第五十五話:尾崎家にて
「はっ……はっ……はっ」
肺が締め付けられるような感覚と共に、汗を垂らし、荒い息が口から溢れる。
ついさっきまで躍動していた足の筋肉は張り、乳酸が溜まって重くなっていた。
「はあっ、はっ、はっ……」
もう季節は夏と言ってもいい程だった。
空に昇った太陽が、かんかん照りで俺を見下ろす。この公園近くの森から響く蝉の声がやかましい。
むっとする強い湿気にうんざりしながらも、休憩がてらその場にしばらく佇んでいた。
「――――ふっ!!」
膝に手をつき、疲れきった人のような体勢から、コンマ一秒の刹那に足が空を突いた。
軸足となっている左足は、しなった右足の遠心力をしっかりと堪えた。
やはり、今までよりも様になってきている。
ピンと鋭く伸びた右足が、それを教えてくれる。数か月前の俺とはかなり違う。雲泥の差と言ってもいい。
あのグレイシーと同等……とまではいかなくても、多分過去の世界の中でも一番早くたどり着いた境地だ。
ムゲンループで持ち越せるのは過去の経験や運動神経というのは以前話した通りだ。そのため、必要なのは単純な運動能力。今までは身体が頭に追い付いていなかった。
が、今は何週もしてきた世界線の中で、ここまで早くここまで変えられるとは思わなかった。身体を鍛え続けたループの終盤くらいの力はついているだろう。
イギリスでの経験は、決して無駄ではなかった。
あそこでの命がけの鉄火場を潜り抜けた、その成果であると言えよう。
これなら、間に合う。
桜季との『勝負』に使えるくらいの代物となるだろう。
通用するかは知らないが。
「――――や、精が出ますねー」
するとその時、向こうから一つの人影がやって来た。
待ち人は俺の姿を認め、そろそろとやって来た。足をおろし、俺もそれに声を返す。
「よう、琴羽」
「おす、先輩」
にこり、と笑いかけてくる少女は、小森琴羽。
ここのところ、毎日会っている顔と笑みだ。
「学校終わってすぐ来たの? かなり早いよね?」
「まあな」
「……今のって、拳法? 習ってるんですか?」
「拳法、ってなぁ……」
彼女の呑気な声に、俺からしたら思わず苦笑を禁じ得ない。
まあ、仕方ないことだと思うが。
「……これは俺の独学だよ。一人でやってんだ。どうだ、悪くないだろ?」
「へええ……でも、動きすっごく綺麗でしたよ。カンフー映画みたい」
「そうか?」
「ねね、もっかいやってみせて?」
「見たいか? ……なら、動くなよ?」
俺の言葉に素直に従い、両腕ともぴんと伸ばして直立状態になった琴羽。
それをじっと見据える。
彼女の背丈は……桜季とほぼ変わらなかった。
「――――ふっ」
本気こそださないものの、足を琴羽に向けて繰り出す。
「ひ、ひえっ……!」
「…………」
ちょうど、彼女が目をぎゅっとつむっている顔のすぐ横、ほんの数十センチ程度離れたところで、ピタリと足は停止していた。
琴羽恐る恐る目を開け、ほんの目の前まで肉薄した足を見てそしてぎょっとする。
「う、うひょー……あははっ、ちょっと背筋がヒュンってなった……」
「……どうだ」
「風が、風がこう、ぶあーって!」
「ふふん、だろ?」
無邪気な子供のように興奮して話す少女に、俺もつられて笑う。
正直に言おう。ただの愛想笑いだ。
俺は今現在、こいつをどうにか利用できないか、と考えているのだ。
もしかしたら琴羽の『目』は――――俺にとって大きな手札になり得るかもしれないから。
「…………」
今、俺には二つの可能性があるのだ。
どちらも理論的な確率から言えば、五分と五分。その結果は、俺の判断に委ねられている。
つまり、この少女――――琴羽の言うことを、信じるか信じないか。
二つに一つ、だ。
――――あらゆる人間が機械に見える目。
聞くだけで眉唾ものであるようなその目には、ある『例外』があった。
その『例外』とは、俺といのりだけは普通の人間に見えているということ。
そして、俺といのりで共通する事柄と言えば――――ここまで言えば馬鹿でも分かる、ムゲンループの住人という点だ。
もちろん、何もかもを信じたわけではない。たまたまという可能性は大いにある。
機械か人かを選ぶ基準が、ムゲンループの住人かどうかであるとは限らないのだ。
たまたま、俺の気を引くためにいのりを指差しただけかもしれない。
たまたま、俺といのりがムゲンループの住人であっただけであって、人か機械かの選択には、他の基準があるのかもしれない
それにまず、琴羽が本当に機械に見える目を持っているかどうか、俺には真偽が判別できないのだ。
だが、しかしどのような方法であれ、俺といのりがムゲンループの住人であることを正確に指差してみせたというのも見過ごせない事実。
結局は、琴羽の使い道を決めるのは俺次第というわけだ。もちろん、慎重で通っている俺のこと、完全にこいつの言うことを盲信するほど馬鹿ではない。
しかしもしも、それがただの病気でなく、ムゲンループの住人を見分ける能力であるのだとしたら――――という希望的推測だけは心の隅に留めておく。
「? どしたの? そんなじっとあたしのこと見て」
「ん、いや。なんでもない」
「も、もしかしてあたしの美貌に見とれちゃった? やあん、ダメダメ! あたし達まだ会ったばかりじゃないですか、早すぎますよう!」
「…………」
「……っていうのを、こないだ少女漫画で見ましたー……あうあう、ごめんなさいだから睨まないで~」
……やはり、こんなごく普通の引きこもり少女に、そんな大層な能力あるとは思えないが……いや、俺の感覚が麻痺しているだけか。
俺以外のムゲンループの住人と言えば、今のところはいのりとマクシミリアンの二人。あいつらが特殊過ぎるだけだ。
「――――ひうっ!?」
その時突然、琴羽が肩を大きく揺らした。
そしてもの凄いスピードで俺の背に隠れた。
「い、今何か聞こえ、聞こえましたっ……!」
その顔色は青く、ガタガタと身体は震えている。俺を盾にする格好で、なりふり構わず密着してきている。
まるでお化けでも見たかのような尋常じゃない様子だったが、そうではないのだ。
「……誰もいねえよ。聞き間違えだ」
気配を感じることに人並み以上に長けた俺が、安心させるようにそう言ってやる。手を回し、その小さな頭に手を置いた。
どうやら、茂みの方から物音が聞こえてきたようだ。が、よく見ても人影は見当たらない。
「……ほ、本当ですかぁ?」
俺を見上げるそれは、涙目だ。
潤んだ眼が、小動物のように庇護欲をそそらせる。
「あ、ああ。誰もいない」
「…………」
もう一度、念押すように繰り返した。
すると、ようやく落ち着いてきたのか、そろそろと俺の後ろから顔を出した。
「あ、ああー、ほんとだ……ごめんなさい。気のせいだったみたいです……」
「ほら見ろ。俺は意味無い嘘は吐かねえよ」
そうして自分の目で見てやっと、安心したかのように大きな息を吐いた。
ここ数日こいつと過ごして、こういうことはよくあった。
物音に敏感ということではない。俺以外の人がここに来るのを、彼女は怖れていた。
その特殊な目は、明るく人懐っこい琴羽を対人恐怖症にしていた。
もっとも彼女曰く、人……ではなく、機械、だろうか。見知ったばかりの俺に対してだけは、こう過剰とも取れるスキンシップも気にならないらしい。
もともとこうなるまでは、人見知りしない活発な少女だったのだろう。
「…………」
「おい? 琴羽?」
「はー……やっぱ人肌は落ち着くなぁ~。……大好き……」
「え……?」
「にへへ~……」
さっきまでの蒼白となった表情とは打って変わって、だらしなく緩んだ顔で身体を預けてくる。
「……ええい離れろ! 暑苦しいっ!」
「ふぎゃーっ」
身を大きく振ると、悲鳴をあげて琴羽がのけ反って離れた。
夏真っ盛りだというのに、くっつくんじゃない。
「ていうか汗臭いだろ。走って汗かきっぱなしだぞ」
「大丈夫ですよー。兄貴ので慣れてるから」
「兄?」
「うん。兄貴、バスケ部なの。中学からやってて。今はなんかやめちゃったけど」
「ほう……」
「汗だくになってくることはしょっちゅうだったからさ。だからあんま気にならないんだ」
そんなもんか……?
前言撤回。やはり、こいつも変わった奴だな。
「あ、そうだ!」
「?」
内心首をかしげていると、ぽんと相槌を打った。
そして何か得心がいったような表情で、俺にこう言った。
「なんなら、あたしの家に来ません? 兄貴に先輩のこと紹介するよ!」
「……はい?」
◆◆◆
夕平は、もう数日には退院するらしい。
昨日見舞いに行くと、夕平が嬉しそうにそう言った。それを聞いて、一緒にやって来ていた暁が顔いっぱいに喜色を湛えた。
もともと、言ってしまえば深めの捻挫といった感じではあったし、一応交通事故というわけで念入りに長く入院していたに過ぎない。
後遺症というものもなく、しばらくは安静にする必要があろうが、杖もいらず通院するだけで済むようだった。
そして大人の事情になるが、夕平達二人を危うく轢きかけた運転手のおっちゃんとは示談で解決したようだ。保険会社との折り合いもあって、まあ落ち着くところに収まったということだった。
何にせよ、結果オーライ。
こうなることも知ってはいたが、とりあえずは一安心だ。
そして、桜季はあれから見舞いには来ていないらしい。
というか、夕平も暁も、桜季に電話もメールもしていないとのこと。たまに病室を訪れるいのりに訊いても、あまり彼女と話したりしていないようだ。
清上祭のことで忙しいのだろうとは言っていたが。しかし特に、暁は桜季のことを心配をしていた。
まあ……そんな心配は不要だろう。
奴には。
「あ、お菓子食べる? 近くのケーキ屋さんのなんだ、おいしいよー」
「ああいや、お構い無く」
俺は今、琴羽の家にいる。
あれから、この少女に招かれるまま、ここに連れてこられた。そしてリビングに通されたのがこの現状だ。
こいつと親しくなっておこうと思っていた俺としては渡りに船と行ったところなのだが、こいつは男を自分の家へ迎え入れることについて何とも思ってないのだろうか。
少し心配になってくるな。
「はい、どうぞ」
包装されたクッキーの山と、オレンジジュースが俺の目の前に置かれた。
彼女なりにもてなそうとしているのだろうか。
「…………」
「なんだ、じっと見て」
「……食べないの?」
「じっと見らてれりゃ、食べるもんも食べれん」
「あ、ごめんなさい。人が普通に何かを食べるところを見るのって久しぶりだったから、つい……はは」
「なんだそりゃ。そんなところ見てどうするんだ」
「……うーんと。こんなことになって、何が一番辛いかって、人の表情が見えないことなんだよねえ……」
そう言う琴羽の瞳は、僅かに悲しげな色合いを帯びていた。
が、すぐに持ち直したようにニパッと笑う。
「だからね、それ食べて美味しいーって思ってくれたら、それでいいんだよ」
「……そんな大層なグルメリポートは、俺には出来ないぞ」
「あはっ、そんなのいいよ。ただあたしが見てるだけだからさー」
「あっそ。……あのさ、家の人は誰もいねえのか?」
「いないみたいですねえ。兄貴はそろそろ帰ってくる頃だと思うんですが」
「…………」
……別に俺は何とも思わないが、こいつは本当に何とも思わないのか?
と、ちょうどその時、この家の玄関が開かれる音がした。
あ、兄貴だ、と琴羽が呟いた。
「ただいまーっと……」
「おかえり兄貴ー! お客さんだよー」
その兄を迎えるように、声を張る。
とても引きこもりをしているように見えない様子だ。
少なくとも、俺はこんな元気な引きこもり生活を送ったことはない。
「ああ、お客さんね。はいはいなるほど――――って、んなにぃ!?」
すると、向こう側から仰天した声が木霊した。
すぐに、どたどたと足音が響き、こちらに近づいてくる。
そして、ついにご対面――――
「え? あ、相川っ!?」
「ん?」
現れたのは、パーマを当てたらしい目がチカチカする色合いの金髪が特徴の、やや芋っぽい顔立ちをした不良っぽい少年。
歳は俺と(見た目年齢的な意味で)同じくらいだろうか。
しかし、俺はこいつをどこかで見たことあるような気がするのだが。
「お客さんって、相川じゃん! でも何で俺ん家に来てんの?」
「あっ」
よくよく見ると、ふと思い付くことがあった。
「お前……入学式の時俺の斜め隣で、バスケ部に入ったはいいものの副部長に雑用としてこきつかわれた挙げ句、原チャ盗んで停学になるところだった尾崎光希じゃないか」
「なんか不本意な覚え方されてるし!?」
何故ここに――――と言うほど俺も鈍くはない。
「もしかして、琴羽の兄貴ってのは……」
「え、あ、そりゃまあ、俺のことじゃん? てかなに……おい琴羽? お前が言ってたのって、相川?」
「うん。お知り合いだったのん?」
きょとんとする琴羽。
俺がその問いに返す。
「同じ学校だよ。しかしまさか、尾崎が琴羽の兄ちゃんとは……」
尾崎とは、いつの日か副部長から助けたあの時以来、ちょくちょく会話する程度の仲だ。どちらかというと、夕平とつるむことが多いらしい。
いつぞやの、ファミレスで夕平が話した尾崎の妹の相談を思い出す。
あれは琴羽のことについてだったのか……。
とすると、また新たに一つ、気になったことが浮かんでくる。
「しかし、はあー……相川が、琴羽とねえ……」
その目は、好奇というより不思議な様子で俺を見ている。
多分、俺も同じようになっているだろう。
かと思うと、尾崎は琴羽の方に向き直ると、思い出したかのように口角を持ち上げさせ、にやにやと笑いだした。
「なんだよお前、いつからそんな関係になってんだよおい」
「もー、そんなんじゃないってば!」
パタパタと手を振る琴羽が、小さく笑ってその言葉を受け流した。
「え、でもよお……女が年頃の男を自分の家に誘ってるんだぜ? あ、俺お邪魔っすか? さーせんしたー」
「だからそうじゃないったら! もうっ、兄貴の馬鹿!」
そう軽口を叩く兄の分のジュースも、乱雑ながら置いてやっている分、仲のいい兄妹なのだろう。
その兄でさえ、妹(ことは)の目には、ただの無機質な機械の姿にしか見えないはずなのに。
「ふうーん……そうだ! 今日は母さんも遅くなるんだしよー、せっかくだから夕飯食ってもらうか」
「おおっ、兄貴ぐっじょ! 珍しく良いこと言った!」
すると、なにやら二人で話が進んでいる。
「いや、そこまでされるのは……」
それは流石に悪いと固辞しようとしかけた時、尾崎が被せるように声を上げた。
「琴羽、三人分な!」
「はーい」
「おいおい、だから俺は――――」
「頼むよ相川。……ちょっと、話があんだ」
「……?」
尾崎がそっと耳打ちしてきた。琴羽には聞こえないように、声を潜めて。
その様子はどこか大真面目に見えて、疑問符を浮かべながらも俺は頷いた。
◆◆◆
「……実は、話は聞いてんだ。桧作、あいつのことアンタらに教えたんだってな」
あいつ――――琴羽が料理を作っている間、俺達野郎二人は、声を落として話をしていた。
もちろん、内容は琴羽のことだ。兄である尾崎は真剣な様子を目で語る。
「ああ。……悪いな、よその事情なんざ立ち聞いちまって」
やはり、この間ファミレスで夕平が相談を持ちかけてきた尾崎の妹とは、琴羽のことだったのだ。
まさかあの時の会話が、色々な意味で俺の事情に関わってくるとは、まるで思いもしなかった。
「いや、それは別にいいっすよ! 相川なら問題ねえし」
「そうか……」
「つーかさ、むしろ俺感激してよ! まさか同学年の俺の妹のためにここまで気ぃ配ってくれるなんて思わなくて」
「え……?」
一体何のことだ――――と思う前に、尊敬の眼差しを向ける尾崎が言った。
「だって、そのために琴羽と仲良くなって、親身に話を聞いてくれたんだろ? 色々あいつからも聞いてたんだ。最近外に出るようになったと思ったら、友達が出来たって嬉しそうに話してて。一度会っときたいと思ってて、しかもそれが相川でさ……!」
「あ、ああいや……まあまあ落ち着けよ。あまり他人事でもなかった、しな。ははは……」
嬉しさで興奮しているこいつを落ち着かせるように、言葉を被せる。
琴羽が尾崎の妹ということと、その『仲良く』なったというのは完全に偶然だったのだが……どうやら彼は都合よく解釈してくれているらしい。
助けてもらった(と勘違いしている)恩人フィルターでも掛かっているのだろうか。そういうことなら、そのお言葉に甘えてもいい。
「おほん。……とにかく、話を戻すぞ。あいつの、人が機械に見えるってのは……本当のことでいいのか?」
閑話休題。
核心を迫る言葉を紡ぐと、はっとした表情になって答えた。
「……どうもそうらしい。色々病院は巡って、『嘘はついてない』らしいってことだけは分かったみてーでさ」
「つまり『成果なし』、ってことか」
尾崎が浅く頷いた。
曰く、その辺の専門家にも、琴羽の症状ははっきりとは分からないと言う。
人が機械に見える目……様々なテストの末、幻覚や麻薬などのあらゆる可能性にも当てはまらなかったのだとか。
やはり、ムゲンループに関わることなのだろうか。そうだとして、考察するべき点は多い。
こういう時こそ、いのりの出番なのだが……。今となっては、それも困難だ。
「四月一日からなんだ。本当に、迷うかもしれねーから一緒に学校に行こうってなったその日に突然……」
「……『四月一日』、ね」
ムゲンループの起点となるのも、『四月一日』。
琴羽はムゲンループの住人ではないものの、人が機械に見える目は繰り返し健在しているはずだ。つまり、『四月一日』を迎える度に、琴羽はその目に苛まれ続けていたということになる。
『四月一日』……何時かいのりが話していたことだ。『何故四月一日なのか』。
ムゲンループには、まだ分かっていないことが多すぎる。琴羽の存在も、その謎の一つなのだろうか……?
「たまに……あいつの友達とかが家にやって来たりすんだ。心配して来てくれてんだけど……でも、そのたんびに俺が追い返すように頼まれてさ。その時あいつ……すっげえ泣きそうな顔すんのな。部屋で耳を塞いで、狂ったように泣き叫んで……そりゃあもう酷い有様だったんっすよ? 今こうしてっと想像つかねえと思うけど」
「…………」
「でも最近久しぶりにあいつが元気出てきてよおー……これまで外なんか一度も出歩くなんてこともなかったし。人と会ってるって聞いた時はめちゃ驚いたけど、まさかそれが相川とはなあ」
小さく笑う尾崎の顔は、どこか寂しげだった。
「……なあ、何とかなんねえのかな。相川よう、お前なら、何か分かるんじゃねえのか? 今あいつが俺と母さん以外に話せる人って言ったら、お前だけなんだ。お前ならあいつを……助けてやれるんじゃねえのか? なあ?」
「俺は……」
俺と琴羽は、境遇がよく似ている。
同じように突然身に降りかかった出来事に混乱し、同じように孤独になることしか出来なかった。
……助ける、か。
確かに、俺にしか琴羽の気持ちは分からないのかもしれない。
これは琴羽の問題であり、そして昔の俺の問題でもあるのかもしれない。
だが、俺が助けるなんて、そんなことが出来るのか。所詮俺は、俺のことしか助けられないちっぽけな人間でしかない。
あの時の桜季のように、夕平のように、暁のように――――琴羽(おれ)を助けることなんて、出来るのだろうか……。
「……考えが無いわけじゃない」
「ま、マジか!?」
「上手くいくかは分からんがな。ま、後で本人に訊いてみるよ」
「お、おう。何か知らねーけど、よろしく頼むぜ!」
ちらと、離れた台所の方を見る。
今は鼻歌を歌いながら、フライパンでハンバーグを焼いていた。よくしていることなのか、手慣れている。
「……そういやさ、一つ気になってたことがあるんだった」
そんな彼女の姿を見ていると、ふと訊こう訊こうと思っていたことを思い出した。
「尾崎の名字って、尾崎だよな」
「……はあ? まあそりゃ当たり前だろ? それが?」
「いや、〝でもあいつは俺に、自分の名前を『小森琴羽』って名乗ってたんだ。尾崎琴羽ではなかった〟」
それだけでなく、家の表札も、しっかりと『尾崎』という名字が彫られていた。
あまり気にしてはいなかったが、もしかしたらと思ったのだ。
――――もしかしたら、目だけの問題でも無いのかもしれないと。
「あいつ……またそんなこと言ってたのか」
「また?」
すると、尾崎はポツリと呟くようにこう言った。何か心当たりでもあるかのように。
俺が重ねて尋ねると、困ったような苦笑を浮かべる。
「ああ、あいつは……ちょっと事情があってなあ」
「聞かせてくれ」
食い気味にそう尋ねると、尾崎はしばらく躊躇うように口を開いたり閉じたりし――――やがて静かに目を伏せた。
そして、重々しく口を開く。
「実は――――……」
「おーい二人とも、ご飯できたよ!」
が、それ以上は、間の悪い琴羽の声によって遮られてしまった。
「なに二人でひそひそ話してたのん?」
「な、何ってお前……」
「今週のグラビア特集に載ってたアイドルについて語ってたんだ」
尾崎の様子から、本人を前にして話すのも憚られたので、表情一つ変えず嘘八百で誤魔化した。
「そ……そうそう! いやあ本当あのネーチャンのパイパイにはたまらんもんがありますなー、はっはっは!!」
「……なあにそれー、おげひーん」
「男はみんな下品なんだよっ! ほら琴羽、いいから手でも洗ってこいよ!」
「……男の人ってみんなこうなのかな」
呆れ返った様子で、琴羽は元の台所に戻っていった。
どうやら俺達の会話について、特別訝しむ様子はなかった。
「……悪い相川。さっきの話はまた今度、ってことで」
「……そうだな」
その時の尾崎の表情は、話さずに済んでほっとしたような、タイミングを逃してしまったと言っているような、微妙な心境を浮かべていた。
◆◆◆
「もうこんな時間か。すっかりご馳走になっちまったな」
夜は八時を回り、すっかり日も落ちた頃、俺は尾崎家を後にしようとしていた。
昼の残滓を感じるむっとした気温で、湿った空気が全身をまとわりつく。
その玄関先まで、兄妹二人が俺を見送ってくれている。
「もう行っちまうのか……母さんにお前のこと紹介したかったっすけど」
「ぷっ……おいおい何だそりゃ。それじゃまるで結婚の挨拶しに来たみたいじゃないか」
「せ、先輩!?」
驚くような声が上がった。
何をまともに反応しているのか、そんな琴羽に向けて鼻を鳴らす。
「冗談だよ。真に受けんなって」
「あっ、で、ですよねー。アハハー……」
て、照れてなんてないですよ、とかなんとか言いながら、ぱたぱたと手で顔をあおいでいる。
「……ま、とにかくまた遊びに来てくれよな。歓迎すんぜ」
「そりゃどうも」
しかしそれにしても、えらく気に入られたものである。
俺は特別、この二人のことを思って何かしたわけでもない、ただ俺のしたいようにしているだけなのに。まったく、勘違いも甚だしい。
すると、突然尾崎にぬっと肩を組まれた。
そのまま琴羽のいる方向から離れ、声を落とす。
「……さっきは色々言ったりしちまったけどよ、別に忘れてくれて構わねーからさ。ただ、たまには琴羽に会ってやって欲しいんだ。暇な時だけでいいっす」
「……出来る限りのことはするよ」
それだけ言うと、嬉しそうに笑った後、背中を押すように身を離した。
何の話してたの、と問う妹に、ちょっと今度借りるお宝本の相談をな、と意地悪く笑んでどん引かれている。
尾崎は本当に、いい兄貴分なのだろう。
「……なあ琴羽、お前来週の土曜って空いてるか?」
――――兄妹揃って、人が好すぎるとも言うが。
「ん? そりゃ、あたしは万年暇人ですけど」
そういやそうだった。
というか、さも当たり前のようにそういう返しをするのはどうなんだ。
「……まあいい。なら、その日俺とどっか出掛けてみないか?」
「出掛けるって……? 先輩と?」
「ああ」
外に出掛けるということで、やや狼狽えて見える琴羽に対して、俺は頷き返しこう尋ねた。
「――――お前さ、清上祭って知ってるか?」
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