第三十五話:演説

 そこは、地下にあるとは思えないほど、シェルターのように巨大な大広間だった。


 装飾物等は一切なく、コンクリート打ちっ放しの白い壁と天井だけの場所。

 何をするためなのかと見当もつかないくらい殺風景なこの部屋は、元はこのカジノ店ぐるみのコカイン畑なのだとか。今は別の場所に撤去されているが。


 その代わりというように、この部屋を埋め尽くさんばかりに整列して並ぶ男達の姿があった。

 ずらり、と同じようなダークスーツに身を包んでいる。

 そして後ろに手を組み、胸を張ったまま直立不動のまま身じろぎ一つせず、私語も一切無い。

 一人一人が精巧な人形のようにさえ感じる。その様はまるで軍隊だ。


 総勢百名弱。ここに集う彼らはみな、ネブリナ家の正式な構成員であり、『沈黙の掟』の結束のもとに生きている者達。はみ出し者であるフリークチームとは違い、真に裏社会に身を置いている者達だ。

 

『……ここに皆が集結したこと、まずは慶び申し上げたい。そして、諸君ら同胞の支持のもと、このネブリナ家の危機という状況で私がこうして皆の前に立っていること。心から謝辞を申し上げる』


 そんな彼らは全員、ある男に集中して目を向けている。


『積もる話がある。だがまずは……もう耳に入れているだろうが、我らが兄弟であるレスターが、昨日のうちに天の身許に導かれていった』


 よく梳かれた金髪をなびかせ、口にシガレットを含みながら、集められた部下ソルジャー達を一瞥する男。

 男はマクシミリアンと呼ばれ、その他の情報は一切が公に対し遮断されている。直接ネブリナ家のボスとして対顔出来るのは、幹部その他十名にも満たない程だ。


 ネブリナ家のアンダーボス(暴力団の若頭に相当する)という地位に昇り詰め、以来イギリスのことで知らないことはないとまで囁かれる大組織にまで仕立て上げた、手品師のようなその手腕。

 どんな時でも決して取り乱さず、まるでチェスの盤上を俯瞰するかのような、合理的かつ冷静なその思考。


 そして、当たり前のようにどんな任務も必ず成し遂げる、その行動力。


 最高権力執行者(アンダーボス)という地位就任でさえ、なるべくしてなった男という評価と、その風体が一見群衆に溶け入りそうなほど平凡であることをもじって、彼を見た者の一人がこう言ったという。


 ────あれは『A common man(当然の男)』だと。


『彼の心の安寧を願うと共に、家族皆で新たな人生の門出を祈ろう。……黙祷』

 

 その二分間は、恐ろしく静かな時間だった。

 物音一つで大きく響くこの地下室で、一切の物音が無かった。


 長い長い時間が経った。二分はとうに過ぎたころ、彼はその重い口を開いた。


『……レスターのことを多くは語るまい。ただ一つ、言わせていただくなら、彼は嘘を嫌悪していた。正直を尊ぶその姿は、まさしく本物のネブリナ家の人間だった』


 朗々と、彼なりの言葉が紡がれる。


『この場で懺悔しておく。私は、彼の生き方を世界中の誰よりも羨み、そして嫉妬していた。……多くの同胞の死を見てきた。数多くの死体を目に焼き付けてきた。だが……呆気ないものだな。家族の……いや、友の死は』


 古くからの友人の死を嘆く、マクシミリアンの口上がこの場に溶け行く。


『事実私も、まだ何も彼への弔い方を考えられないでいる……』


 ふう、とため息を溢した。

 僅かにうつむき、目を閉じ、そしてあらゆる感情を込めたかのように、ゆっくりと次の言葉を紡いだ。



『────そう、復讐という二文字以外は』



 その瞬間、ピン、と空気が張りつめた音がしたかのようだった。


『私を穏健派ハトはなどと言う輩がいるのは知っている。ネブリナ家史上唯一の無血主義だと、何も知らずに皮肉る者がいるのも』


 そう言って、パチンと指を鳴らした。

 それが合図となって、部屋の扉が開かれ、何かが転がるような音が響く。

 

 重いものをキャスターに乗せて動かしているかのような音が。

 カラカラ、カラカラと。

 

 それは、整列していたネブリナ家の人間達の後方から聞こえてくる。

 徐々に徐々に、その音は大きくなって近づき響く。

 

 そして、この場の誰もが圧倒されることになる。

 誰かが、小さな悲鳴を上げた。誰かがはっと息を呑んだ。誰かが鼻を押さえ、呻いた。


 そして全員が、この時目にした光景に────否応なしに呑まれた。


『これの名は、トマス=ミュート。トップファイブの人間の一人であり、我々を陥れようとする者の人間の名。そして────』


 マクシミリアンのそばに、一人の女の子が現れた。

 そして、車椅子をゆっくり引いて、はっきり見せつけるように向きを直した。


『────ッ!?』


 ぐっと、胃の内容物が込み上げるような、必死にこらえながら息を呑む音が聞こえた。

 一言でいえば────その人間は、拷問されている真っ最中のような姿格好をしていたからだ。

 

 酷い臭いが漂う。

 錆びた鉄のような生臭さが、目に滲むような濃さで充満していく。


 腰かけられた男は、裸だった。パンツ一枚、それ以外の衣服は認められない。

 目隠しと口枷の布を含まされ、両手両足は椅子に固定されて縛られていた。

 意外にも、胴体や顔に目に付くほどの傷は無い。長い間そのままなのだろう、涙やよだれ、鼻水で顔中ぐちゃぐちゃで、首元まで長い筋となって垂れていること以外に、異常は無い様子だった。

 その上半身だけを見れば、一種のプレイとも見えなくも無かった。


 しかし、何より凄惨であるのは────


 ────ここで一つ、間を割って補足させてもらう。

 古くから、拷問は世界中に合法的に行われてきた。

 そもそも拷問とは、対象者から情報を引き出すために肉体的・精神的な苦痛によって追いつめていき、自白させることを目的とする行為であり、それは自明の理である。

 だが、それでも、もはや世界の伝統芸と呼ぶに値してもいいほどに飽きられず今でも続けられている理由は、ひとえに人間の中にある残虐性が、そこに快楽を見出すからである。


 拷問は、誰にとっても楽しいものなのだ。

 そうでなくては続かないし、もはや目的と手段が入れ替わっていることがままあるのも、その理由で頷ける。


 両手で目を遮っても、指の隙間からこっそり覗くように。

 程度の差はあれ、他人の苦痛に悶える姿、恐怖におびえる姿、非業を呪う姿に対して昂ぶることに、否定的でありながらも興味を抱き、興奮してしまうのは、どうしようもない人の性なのだ。


 しかし、そんな拷問の中で、最も分かりやすくそれらの欲求を満たして体現しながらも、最も多くの人間に忌避されている拷問がある。


 それは、男と女、雄と雌の象徴(シンボル)である性器への拷問だ。

 他の責めを行う際に恥辱を与える目的で付加的に行われたり、あるいは拷問を行う人間が自らの楽しみのために行ったりといった非公式の責めになることが多く、拷問具として独立したものも数少ない。 普及するには、あまりにも生々しすぎたのかもしれない。


 以上の点を加味したところで、話を元に戻すことにしよう。

 

 ぽたぽた、と血がしたたり落ち、滴が床に跳ねる音が響く。

 残す一枚の衣服となったパンツは、びっしょりと赤黒く染まり、その隙間からとめどなく血潮が溢れる。腰かけた椅子の部分は血だまりが出来上がり、股を濡らし、それが幾筋にもなって足を伝っていた。


 

 ────想像に難くないはずだ。〝そばに控える少女の服のポケットから覗く、血まみれの家庭用ハサミがそれを雄弁に物語っている〟。



『────そして既に、この世に存在しない者の名でもある』



 こう告げたマクシミリアンの顔に、いつものような柔和な微笑みの色は一切なかった。



◆◆◆



『有り体に言おう────ネブリナ家の背信者、グレイシー=オルコットと直接対決をしてもらいたい』

『嫌だ』


 考えるまでもなく、心の底からの拒絶の意が口を衝いた。

 バッサリした即答に、メリーが目を丸くする一方、その父親はピクリともその微笑を崩さなかった。

俺の返答さえ予想出来ていたと言わんばかりに。

 

『理由を聞いても構わないかな?』

『ああ……でも』


 ちらっとメリーの方に目を配った。


『メリーは……席を外した方が』

『な、なんでよっ!? またあたしだけ除け者に────』

『いや、メリーもここに。時間が無いし出来れば深くは聞かないで欲しいけど』


 それだけ言って、マクシミリアンもメリーの顔色を伺う。


『……わ、分かった。分かったわよ。黙ってればいいんでしょ。黙って聞いてれば』


 俺とマクシミリアンの視線に、落ちつきなさげになりながらそう答えた。

 彼女の言葉に小さく顎を引いて頷いてから、マクシミリアンは再び話を俺の方に戻した。

 

『アイカワくん、どうしても駄目なのかな? もちろん、強制はしないけど……』

『その言い方はよせよ。お前みたいな立場の人間からお願いなんて、断れるわけがねえ。命令と同じ────いや、その方がまだマシだ』

『そうか……そうだね』


 だから、俺が嫌だと言っても、どうせ何も変わらない。俺はグレイシーを始末しに行くことになるのだろう。

 しょせん、こんなのは茶番だ。無茶振りをしているのはマクシミリアンなのに、それを拒絶することがあたかも俺のワガママのように映ってしまうことにやきもきしている。


『アンタ、レッジの遺書は見たか?』

『……うん、見たよ』

『なら話は早い。────お前、今度は俺を用済みとして消したいのか?』

  

 俺の言葉にも、マクシミリアンは動じない。


『レッジは、キングス・ウィリス銀行に俺を連れていった。自分が死ぬことになると分かっていながら』

『少し違うよ。レッジは自分が銀行で死ぬ運命だとまでは知らなかったはずさ。多分、全部を知ったのは死ぬ直前かな』

『そうか。どっちでもいい話だ』

『彼には僕の知ってることの多くを話した。自分が近くに死ぬことになるとか、アルのこととか、ジェウロのこととか、その他もろもろね』


 そう、ジェウロの二重スパイのこともある。

 レッジは最初から知っていたはずだ。今の俺と同じように、マクシミリアンの仕組んだ罠を。

 あの遺書が、それを俺に伝えていた。


『遺書にも、君宛のヒントが書いてあったよね。お話になぞらえてさ。彼なりの親切心と言ったところかな』

『レッジと……アンタの過去話のやつだな』

『僕達は古くからの親友だった。あの頃のことは覚えてるよ────だから、分かる。〝あの過去には嘘が記されている〟』

 

 嘘を死ぬほど嫌った男が残した、嘘の過去話────。


 言葉にして聞くだけなら、おかしな話だ。矛盾している。

 だが、そんな矛盾を解消する答えを、俺は知っている。


 ────嘘を吐くくらいなら、先に前もって嘘を吐くと宣言します。

 ────いやその理屈はおかしいから。


 レッジ自身から聞いた話だ。初めて会った時に、確かにこう言っていた。会話していたのだ。

『嘘を吐くくらいなら、先に自分から嘘を吐く』と。

 

 そして、遺書ではこう書き置いてあった。


 ────しかし、現実は違いました。まことに、嘘であるような事でした。

 ────ここから先は、記憶も曖昧ですが、事実そのままです。嘘はありません。


 遺書の中に念押しするかのように記されていた一節。

 最初俺はてっきり、話の中に嘘はないと繰り返しているのかと思っていた。彼の矜持として、譲れない一線を守っている証なのだと。

 でも本当は違う。もっと別の意味があった。〝というより、文字通りの意味でよかったのだ〟。


 先の二文を言い換えれば、簡単だ。


 現実は違い、嘘であること────そして、ここから先は、嘘じゃないということ。

 嘘をつかない男の嘘を、ここで読み取れるのだ。


 嘘、とは彼のキーワードだった。

 そのキーワードの間に挟まれた、職員が実は組織の人間で、ヤク漬けの男に近づくというシーンは、詰まるところ────。


 


 グレイシーを懸念して、どうしても本当の事が言えなかった彼の、苦肉の方策。〝それが、嘘を吐くと前置くことだった〟。

 これならば、彼なりの矜持は守られる。〝嘘を嘘と正直に言ったのだから〟。結果としてグレイシーにも悟られず、一種の暗号の役割をも担っていた。


 俺がジェウロのことに気付いたのは、この文面があってのものだった。

 味方を騙った職員の存在が、ジェウロと被ったから。

 そして、それを真に確信したのは、俺とレッジの車を使って俺達のいるところまでやって来たこと。 置いてあっただけの発信機にも気付いていただろうに、そのままにしていた所も一つのネックだった。


 しかしそれでも。レッジのおかげだ。

 レッジがいなければ、俺は間違いなくここにはいない。


 彼が色んなことを教えてくれたから、俺はこうして生きている。


『間違いないだろうね。レッジは君に、多くのものを託していた』

『ふざけんな。何をぬけぬけと』


 それもこれも、全部、全部こいつの仕業じゃないか。そうなるように仕向けておいて。


『……レッジは、お前が殺したも同然だ』

『…………』

『お前の言うことを聞いて、その通りに従った結果がこれだ。レッジは、お前の計画の礎になったんだ。だろ? まるで、チェスの駒のように』


 それでも何故。

 何故こいつは、今もこうしてへらへらと笑ってるんだ。

 レッジを偲ぶ素振りを、こいつは何時になったら見せるんだ。


『あいつが死ななければいけなかったのかどうなのかは知らないし、訊かない。結局何を聞いても、俺は納得しないだろうからな』

『うん』

『でも、俺はあいつとは違う。お前に忠誠心は無いし、これ以上お前の言うことを聞く義理も無い。お前の言いなりになった結果死ぬなんてまっぴらゴメンだ』

『……うん』


 俺は、死にたくはない。

 やらなければいけないことがあるから。こんなところで死ぬわけにはいかない。


『……君は、あまりこの事件のことには関心が無いと見える』


 ベッドに両肘を付き、両手を組んで顎を乗せた。

 俺を見るその瞳に、見定めるような色が宿る。


 ゆっくりと、粘着質な声が紡がれた。


『イギリス発の世界恐慌も、ネブリナ家のことも。別に何がどうなろうが関係ない。どうでもいい。自分の目的のための、ただの踏み台だと思っている……そうだろう?』

『……そんな、ことは』

『ふふ……』


 そして、彼は笑う。

 言わずとも分かると俺を宥める具合に。


『────エレンは、アル……グレイシーのそばにいる』

『えっ!?』


 そのマクシミリアンの言葉に大きく動じたのは、従順に事の成り行きを見守っていたメリーだった。

 妹の事となると、流石に聞き捨てならなかったのだろう。


 俺は、黙ってマクシミリアンにその先の言葉を待った。


『エレン奪還の前線には、フリークチームを中心に使っていくつもり。僕達はそのバックアップになるだろうね』

『…………』

『さて、君は……エレンを放っておかないのかな? それとも……』


 ゆっくり、ゆっくりと、両手の陰に収まらないくらいに口角が吊り上がっていく。

 口元の笑みを広げていく。

  

 俺を嘲笑うかのように、そっとほくそ笑む。


『見捨てるのかな……?』


 ……これは、以前俺がメリーにしてやったことだ。

 エレンの存在をちらつかせ、誘い込む。この脅しで、俺はフリークチームの協力を得た。逃げられなくした、と言ってもいい。

 

 それを知ったうえで、今度は俺にそれを返してきやがった。


 先にも言った通り、こんなことしなくても、こいつなら契約破棄を餌に俺にグレイシー討伐を命令することも出来たのに。

 それでも敢えて、こんな回りくどい言い方をしてきた意味は分かり切っている。


 俺を皮肉って、笑っているのだ。

 フリークチームはお前がけしかけたのに、そのお前はここで逃げるのかと。


 今まで俺のやってきたことが、今度は俺自身を縛っている。

 それも、マクシミリアンの偉そうな言葉一つで。


『…………』


 メリーが、不安そうに俺を見ているのが分かる。

 それで、カッとなっていた頭が急激に冷えた。何か怒鳴ってやろうという気が失せていった。


 ……それに、そうだ。メリーとも約束をしていた。


 エレンを助けると。助けたいと言ったことを忘れたわけじゃない。

 ここでマクシミリアンの誘いに乗らなければ、俺はメリーやフリークのみんなやレッジ、そして昨夜の自分まで裏切ることになる。

 道を模索し、見つけ、がむしゃらに進んできた自分を、その過程で得た多くのものを、多くの意味で否定することになるのだ。


 断れるわけが……無かった。

  

『……結論は出た。そんな顔をしてるね』


 マクシミリアンは、俺を見て楽しげに笑う。


 認めよう。俺はイギリスにいる限り、この事件が解決するまでは、こいつの掌の上なのだと。

 俺だけじゃない。レッジやメリー、フリークチームやグレイシーまでもが、俺の会ってきた人間が皆そうなのだ。

 事件全体が、マクシミリアンの頭の中で踊るジルバに過ぎない。


『……分かった。分かったよ。グレイシー討伐に、俺も一枚噛ませてくれ』

『グッド。僕は賢い人間は好きだよ』

『……まさかここまで考えて、メリーをこの場に留めておいたわけじゃないだろうな』


 俺の言葉に返事はしない。

 ただただ、マクシミリアンはそっと笑みを作るだけだ。


 話は着いたと言わんばかりに、彼は椅子から立ち上がった。そして、部屋を去ろうとしてノブに手を掛けたその時だった。


『ああ、最後に一つ。僕がフリークチームをグレイシーにけしかける理由はいくつかある。君を誘った理由もね。でも、何となくだけど……』


 一瞬の逡巡を挟んだ後、またしてもいつもの読めない笑顔で俺に振り向いた。


『他の誰でもない────君こそが、彼女に直接ケリを着けるんじゃないかって、そんな予感がしてるんだけどね』


 何となくだけどね、ともう一度言い残し、今度こそマクシミリアンは部屋を後にした。


『……結局、何だったのかしら。我が父親ながらよく分かんないわ……ねえタクジ?』

『…………』 


 すると、間もなくマクシミリアンが出て行ったドアが開いた。

 彼が戻ってきたわけではない。多重の人格を一つの身に有する、赤い髪の女。


『はぁいタクジ。お嬢様も、ご機嫌いかがかな~?』

『アンタは……』


 彼女はミランダであり、また彼はコウタロウでもあり、そして時にロナルドやマキュリーでもある。

 しかし今は、一体どの人格なのだろうか、今は女の声をしているが────

 ────いや、このイタリア語には聞き覚えがあるな。そう、あのカフェで初めて会った時のことだ。


『ミランダ、か』

『ワオ、ご明察! 凄いねキミ、今が誰かなんてみんな分かってくれないのに!』


 当てられて気を良くしたのか、嬉しそうに声を弾ませるミランダ。

 俺にはそんな喜ばれるような事をした覚えも無かったんだが。


『そんなもんか?』

『そんなもんなのようー、んじゃこれご褒美ねぇ』


 振りまくような甘い笑顔を浮かべ、ミランダはそばに来たかと思うと、長い腕を俺の身体に巻き付け、強く抱きしめた。


『んなぁっ!?』

『んふふ~いいこいいこ~』


 抱き寄せられたまま、まるで子供を相手するかのように頭を柔らかく撫でてくる。その手触りが、なんともこそばゆい。


 メリーが口をパクパクさせて絶句しているのが視界の端に見える。

 しかし、手放したくないと思えるくらい良い匂いだ。魅惑的なフェロモンを感じる。

 燃えるような赤い髪の毛が、目の前で流れる。


 何より、大きい。大きくて、柔らかいのだ。何がとは言わんが。

 ……95か。


『あー、ミ、ミランダさん? そろそろタクジから離れたらどうかしら?』


 口元をひくつかせ、無理やり笑みを浮かばせているメリー。

 だが、目は笑っていない。視線で殺さんばかりに、じっと俺を見ている。


 って、俺かよ。

 俺が悪いのか、不可抗力だと言うのに。


『あー、ミランダ? それで、何の用なんだ?』

『ああ、そうだったわぁ。忘れちゃうとこだった』


 訊くと、さっと身体を離してしまった。

 ……ちっ。


『はいこれ』

『……なんだこれ。タキシードか?』


 そして、ビニール袋が収まっている紙袋を差し出された。

 その中には、一式の黒いスーツがしまわれているようだった。


『タクジが着る服だって。ジェウロさんから届けるように頼まれちゃってて』

『俺が着るのか?』

『そうよぉ~、これから演説もあるから、それまでに着てくようにってさぁ。一応、形式美っての? サイズも合ってるらしいから』

『そう、か……』


 これも、俺がグレイシー討伐に協力すると最初から分かってたってことなんだろうな。

 居心地の悪い話だ。他人の服のサイズまで勝手に調べやがって。


『用はそんだけ。お邪魔しちゃったかしらぁ?』

『いや、別にそんなことはない。スーツ、ありがとうな』

『いえいえ。それより……ね、タクジ。もう一息、一緒に頑張りましょ?』

『何だ、いきなり』


 何故か、俺の顔色をうかがうような仕草で、俺に話し掛けてきた。


『ジェウロさんが言ってたけどぉ、もう少しで全部終わるみたいじゃない? 細かい事は全部スッキリさせて、のんびりしたいじゃない? キミも、そう思うでしょぉ?』

『……ああ、そうだな』


 ……いや、現れるタイミングといい、こいつもしかして外で聞いてたのか?


『じゃあ、近くにいるからねぇ。準備出来たら声かけてちょうだいな』


 結局どうなのかを訊く前に、んじゃね~と気の抜けたような声を残し、ミランダも去って行ってしまった。

 残されたのは、俺とメリーだ。


『────ちょっとアンタ? ミランダに抱きしめられたくらいで、何ヘラヘラして……』

『…………』

『タクジ? おいこら、聞いてんの?』


 もう一息でスッキリ……か。

 確かに、そうかもな。

 ごちゃごちゃ考えたって、今は命取りになるだけだ。


 ────俺は、もう一度グレイシーと相対すると決めた。

 なら、全力を振り絞らないといけない。

 

『あたしのことは無視ですか、そうですか……何よ、あたし一人舞い上がってるみたいじゃない……』

『メリー』

『あによ』


 俺こそが、直接彼女と対峙することになるというのなら。

 全部終わらせて、それから考えたらいい。

 

『────必ず、エレンを助けて来るよ。だから、安心してろ』

『……うん』


 俺の『道』は、まだ途絶えていない。

 これが俺の、イギリスでの最後の役割だ。


『あの、そのことなんだけど。それにあたしも────ってもうスーツ着替えたの!? はやっ! え、ウソ何時の間に!?』

『男のたしなみだからな』


 エレンを救い、世界恐慌を阻止すべく立ちあがる────といえば聞こえはいいだろうが、実際はそんな良いものじゃない。

 そんな大義名分は、俺にはいらない。


『どうだ、似合ってるだろ?』

『え、ああ知ってるわそれ。日本じゃ「馬子にも衣裳」って言うんでしょ』

『そこは豚に真珠とは言わないのか? それ、マイナスの意味が強いけど似合ってるってことになるぞ』

『だから、褒めてやってんじゃない。……い、言わせんな馬鹿』

『……はは。そっか』 


 マクシミリアンの敷いたレールも、計画も関係ない。

 思い通りに動かされてるとしても構わない。


 俺は俺の都合で、俺自身の意志で、グレイシー=オルコットを討ち、今度こそエレンを救う。



◆◆◆



『────私は、私の都合で、私自身の意志を以てして、我らの義を忘れた反乱因子であるグレイシー=オルコットを蹂躙すると決めている。友の命は、もはやそれでしか償えない。私個人の体裁も品も矜持も全てどうでもいい。復讐こそが正義。レスターへの弔いこそが、我が悲願。この復讐を遂げるためなら、例え悪魔にでも魂を売り渡そう』


 マクシミリアンの演説は、続いている。


『今、私の心は凍てついている。アラスカのブリザードが如く、憎悪で吹き荒れるでもない。……!!』


 彼の一言一言が、重々しくこの場を呑み込んでいく。

 場を支配していく。

 彼の言葉を遮ることが禁忌だと言うように、その前に立っているマフィア達が、引き込まれていく。


 強く噛みしめたせいで噛み千切れたシガレットが、彼の口からふわりと足元へ落ちた。


『────諸君、私は間違っているか?』


 それを、靴底でぐしゃりと踏みしめる。


 マクシミリアンは問う。

 己の正当性を。この復讐の意義を。


『異のある者は前へ。────そうでないなら道を開け! そして、勇士達に万雷の拍手を!』


 マクシミリアンが声を張り上げたその時、再び後方の扉が開かれた。


 現れたのは、数人の人影だった。

 フリークチーム。正式名、第二特殊技能部。

 大層な肩書とは裏腹に、その実体はネブリナ家の中でも末端、なおざりにされている部署であり、本部の人間からは体のいい雑用として見られている。

 一部では、マクシミリアンの個人的趣味で集められたグループじゃないかと囁かれ、ネブリナ家の意にそぐわない不気味な存在として不審視している者も多かった。


 ────今までは。

 

 だが既に状況は一転した。

 この場の多くの人間が知っていることだ。フリークチームがメリーを護衛し、かつエレン救出に向けて動いていたこと。

 そしてその過程で、グレイシーという強力な反乱因子を暴き立て、退けたこと。

 ネブリナ家に尽力したという事実。今夜のことはそのままフリークチームの貢献という認識が、ネブリナ家全体に広まっていた。

 

 最初の数秒は、まばらな拍手だった。

 しかしやがて、釣られるようにして拍手する人間が増えていくと、徐々に拍手は大きな波となってフリークチーム数名を包み込んだ。

 

 まるでモーゼの十戒のように二手に分かれた隊列の中を、彼らは進んでいく。


 何故かエプロン姿の巨漢の男に、その男に抱えられている飲んだくれ、赤い髪の女、まだ幼い女子と、老若男女を取りそろえた異質なメンバーであった。


 そして、そんな彼らの先頭を歩くのは、スーツを身にまとった一人の少年だった。


 アジア系でありながら目鼻立ちは整っており、中性的な出で立ちが特徴的だ。背丈の割に身体の線はあまり太くなく、華奢というよりのっぽな印象を受ける。

 マクシミリアンのところまで歩を進める彼に、気負いのようなものは見受けられない。むしろ年不相応の深海のような静けさを感じさせ、落ち着き払った雰囲気をまとっている。


 彼らは列を作り、構成員達の前に並ぶ。

 マクシミリアンが片手を上げるだけで、しんと再び場が静まり返った。


『彼らは昨夜、自分達の上司を失った。おそらく、その時の混乱は計り知れないものだったろう。しかしそんな中でも。彼らは身を挺して私の娘を護衛し、この事件に対する糸口を作ってくれた。この功績は、口でいくら語っても尽きない』


 静かに、慎重な話を推し進めていく。

 マクシミリアンが求める方向へ、ネブリナ家の仁義を利用した説得力を持たせながら。


『よって私は、彼らにこそ、私達家族の復讐の中心になるべきだと考える』


 ついに告げられたその言葉に、僅かなどよめきが生まれた。


 だがそれも、不信から来ているものは少ない。次第に、そのざわめきも収まって行った。

 フリークチームは確かに与えられた仕事をこなし、理由も十二分にある。

 むしろ、進んでこの掃討戦の軸となってくれるのなら、それに越したことは無い。彼ら以外に適任はいないくらいだろう。

 マクシミリアンの前置きした言葉が効いているのが分かる瞬間だった。


『……結構。問題はフリークチームのリーダーたる人間の選出だが……実は、この時のために一人の「客人」を招いている。――――〝それも、遠路はるばる日本からだ〟』

「……は?」


 耳聡い者であれば、その当人の当惑した声を聴くことが出来ただろう。

 目敏い者であれば、その『客人』の、嫌な予感を感じ取ったと言わんばかりに眉をしかめた顔を見ることが出来ただろう。


「え、いや聞いてな────」

『────私はここに、友人であるアイカワ・タクジと「血の掟」を締結し、今回に限り彼を第二特殊技能班代表者リーダー代理の任命を宣言する!』


 今度こそ、この広い地下室が一気に騒然となった。


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