第八十六話:再会

『機械』という形容には、やや語弊がある。


 しかし、悍ましく、忌むべき『それ』に対し、琴羽の持つ語彙量からは、そう呼ばざるを得なかったのだ。


 例えば骨や血管の部分には、すげ替えたように細長い鉄筋とコードがびっしりと生え揃い、絡まり、動作する度にギチギチと耳障りな音を立てて擦れる。


 例えばその『骨』には、常に何か布切れのような物がこびりついている。動いたり風でたなびくそれを、琴羽は最初何なのか見当が付かなかった。


 が、今はその正体を知っている。


『骨』の隙間から覗く内臓と思しき部位には、ぽっかりと空いた空洞に脈動する歯車が埋め込まれているのだが、その様子はどこまでも醜い。

 有機物の肉が、無機物の歯車にこびり付き巻き込まれていく様は、不愉快という言葉では有り余る。


 言い表すなら、彼らは人ではない。『人間以下の機械のような何か』なのだ。肝心な部分を機械に任せた、無感動で無気力なナマモノ。

 その姿が一体何の意味を果たしているのか、琴羽には分からない。


 だが、しかし、嗚呼。

 こんな訳の分からない化け物共に囲まれ、晒され、取り残され、ここにいられるのも……人としての適応なのか、自己が狂気に陥っているのか。



 ────人も機械も関係ない、ちゃんと外に出て、普通に学校に行って……今まで通りに喋れとは言わない、せめて受け答えは出来るようになれ。



 いや、違う。

 自分には、言葉がある。『あの人』の残した、まるで魔法のような響きが、気がいかれそうになるのを食い止めている。

 だから、その通りにしてきた。必死に、懸命に、盲目的に。


 でも────会いたい。

 あの人に会いたい。

 狂おしいほど────いや、狂ってしまいそうなほど、その思いは募るばかりだ。


 理屈も理由もかなぐり捨てて、そうなってしまうのだ。

 自分でも可笑しいくらいに、求めてしまっているのだ。


 この狂ってしまった世界で、唯一の希望である『彼』に。



◆◆◆



「うあっ……!」


 日没間近の薄暗い日に焼けた路地に、小さな揉め事が起きていた。

 思い切り突き飛ばされた夕平が、背中に地面をしたたかに打ち付けた。持っていた学生鞄の中から、筆記用具やその他もろもろが弾け散る。


「ゆ、夕平っ!」


 事態に慌てた暁が、悲鳴に近い声を上げる。


「や、やめてください! 夕平は、怪我が治ったばかりで……!」


 暁達の前には、数人のいかにもロクでもなさそうな男女が見下ろしていた。

 暁達よりも年上か、それともその厳ついファッションや厚い化粧でそう見せているのか区別はつかなかったが、少なくとも衆目に見せびらかすように必要以上に自身を着飾った風だった。


「やめてください、だってよぉ~」

「キャハハ、うっざー」

「やめてくださいはコッチのセリフなんだよなあ?」


 ニヤニヤと嗜虐的な笑みがぶつけられるまま、暁にはそれでも声を上げる他なす術もなかった。

 

「オラ、謝れよ。────そこでプルプル震えてる嬢ちゃんよぉ」


 そしてピアスをぶら下げた、集団のリーダー格らしい男が指を差した────


「うっ……ううああ……」


 ────何も見ないように塞ぎ込み、人目も忘れてうずくまる琴羽に向けて。


 それは、ほんの数分前のこと。改めて語るのも無用な、なんてことないことが発端だった。

 カラオケ帰りの夕平と暁と琴羽が、それぞれ違う方向の家路に足を向けようとした時だった。


 不注意だった。

 前を先導するように歩いていた琴羽が、二人と会話するために後ろ歩きをしていたせいで、その進行方向が見えてなかったのだ。

 あ、と夕平達が言うには遅く、通りがかりにぶつかってしまった琴羽の身体は、気持ち大仰にすっころんだ。


 それだけならば事実大したことではないが────問題は、『よりによって琴羽がぶつかってしまった』ということ。

 そして厄介なことには、その相手が『普段から揚げ足取りに声の大きい輩』だということだった。


「つーか、いきなりぶつかってきて悲鳴あげられたのはコッチだぜコッチぃ!! 人のことバケモンみたいにさぁ……メーヨキソンじゃねえのかオイ!」

「それは……」


 暁が声を詰まらせ、反論に躊躇った。

 口撃に不慣れな彼女には、あからさまに相手の悪意と嘲りが聞き取れていても、どうしようも出来ないでいた。


 事実、ぶつかったのはこちらで、その後の対応も悪かった。 

 その際の琴羽の金切り声が、ここまで大ごとになってしまった理由の一つだろう。会社終わりや夕飯仕込みの主婦、放課後の学生まで、幅広く人目を集めてしまった。


 そんな中で、普通ぶつかっただけではあり得ない強い絶叫が響き渡った。


「いいからなんか言えよオラァ! こっちも暇じゃあねーんだよ、とっととシャザイしろシャザイぃ!!」

「でっ、でも……!」


 だがしかし、琴羽は苦しんでいる。その様子は尋常ではない。

 男達の威圧的な目、そして周りの胡散臭げな目。この場の全てが今、悪目立ちしている自分達に注がれていることが分かる。────当然、そのうちの一人である琴羽にも。


 以前、琴羽が人と話せなくなって引きこもっていたこと、そして清上祭での出来事を暁は話に聞いていた。

 そして今、琴羽は無理にでも、立ち直ろうとしている。自分達と仲良くなって、いつもの自分を必死に振る舞ってひたむきに頑張ろうとしていることを知っている。


 しかしこのままでは、そんな琴羽の事情を何も知らない人間に、その機会すら奪われてしまう。


 暁は、生来内気な人間である。人の目をよく気にするし、今見たく大勢に注目されるのを好まない。

 だが、それでも────そんな自分のことなどよりも、友達だけは守ってあげなくては、と暁は奮起していた。


 相手が自分達よりも数が多く恐ろしげでも、それでもとにかく戦おうと、声を上げようとした。



「────すんませんっした!」


 

 と、そんな時、夕平がそれを遮った。


 転がされたはずの彼は、気付けば暁達の一歩前に出ていた。女友達二人を庇うかのように。

 そして、擦りむいた肘から血が垂れ流れても気にせず────


 大勢の公衆の面前も構わないとばかりにあまりに突飛な行動に絶句し、暁は喉元まで出かけていた音を引っ込めてしまった。

 そんなことに一切構わず、夕平は続けてこう言葉を紡ぐ。


「この子、ちょっと人見知りでして……つい、驚いてしまったんだと思うんすよ。なもんで、気分悪いのはスンマセンけど勘弁してもらえません?」


 それは極端に男達にへりくだった、顔色をうかがうような言葉遣いだった。


「ゆ、夕平……!」

「ああ? んだよこいつ、土下座してるよ」

「うっわ、だっせー……」


 本来謝ることのない夕平のその情けない格好に、暁もチンピラも若干の困惑を見せ、特に目の前の連中はつまらないとばかりに醒めきった様子で


「ヘタレ男~」

「こんなんと一緒の女の子らマジかわいそー☆」


 ツレの女も、一緒になってクスクスと意地悪そうに笑う。夕平は、その間ピクリともしなかった。

 ピクリともせず、許しを請う格好のまま、じっと彼らを見上げていた。


「……チッ、つまんねー。もういい、行くぞ」


 ピアス男が、唾を吐き捨てすっと踵を返す。

 その仲間達は、え、と素っ頓狂な疑問の声をあげる。


「あ? おい、もういいのかよ……」

「いい。人多いし、なんかサめたわ」


 その一言に、他の囲っていたギャルや不良達は合点のいかない顔を見合わせながらも、ぞろぞろ後を続いていく。

 内一人か二人は、消化不良とばかりに夕平達を睨みつけながらも、大人しく従っていた。


「…………」


 ────そして、彼らは知らない。


 そんな一部始終を、そしてとりあえず収まった場に残された三人を、関わらないよう遠目にしていた周囲の有象無象とはさらに遠くから、じいと静観している者がいたことを。



◆◆◆



「と、トラブル……?」


 最初に細波が、清道の言葉に反応し、困惑と疑問が混ざった様子で答えた。


「と、言うよりそもそも、……?」


 主題から遠ざかってしまう質問でもあったが、しかし確かに聞き捨てならない疑問でもあった。


「『監視』……ということですか」


 しかし、その問いには清道の代わりと言ったように祈が返した。それも、恐ろしく不吉な言葉で。


「流石、理解が早いねえ」

「監視……!? ま、まさか!」


 睨んだ先の、皮肉げに嘯く清道は、特別感情の無い様子で頬杖をつきながら、二人の視線を迎えた。


「……言っとくがこれに関しちゃ、完全な善意だ。桧作夕平、立花暁、そしてお前ら二人……『あの日』を知る奴らに、今まで護衛を付けていた。謂わば黒幕としての後始末だな」

「な、護衛……? 話が、見えねえよ……?」

「…………」


 身の回りに、知らず知らずのうちに自分を見る目があったことに狼狽する細波と、物言わず黙ったまま続きを促す祈。

 それぞれの反応を前に、清道は澄ましたようにこう語った。


「『あの日』を経験したお前らに、いつどんな『悪い手』が伸びるか分からん。あれは、マフィアが一枚噛んでた事件だったからな。あれから数ヶ月……お前らが安全に過ごせるよう保険を張ってたってこった」

「そ、そう良いように言われても……」

「お前がよくやってることだろ、探偵よ」

「うぐぐ……」


 もっともな清道の突っ込みに、言葉を詰まらせる。

 

 しかし例え保護という名目があったとしても、自分の生活が第三者に丸見えだったという事実、そして探偵という立場ながら、まるでそのことに気付かなかったという事実に複雑な心持ちで表情を歪ませていた。


「……では、先ほどの電話は」

「いや、違う。トラブルっつったろ? ただガラの悪い奴らに絡まれただけらしい。もう既にいなくなったってよ」


 その言葉にも、祈は顎に添えた手を離さず、じっと考え込む。


 数十秒の頭の働く音のする沈黙の後、


「……そうです、尾崎先輩……尾崎琴羽はその場にいましたか?」

「そいつは俺よりお前の方がよく知ってんじゃねえのか?」

「…………」


 またしても、黙考。

 しかし、今度はそう長い時間を要さなかった。


「尾崎先輩が、心配です……────大宮社長」


 立ち上がりざま、祈はぺこりと一礼をした。


「本日はお忙しいところ、貴重なお話ありがとうございました。まだまだお聞きしたい点は山ほどありますが、今日はここで失礼します。また後日、お願いします」

「ああはいはい、じゃあな」


 清道はと言うと、ひらひらと手を泳がせ、すっかりおざなりな態度であったが。


「細波さん、行きましょう」

「あ、ああ。……でも、もういいのか?」

「まったく良くありませんが……今を放っておけません。特に状況を鑑みるに、尾崎先輩は……」


 と、細波を連れ立ち、店を後にしようとした。


「ああそうだ」


 その時、清道が何かを思いついたような声を、二人の背中に掛けた。


 そして、振り返った祈と細波に、重々しく口を開いた。


「せっかく会えたんだ。最後に、これだけ言っておくがな────」



◆◆◆



「なあおい、なんで俺らが行かなきゃなんねかったんだよ」


 人気のない高架下の空間に、数人の人影がたむろしていた。

 定期的に電車が通る度に、鉄道の軋轢音によって音が掻き消え、日暮れの夜道よりも日の当たらない陰の場所。立ち入り禁止の背の高いフェンスで囲まれただけの、何があるでもない無益な空き地、その支柱には色とりどりに描き殴られたカラースプレーの落書きが、物悲しく虚勢を張っていた。


「こそこそ逃げるみたいにさあ……もっと遊べたろー? あのガキが連れてる女ども、どっちも上玉だったのによぉ」

「え? あんな女の子らに欲情してんの?」

「ヒヒッ、ロリコンかよてめー」

「ヤリチンきんもー☆」

「うっせえぞブス共!! 胃の中吐かされてーか!」


 ぎゃあぎゃあと中身のない悪態しか吐けない男をよそに、他の男が軽い口調でへらへらと話しかける。


「んで、結局何よ。ポリでもいたん?」

「あいつ、ずっと見てやがった」

「はあ?」


 対しピアス男は、重々しくこう続けた。

 見たものを振り返りながら、じっくりと吟味する。


「あの夕平とか言うガキだよ。土下座して、額擦り付けといて……目だけ、ずっとこっち向いてやがった。ありゃあやる気だったな」


 あの時一瞬交錯した、夕平という少年の目が、何故か頭から離れない。

 あれは怖じ気や屈服などのような弱い感情ではなく、立ち向かおうとする強い目。


 とても喧嘩慣れしているようには見えなかった。女二人をはべらせた、どこにでもいるような高校生だと思っていた。

 だが、あの目は────────そんな『何か』を内々に秘めた、力強い目だった。


 上手くは言えない。だが少なくとも、今まで見てきた小突けばすぐ竦むカモとは、まるで別物の視線だった。


「やる気? 何が?」

「気のせいじゃね?」

「なになに、何の話☆?」

「知らね」


 何も知らない他の者は、その言葉に何か感じる様子もなく、興味なさげに口々に言い被せていく。

 どうやら、この中で中心である彼以外、誰一人として夕平に同じような印象を受けなかったらしい。


「……ま、いい。隠れ蓑にしてた『|腐垢AZ』も、何でか知ってる奴ら行方知れずで、あんま好き勝手やれなくなっちまったしな。しょっぺーがひとまずこれが今日の戦果だな」


 そう言って、男がポケットから取り出したのは財布だった。

 猫の絵があしらってある、二つ折りの財布。〝ぶつかった際にこっそりと抜き取ったものだった〟。


 そう、彼らは、この近辺でスリを常習としていた。わざとぶつかって、恫喝し、うやむやにして逃げる。手口としてはたったそれだけを繰り返し、ここ周辺で小遣い稼ぎをしているカツアゲ集団だった。

 が、中の金にそこまで期待しているわけでもない。

 

「まああのキチガイ女の方……尾崎琴羽、だってよ。後で好きにしていいぞ」

「うぇ、あのうっせー奴? メンドクセー、あんなん見てくれだけの地雷じゃねえか」

「上玉なんだろ? ヤリ捨てするだけのくせに文句言ってんじゃねえよ」


 身勝手で醜い欲望を膨らませ、下卑た笑い声がその彼らの縄張りに響き渡る。


「女子高生なんざ、車ん中積んで口塞げば大人しくもなんだろ。少しくらいなら痛い目遭わせてやっても」


 ────その時だった。



「────よおっ、久しぶり!」



 突然、場違いに明るく底抜けに朗らかな声が掛けられる。

 突拍子の無い、


「あ? なんだおま────ぇぴっ」


 そして。

 電車が通過する音に合わせて、こきゅ、と小気味のいい音を鳴らし────あっとも言わせぬわずか一瞬、その首が半回転したかと思うと、男はどさりと倒れ伏した。


「……は?」


 倒れ込む仲間の身体に、何が起こったのか分からないと呆気に取られるその他大勢。

 それも、彼はこの面子の中で一番荒事に長けた実力者であったのだから、無理もない。


「……本来なら、お前らみたいな調子に乗った小僧どもなんざ見逃してやるところなんだけどな。選んだ相手が悪かった」


 そう言って影は、突然のことに思考を鈍らせている彼らの方に、ぬらりと矛先を向けた。


 そしてその数分間、高架下に響く叫び声と悲鳴は電車の走る音に測ったようにかき消され、そして電車がその真上の線路を通り過ぎた頃には────全てが終わっていた。



「────どうやら、痛い目見るのはお前らの方みたいだな」



◆◆◆



「桧作先輩、立花先輩!」

「いのりちゃん、細波さんも、来てくれたか」


 夜になり、街灯が明るい公園に向かった祈と細波は、夕平達を見つけ、見知った顔同士で集まった。

 急いで電話を掛け、尋ねた夕平達の位置は、清道と別れた喫茶店から案外近く、走って五分とかからず落ち合う場所に辿り着いた。


 ある程度の事情は聞いた。

 夕平と暁は、どうやら特に怪我らしい怪我はしていないようで、そこはひとまず安心できることだった。


 しかし、一番問題なのは────…… 


「それで、どうですか? 具合は……」

「それが……」


 夕平と暁は顔色を変え、心配そうな沈痛な面持ちで顔を見合わせた。

 やがて暁が指差した方向には、ベンチに座っている琴羽がいるのだが、様子がおかしい。


「…………」

「尾崎……先輩?」


 近付いてみると、いよいよ琴羽のぐちゃぐちゃに錯乱しきった様がありありと認められた。


 顔を俯かせ、自分を抱きしめながら腕を懸命に擦っている。歯をガタガタと震えさせ、隙間から浅い呼吸を短い間隔で繰り返していて、過呼吸にならないか心配になるほどだ。

 肌寒い季節ではあるが、少なくとも、今の彼女を見て寒がっているのだと考える者はいないだろう。


「……う、ううっ……」

「怖かったですね、尾崎せんぱ……琴羽さん」

「ひっ……!?」


 琴羽が、小さな悲鳴をあげる。

 焦点が合わない目が祈に向き、数秒した後我に返った様子でその瞳が光を取り戻した。


「い、いのり、ちゃん……」

「はい、柳月祈です。……大丈夫、ですか?」

「う、うん……多分」


 琴羽のすぐ横に、そばに寄って甲斐甲斐しく接する祈。


「対人恐怖症って話はいのりちゃんから聞いてたけど……ここまでか」

「……細波さんは、琴羽ちゃん見たことないんですっけ?」


 そんな彼女らから少し離れた場所で、細波達が会話を耳打ちで交わし合う。


「最近は、大分収まってたんですけど……発作的にあんな感じに」

「ああなっちまうともう、いのりちゃんに任せてるんす。俺達じゃどうしても逆効果で……」

「え、あの二人、仲良いのか……言っちゃあれだけど、意外だぜ」

「学校も違うんですけど、不思議と琴羽ちゃんが懐いてるというか、特に心を許してるというか。言っちゃあれですけど」

「アンタら地味にひでぇっすね……」


 しかし事実、元の性格としては真反対の二人が、どのようにして仲良くなったのか、その理由までは夕平と暁も知らなかった。


 と、その時、


「あた、あたし……あ、ああ、うあああああ」

「琴羽さん、落ち着いてください!」


 公園に、不意に絶叫が響き渡る。

 驚き見た三人の目に飛び込んできたのは、慌てて声を掛ける祈と、頭を抑えて苦しむ琴羽だ。


「もういやこんなの、耐えらんない!! あたしは、あたしは『機械』なんかじゃない! やめ……て、やめてよっ……!!」


 ────琴羽の苦痛は、この場にいる誰も知ることのないことだ。それは祈も同様で、根本をどうにか出来るわけではない。

 そう、どれだけ外に出るようになっても、どれだけ人と仲良くなっても、琴羽の根幹に触れられるのは────


「……『あの人』に、会いたい……我慢するのはもういや!! こんな世界で、私たった一人なんて、もう……っ!!」


 喉を塞がれたかのように語尾は震え、徐々に鼻が赤らんで涙を湛えている。

 堪え切れない感情を全て乗せて、抑え切れない嗚咽と共に、そのたった一言を漏らした。


……!!」


 それは、細波、暁、夕平、そして祈。

 ここにいる全員の代弁であり、それ故、今まで安易に口にできなかった本音だった。


「…………」

「…………」


 誰も、何も言えなかった。


 日常に戻った彼らが触れるのを憚っていた、もう一人、『あの日』から欠けてしまった存在がいた。

 その少年は、その頭と力で、『あの日』彼らを危機から救った。それは紛れも無い事実だ。


 もう一度、会いたい。話をしたい。

 それはここにいる誰もが、ずっと思っていることだったから。



「────呼んだか?」



 だから、その時。

 まるで、全員の気持ちに応えたかのように。


「俺の言うこと、ちゃんと聞いて頑張ってたみたいだな……琴羽」


 泣きじゃくる琴羽の前に、当たり前のようにそこにいた。


「……えっ?」

「んで、こいつは土産だ。お前、ちょっと不用心すぎるぞ」


 手に持ってひらひらと泳がせているのは、友人である祈には見覚えのある────猫の顔が描かれた財布。

 そうそれは、


「ってなんだ、幽霊でも見たみたいな顔してよ。すぐ戻ってくるって書置きしたろ?」


 財布を持ったその手が、ポンと琴羽の頭を叩く。その腕は、肩口からぐるぐると包帯のようなものが巻かれ固定されている。


 自分の目と耳を疑った。

 空目空耳だと、自分の作り出した勝手な妄想だと、そう思った。


「あ……うそ……」

 

 しかし、すべてを理解した時、溢れた一筋の涙が、静かに頬を伝った。

 ちゃんとそこに、『彼』はいる。


 ずっと、ずっと自分が待ち望んでいた人の姿が、そこにいるのだ。


「え……えっえっ?」

「まさか、マジか……!?」

「……!!」


 三者三様の、それぞれ驚きの反応が続く。

 目を丸くし、信じられないといった様子で……そしてそれは、祈も同様であった。


 彼女が普段見せないような、驚きを通り越した放心を、隠しもせず露呈させていた。


「……拓二、さん……」


 彼自身の喉元まで伸びた髪先が、宵のそよ風に流れる様が街灯に照らされる。

 やや白くなった肌は祈のそれと比べてもほぼ遜色なく、涼しげな流し目に滲むどことない色香も加えて、すらっとした女のような中性的な面立ちを見せていた。


「……よぉ。久しぶり、だな」



 相川拓二は、少し嬉しそうな、そしてどこか困ったような笑みを浮かべて、そこにいた。

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