第百五話:狂瀾

『じき離陸いたします。日本に忘れ物はございませんかな? エレンお嬢様』


 細長で不気味な面相を引っ提げている男────グーバ=ウェルシュが、丁寧な物腰で尋ねかけた。

 その矛先に、不機嫌が見て取れる顔で座席のシートベルトに固定されているエレンの姿があった。


『……お姉様はどこ? それにお兄様……タクジは? どうなったの?』


 普段に比較して冷ややかな口調で話すエレンの態度には、突然に帰国の便に連れ込まれたという現状に対する不満だけで無く、話者に対する露骨な毛嫌い・嫌悪感からなるものであるのは傍から見ても伝わるものだった。


 エレンは、今生きているネブリナの人間の中でこの男のことを最も忌み嫌っていた。『生きている中で』というのも、彼女の機嫌を損ねた者は大抵の場合彼女の手によって殺されているので。


 こうして改まって面識を交わすのは初だが、父マクシミリアンと血の掟を結んだというその肩書きさえなければと顔を合わせる度思う。

 毒のような男だ。少量なら利にもなるが、同時にそれ以上の害ばかり生み出すような、そんなイメージ。 老練巧みなその物腰の奥に秘めた邪な気配を、エレンの直感は敏感に掴み取っていた。


 さて、そんな空気感を意にも介していない様子で、グーバは平然と答える。


『フム、ご安心めされよ。メリーお嬢様はもうこちらへお送りさせていただいている次第。フライトの時間までには間に合うでしょう』

『お兄様はどうなったと聞いてるの』


 憮然とした声を隠そうともしないで撥ね付けるエレン。しかしやはり、グーバは氷のようなその表情をまるで変えない。

 困ったようにも怒ったようにも感じられない様子で顎を撫で、


『……さあて、かの少年はまだ行方がとんと掴めておりませんが……まあいずれウチの者が捕らえるでしょう。搭乗便こそご姉妹とは別口になってしまうかもしれませんがね』

『使えない人。ジェウロならもっと手際よくやるわ』

『面目次第も』


 大の大人が年端もいかない少女に恭順の一礼を払うその姿はどうにも可笑しな光景であったが、それがそのまま、彼らの関係性を表している。

 と言うよりも、ネブリナに属する人間の多くが、彼女の言うことは聞かなければならない。それだけエレンは上位なのだ。諌めることが出来るのは、それこそジェウロくらいのものだろう。

 そのジェウロも今は、ネブリナ家を取り巻く警戒態勢に駆り出され、代役としてこのグーバが迎えに来たという経緯があった。


『ですが必ず、あやつはこちらの手元に舞い戻りましょう。。これは運命めいた因果と奇妙奇天烈かつ煩雑数奇な宿命によって、そうなるよう決められており、その手筈が整っておるのです。問題は一つもありません』

『……?』


 何か今、引っかかる言い回しがあったような気がする。

 エレンがいくら視線をぶつけても、血の気のない顔がそこにあるだけだ。


『が、今なおネブリナの者の捜索の手を免れているとなると……ともすれば彼にはいか何か、やり残したことがあるのやもしれませんな。フフフ、ククッ……』


 髑髏は、不気味に掠れた笑い声を上げる。

 この後起こる事態を、愉快に見下ろすかのように。


『……お兄様』


 雲の多い夜空を背景に、空港の光が灯る席の傍の小窓のガラスには、憂わしげに不安げな自分の表情が映りこんでいた。



◆◆◆



「…………」


 しんと静まった、見晴らしの良い空き地。揺れる枯れ葉と枝の音がさざめく。

 何時ぞやの雨露はとうに空に溶け行って、肌寒い木枯らしが乾いた夜風を届けている。


「いのりちゃん、夕平先輩、そして……暁先輩」


 しかし、その声はまるで深い虚淵に小石を投げ入れた時のように重厚的に響いて残った。

 緊張とも険悪とも取れない感情が、両者間に粘り濁る。風の冷たさも、澄んだ夜の帳も今は何も思い入れられない。


 ただ静かだと感じられた。世界中で生きているのは自分達だけだと錯覚してしまいそうなくらいに。


「この数ヶ月……拓二先輩がいない間、色々と私なんかのこと気を遣ってくれたよね」

「……ええ。桧作先輩も立花先輩も、本気で貴方を気に掛けていました」

「みんな、本当に優しくて。そうだ、後から聞いたんだけど、兄貴があたしのこと言ってくれてたんだよね? あたし、そのこと聞いた時、本当に嬉しかったよ」


 琴羽は真に感情のこもった声で語る。

 少なくともそこに、隠し事や裏のようなものは祈には感じられない。

 本当に二人のことを感謝し、嬉しそうに微笑みを浮かべていた。


「辛いことはあったけど、それでもみんながいたから楽しかった。人を見るのはやっぱり怖いけど、それでも頑張れた。……また友達が出来たって、そう思えた」


 その話し振りだけ見ると、取り留めのない世間話をしている時と何ら変わらない。


「カラオケ、楽しかったよね。暁先輩、流石音楽祭で歌っただけあって上手でさ」


 彼女は紡ぐ。


「文化祭委員になるって言った時、いのりちゃん、心配してくれたよね。電話で相談してくれて……」


 あった日常の思い出と、それに救われたことを。


「音楽祭、夕平先輩も暁先輩もカッコよかったよね。ジャカラン団、複数票あったらきっと入れてたもん」


 それに対する、確かで誠実な自分の思いの丈を。


「みんな、あたしのお友達。いのりちゃんと、夕平先輩と暁先輩……みんな大好きだよ」

「なら……どうして……!」


 思わず祈が、一歩踏みしめる。踏まれた草花が、かさりと音を立てた。

 目の前の琴羽は、ゆっくりと首を横に振った。


「でも……でもね」


 一段強く、衣服がたなびく程の風が吹いた。

 ざああというその風音で、続く声は紛れてしまいそうだったが。

 しかし、祈の耳ははっきりと一言を聞き取った。



「────それでもあたし、そんな数ヶ月よりもずっと、拓二先輩の方が大事だった。大事だって思っちゃった」



「え……?」

「みんなといればいる程、拓二先輩は私の全てだったんだって気付かされてしまう……あの人がいないと、自分が結局一人なんだって思わされちゃう」


 琴羽は、祈のことなどまるで忘れてしまったかのように、うっとりとした陶酔的な饒舌を披露していく。


「ううん、大事っていうか……もう必要不可欠なんだと思う。あたしを最初に見てくれたのは、拓二先輩だった。あたしと同じの、でもあたしよりも強くてかっこいい、素敵なあたしの王子様。あたしの根本に、どうしても先輩の姿がある。あの人は私の光で、空気で、音なんだよ。あたしの世界は、あの人の存在無しじゃ耐えられないよ」


 にへら、と恋をする乙女と見紛わん笑み。その可愛らしいえくぼが通る頰には、ほのかな紅色が差していた。


「あたし……あたしね、いのりちゃん」


 それが返って、祈の胸の奥に理性で抑え込まれ澱んでいた戦慄と不快感を掬い上げる。

 今この場この状況でするべき表情とはあまりにもかけ離れていて、目の前の琴羽が自分と同じ人間なのか、もしや同じ形をした異形のモノなのではないかとさえ思えてきたのだ。


「あの手紙を下駄箱に入れた時も、音楽祭が始まった時も……その時は、本気で殺すつもりなんて無かったんだよ」


 信じてもらえないだろうけど、と言い挟んでから琴羽は話した。


「でも、あの時、暁先輩が舞台に立ったあの瞬間────。醜くて、悍ましくて、あたしを怖がらせる機械ぶったいだったからさー」


 そうして再び、彼女は笑った。


「だから、思い出とか罪の意識とか、全部ぶっ飛んじゃったあ。あはは」

「────貴方のやったことは……っ!」


 かあと頭に血が昇るという比喩表現を、その時祈は生まれて初めて体感した。

 声を荒げてから、掴みかかろうとせんがために足を差し出そうとした。

 が、すんでのところで踏み止まる。

 下手に動けば逃げられるかもしれない、逃げられたら両者の運動能力差ではまず追いかけられないと、頭の片隅の理性が己の衝動を阻んだのだ。


 今なお冷静に働くその頭脳が────今はただひたすら鬱陶しく感じた。

 自分は今、怒りをぶつけなければならないのに。


 そして何より自分が、目の前の友達だった裏切り者を、我も忘れて罵倒し滅茶苦茶にしてやりたいのに。


「許されることでは、ありません……! 貴方のせいで、残された人達がどれだけ悲しんでいるか……! どれだけたくさんの人達が苦しんでいるか……その大きさを分かっているのですか!?」


 唾を飛ばし、滅多なことで出ないような声量で祈は怒鳴った。

 琴羽は少しばかり目を丸くした。そして、何か感じ入るものがあったのか、物を咀嚼するように何度も頷いて言った。


「……あたし、悪い子なんだよね。うん、きっとそうきっとそう……あたしが殺したのは機械じゃなくて人だったから……人を殺して捕まるから。だから、悪いのはあたし」


 それは、ぶつぶつと呟くような、自分に言い聞かせているような調子だったが、やがてパッと顔を持ち上げさせて、祈に言った。


──── ?」

「な……何言って」

「見捨てないでくれるんだよ、こんなあたしのこと! 拓二先輩は、あたしを見てくれるんだよ! 人殺しなんかして馬鹿だなって、怒られるかもしれないけど、それでも最後は笑って許してくれる……!」


 ────そんなわけがない。

 暁の死は拓二にとって人生を賭す程に重要なものであり、それは長い年月で凝り固まった強迫観念だ。

 きっと琴羽など、それと比べれてしまえば取るに足らない。前提からしておかしいのだ。


 琴羽の論理は、倒錯しきっている。

 自分が認められていると、特別なのだと、愛されているのだと信じ切って揺るがない。


 自分の理想像を勝手に拓二に押し当てて、自分の行いを正当化しようとしているのか。


 狂っている。それが率直な感想だった。


「……こんな、奴に」


 しかし何故、暁なのか。暁でなくてはいけなかったのか。それをまだ琴羽は答えていない。

 こんな凶行に及んだ直接の動機を聞くためだけに、ここに彼女を連れてきたのだ。まだ、そのことについて訊かなければならない。


 だが彼女なりの根拠など、もはや耳に入れたくなかった。分かりたくもなかった。

 いやもう分かる必要など無い。理解に頭を回すだけ馬鹿らしい。


 ただただ今は、憎らしい。恨めしい。

 この手でその細い首を絞め付けてやりたい。そのまま出来る限り罵倒で彼女を賤しめてやりたい。


 ────こんな奴に、暁は……!


「絶対に、許さない……!」


 暁の遺族と比べてもそう変わらないであろう激しい情動の迸りのまま、琴羽を睨んだ。

 まだまだ語り尽くせないとばかりに、彼女は目を伏せ取りつかれたように笑い続けている。その女の子らしく、かつては自分も少しだけ羨ましいと感じたその笑顔も、今はそんなことも思い出したくない程に醜く見えた。


「あたしの、あたしの先輩はね────」


 と、その時。


 上で祈が思っていたことを代役したかの如く、その柔らかな首筋には、青白い人の手の指が食い込んでいた。


 途端、琴羽の表情がさっと変わる。ぎちぎち、ぎちぎちという音がこちらまで届いてきそうだ。

 その手の甲にはよく見ると歪に手当てが施されており、剥がれかけた絆創膏から覗く傷口はとても痛々しいものであったが、まるで意に介さず琴羽のその咽頭に、声帯に、気管に皮膚の上から絡みついていく。

 あまりにも不意に渾身の力が込められたせいか、抵抗する間もなかった。見る見るうちに琴羽の顔が苦渋一色に染まり、生命の危機に瀕していることが遠目でも伝わった。


「あッ……が……!」

「……ここだろうと思った。誰にも会話が聞かれることがないくらい人気が無くて、そして何より」


 喉を潰したかのような、ぞっとするほど低いしゃがれた男の声が響いた。

 見れば琴羽の背後……命を奪うことだけが目的の、殺意が形となったかのような手指がぐんと伸びている。


 その宵闇の中から、ぼうっとその男の正体が露わとなった。

 そこにいるのは、普段の彼とは似ても似つかぬ、生気をすっかり失った拓二の姿だった。



「────ここで、俺とお前は出会ったんだ」



 琴羽の苦悶の喘ぎ声が、より険しいものへと変化した。


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