその穿孔が、祈を真っ直ぐに射竦めていた。
笑みを解き、拓二は冷淡なまでに告げる。
「柳月祈……お前となんか、出会わなきゃよかったよ────」
次の瞬間、一発の乾いた銃声が辺りに木霊した。
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