あらたまのヴァリアント
滝口レオ
プロローグ
からりんしゃん からりんしゃん
ころりんしゃん ころりんしゃん
森閑を裂いて、
満ち引く潮の音色は、忍びやかに心をまどわす。
テンポを増していく十三弦。
たゆたう雲の動きに似て、目を離せば四散し、追えば幻惑される和琴の調べだった。
取り憑かれたように、かき鳴らす
ばちばちと、かがり火の
その炎が、また一人
弾き手よりも大振りな装束をまとっているところを見ると、こちらは宮司か。
浪々と、厳かに、琴の音にあわせて
みもろに つくやたまがき つきあます
たかにもよらむ かみのみやびと
月明かりが、樹林のつややかな緑を照らす。
枝も葉も、生命にあふれているのが夜目にも見てとれた。
木々に包まれ聖別された
つぶれたひしもちのような、八畳敷きはあろう一枚岩を囲んで板場がしつらえてあり、二人の神主はその両端へ座っている。
幾本も
だが、めぐらせた縄は、外敵の侵入を阻むためではなかった。
向きあって座る
森の緑をしのいで、
朱の着物。
年のころ、七つばかりの童女が舞っていた。
ころりんてん てんしゃん
ころりんてん てんしゃん
一歩一歩、丁寧に足拍子、かと思えば、袖をかいぐり、翼のように広げて回り始める、変幻自在の舞踏であった。
琴の拍子が早まるにつれて、からげた着物から、巻き起こる裾風が強くなる。
虫も動きださぬ熱帯夜だというのに、汗一つ無く。
切りそろえたかむろが分かれて、つややかな
それがどうしたことか。
にじみ輝く、月光の引力に魅せられるように。
磐座から、すずやかな素足が舞いあがる。
琴の音は童女を逃がすまいと、懸命に速度を増していった。
からりんてん てんしゃん
てんてんてんてんてんてん
舞う、舞う。
てててててててててててて
回る、回る。
やがて。
見上げるほどに舞い上がった童女の瞳から、スウ、と光りが消え去った。
それでもなお、いや一層激しく
ただ一人、宮司だけが冷徹に斎場をにらみ、深々と息をはいて奏上を収めつつ、それまでと言わんばかり、不意に板場に立ち上がった。
遅まきながらも、
緊張が解けたのか、玉の汗が流れ落ち。
てんしゃんてんしゃん
しゃんしゃんしゃん
しゃーんしゃーん
しゃん、と。
わずかな余韻を残して、弦は沈黙した。
森に、本来の静けさが戻る。
童女は空中で舞い遊ぶのをやめ、体の重さを思いだしたように、ストンと磐座に降りると、崩れるように座りこんだ。
奏者は懐中の手ぬぐいで額をぬぐうと、取り出したメガネをもどかしげに丸顔へうずめた。張りつめていた肌が弛緩して、どうどうと汗が噴きだし、肥えた体を流れて白衣と
鬼気迫る演奏に似合わぬ、ふくふくとした童顔であった。
一方の宮司は、まったき白の
月影に深く陰る
童女は、いまだに糸の切れた
前髪に隠されて、表情をうかがい知ることはできない。
ゆっくりと頭をもたげると。
にわかに――。
月がおぼろに陰ったと見るや、その光を雲に隠していった。
まるで、何かに怯えるように。
ただ、かがり火が照らす顔は不吉な色彩を帯びて、空をのぞいているかに見えた。
丸顔の神人は、静寂に耐えきれぬ様子で、金魚のように口を動かした。絞り出す声は、助けを求めて宮司に向けられている。
宮司は祭壇を凝視したまま、手をあげて制すると双眼を見ひらき、
「
厳然と言い放った。
「たしかにございますか、
奏者が不安を宿した声音で応じる。
宮司の、
問題は。
「ただし、これが」
四つの瞳は、段上の朱の着物に注がれていた。
「……
手にした
「
宮司――照峰は、板場をすり足で慎重に歩むと、回り回ってあらぬ方を向いた童女の正面に位置した。
なおも幼い顔は暗く。
照峰は深く息をはいて、体内の血液を浄化すると、問うた。
「いまし
朱の着物はビクリと体を震わせると、繰り糸を結び直したかのように、岩場に直立した。
その双眸に映し出された深淵は、もはや人間のものではなかった。
虚無ではない、赤黒い狂気をたたえた泉――。
血のような口唇が、いとけない顔を笑みの形に割って、
「こは〈
それは、
――瞬間。
目を見張った照峰宮司は、身をひるがえして勺を振りおろすと、周囲に巡らされていた注連縄を打った。と見るや、打たれた縄は、みずからとっくり結びの結び目を解いて、先端の鎌首をもたげて磐座へ突進した。
右なえの縄が時計の反対回りに走り、童女を起点に交差する。
すると今度は蛇の交尾のように絡んで、元のとっくり結びを形成し、瞬く間に童女を束縛した。
五体の自由を奪われ、ひざをつく。
「……照峰様!」
奏者は、小さな目をあらん限りにひらき、驚きをあらわに板場のわきを回って、照峰のかたわらに走りこんできた。
「
「ばんそうこうは無いかな」
はっ……? と、見事なあんこ型をゆすって反射的にたもとを探りつつ、不敵に笑むような宮司を眺める。
「見よ。岩にひっかけたのか、娘の足に血がにじんでいる。〈
指摘のとおり、少女の幼くもかたちよい足指に、血汐の染みが赤い。
「あい、あいにく持ち合わせておりませぬ、いや、そ、それでは日を改めまして……」
試行致しますか、と質問を重ねつつ、奏者は居ずまいを正した。
それは社の存亡にかかわる問いであったからだ。
照峰はわずかにためらってから、ゆっくりと、しかし確かにかぶりを横に振った。
「これ以上は、また、〈
残念だ、と宮司も言葉を重ねた。
奏者は、あきらめ顔で
にもかかわらず――。
神人たちの言動には、どこか余裕があった。
芝居じみていると言ってもいい。
どのような思惑で、神事に
だが。
不意にまぶたを刺した光に、二人は真実、絶句した。
照峰は、うめいた。
あんこ型の神人も、だらしなく肉厚の口を開けた。
注連縄で幾重にも拘束されている童女の体が、ほのかに発光を始めたのだ。
それは初め、
「まさかに……私の
「あかる様!」
奏者は叫び、岩の段上に白足袋を踏みいれた。
童女の身を
が、これが命取りとなる。
「いかぬ!」
照峰はやはり叫んだが、押しとどめるひまはなかった。
かがり火の炎を圧して。
さびついた鉄扉のような大音響をともなって、雷鳴が夜の森をつき抜けた。
走り寄る奏者が最期に見たのは、注連縄を千々に裂いて暴れ、横なぎにほとばしる稲妻と、その根源となった童女の顔に薄く浮かべられた微笑だった。
走りよる勢いとは正反対のベクトルを受けた肥体は、光速で飛来した雷をそのまま引き受けて、宮司のすぐ横を軽々と跳ね飛ばされ、クヌギの大木に叩きつけられると、くず折れた。
しかし雷光は、ただ彼を葬るだけにとどまらず、目をくらませる一瞬の昼ひなかを作りだして、深い森を照らした。
磐座の外に立っていた照峰も、その身に稲妻を受けた。
鈍器の如く、心臓を貫く衝撃に顔をしかめる。
それは周囲の木々に炎を
耳をつんざく轟音の過ぎ去ったあとには、天をも焦がす紅蓮の炎が、奇怪な儀式を引き継ぐように舞い踊っていた。
境内の森林はまた、聖なるものを抱える〈依り代〉である。
照峰は、その聖域を侵そうとする炎には目もくれず、ただ一点をにらんでいた。言わずもがな、岩にたたずむ童女の形の邪神に、ひたとその目は据えられていた。
いまや異物ではない。
朱の衣は、
絶望が彼を満たしつつあった。
部下を一瞬で失い、斎場たる森林は炎の舌に呑まれようとしている。照峰はまた一方で、慈しみをこめて童女を見た。
「おのれ……おのれは……!」
痛む胸を押さえて
この時点で、勝敗は決したと言っていい。
だが、これだけでは終わらなかった。
玉を転がす幼い声が、追い打ちをかける。
「われは、もろびとを
信じまいと――。
ちろちろと、炎の舌。
「なんじが妻の余命、いま少し長らえさせてもよい」
「本当か……」
それはまことか。
応じてしまっていた。
「望みを聞きいれようぞ」
――その代わり。
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