第四十五話:後日談・その二

 時間は少し遡り、マクシミリアンが拓二と自分、二人分のティーセットを用意しに一度部屋の外を出たときのこと。

 マクシミリアンは、ティーセットを乗せた盆を持って、部屋に戻ろうとしていた。


『…………』


 しかし、何を思ったのか、そのまま拓二のいる部屋には向かわず、ある小部屋の方へ向かった。

 そして、その扉の前に立ったかと思うと、空いている手の方でおもむろにノックを数回響かせた。


『……どちらさま?』


 扉の向こうから、透き通るような声が聞こえてきた。

 その声に、扉越しに聞こえるように返答した。


『僕だ、エレン。様子を見に来たんだ』

『お父様……』


 そう、この部屋は、メリーとエレンがいる部屋だった。

 しばらく休ませてほしいと訴えてきたメリーに用意させた個室だったが、エレンが自分から姉と一緒にいたいと申し出たため、今に至る。

 彼女なりに姉を気遣っているのか、二日経った今も傍に寄り添っているようだった。


『どう? 調子の程は』


 二人の具合を尋ねかける。

 答えたのは、やはりエレンだった。


『今は眠ってるよ。お姉様、疲れちゃったみたい』

『エレンは? 疲れてないか?』

『……ううん、平気。私は、ただいるだけだもの』


 そう言いながらも、流石に疲れを滲ませた語調だった。元々身体が強くないエレンだが、それでも部屋から一人出るつもりはないらしい。

 部屋を出る時は、姉と一緒にと彼女が先に宣言していたことだった。


 やはり、少し彼女達の関係も変わったように思える。

 普段は、メリーからエレンに話しかけたり、積極的に関わっていく姿の方が目立っていたが、今ではすっかり逆転している。

 今回の一件で、エレンもまた、何かが変わったのかもしれない。マクシミリアンはそう思っていた。


『エレン、タクジが目を覚ましたよ』

『えっ!? お兄様が!!』


 疲れも一気に吹き飛んだような、驚きながらも喜色の迸る声が響いた。

 もし彼女が自由に足を動かせていたら、すぐにこのドアを開けて、満面に喜んでいる表情を覗かせたはずだ。


『あっ、会いに行ってもいい!?』


 途端に、慌てたように上擦った調子で尋ねかけてくる。

 マクシミリアンは、そんな娘の様子を愛らしいと感じながら、年頃の女の子の感情が父親とは他の男に向くことに、なんとも複雑な気分になっていたりしていた。まあどうでもいいことだが。


 取り敢えず、興奮しているエレンを制するように、話しかける。


『落ち着いてエレン、彼はまだ安静中だよ。あまりタクジを困らせちゃいけない』

『う、でも……』


 たじろぐエレンに、マクシミリアンはこう言い重ねる。


『というか、タクジはあまりそれを望んでないようだよ。もう今日すぐにでも帰ることを望んでいた』

『えっ、ど、どうして!?』


 もちろん狼狽した声で返ってくる。


『お兄様は、私達に会いたくないの……?』

『そうだね……』


 何故拓二が、こうまでして早くイギリスを去ろうとするのか────。

 幼い娘に、どうすれば納得できるよう上手く伝わるかと思案する。


 彼自身の詳しい話は聞いていないが、何となく分かる。


 自分と彼は、『同じ』だから。

 守るもの、守りたいもの、守らなくてはいけないもの。

 その一つ一つを、全て背負うと覚悟した人間同士、通ずるものがあった。

 例え、何度世界を繰り返したとしても。


『……きっとやり残したことがあるんだよ、日本に。少し前の僕と同じでね』

『お父様と……?』

『ああ、そうだよ』


 彼もまた、メリーとエレンのために、ネブリナ家のために、人知れず闘い続けた。

 だから、同類であるマクシミリアンは分かる。

 あれは、あの瞳は、何かのために全てを投げ捨てる覚悟を秘めた目だ。


『……それより、どうする? このままだと、何も言えずにお別れになっちゃいそうだけど?』


 マクシミリアンのどこかわざとらしい聞き方に対し、しばらくの間が生まれた。


『……お父様、日本語出来たよね?』

『うん? まあね』

『……ちょっといい?』


 やがて、エレンが僅かに逡巡した素振りを見せた後、そっと扉が開けられた。

 薄暗い部屋の中からは、エレンだけじゃなく、もう一人。


 先程まで寝ていたはずのメリーも、そこから起きたばかりといった様子の顔を出した。


『聞きたいことがあるの────』



◆◆◆



『着いたぞ』


 場所は、ロンドンの西部にあるイギリス最大規模の空港、ヒースロー空港だった。

 何度もターミナルを増築し、今も拡張作業が続いている、ヨーロッパきっての大空港だった。


 俺も、何度かヨーロッパの国に来た時に、ヒースロー空港を経由して利用したことがある。ゴミ一つ無いような綺麗な空港で、反面広すぎて空港の中で迷いそうになったほどだ。


『いや……改めてネブリナの力って凄いんだな』


 しかし通されたのは、空港のロビーでも搭乗口でもなく、関係者入り口から車で直接、飛行機の滑走路だった。

 俺を乗せたいくつかのパスを平然とくぐり、一つのジェット機のすぐ手前に、実に堂々と停車した。

 ネブリナ家の力が作用しているのは明白だった。


『まさかパスポートも手続きもいらないとは……』

『貴様は日本を出た時もパスポートを提示したか?』

『さあ、あいにく気絶してたからな。誰かさんのせいで』

『さて、しばらくここで待機しろ。話をつけてくる』

『おい』 


 あっさり俺の言葉を無視したジェウロが、車外に出た。

 かと思うと、いつものしかめっ面でサングラス越し俺を睨んだ。


『決してうろちょろするな。外に出ずにここで待て、いいな』

『分かってるよ。いいから行けって』


 そうしつこく念押しして、ジェウロは今後こそ外に出て行った。

 広いリムジンの車内で、俺はゆったりと身体を伸ばし、気だるさが残る身体をその背もたれに委ねた。

 深くため息を吐き、目をつむった。


「……疲れたな」 


 泥のように、身体が重い。

 しかし頭だけは、別の生き物のように回り続けていた。

 グレイシーのことから始まって、メリーとエレンのこと、エトー、ジャッカルとカマタリのことも。多くを聞いた。

 ぐるぐると、その色々なことが浮かんでは消えていく。しかし、その中でも、ずっと脳裏で燻り続けていることがある。


「…………」 


 最後の最後、マクシミリアンと話したことが、頭から離れない。気付けば、ずっと考えている。


 ────何もかもすっきりした大団円とは、まだいかない。



◆◆◆



『────君は今まで、人を殺したことはあるかい?』



『……どういう意味だ?』

『そのままの意味さ。あるのか無いのか聞いてる』


 マクシミリアンは、何か変なことでも聞いたかい、と言わんばかりに小首を傾げた。

 一体どういうつもりなのか、ここに来て俺の何かを見定めようとしているのか。


 なんにせよ、真意が読めない以上、迂闊にべらべらと喋る気はなかった。


『それがお前になんの関係が────』

『無いんだね』


 誤魔化そうとした途端、言い終わる前に確信を持って告げられた。

 思わず、二の句が継げないでいると、マクシミリアンはまるで気にしないで先を続ける。


『因果律という言葉を知ってるかい? このループ世界……君の言葉を借りるなら、ムゲンループは、繰り返し続ける世界。例えばこの一年の間に殺される人間は、次のループでも殺され続ける運命にある。……ただし』


 指を組み、その上に顎を乗せて俺を見た。

 剣呑な雰囲気が流れる。思わず、息を呑む。


 何か、とんでもないことを告げる前触れのような気がして。身体の内側から冷えていくような感覚がした。


『例外はある。何事にもね』

『……それが、俺らだって言いたいのか』


 ムゲンループの例外。

 ループの存在を認識し生きている俺達は、もはやこの世界の異質と化している。

 例えばここで、ムゲンループを知らない人間に世界は繰り返していると言っても、間違いなくキチガイ扱いされるだろう。

 世界は、間違いなく繰り返し続けているのに。


 マクシミリアンは微かに顎を引いて頷いた。

 いつになく真面目な様子で、目を光らせた。


『僕達だけはムゲンループの人形ではない。まるで家のようにムゲンループに「住んで」いる。何をするにも自由だし、起こる出来事を変えられる。言わば、僕達の存在自体が「因果律の破れ」なんだよ』

『因果律の、破れ……』


 因果律の破れは、よくSF小説で見かけるタイムトラベルやタイルリープに一概に当てはまるもので、原因と結果を繋ぐ因果を変化させかねない存在を指すが……。


 だから何だ、と簡単に切り捨てられない。俺達の存在概念に関わる話だ。

 聞かなければいけない。同じムゲンループの住人の話でありながら、マクシミリアンは俺の知らない何かを知っている。

 それが、最初の質問とどう繋がるのか。その内なる疑問に、マクシミリアンはこう答えた。


『……前置きが長くなったかな。じゃあここでもう一つ質問だ。さっきの例で言えば、エトーに殺されたカマタリやジャッカルは次のループで普通に生き返る。じゃあもし仮に、?』

『それは……』


 もしそうなれば────

 俺達はいわば、果律を破壊出来る存在だ。普通の殺人とは話が違う。運命付けられた、繰り返し起こる殺人じゃないのだ。


 聞くのが怖いとさえ思った。一度聞けば、もう後戻りが出来ないような気がした。

 それでも、今となっては聞くしかない。


 そして、マクシミリアンはゆっくりと衝撃の事実を告げた。



『結論から言おう。────



 時が、止まった。

 そう感じた。


 目を見張り、口の中が唾一滴も出ないくらい渇いた。

 頭が白く溶け落ちるような、唖然としているに等しい空白が生まれた。


 その片隅で、必死にこの言葉の意味を呑み込もうとしている自分がいて。


 それは、俺ではなく、マクシミリアンのような環境であるからこそ見出だすことが出来た、ムゲンループの新たなルール。

 そして────マクシミリアンは、これを利用した。世界恐慌を阻止するだけじゃなく、世界恐慌を二度と起こさせないために直接誰かを殺したのだろう。

 


 ────このためだけに、このループを甘んじて受けてきたのだ。

 世界の輪廻から、世界恐慌の可能性を完全に抹殺するために。

 

『そう、か……』


 その結果、かろうじて相槌を打つことくらいしか俺には出来なかった。

 彼は簡単に言ったが、そこに辿り着くまでの重みは俺でも推量出来た。


『……何も訊かないのかい?』

『いや……』


「訊く」とは、一体何を訊けばいい?

 そのルールについて、審議を問えばいいのか? それとも、ムゲンループについて、その事実を踏まえて議論するのか?


 俺はじき日本へ帰る。マクシミリアンが同じムゲンループの住人だからと言って、仲間になるわけでもない。

 本来交わるはずのなかったお互いの平行線は、この世界恐慌勃発未遂という事件を通してわずかに交錯し、再び別れようとしている。


 世界でも限られた、同じムゲンループの住人に出会い、その新しい法則を知った。今はまだ、それでいい。


『……いい。アンタがそう言うんならそうなんだろ。嘘を吐いてるようにも見えないし。訊くこともない。「ああそうか」と思うだけさ』

『……そっか』

『でも……一つだけ』


 しばらく一人で色々熟慮したいぐらいだったが、どうしても聞きたいことがあった。


『……どうして、それを俺に?』


 はぐらかすこともせず、彼が自分で発見したこのことを俺に話したその理由。

 それを尋ねてみたが────


『それはね────君もまた、僕と同じ目をしていたからだよ』


 ────返ってきたのは、相変わらずの何を考えているか分からない笑みだった。



◆◆◆



 イギリスでの一週間、実質四日間は、語るにも濃い時間だった。

 多くのことを知り、多くの人と出会い、多くの人とも別れた。

 何もかもが上手く行ったわけではなかった。失敗もし、 めげそうにもなった。

 傷付き、もがき、それでも真実に辿り着いた。


 時間が、漫然と流れる。


 しばらく、数時間前のことについて思索に耽っていた時だった。近くの窓から、コンコンと軽い音が耳に入った。

 ハッと我に返った心地だった。誰かと思う前に、外から声がかけられた。


『出ろ。時間だ』

『……了解』


 ジェウロだった。

 いつもの憮然とした声音で、外へ出るよう促す。


「…………」


 ────イギリスとも、これでお別れか。


 一抹の寂寥感を抱いていると、ふとマクシミリアンが言った観光云々が思い出された。


 ────何も無ければ、それも悪くなかったな。


 だからなのか、どうなのか。

 俺は、特に何も考えずに車のドアを開け────。


「────え?」


 そして、驚愕した。


 車から飛行機の搭乗口までの約数十メートル。


 


 数にして百を超える人間達が、それこそ一寸の隙も違いもなく、整然と列をなして頭を垂れている。

 ────この俺に向けて。


「こ、れは……」

『驚いてもらえたかな、アイカワくん?』


 あまりにも壮観。

 圧巻な光景を目にし、掛け値なしに絶句していると、しわがれた男の低い声が聞こえてきた。

 見ると、そこにはステッキを携えた英国紳士風の老人と、そばに膝をついて控えているジェウロの姿があった。

 この見知った老人に、俺は訳も分からず一体どういうことか尋ねた。


『ボルドマンさん、これは一体……?』

『おや、分からないかい。お見送りに来たんだよ、我がネブリナ家の客人をね』


 客人とは、俺のことだろうか。

 とすると、これは俺のためにネブリナ家の人間が集まったのか。

 ここにいる全員が、俺を見送るために。


『でも、どうして』

『どうして? 言ったはずだよ。「我がファミリーは、他の何よりも義を最優先し、義を尊ぶ」……我々の客人を追い返すように帰してしまっては、ネブリナの名折れだ』


 ニコニコと笑うボルドマンに、それ以上の他意は無さそうに見受けられた。


『やれやれ、君もなかなか水臭い。言ってくれたら、盛大なパレードでちゃんとした送迎をしたというのに』

『い、いやそれはちょっと』


 流石にパレード云々は冗談だろうが、どうも俺は、この人に気に入られてしまったような気がする。

 それが良いことなのかどうなのか……ただ、これもまた、イギリスに来て手に入れたものであることに変わりはない。


『ボルドマンさん』

『うん?』

『……お世話になりました』

『……そうだね。アイカワくん、君とはまた、どこかで会えるような気がするよ』

『ジェウロさんも、どうか元気で』

『…………』


 ありがとう。

 ただただ、それしか言葉が見つからない。


 このイギリスでの出来事は、俺にとっても本当に得難いものだった。

 その大きさを今、ひたすらに噛み締めていた。


 ボルドマンとジェウロとの挨拶もそこそこに、俺はこの作られた道を歩んで行こうとする。

 ────まさにその時だった。


『ほら、お姫様達にも挨拶していきなさい』

「え……」


 ボルドマンとジェウロがちらりと視線で示しあったかと思うと、すっと道を譲る時のように脇に退いた。

 そして────そこに、『彼女達』はいた。


 二人の、白いワンピースを着た女の子。

 一人は車椅子に腰掛け、もう一人はその後ろで車椅子を引いている。


 いつか見た、姉妹仲睦まじい光景だった。

 百聞は一見に如かずとはよく言ったもので、改めて彼女達の姿を見て、俺がようやく、間違いなく二人を救えたことをここで実感した。


『……アンタ、帰るの』


 その姉であるメリーが、口を開いた。

 俺には何の感情も出すまいとしているかのようで、相も変わらず意地っ張りなところは変わらない。


 しばらく、沈黙が降りた。遠くで、別のジェット旅客機が、離陸した轟音が響く。


 帰るのかと訊かれても、ここまで来て帰らないわけがない以上、なんと返せばいいのか少し言葉に詰まった。


『……ああ、帰る』

『……っ』


 俺の言葉を聞いて、メリーの顔がぐしゃりと歪む。エレンも、少し目を伏せた。


『もう少し、いたらいいじゃない。こんなすぐにいなくならなくても……』

『お姉様、それは……』

『分かってる、分かってるわよ……』


 メリーが、いやいやと子供のように首を振った。


『でも……』


 とうとううなだれた彼女に変わり、エレンが俺に笑いかけた。


『ね、お兄様覚えてる? エレン達が初めて会った時のこと』

『? ああ……』


 俺がそう答えると、エレンは小さく何かを確かめるように頷いた。


 そしてもう一度、綺麗な歯を覗かせて、綺麗な笑顔を作った。


「────さて、まずは自己紹介から始めましょ?」


 その口から出たのは、唐突な日本語だった。


「エレン=ランスロットよ。いーえるえるいーえぬ、えるえーえぬしーいーえるおーてぃーで、エレン=ランスロット。エレンでいいわ。花薫る九歳よ、これからよろしくね?」


 ────この口上には覚えがあった。

 そう、初めて会った時、エレンとこんな会話をした。俺の記憶違いでなければ、彼女は一字一句、間違いなく俺達の自己紹介の時の再現をしていた。


 まるであの時のように、彼女は屈託のない無邪気な笑みを浮かべていた。

 そして、ウィンクを飛ばし、あの時とまるで一緒で俺に自己紹介を促した。


「はい、次お兄様の番!」

「…………」


 彼女は初めて会った時のことを繰り返して、一体何をしようとしているのか。

 俺にはまるでピンと来ていない。

 だが、この事には、きっとエレンなりの意味がある。そう思える。


 ────今もこうして、どこか悪戯っぽく口元を緩ませているのだから。


「……相川拓二だ。相談の相に、川。開拓の拓に数字の二……で、分かるか?」


 俺がそっくりそのまま、あの時の会話を思い出しながら答えていく。

 

「……うん、分かる。分かるよ────」


 目元を赤くして、潤んだ瞳の端から滲む涙を拭い、エレンが両手で何かを突き出した。



「だって────大好きなお兄様のことだもん!」



 画用紙くらいの大きな紙いっぱいに、でっかく文字が書かれていた。

 それは、かなり不揃いに書かれた『相二』の漢字ではなく、


 ────ピンク色のクレヨンで彩られたたくさんのハートで包まれた、『相川拓二』の正しい名前だった。


「……ああ、合ってる。今度こそな」


 と、もう一度口を開く。

 俺の反応を窺うエレンに、囁くように柔らかい語気で。


「……ありがとうな、エレン」

「っ……うん!」

 

 俺が誉めるようにそう言ってやると、彼女は本当に嬉しそうに顔を綻ばせた。


『……エレン、メリー。二人とも、聞いてくれ』


 そして、エレンだけでなく、日本語が分からないメリーにも言い聞かせるように、改めて告げた。


『エレンの言う通りだ。……俺は、相川拓二。ただの日本人だ。俺は、この名前を捨てられない。日本に、帰らないといけない。……まだ、やり残したことがあるんだ』


 ここにいることは、俺にとっての踏み台だと思っていた。

 俺の目的のために利用出来る駒がここにあったから。正直、今でもそう思っている。


 でも、それでも。

 命を懸けてまで彼女達姉妹を救おうとしたのは。

 本当に、ただそれだけのためだっただろうか────


『だから……』

『────馬鹿っ!!』


 メリーが、耐えきれなくなったかのように、そう叫んだ。


 その次の一瞬。

 ふわり、と金糸のような髪の毛が、頬を撫でた。

 ややそばかすが浮いた白い顔が、ほんの目の前に近づいたと思ったら、ごくあっさりと、唇と唇が触れた。

 俺とメリーがキスをしている。

 とは言え、色気も情欲も何もなく、まるで最初からそうあるべきであるかのように、自然とそのことを受け入れた。


 彼女の長い腕が、離さないとでもいうように首に絡み、閉じられた瞼の睫毛には、透明な滴が乗っていた。


 その形のまま、長い時間が流れたような気さえし始めた時、メリーの唇が離れた。

 火照ったように真っ赤に染まったメリーの顔が近い。何か文句でもある? と言わんばかりに猫のような切れ目で俺を睨み付けている。


「……ん?」


 その時に、何か首筋に違和感を覚えた。

 そっとその違和感のあるものに手が触れた。


 冷たく細い糸状のものが、首にぶら下がるようにしてまとわりついている。

 この鎖で出来た輪には、装飾にしてはかなり大きな十字架ロザリオが繋がっていた。


『……それ、あたしのネックレス。アンタにあげるわ』

『でもこれ、確かお前が言ってた……』


 それはいつかの時に、グレイシーから誕生日プレゼントとかでもらったと嬉しそうに語っていた代物だった。


『あたしには……もう代わりがあるから』


 そう言って、エレンは俺と同様に胸元に下げた十字架を、俺にくれたものと照らし合わせる。


『これはギルが持ってた方。お揃いであたしが持ってたもう一個を、アンタにあげる』

『……いいのか?』

『いいからあげたんでしょうが。馬鹿ね』

 

 本当に小馬鹿にするようにメリーは鼻を鳴らした。

 キスした仲だというのに、こしゃくと言うかなんと言うか。本当にこいつは、一筋縄ではいかない。

 やれやれと肩を下げるような仕草を見せてから、メリーは真っ直ぐな瞳で俺を見た。


『……あたしは、一生忘れない。ここ数日で起こったことも、ギルのことも────それに、アンタのことも。絶対にね』


 そして、宣言する。


 何もかもを背負って生きていくことを。

 得たものと失ったものを、認めていくことを。


『────だからアンタも、絶対に忘れないでよ? あたしが、この十字架かたみを見てギルを思い出すように、アンタもあたしの十字架見て、あたし達を思い出して。それがアンタへのお礼よ』

『……ああ、分かった』



 言われなくても、きっと忘れないだろう。



『……ん。オーケイ。じゃあほら、行きなさいよ。帰らなきゃなんでしょ?』

『ああ……そうだな』



 例え────世界が変わっても。



『今度は、二人が日本こっちに来いよ。友達と歓迎してやるから』

『お兄様のお友達!? 行く行く! エレン、絶対行くから!』

『ふん……まっ、気が向いたらね』



 メリー達が、次のループで俺のことを忘れても。



『メリーもエレンも、二人とも仲良くな』

『タクジ言われるまでもなくあったり前よ。ねえエレンー?』

『うん、お姉様!』



 この十字架が、リセットされて消えてしまっても。



『それじゃ、お兄様。そろそろ本当にバイバイだね』

『……さよなら、ね。何だかんだ、その……少しだけ、寂しくなるかもね』

『なにアホ言ってんだ。……また、会えるさ。だからこういう時は「さよなら」じゃない』



 俺だけは、きっと忘れないだろう。



『「またな」って、言うもんなんだぜ?』



 ────きっと。


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