第百四話:accident murder

『……ハイ、これでおしまい』


 互いに落ち着いて、メリーと拓二は居間に場所を移した。ダイニングテーブルに収まる椅子を二つ取り出し、並んで座っている。


 拓二はずっと魂でも抜かれたようにメリーに身を預け、どうにでもなれとばかりに引っ張られていたが。

 自暴の末の手と額の生え際は、血の量の割りにまだ安堵できる範囲内の傷の深さだった。

 細かく無数に切った手は、汚れを流して絆創膏を当てられ、頭にはその傷口を抑えたガーゼに、上からぐるりと家庭用の細長く薄い包帯が応急処置として巻きついていた。


 右手の傷とその手当、そして反対には肩までとぐろを巻く包帯と、その姿は不恰好だ。

 しかし、メリーのような素人の応急処置で足りる程度で済んだのは、ある種幸運だったのだろう。


『血、もう止まった? 他に怪我したとことかない?』


 しかしそんな治療の間もやはり、拓二はなすがままで、未だ自棄の中に意識が囚われているのが見受けられた。

 怪我は大したものでもないのに、放っておけば今にもばたりと倒れてしまいそうだ。その弱々しさ、痛々しさは見ているだけでも心苦しい。


 拓二は、くずおれそうな細い声で自嘲気味な笑みを含めて呟く。


『……そう言えば……お前の方が年上だったっけな』

『ええ実はそうなんですよー、少しは敬いなさいよね弟クン』


 そう軽口を叩きながらも、その口調は羽根のように軽く柔らかい。

 ひとまず反応を見せてくれたことへの安堵と緊張の解れ、そして拓二に対する労わりが合わさった、優しい口調だった。


『言っとくけどね、ここに来たのはホントたまたまなんだなんからね! たまたま、イノリに教えてもらったから……ホント次はないわよ、まったく!』


 しかし気恥ずかしさからか、その気もすぐ引いて、若干本調子を取り戻したような言い方に戻った。


『ていうか今アンタが死んで、誰のためになるっての。余計悲しむ人が増えるだけじゃない、バカ』

『……俺は』

『そりゃ、大事な人を悲しむことは大事よ。でもね……』


 打ちひしがれている拓二に、メリーが諭す言葉を重ねていく。


『タクジは生真面目すぎるのよ。だってアンタは精一杯やった。命張ってあの子を助けようとした。これ以上なんて、どうしようもなかったの。今回のことに関しては、責任なんて取れるわけない。アンタは……』

『……違う!』


 拓二は、喉の枯れた声で荒んだ。


『無意味になっちまうんだ……! 俺のこれまでが、生きてきた意味が、全部、もう全部無くなっちまうんだ!』

『タクジ……』

『俺は、俺だけが、俺でないと……』


 どうして、と口をつく疑問の言葉を、メリーは何とか抑えた。


 どうしてここまで。何がそこまで己を駆り立てる。


 もっと人生を容易く生きられる優れた力や頭脳があるのに、ありもしない固執と自責の念に取り憑かれ、自由な身の振り方を見失っている。

 人が何かを忘れること、逃げて楽になること、自分の生き方に折り合いをつけること。

 生きる上でどうしても避けられない様々な『諦め』の手段を拓二は持ち合わせていないのだ。


 それはもはや、真性の狂気だ。

 彼にとって、暁という存在は生き甲斐か、はたまた呪いなのか。拓二自身、判別出来ているのだろうか。


『っとにもう……バカねアンタは。ほんと大バカ』


 きっと、拓二に今の自分の声は届かない。

 それが分かってしまう。


『アンタは、変わった奴よ。大人でも知らないことを知ってる癖に、子供でも知ってるようなことを知らない。例えば、私が……アンタと同じ日本人だったりしたら、それとも本当にアンタのお姉ちゃんだったなら、アンタにそれを教えられたのかな……?』


 ぼうぼうの髪に手を突っ込み、クシャクシャと傷に触れないように撫でる。


 それでも拓二はやはり、何も言わない。


『……ねえ、やっぱりあんまりよ。こんな事件、酷すぎるもの。何か色々言ったけど、正直私だって同じ気持ち。神様にいくら祈っても、どうしていいか分かんない……』

「…………」

『タクジ、あたし達もうイギリスに帰るわ。でももしアンタがここにいたかったら……あたしが父さんを説得してあげる。エレンにも協力してもらって、そしたら……』


 と、メリーの言葉は、そこで阻まれることになる。


『……今、なんつった?』


 喉の潰れたガラガラ声はそのままに。

 髪を掻き回すメリーの手を掴む。ぐいと、逃がさないと言わんばかりに。


『た……タクジ?』

『「事件」って……言ったな』

『え?』


 萎れていた顔を、ここで初めて持ち上げる。

 その目は最後の最後、末の末でようやく希望を見つけたかのように生気を取り戻し、死を前に足掻く動物の生存本能に近い光が、獰猛に瞬いていた。


────(accident)murder


 メリーは、自分でも無意識のうちに失言を漏らしてしまっていたのだ。


 暁の死が、事故の弾みではなく確かな誰かの意図を以てのことであると。

 そしてそのことを、拓二も知らないそのことを、誰かがメリーに教えたのだと。


 拓二は見逃さない。ともすれば揚げ足取りとも取れる重箱の隅をつつくような、メリーのほんの僅かに見せた隙を。

 彼に渦巻く狂的な執念が、そうさせているのだ。


『え、え? あ、あたしそんなこと言ってな────ヒッ!?』


 椅子の倒れる音が響く。

 拓二の手が、激しい力でメリーの肩を握り締めていた。


『か、勘違いよ……っ! アンタ、また変なこと考えてして……ニュアンスとか……ほら、ね? 聞き間違えとか、まあそんなこともあるとは思うけど? ホラ、いいから離して……』

『言えよ』


 メリーの華奢な肩に置かれた手に力が込められる。その強さに、驚きの顔で見上げる。


『た、頼む……このままお前を、どうこうしたくはないんだ……意味分かるか? 分かるよな? 

『え、あ……あたし……』


 本気とは、果たして何か。

 痛めつけてでも問い質すということか、それとも────


 ────


 正気ともとれぬ目からは、それすらやり得ると感じさせる危うさがあった。

 異常だ。明らかに普段の拓二ではない。

 メリーはそうした拓二の殺気に気圧され、恐怖した。拓二に殺されるかもしれないからではない、そんな拓二の姿を目に焼き付けてしまうかもしれないことに恐怖した。


 思わず、口が動く。

 

『その……聞いたの。アカツキが、音楽祭前に脅迫されてたって』

『脅迫……!?』


 メリーの口から語られたことは、拓二にとっては初耳のことであり、彼の顔は著しい衝撃を露わにした。


『練習帰りのアカツキ達が下駄箱の中に、手紙が入れられてたのを見つけてたらしいわ……音楽祭に出るなって。あの男の子が、イノリに相談してて……』


 拓二は、「嘘だろ」と何度も何度も日本語で繰り返すばかりだ。

 その不安定な様子を見ていると、何か自分がとんでもないことをしているような、取り返しのつかないことの最中にいるような、今になってそんな感覚をメリーは抱きつつあった。


『で、でもただのイタズラかもしれないし……』

『おい……おい! それをお前は、誰から聞いた!?』

『えっ、アカツキのお葬式で……イノリと、アカツキの従兄の人が話してるのを聞いたの。それで……』


 もうメリーの言葉は耳に入らないようで、拓二はメリーを雑に離し、立ち上がる。メリーは明確な殺意に呑まれ、金縛りにあったように動けない。


「────クソッ!!」


 故意的に隠されてきた、一つの事実。

 それは、あまりに桁外れのものだ。天地がひっくり返った。

 暁の死は事故だったとそれまで信じてきた一つの出来事が、たったその情報一つで覆った。


 彼は、たどり着いてしまったのだ。

 暁が死んだのではなく、『誰かに』殺されたのだということ。



 つまりはこの感情の持って行き場の存在のことも────〝そしてさらに、その犯人の正体にも気付いてしまったのだ〟。



『ちょっとタクジ!? どこ行くの!?』


 腰を抜かしてしまったメリーの制止の声を歯牙に掛けることなく、拓二は日の沈んだ家の外へと飛び出した。


 その、向かう先は────……


 

◆◆◆



「────今のご時世、警察というのも馬鹿ではありません」



 祈は『ある人物』と向かい合い、何事か話しかけていた。

 その相手は、何も言わずに黙って彼女の言葉を聞いている。



「警察は最初から、事故の線なんて考えていませんよ。現場である体育館の捜査が今も続いているのが、その証拠に他なりません。素人の工作で騙されてくれるのは、お話の中だけです」



 一段ずつ階段を昇るようにゆっくりと、祈は言葉を紡ぐ。諭すように語りかけていく。



「……連日の捜査はもう間もなく、全てを明らかにするでしょう。手掛かりと痕跡から、真相に辿り着くのにもそう時間も掛からないはずです」



 人気は無い。

 二人だけの空間を妨げる者、二人の会話を聞く者は今ここには、無い。



「だから……そうなる前にどうしても聞きたいんです。貴方の口から、直接」



 ぐっと唇を噛んで口をつぐみ、そして、鉛を飲み込んだような息苦しさの中、祈は告げた。



「どうして……どうして、立花先輩を殺したのですか────



 ────悲劇の連鎖は加速し、留まることを知らない。

 破滅バッドエンドへの運命の歯車は、音も無く静かに回り始めた。


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