第三十二話:好カード
その時、一発の銃声が轟いた。
花火のような音が辺りに響き、薄闇の中へ溶け込んでいく。
『――――くっ!』
それは、あまりにも突然の襲撃だった。
グレイシーは一瞬の躊躇いもなく身体を翻し、横に転がる。コンマ数秒後に、歪んだ鉄パイプがちょうど彼女がいたところの空を切った。
もし僅かにでも反応が遅れていれば、その頭はぱっかり割れていただろう。
すぐに距離を置き、軽い身のこなしで振り返る。そして腕を前に、身体を庇うようにして体勢を作った。
途端、両腕にすさまじく重い衝撃が走る。
蹴られたのだ。自分の動きを読んで、一瞬で脚の届く距離まで肉薄したようだ。
――――やはり、闘い慣れている。
流れるようなその動きに、思わず感服しながら、既にこの夜の暗さに慣れている夜目は、正確に相手を映した。
『――――ジェウロ=ルッチア……!』
丁寧に剃られた頭に、眉間に深い皺を何重にも湛えている男。マクシミリアンの付き人であり、現在はエレンやメリーの子守りであるネブリナ家きっての武闘派と囁かれる彼が、自分に殺意を向けている。
相手に目線を読まれないためのサングラスが、その本気度を物語っていた。彼は、本気で人と戦う時はいつも、黒いフレームの特殊なサングラスをしていた。その事をグレイシーは知っている。そしてこれは彼女の知る由は無いが、つい数時間前に拓二と揉み合っていた時は、サングラスをかけていなかった。
『彼のサングラスは死神と共用だ』などと、誰かがジョークをかましていた気がする。子とこの状況において、笑えない話だ。
『…………』
ジェウロは一度身を引いた。
そして、人形のような無表情をもってして、グレイシーに素早く銃口を向けた。その動きに、元同僚だったからという逡巡は一切無い。
そして、発砲。数発の弾丸があっさり放たれる。
だが、ジェウロの引き際の良さからその動きは読めていた。大きい横っ飛びで身を振って、それを躱していた。そして、転がるようにして間合いを取った。
グレイシーは、この男の恐さを知っている。
ネブリナ家も一枚岩ではない。裏から詐欺や誘導で企業を潰すような者もいれば、精神病院通いのジャンキーもいる。そして、それこそジェウロのような武術の心得を持つ人間も少なくない。彼以上に強い人間は、多くは無いが確かに存在している。
だが、彼女はこの男こそがネブリナ家の人間の中でも最も恐ろしいと常々思っていた。
彼は目前の状況への感情の変化が一般人のそれとは『ズレ』ている。常人が興奮するような事態になればなる程、冷静な色が目に籠る。逆に分かりやすい煽りに乗ったりと、変なところで怒ることもあるようだが……かつてジェウロを指導してやったというボルドマンは、一体彼に何をしてそうさせたのか。
だがしかし、こういう戦いにおいて、ジェウロのその気質は極めて厄介だ。ゾッとするほど容赦なく、底冷えするくらいに冷徹無慈悲を徹底してくる。
目的のためなら自分の肉も骨も断つ男だ。出来る事なら誰よりも敵に回したくない存在だった。
『なっなに!? どうしたのギル! 何が――――』
異常事態を察して、メリーが車の中から顔をのぞかせる。
『メリー、そのまま車の中にいなさい!! 鍵閉めて、窓の下に頭下げて! 早く!!』
そんな彼女に、あらんかぎりの大声で叫んだ。
メリーを気に掛けたまま戦える程、ジェウロは甘くない。少しでも隙は見せられないこの状況で、巻き込んでしまわない自信は全く無かった。
メリーが慌てて自分の言葉に従う様子を流し見て、グレイシーはジェウロに目掛けて突っ込んだ。
横っ飛びから真正面に突っ込むといった動きは、期せずして、いつかの拓二と同じものだった。
だが、拓二と違う点として、グレイシーにはジェウロの銃撃そのものを防ぐ術がある。
『――――ふっ!』
着ていたコートの内ポケットに手を潜り込ませ、ダーツ針のような手術メスのような、数本の小型ナイフを取り出す。
そして、ジェウロ目掛けて的確に放った。
『……ちっ!』
襲いかかる白銀の光の群れに、流石のジェウロも対応せざるを得ない。
目を細め、銃の引き金を絞る。まず一本を当たり前のように撃ち落とし、もう一本を身体を捻って避けた後、残る一本を持っていた銃身を盾に振り払った。
だが、全てのナイフをいなした時には、グレイシーがその胸元に潜り込んでいた。
そして、女物の小銃をナイフで突き刺すように突き出す――――その前に、ジェウロの右膝が浮き出し、上手い事ピストルを弾き飛ばした。
『…………』
『…………』
そして、次の瞬間。
ジェウロは、利き腕に持つ愛銃――――ルガー・スーパーレッドホークを。
そして、グレイシーは再びコートの裏から取り出した別の銃――――ベレッタPx4を。
距離にして数メートルもない至近距離。お互いがお互いの眉間に、銃口を押し付けていた。
先に撃っても、反動で撃たれてしまう。どうあがいても相討ちのこの状態。
『……ご挨拶というには、いささか度か過ぎるようですが。ジェウロ』
『ほざけ、女狐が……』
不思議な均衡が、両者の間に生まれる。何時死ぬとも限らない、刹那的な緊張が、奇妙な空間に仕立て上げていた。
決して、二人に会話をする程の余裕がある訳じゃない。会話を挟む隙間を埋めて牽制しなければ、何時『暴発』するか分からないからだ。
『お互い、ボルドマンさんの元で教えを請うた者同士ではないですか。なのに……』
『黙れ……もう、テメエに語る言葉などない。ここで死ね』
唸り声のような言葉の応酬が紡がれる。
二人の息遣いだけが、荒々しく響いている。
二人の額に、脂汗が浮かんでいた。
――――と、その時、彼らの目の端で固い音が転がっていくのが見えた。
それは何か、と疑問に思う前にまたその何かが音を立てて転がる。
『ふ、二人とも、もうやめなさいっ……!』
だが、それが何であるのかは重要ではない。
その小物を投げている人物こそが、一番の問題だった。
この場で誰よりも危ない立ち位置にいた少女――――メリーが、車から抜け出して文字通り突っ立っていた。
唯一の武器は、車の中に捨てられて溜めてあった詰め替え用キシリトールガムの空容器だけという状態で。
『メリー……!』
グレイシーがこれまでになく動揺した――――というよりも、メリーに対して強い感情を込めた声を上げた。
それはつまり、『何故ここに出てしまったのか』と言外に彼女をなじる語気を孕んだものだった。
『っ……!』
その言葉の強さに、一瞬怯むメリー。
付き合いの短くない彼女には、グレイシーのこのような様子が珍しいことを知っていた。だからこそ、その意味も分かる。痛いほどに。
だが、彼女には考えがあった。それが例え、傍から見たら幼児のおままごとのようであっても、それでも彼女なりの考えだった。
『わ、私はっ……ネブリナ家ボス、マクシミリアンの娘よ! パパ……父の名において、この場を収めなさい!!』
マクシミリアンの名は、拓二から祖父の家で一度聞いていただけ。マフィアのボスの娘であることを受け入れていた訳ではなく、半分ハッタリをかますような心地で、そう叫んでいた。
目の前の二人……グレイシーはもちろんのこと、ジェウロとも親戚同然だった彼女は、そんな顔見知りの彼らを止めたくて。
声が裏返っても、本当は自分の方こそ助けを求めたいくらいでも。
怖くて、そして悲しかったから。
あまりにも自分の行動が馬鹿げていて、この場において温度差があり過ぎると分かっていても、飛び出さずにいられなかった。
『…………』
『…………』
当然、彼女の言葉に耳を傾ける者はいない。
もう、そういう問題ではないのだ。例えマクシミリアン本人が止めろと言っても、二人は聞かなかっただろう。今の彼らの精神状態は、理性的でありながらも、狂的だ。銃を誰かに向けるとは、そういうことだ。
彼らは、お互いの敵を隙無く睨み合っている。
だが、メリーにはあたかも一番遠い位置にいる自分が睨め付けられているように感じた。
『あ、う……』
既に少女の中の勇気は挫け、足元も覚束ないかのように震えた。
そして、腕の中に抱えて持っていた最後のガムの容器が、滑るように地面に落ちた――――
――――カコンッ。
『――――』
『――――』
勝負は、たった数秒でついた。
先に動いたのは、グレイシーだった。
銃を持っていない手の方の袖口から、細長い物――――何故か、一本のボールペンが飛び出した。
おそらく多くの人間が、それを見て脅威には思わないだろう。
だが一見ペンの形をしたそれは、れっきとした銃だ。ペンに薬莢と弾を込めて作った、密造銃。
威力こそ期待は薄いが、対人戦――――それもワン・オン・ワンにおいて非常に効果を発揮する暗器。
ジェウロは知っていた。
グレイシーが、暗器を専門に使いこなす達人であることを。
だが、それでも反応しきれない。
油断とするにはあまりに酷な話だ。そのペン型拳銃は、ジェウロの視界の陰、死角を突いたものだったのだから。
発砲。見る者にはペン先が爆発したかのようだっただろう。
そして、ジェウロの視点では、突然銃弾がどこからか飛び出したように見えたはずだ。
形状上装弾数一発限りのその銃であるが、放出された銃弾は、的確にジェウロの左足に食い込んだ。
『っ……!』
ぐらり、と姿勢が崩れる。撃たれた弾みで引き金に添えていた指が引かれたが、狙いが外れ、グレイシーの額に弾痕を作ることは無かった。
完全にジェウロが虚をつかれた形。この時、軍配はグレイシーに上がったかと思われた。
少なくとも、彼女自身は。
だが、ジェウロは、血が吹き出るのも吐き気がするくらいの激しい痛みも無視し、思い切りその足を踏みしめて持ちこたえる。
――――そして、信じられないようなスピードで、怪我したはずの左足を軸にした、豪快な回し蹴りを繰り出したのだ。
『――――ッ!!』
何かが折れたような音が木霊した。
それと同時に――――グレイシーの声にならない悲鳴も。
何があったかと言えば、まずは前置く必要があろう。
グレイシーの身長は、一六〇センチ強。これでも女性にしてはかなり高めだが、対してジェウロはと言うと、一九〇センチ以上あった。
その身長差から、本当は顎をぶち抜くはずだった脚は、その手前のジェウロに向けられた銃に激突した。
それによって、トリガーに引っ掛けていたグレイシーの指が歪な方向に折れ曲がったのだ。
その銃は彼女の手を離れて、遠くへ吹っ飛んだ。
大きく弧を描いて、日が昇る前のぼやけた闇の中へ消えていく。
そして、地面を滑り――――メリーの足元に舞い込むようにして、グレイシーの銃は現れた。
『あ……』
心臓が一際大きく跳ねた。痛いくらいに。
だが――――
『どいてろ』
どん、と。軽い力で横から押される。
目の前で鈍く光る威圧的な存在に気を取られ、大きくよろめいた。すぐに、その声の主を見る。
『あ、アン――――』
彼は、ここ数日で知り合ったばかりの人間だった。
自分とほぼ同年代か年下の癖に、やけに大人ぶった態度で自分をからかってきたり、人のことを見透かしたように振る舞ってくる、気に入らない奴。
メリーは、そう思っていた。つい数時間前までは。
しかし、この一夜で状況は大きく変わった。映画かドラマのような世界の出来事の数々。あまりにも現実味が無いけれど、実際人は本当に死ぬし、本物の血を流す、そんな世界に翻弄されている自分と彼が、近しい存在に思えていた。
この世界で、二人だけが『まとも』だと思うと、安心できた。唯一の拠り所だった。
信用もしていた。
『タ……』
だからこそ――――次の一瞬の光景に、メリーは言葉を失った。
硝煙が昇る拳銃。
それを両手で包み、確実に撃つために腰を落とした体勢でいる拓二。
その銃口を向く先で――――倒れ伏す一人の影。
流れるような銀髪が、皮肉るように美しかった。
『……え?』
――――撃たれたのは、グレイシー……ギルだった。
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