雨男奇譚
田脇小足
雨男奇譚
僕は目を閉じ、窓に耳をつけて、雨の音を聞いていた。さあ、さあ、さあ。
ふとこめかみがかゆくなって、人差し指でそこを掻いた。
すると、急に雨音が消えた。夫人が音楽をかけはじめたのだ。たぶん、有名なクラシック。ロックやジャズにしか興味のない僕は、すぐにタイトルを思い出せなかった。僕は窓から離れて、部屋のほうに向き直った。
夫人は目じりに刻まれた深い皺をさらに深くして、ワイルド・ストロベリーの柄が入ったティー・カップとシンプルなプレーン・クッキーを運んできた。銀製のトレイは、カップや皿と触れ合い、かちゃかちゃ音を立て、シャンデリアの光を全身で受け止めた。僕は黙ってそれを見ていた。
「ちょっと早いけれど、」
お茶にしましょうか、と夫人は言う。僕はお気遣いすみません、と答える。
「かしこまらないでいいって言ったでしょう? 大丈夫よ、誰も聞いてやしない」
夫人はカップに口を付け、少女のように微笑む。僕も彼女に倣ってお茶を口にする。ダージリンの良い香りだ。
「どうせ外も雨だし、今帰ったって濡れるだけだわ」
彼女はそう言うが、この雨はすぐには止みそうにない。庭園に咲く鴇色のバラが、雨粒をその身にたっぷりと載せて、重たそうにこちらを見ている。
「ねえ、何か面白いお話をしてくださらない?」
僕はクッキーに伸ばしかけた手を止めて、夫人の顔を見た。
「面白い話、ですか」
「何だっていいのよ。あなたが面白いと思うお話なら」
僕は少し考えた。夫人は、にこにこしながら僕の口元に視線を投げかけている。
「じゃあ、僕が小学生の頃の話を。雨の日の話です」
夫人はカップを置いて、あごの前で指を組んだ。「面白そうだわ」
今日のような雨の日に、僕は学校の保健室で休んでいました。その年は確かとても寒くて、僕はしょっちゅう風邪をひいては寝込んでいました。
その日も熱が出たので、先生は僕の親に連絡すると言って、保健室を出て行きました。僕はひとりでそこに寝ていたんです。
うとうとしかけたところ、急に横から声をかけられました。
「辛そうだね、早退するの?」
声の主は、僕と同じクラスの男子生徒でした。 …名前がどうしても出てこないので、仮にAとします。Aは特に目立たないけれど、いじめられているとか、根暗とかいうわけではなく、周囲にあわせるのが上手いやつでした。
「うん、今先生がお母さんに連絡してくれてるところ。A君は?」
「僕もね、帰りなさいって言われたんだ。でもうちは忙しいから、ひとりで帰るよ」
早退なのに、ひとりなんて寂しいだろうなと思っていたら、先生が帰ってきました。どうやら、仕事にきりをつけられなくて迎えにこれない、ということでした。僕の家も共働きだったので、僕は特に不思議に思うことはありませんでした。
するとAは、
「一緒に帰ろうか」
と言ってきたのです。先生も、ふたりなら安心といって、よくよく気をつけるようにと言って、送り出してくれました。
僕らは途中まで帰り道が同じだったので、他愛もない話をして帰りました。昨日見たテレビの話や、クラス内で流行っていた遊びの話なんかを。少し熱でふらふらしていたところもありましたが、普通に話はできたし、歩くのも問題ありませんでした。
そろそろ道が分かれる頃になりました。そこはそれなりに大きな十字路でしたが、信号もなく、建物の配置のせいか見通しも悪くて、出会い頭の事故が多いところでした。
「じゃあ、また明日…は来れるかどうかわかんないや」
僕がそう言うと、Aは笑って、
「僕もだよ。お大事にね。治ったら、今度一緒に遊ぼう」
僕らは約束を交わして、僕はまっすぐ、彼は左に曲がろうとした時でした。白いルートバンが、すごいスピードで、僕に向かって飛び込んできたのです。足がすくんだ僕は、道の真ん中で固まってしまいました。
その時、Aが駆け寄ってきました。泣きそうな顔で、クロールするように手を必死に振って、僕を強く抱きしめました。痛いほどにです。
おそるおそる目を開けると、僕は冷たく濡れた道路に横たわっていました。けれど、身体には傷ひとつなく、どこも痛みません。車は僕らに気づかなかったのか、行ってしまいました。
ああ、Aが助けてくれた。そう思って、彼に礼を言おうと思ったのですが、彼の姿は忽然と消えていました。おかしいと思いました。轢かれそうになってからその時までに、おそらく3秒と経っていません。だから、どこにも見当たらないのはおかしいのです。
もしや遠くまで跳ね飛ばされたのではと、周囲を探し回りましたが、どこにもいませんでした。そのうち、立っているのも辛くなってきたので、僕はふらふらと帰路につきました。
それから2日ほど、僕は目を覚ますことなく、昏々と眠り続けたそうです。熱もとても高いので、驚いた両親が、急患として病院に連れて行きました。けれど幸いにも意識が戻った頃には、それまで生死の境をさまよったとは思えないほど、ピンピンしていました。
それからすぐに、僕は学校に復帰しました。皆、僕のことを気にかけてくれていて、よかったよかったと言ってくれました。
皆が病院での過ごし方について聞くので、僕はAのことも話しました。あいつは命の恩人なんだ、と。
そしたら、皆の反応は意外なものでした。
「…誰、そいつ?」
誰って、同じクラスにいるやつじゃないか。僕はそう言い返しました。けれど皆一様に
「知らないって。お前、事故の時に頭でも打ったんじゃないか?」
冗談にしては、悪質すぎると思いました。すっかり頭にきた僕は、担任の先生に、同じことを話しました。すると、先生までもそんな子は知らないというのです。
「先生、僕の隣の席のA君ですよ。知らないはずがないんです」
そうは言ったものの、確かに、どんな外見であったかとか、詳しいことが何も思い出せないのです。でも、今でも彼が同じクラスにいて、皆と談笑していた思い出というか、感覚ははっきりと残っているんです。
それ以来、僕はAの話をしませんでした。クラスメートや先生も、特にそのことについて何も言わず、それまでどおり僕と接してくれました。
でも、僕は雨が降ると、いつもこの日のことを思い出すのです。
話し終わる頃には、空も暗くなってきていたが、雨は止んでいた。夫人は玄関先まで見送ってくれた。
「今日は、長居してしまってすみませんでした」
「いいのよ、日曜とはいえ、あの人も帰ってこないし」
夫人は、また幼い子供のように無邪気に笑った。僕は見ていられない感じがして、さりげなく視線をそらす。
「それでは、また明後日に、」
一礼して立ち去ろうとすると、待って、と声がかかった。
「そういえば、あなたが来てくださる時って、いつも雨ね。
――これって偶然かしら?」
夫人は相変わらず優しく微笑んでいる。
「いえ。それは僕が雨男だからでしょう。
それと、Aは晴れ男でしたよ。消えてしまうあの日までは」
今度こそ、僕は踵を返して、夫人の屋敷を後にした。
よかった、そんな彼女の声が、小さく聞こえた。
雨男奇譚 田脇小足 @orion_the3stars
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