第一章 憂き世

第2話 契機

 夕焼けの光が、街を橙に染め上げる。


水彩絵の具は、窓を通り抜け、部屋の中まで侵食しようとしている。


無造作に放り出された制服。

クローゼットに押し込めるのも億劫になり、そこら中に無理やり吊るされたハンガー。

たたむどころか、起きた後一切手を付けていない掛け布団。

防衛壁の様に立ちはだかる木製の本棚……全てに濃淡鮮やかなオレンジの絵の具が支配している。


どこからか聞こえてくる烏の鳴く声を音楽にしながら、そんな部屋の隅に置かれた小さな机で、僕はひたすら原稿用紙とにらめっこしていた。


『ここは真っ直ぐに台詞吐かせたほうが…』

『いや、でもこいつってそんなに素直じゃないよな…』

『もういっそ黙らせる?』


脳内で複数人の自分が会議を始める。


『片思い相手になら素直に…?』

『いや寧ろのこいつの場合逆だろ』

『ギャップを狙えばいけんじゃね?』


「あぁぁああぁああああ!!もう!!」


髪を掻き乱して背もたれに寄りかかると、掛けてあった複数枚の上着の重さも拍車を掛け、そのまま真後ろにひっくり返った。


振動により、絶妙なバランスで掛けてあったハンガーが落ちる。


更に棚においてあった写真立ても倒れ、小さな地震でも起きたのかと言ったような状況になった。


「…最悪」


思わずボソリと呟いた。


階段下から自分を心配する母の声が聞こえる。


それに一言、大丈夫だと答えると、落ちたりひっくり返ったものを元に戻しにかかる。


小さな苛立ちというのは、こう度重なるとなかなかダメージはでかい。


ちらりと原稿用紙を見ると、まるで嘲笑われてるような気がして、余計に苛立ちが増幅した。


改めて向かい合うために再び席につく。


目の前に広がるのは、自作の物語だ。


目の前では、主人公たちが剣やそれぞれの武器を持ち、それを振るって敵を薙ぎ倒している。


時には歌を唄って小鳥と戯れ、時には喧嘩でぶつかりあい、時には流れる星を見て涙を流す。


情緒豊かな彼らの世界があった。


「この世界とは、ホント大違い」


どこか嫉妬に似たような気持ちを抱きながら、少し大きめの溜息を吐く。


脳は完全に思考を止めていた。


「…駄目だ、全然集中できてない」


再びなんとか握ったシャーペンを放り出すと、無性に外の空気を吸いたくなった。


学校にも着ていくような地味な紺のコートを羽織ると、無言でそのまま家を出ようとした。


「あら、紫苑、外行くの?」


物音に気付いた母は黙って出て行こうとしたことを咎めはせず、そのまま穏やかな口調で続ける。


「今日も部活行かなかったんですって?成瀬君が心配して来てくれて――」


母の言葉に立ち止まるどころか、碌に返事もせずに僕は外に出ていった。

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