番外第一話:とある深緑の洋館で・後編

 あれから四日が経った頃には、十戦くらいして、その全てに負けた。

 瞬殺、の一言に尽きる。ステイルメイト……いわゆる引き分けの状態にさえ持ち込ませてくれなかった。

 赤子の手をひねるかのように、俺は惨敗を喫し続けた。


 舞葉は、本当にとんでもなく強かった。自分で得意と言うだけはある。


 俺もチェスはこの時点で何度かやっていて、同じ年ぐらいのプレイヤーが相手なら大体は勝てるくらいの実力はあった。

 ネットチェスも長い事やってきて、そこでなら白星を取ることも増えてきてた。自慢じゃないがな。


 でも、負け続けていた。

 せめて一回でも、と思ってたが駄目だった。

 少なくとも、どさくさに紛れてたまたま勝つなんてことは無い。そう思った。


 そんなわけで、もうとっくに見飽きたこの部屋で、俺はすっかりふてくされてた。

 腐っていた、と言ってもいい。こうも完敗され続ければ、ちょっとは嫌になってもいいだろ?


 ちなみに舞葉は、大体毎日三、四回のペースで俺の部屋に訪れては、チェスをしに来ていた。

 当然というか、その間も鎖は外されない。

 外にも出れず、ただチェスをするか飯を食うかだけ。これじゃ監獄だ。

 

「…………」

「おわっ」


 俺が寝そべっていたその時、娘(相変わらず裸)の愛花が部屋にやってきていた。


 彼女も毎日三回――――時計が無かったから詳しい時間は分からないが――――きちっと規則正しく俺の飯を持って部屋にやってきていた。


「な、何だよ。脅かしやがって……」

「……また」

「……ん?」

「また……負けた、の?」

「ん……」


 俺の姿を見た愛花が、小さい声で尋ねる。

 何故かって?

 そりゃ、お前……。

 

 敷かれた茣蓙ござに、裸で眠るおれの姿が、まさしく負け犬そのものだったからさ。


「勝てなさ過ぎて、今へこんでるとこ……」

「ふぅん……」


 何より厄介だったのが、いちいち負けた後、『罰ゲーム』が待っていることだった。

 やれ一時間正座しろだの、やれ犬のように飯を食えだの。勝った方が負けた方を――――というか舞葉が俺に、何でも命令を下せるというもの。


 んで、真っ裸になるのも、その罰ゲームのうちの一つだった。抵抗したが、無理やり服全部をハサミで切られてしまってな。

 あの頃はカポエイラも知らなかったし、鎖のせいで逃げられるわけもなかった。


 それに意味があったのかどうか、か……。


 俺をいたぶって楽しんでた以外の理由があったのなら、圧倒的な差を見せつける『パフォーマンス』だったんじゃないか、と今になって思う。逆らう気を削ぐってわけだ。

 本当に今思えばだが、屈辱的な命令が多かったかもしれない。

 まあ、あのキチガイ女の考えなんか理解できないし、したくもないけどな。


「もううんざりだ……帰りてえ……」


 流石に消耗していた。いくら叫び散らしても、喚き続けても、ここには親子二人しかいない。

 これはこの時点では知りようもなかったことだが、たまに食料を届けに来る配達車も、家に直接来るわけではなく、少し離れた場所で代引きさせているらしかった。


 もう希望が無かった。

 逃げられない、とこの時には思っていた。


「…………」


 ことり、と夕食を載せたお盆を置き、無言のまま立ち去ろうとする愛花。いつものことだった。


「……なあ」


 その後ろ姿に、何の気なしに声をかけた。

 参っていた。本当に。話し相手が欲しかった。


 ……これが本当の赤裸々ってな。

 はっ、笑えねえ。


「お前は……ここから出たいか?」


 何でもよかった。話が出来れば、それで。

 言わば愛花はこの部屋の看守だというのに、同じ境遇の者同士ということで情が湧いていた。

 同じ想いを抱いている者が近くにいると思いたかった。


「…………」


 立ち止まったまま、彼女は動かない。

 俺の視点からじゃ、その小さな尻がもろに見えてるわけだが、もう俺に何の気恥ずかしさも無かった。

 そういう場所なのだと思えば、気付けばどうでもよくなっていた。


「…………」


 だが、この時はそれだけで愛花は立ち去ってしまった。



 しかし、その深夜。

 夕食後、舞葉がもう一回俺を散々に伸してから完全に寝静まった時に、異変があった。


 なにをするでなく、寝そべって投げやりになっていた時だった。


 ぎい、と扉が開いた。

 何もしてないのに、思わずぎくりと肩が強張った。

 

 そこにいたのは――――


「……お前」

「…………」


 愛花だった。

 舞葉の、お気に入りの少女。飯を運ぶ時以外は、時々舞葉に連れられ、チェスの見物にやってくることがあった。

 だが、こんな時間にこの部屋を訪れるのは、今までにない事だった。


「それは……?」


 持っていたのは、一個のチェス盤。

 薄くて折り畳み式の携帯用の物だった。


「……チェス、やろ」

「あ……?」


 チェス、と聞いて少し苛立つ。

 目の前の少女が俺に何かしたわけじゃないのに、つい睨んでしまった。


「お兄ちゃん、このままじゃママに勝てないから……」


 が、愛花はまるで堪えた様子はなく、いつもの無表情だった。

 まだ舞葉にも薄いながら人間味のある感情を見せると言うのに、こいつは常に、作り物の能面のような顔を一切崩さなかった。


「……勝てないから? だからなんだよ、お前も馬鹿にしてんのか?」

「…………」


 愛花は何も言わず、チェス盤を広げて駒を並べていく。


「……おいおい、結局やるのかよ。てかお前、チェス出来るのか?」


 色々言いたいことはあったが、追い払う気力も無かったからか尋ねかける。


「……ママはね。昔、『ぐらんどますたあ』になる夢があったんだって」

「ぐらんど……グランドマスター!? って、まさかチェスのか!?」


 グランドマスターと言えば、国際チェス連盟によって与えられるチェスのタイトル……すなわち称号だ。賞金で飯の種が出来る程のチェス選手の中でも最高位のタイトルであり、その名を受けることは、数多のチェスプレイヤーの悲願とも言える。

 もちろんとんでもないくらいの実力と才能と運が無いと手に入れられるものじゃない。まさにプロの中でも限られた世界の物だ。


「しぃー……」

「あ、すまん……」


 大きな声を上げてしまったことを、愛花に諌められてしまった。


「私、何度かそういう人達のやり方をママに教えてもらってて……だから、ママよりは弱いの」

「ママよりは、ねえ……」

「でも、お兄ちゃんよりはずっと強いから……教えてあげられる」


 いらっとした。

 ぴくり、と片眉が引くつくのが自分でも分かった。


「……上等じゃねえか」


 子供相手に、大人げないと思うかもしれないな。

 今じゃ歳食って落ち着いてきたが、昔はゲームとかもすぐ熱くなる方だったし。

 じゃなかったら、舞葉に負けて腐る程悔しくなってなかっただろうしな。


 ゆっくりと起き上がる。

 この四日間で、ひさびさにやる気が出てきた。

 何故俺に勝負を挑みに来たのか分からなかったが、その時はただ、こんな少女相手に負けたくないと思った。


「よっし、ぶっ潰す」

「…………」



 ……それから、一時間くらいして。



「……チェックメイト」

「…………」


 結果は、俺の負け。

 舞葉に比べて善戦こそしたものの、十歳くらいの女の子に、俺は見事に負けた。


「参りました……くそっ」

「……お兄ちゃんは、少し徹底さが足りないかも」


 それだけ呟くと、愛花はすっと立ち上がり、部屋を去ろうとする。


「あ、お、おいっ! もう一回だ! もう一回やろう!」

「……また明日来るから。それ、ママには見つからないようにしててね」


 俺の言葉も無視して、愛花はそのまま歩き去って行った。


「……何だったんだ? 一体」


 盤上の駒を見て、俺は首をかしげた。

 俺の黒い王が、あえなく白駒に刺されている手番だった。



◆◆◆



 ん? 負けたのはそのせいじゃないかって?

 ……おお、よく知ってたな。


 そうだよ。チェスで勝つには、先手を取ることは欠かせない。

 チェスはそのゲームの理論上、基本先手側が極端に有利なゲームだ。

 先手は勝ちを狙いに行き、後手は引き分けを狙うゲームと言ってもいい。

 実際、プロのチェスでも、試合の多くが引き分けで終わってる。そこまでの腕があれば、チェスっていうのは先手を待つゲームなんだとも言えるな。

 もちろん人間のやることだ、全部が全部そうなるわけじゃないがな。

 

 つまり、俺が勝つためには、黒じゃなくて白の駒を取る必要があるんだ。

 それで少なくとも、確かに勝率は上がる。


 チェスにおいて通常、白の駒を動かす方が先手で、黒が後手だ。

 その決め方っていうのも、一方が両手に白と黒のポーンを一つずつ隠し持ち、相手がどちらかを選び、その手の中に入っていた側を持つ。それがチェスの先後の決定。


 そのやり方を俺は知っていたが、毎度毎度、舞葉がそれをやる側だった。


 俺は、どちらが有利なんてことを、あの時は知らなかった。

  

 

 すっかりしてやられてたんだ。あいつの罠に。


 ……悪い。怒ってない。怒ってないさ。


 話を変えよう。

 その愛花って女の子のことだ。

 

 あいつはそれっきり、毎晩毎晩俺の部屋に来た。

 舞葉も知らなかったはずだ。愛花は一ヶ月ずっと、俺と手合わせをしてきた。

 

 ……何かあったか? 

 ねえよ、んなもん。チェスやってただけだって。 

 うおい、何だよその目は。ねえったらねえってば。ってか問題はそこじゃないから。


 あー。とにかくその間、ぽつぽつと色んな話を聞いた。


 ここでの暮らしぶりのこと。舞葉のこと。

 そして、愛花自身の事。


 愛花がずっと裸だと言ったが、別に辛く当たられてるというわけじゃない。

 むしろ、聞いてる限り相当可愛がられてたらしい。本当の愛娘みたいに、二年間育ててきたんだろうな。

 勉強も教わってきたようで、既に学年以上の事を知っていた。あれは素直に大したもんだったよ。


 まあ形はどうあれ、舞葉が愛花を想ってるのは、奇妙な話どうやら本当みたいでさ。

 それに珍しく、舞葉を話す時の愛花も饒舌だった。……無表情だったけど。


 そんな愛花に勝てるようになったのは、それから十日くらいした時だったな。

 

 その十日で、めきめきと俺はチェスの腕前が上達していった。

 愛花とチェスをし始めたからってのもある。舞葉と違って、ちょくちょくここがまずい、だとか指摘してくれたりもしてな。

 だがそれ以上に、今までは部屋にチェス盤が無かったのが大きい。それまで、舞葉とチェス勝負するか飯を食うか以外は何もせずぼうっとしてた。ぼうっとするしかなかったんだ。

 多分、それもあいつの作戦だったんだろうな。俺を強くさせないように、絶対自分が勝てるように。

 

 だから、愛花の行動は予想外の物だったはずだ。


 おかげで、俺は文字通り一日中チェス盤に向き合い――――そしてみすみす俺を強くしてしまった。

 舞葉とチェスをやり、一人で黙々とチェスをやり、愛花とチェスをやる。部屋の中でずっと、チェス漬けの毎日を送ってきた。


 腐ってたのもすっかり忘れて、俺はそこでチェスにのめり込んだ。


 死ぬほどやった。狂ったようにやった。


 あれは夏休みのことだから、そう……俺と同い年の高校生達が、家でダラダラ過ごしてるであろう間、友達と遊んでいるであろう間、長電話しているであろう間、テレビを見ているであろう間、ソファでうとうとと寝っ転がっているであろう間、バイトしているであろう間――――俺はずっとチェスばかりしていた。


 チェスだけが、そこでの生活で唯一の慰めだった。


 一度でいい、絶対に舞葉に勝とうって本気で思ったから。二人に勝てるのなら、何も辛くなかった。

 そして、期限まで残り七日を切った頃には――――愛花相手なら黒の駒ごてでも勝てるようになっていた。


 んで、俺は思ったのさ。その時に。

 

 ――――もう残すは舞葉だけだ、ってな。


 ……な? 負けず嫌いだろ?



◆◆◆



「今日で丸一ヶ月。とうとう、最終日ですね……」


 俺の部屋に訪れた舞葉は、最初にそう言った。

 

「今がちょうど、午前の九時です。お昼ごはんや休憩を含めて、大体十時間くらいとすると……残り三回、でよろしいかしら?」

「…………」

「その三回の間で、貴方は一回だけでも私に勝たないといけない。……出来るかしら、これまで全戦全敗の拓二君?」

「……嬉しそうだな、アンタ」

「……ふふっ、それはそうよ!」


 ぐい、と身体を近づけさせる。


「だって、久しぶりに家族が増えるんですもの、これほど嬉しいことはないわ……! ねえ、愛花?」


 興奮冷めやらぬと言った風で、そばに控える娘に話し掛ける。

 

「…………」

 

 愛花は、何も言わない。

 何も言わずに、じっと、床に置かれた盤を見た。夜に愛花の持ってきた物とは違う、大理石で出来た高級の物だ。


 この一ヶ月で舞葉と行った、百回弱の対戦。それら全てが負けだった。

 それも後、三回。これで決着が着く。


「それじゃあ、さっそく……」

「一つ、言っておく」


 舞葉の言葉を遮って、俺は告げてやる。



「俺は、死ぬほど負けが嫌いだ。――――だから今までの分、きっちり返してやる」

「……望むところです」



 もしかしたらこの時、舞葉を物理的になぎ倒すことが出来たのかもしれない。

 この三回の試合は――――今までにない程の接戦だった。流石のあいつも気負ったか、かなり集中していた。その隙を付けたかもしれない。


 でも、結局その方法は取らなかった。


 今でも、それが間違いだったとは思ってない。

 だってそんな勝ち方じゃ、とても勝ったなんて言えないだろ。相手の土俵で勝つからこその勝ちだ。

 そんな卑怯な手で勝てば、俺の一ヶ月分の鬱憤が晴れないと思った。


 例えこれで出られなくなっても、堂々とやって負けたのならそれでよかった。出来る限りの手を尽くしたんだから。

 ……まあ最悪、四月まで耐えれば、な。


 とにかく、俺はチェスでの勝負を選んだ。

 結果は――――……。



◆◆◆



「拓二君、貴方……」


 時刻は、夕方の五時前。

 ここでようやく、二戦目が終了した。


「一体いつの間に、ここまで……!?」


 黒側――――すなわち俺の手番。

 だが、俺の打つ手は、もう無い。


「……



 結果は――――二戦とも、引き分け。


 

 この一ヶ月で、この日、初めて舞葉相手に引き分けを取れた。

 それも、二回連続で。

 今までにない拮抗した勝負が、最終日になって繰り広げられていた。


「貴方……今まで、ずっと実力を隠していたの……?」


 その時の顔ったら、見ものだったぜ。負けてこそないものの、これまでにないくらい動揺してたからな。

 そりゃそうだ。こんなこと、他の誰が考える?


 

 

「……俺は、ここに全てを賭けてきた。今日ここで全部決めるためにな」

「……まさかっ!?」


 はっと我に返ったかのように、彼女は娘の方を見た。

 流石に気付いたのだろう、俺の急激な成長ぶりの原因に。

 成長ぶりとか……自分で言ってちと恥ずかしいがな。まあ事実、滅茶苦茶上手くなったんだけど。


「おいおい、何考えてるか知らんが、俺は何もルールを破ってない。俺はお前とチェスをしてるだけだ。そうだろ?」

「くっ、う、ううう……!」

「相手は俺だ。こっちを見ろよ」


 勝敗的には、何かが大きく変わったわけじゃない。なんせ俺は一勝もしてないのだから。

 だが、分かる。かつてプロを目指していたという、舞葉には分かっていたはずだ。


 今の俺と自分では――――大きな差はないと。


 俺という弱いプレイヤーを嬲っていただけの彼女と、強さを隠して、自分より強い人間と戦ってきた俺。

 この一ヶ月の間での在り方が、そのまま俺達二人の差を大きく縮めていた。


「どうする、休憩はいるか?」

「……いいえ」


 俺がそう尋ねると、彼女は小さく首を横に振った。


「もう決着を付けましょう、興が削がれる……」

「そうか」

「……何か勘違いしてるのかもしれませんが、貴方がここから出るためには、『私に勝つこと』が条件です。錠前のカギは今でも私が持っています。また引き分けでは、私に命令は出せず、貴方は二度とここから出られないということですよ。お分かりですか?」 

「落ち着けよ。逆に俺がこの最後の一回で勝てたら、ちゃんと命令を聞く。それが罰ゲームのルールだ。そうだろ?」

「ええ……この子に誓ってもいいわ」


 そう言って、愛花を抱き寄せる。

 彼女からしたら裏切られたも同然だと言うのに、まるで気にしていないようだった。

 本当に娘には甘いようで。



「始めましょう……運命の勝負を」



 覚悟を決めた目で、そっと愛花を離す。

 そして……駒を掴み、その両手を俺に差し出した。

 

 始まる、三戦目。


 その手番の先後の決定。


 白か黒かで、この勝負が決まると言ってもいい。


「……どちらを、選びますか?」

「…………」



 俺には、もう一つの策があった。

 何故ここまで、最後の一戦になるまで粘ったのか。何故自分を追い詰めるような真似をして、ここまで試合をもつれさせたのか。



 正直に言おう、ここが一番の賭けだった。



 確証があったわけじゃない。あくまでそんな気がした、というだけ。

 もしここで俺が推測を外して失敗していたらと思うと、ぞっとしない。

 だが、俺は――――


「おい、一つルールを聞いていいか」

「え、はい……?」


 ここで、賭けに勝った。



「――――?」



 その両の手首を、即座に掴み上げ、捻りあげた。

 

「っ……!?」


 その力に痛がる以上に、しまったという表情を浮かべたのを俺は見逃さなかった。

 ぽろっと、痛みに耐えかねて手に握っていた駒を落とす。


「……あっ」


 驚いたように、愛花が小さく声を上げる。

 


 結論から言うと、

 ――――そう、これこそが、舞葉がやってきたチェスの必勝法だった。



「……ハンデとして先手しろいこまを相手に握らせるならまだしも、俺がどっちを選んでも不利になる後手くろいこまにするのは、イカサマ以外の何物でもないんじゃないか?」

「あっ、あっ……あああっ」

「……これは紛れもない反則だ。……なら、どうなる?」


 ……舞葉を擁護する気はさらさら無いが、いつもこんなことをしていたわけではなかったはずだ。

 焦っていたのだろう、俺が急に強くなって。本当なら、三連勝で圧倒的な勝利を見せつけるはずだった。

 だというのに、最後の最後で予想もしてない引き分けにもつれこんでしまって。

 

 舞葉は、一見上の性格とは裏腹に、チェスになると異様に勝ちにこだわっていた。

 一回一回、罰ゲームで俺をいたぶることで、自分を強く見せようとしていた。

 そんな傍から見れば裏表のある彼女に一貫していたのは、『負ける事への恐怖』だった。

 

 一瞬でも負けるかもしれないと思えば、途端に弱気になる。 

 今までの百戦でも、俺が黒側となった回数はかなり多かった。恐らく、ここぞという時に何度かこういう手を使ってきたのだろう。

 それで、今まで何とかなった。ばれずにやってこれた……。

 

 それなら最後の一勝負、この大一番にその『もう一人の舞葉』が顔を覗けば、きっと何かをすると思った。

 長い事負けを知らずに来た自分が、絶対負けないように仕向けると思った。


 俺はずっと、これを狙っていた。


「ちっ、ちがう! 違うの! これは、これは、これはあ、ああ、ああああああ……!」

「……愛花、お前はどう思う? こういう時って今までどうしてた?」

「……分からない」


 自分を見失ったように呻く舞葉ではらちが明かないと思って、愛花に訊いてみる。

 その時、俺はぎょっとした。

 

「……今までこんなことした人、知らないから」


 それは、あまりにも冷たい目だった。

 今まで人形人形と言ってきたが、それとは違う。


 とても小学生くらいの物とは思えない、明らかな侮蔑の意志が、今まで母親代わりだった女を静かに射抜いていた。


「……じゃあ、こういう時の明確なルールは無いんだな」

「…………」


 いたたまれない。もはや最悪の空気。 

 とても舞葉の鼻を明かしてせいせいした、なんて気分じゃなかった。


 だが、まだ話は終わっていない。


「なら、俺がこれの処遇を決めてもいいか?」


 舞葉の肩がびくついた。

 そして、おどおどと俺の顔色を覗き込む。もう既に、朝までの威勢の良さは彼女の顔には見えなかった。


「そう怯えるなよ。別に今すぐ罰ゲームってわけじゃないさ」


 思わず、笑っちまった。

 こんなか弱い女が、今まで俺を閉じ込めてたってんだからな。 


「俺の希望は一つだけ。

「えっ……?」

「ただし、ただの再戦じゃない。。それで今から試合をやろう。もちろん、俺が負けたら終わりでいい。これが俺の条件だ、破格だろ?」


 ……勘違いしてもらっては困るが、別に助けてやろうなんてこれっぽっちも思ってない。

 

「言ったよな? 『俺は死ぬほど負けが嫌い』だって。でもそれはアンタも同じだろう。俺達はお互い負けず嫌いだ」

「…………」

「でも、俺とアンタは違う。アンタの負けは、『試合』の負け。だが、俺の言う負けは、『勝負』の負けなんだよ」


 こうでもしないと、俺が気が済まないのだ。

 徹底的に、完全に。

 完璧な勝利を、俺は求めていた。


「――――だから、最後に俺は絶対にアンタを負かす」


 少し散らばった盤上の駒を整然と並べてから、俺は告げる。



「さあ、始めようぜ。今日一番の一戦を」


 

 ――――その数時間後、俺は舞葉に初めて勝利した。



◆◆◆



 上空数千キロメートルの、とある飛行機内。

 赤い、赤い、どこまでも赤いその一室に、二人の少年と少女がいた。


「……ねえ、お兄様?」

「ん? どした?」

「このお話、スプラッタホラーって言ってたよね?」

「ああ、そうだったな」

「じゃあいつになったらスプラッタになるのー? ねえねえ~!」


 彼らは、国籍が違う。

 片方が日本人で、もう片方はイギリス人。


 血にまみれ、筆舌に尽くしがたい腐臭が充満している、並の人間なら入ることすらままならないようなこの部屋の中で、

 二人は仲良く、まるで兄妹のように仲良く、『お話』を続けていた。


「面白かったけど、なんか物足りないよー! ねえ、そこが不満だったから、足だけ撃っていい?」

「ま、まあ落ち着けって。これにはもう少しだけ、続きがあるから。な?」

「あ、そっか! そのアイカちゃんとか、お母さんの人がどうなったか聞いてないもんね」

「この話もあと少しだけだ。最後までよく聞けよ?」

「うん!」

「よし。じゃあ話は、その試合が終わってからの事だ――――」


 これは、筋から外れたお話。


 この少年が過去に体験した、『番外』のお話。

 ただの番外。

 されど番外。


 今ここにいる少年を形作る、確かな一片なのだ。



◆◆◆



 午後九時頃。

 

「――――参り、ました……」


 黒の王を追い詰め、チェックを数回浴びせたところで、ついに舞葉がそう告げた。

 まだ詰みまで十数手は残っているが、負けを悟ったのだろう、

 最後まで続けられることなく勝敗は決した。というか、これでも無駄にあがいた方だがな。


「…………」


 戦績にして、一勝、二引き分け、百敗。

 とうとう俺は、舞葉に勝った。


「よ……っしゃぁああああ!」


 もしかしたら、これまでの動揺が堪えたのかもしれない。

 ああいう性格だ、普段通りとはいかなかったから、俺は勝てたのかもしれない。


 だが、俺は素直に喜んだ。

 これまでの一ヶ月が、ようやく実を結んだ。


 俺は、勝ったんだと。何度も何度も勝利の余韻に浸っていた。


「…………」

「…………」


 黙りこくる、親子二人。

 一人は、失意にまみれた表情で。

 もう一人は、いつもと同じ、何の色も浮かんでいない表情で。


「……さて、舞葉さん。命令を言っていいか?」

「……どうぞ、なんなりと」


 敗者は、ただ黙するのみ。


 あれは彼女の中でも例外だったのだろう。

 魔が差したというか、魔を差したと言った方がいいか。俺が仕向けた魔の手に引っ掛かった。

 イカサマをした上に、真っ当な勝負でも負ける。

 流石にこれ以上、完全な敗北の前には何も言えないようだった。


「俺をこの屋敷から、ちゃんと解放しろ。いいか、『解放』だ。錠のカギだけじゃなく、俺がしっかり外に帰れるように、アンタが考えうる限りの用意をしろ。それでいい」

「…………」


 舞葉は、うなだれながらも、俺の足の錠前を開けた。


 じゃらり、という音とともに、俺はやっとこの鎖から解放された。

 解放感がたまらない。足の付け根がこきこきと心地よい音を鳴らす。一ヶ月あまり動かなかったせいで、身体もややなまってしまっていた。


「よし……じゃあ後は帰る準備だな」

「……分かり、ました」


 舞葉はすっかり、初対面の頃に戻ってしまっていた。

 猫背でしょぼくれ、いつも不安そうに顔に陰を落とす。

 思えば彼女はチェスをやる時だけは、生き生きとしていた。それだけチェスが好きだったのだろう。


 俺を拘束していた鍵を外してもなお、落ち込んで、そこにへたり込んでいた。


 ――――だから、だろうか。


 その時、一つの影が彼女のそばに近寄っていたことに気付かなかったのは。



 がちゃん。


 

「えっ……?」


 小さく驚く声。

 そして、手に握っていた鍵が、払うように弾かれた。

 甲高い音が響く。


 俺は見た。

 舞葉の足首付近。 

 

 


「…………」


『それ』は、何も言わなかった。

 黙ったまま、ぬらりと鍵の落ちた方へ近づき、拾い上げる。


「……ねえ、ママ」


 そして、言う。

 その足枷のカギを、見せつけるようにぷらぷらとさせながら。


「今度は私と、チェスで勝負しよう? もちろん、罰ゲームありの」


 相変わらずの無表情――――ではなく。


 

 ――――愛花は、こくんと首をかしげた。


「え……えっ?」

「もうママとは何度もやったから、説明はいいよね。ほらほら、早く」

 

 裸の少女は、それはそれは嬉しそうに、駒を並びなおす。

 舞葉は呆気にとられているのか、何も言い返そうとしない。


 ……いや、俺も呆然としていた。

 動けなかった。

 少女の仕草は、今まで以上に少女らしい。可愛げのある普通の女の子だった。

 だが、この場で普通らしくあることが、今では異様に見える。


「あっ、でも罰ゲームの内容を決めなきゃ。でももう私は決めちゃってるんだー」


 思い出したかのようにすっくと立ち上がり、スキップするようにこの部屋唯一の小窓に寄った。

 そして、


「よー……いっしょっと!」


 けたたましい音が耳をつんざく。

 その小さな手を叩き付けると、窓のガラスが脆くも割れた。

 よく見ると、手に何か持っている。

 チェス盤だ。俺と夜な夜なチェスをしていた時の、安っぽいチェス盤で、ガラスを割ったのだ。


 ガラスが散り、少女の何にも守られていない小さな腕に掛かる。


「――――な、何してるのっ!?」


 その時ようやく我に返り、舞葉が叫ぶ。


「愛花、危ないからやめて! やめなさい!」

「――――は? 気安く名前呼ばないでくれる?」


 ……耳を疑った。

 冷たい声。あまり大きな声量では無かったのに、あまりにその声質が異質過ぎて、耳に突き刺すかのように木霊した。


「な、愛花、どうしたの……?」

「うるさい」


 すうっと少女が舞葉の身体に潜り込み――――


「……え?」 


 何が起きたのか、一瞬俺にも理解できなかった。

 

 だがやがて、よろりといった風に舞葉の身体が傾く。

 そして、見てしまった。


 腹に突き立てたガラスの破片。そこを中心に滲む、ドス黒い紅が。


「あっ……えっ……?」

「ママ。ママ。?」


 ゆっくりと、全身から力を失うように舞葉の身体がくずおれる。

 その様を、愛花は冷ややかに見下ろしていた。


「何度も何度もズルして、お母さんが勝てないようにしてたの? ねえ」

「あ、ちがっ……ごぼっ」


 舞葉が血を吐いた。口端から、泡のような血が噴き出る。


「……じゃあ今度はね、反則がばれたら負け。即罰ゲームね。これでいいでしょ?」


 すっと、そんな『母親』のそばにしゃがみこみ、チェス盤を近づける愛花。


「罰ゲームはね、


 そう言って、手に持ったガラスの破片を、舞葉の目の前で見せびらかした。

 ぬらぬらとした血の光が見えたのか、途端に彼女は力無くいやいやをした。


「っあ、いやぁ、いやあ……」

「それじゃあゲームスタート。ママ、どっちが先か決めよう。ほら、駒握って……」


 もう半ば意識を失いかけている舞葉に、そっと二つの駒を握らせる。

 そして、すぐにその両手を開かせた。

 

「あれー? ママ、反則は負けって言ったのにー」


 その舞葉の両の掌の上には、もちろん、先程と同じように黒の駒が二つ置かれている。


「じゃあ罰ゲーム。まずは一回♪」

 

 そんな明るい口調のままで、刺した先は、舞葉の右眼。


 刺して、すぐ抜き取る。血があふれ出る。

 返り血が、まさしくシャワーのように愛花の肢体に降り注いだ。

 異様に艶めかしく、その赤色が身体に付着する。


「じゃあもう一回。初めからね」

 

 ――――何で俺は、動けずにいたんだろう。止められなかったんだろう。

 今でも、そう思う時がある。


 でも、その時の俺は、何をするでなく、黙ってその成り行きを目に焼き付けていた。


「もう一回」


 何度も黒い駒を握らせては、刺す。


「もう一回」


 握らせては刺す。


「もう一回」


 握らせては刺す。


「もう一回」


 その、繰り返し。

 腹に入れた刺傷だけでも、致命傷だったはずだ。

 とっくに舞葉は死んでいる。


「あは、あはははは」


 それでも、少女は刺すのを止めなかった。


「ねえ」


 一体どれだけの時間が経ったのだろうか。

 今ではもう、分からない。

 

 何も、分からない。


 

「――――お兄ちゃんも、これやる?」



 噴き出す血に彩られた壁。切り取られた耳。裂かれた腹。そこから覗く内臓。


 それが、舞葉と愛花、俺の中にある二人の最後の記憶だった。



◆◆◆



「気付けば、俺はそこから遠くの田舎の交番にいた。駐在所って言うのかな。とにかく俺は、毛布にくるまってがたがた震えて、そこのおまわりさんに全部話してた」

「どうやってそこまで帰ってこれたの?」

「……分からん。バイクで走って来たって言ってたから、バイクで来たんだろうな。覚えてないけど。それに、屋敷に来る前は確かにガス欠だったのに」

「それ、どっちがやってくれてたんだろうね」

「……ご想像にお任せしますってな。――――さて、これにてこのお話はおしまいだ。どうだった?」

「……うん、とっても面白かった! だからね、足は撃たないであげる」

「そ、そうか……そりゃなにより」

「それでなんだけど、いっこ質問していーい?」

「はいよ、何だ?」

「結局、二人は最後どうなったの? 警察の人には話したんでしょ?」

「それなあ……あれから聞くと、屋敷には一人の真っ裸の女の死体があったらしい。服はひん剥かれて『ダルマ』にされて、指もばらばらにされて。潰れた目は両方ともカラスが食ってたんだとか。森の中だったせいで、身体中びっしりと虫がたかっててもうぐちゃぐちゃに原型が残ってない、それはそれは酷い絵だったみたいだな」

「あらら」

「……ああそうだ。後、屋敷の地下に、死後数年は経ってる死体がいくつか転がってたんだと。多分、それまでに閉じ込めてきた人間達の成れの果てだ。そん中に、『お母さん』の死体もあったのかねえ……」

「……アイカちゃんは?」

「行方知れず。いくら捜索しても、愛花の痕跡は森の中に消えて分からなかったんだとよ」

「うーん。そっか。アイカちゃん、今頃どうしてるんだろうね……」

「……多分、親子二人で過ごしてるんじゃないか」

「そう……なのかな?」



「ああ。きっと今も、とある深緑の洋館で――――」


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