第5話

 あっさりとゴールデンウィークに突入した。

 サークルの方も休みとなった。

 私は休みをトーイックと簿記の学習にあて、結構なペースで勉強した。世の大学生よ、遊び呆けるが良い! 異性と遊べるような大学生に災いと呪いあれ! 大型連休に勉強しかやることがないからって泣いてなんかないんだからねッ!

 ……さて、バイトのことである。

 先立って面接というか条件確認のような顔合わせが行われた。店長にしてみても日数限定のアルバイトに人格者や有資格者を求める気はさらさらないようで、実に気楽な面談であった。狭い事務室でコーヒーなんぞ啜りながら世間話を挟み、期間はこどもの日を含む三日四日五日の朝十時から夕方五時まで、時給は九百円と決まった。一万九千四百四十円の臨時収入である。話を繋いでくれた斉藤くんに礼を言い、その日は辞去した。



 そして五月三日――なんの日であったか? まぁいい。とにかくバイト初出勤の日である。私は気合いを入れて九時半に職場に到着し、事務室でそいつと対面した。

 虎なのであろうか? が第一印象である。

 虎であるのに縦縞というのが解せない。しかも矢鱈と鼻が大きい。

 このスーパーマーケット独自のマスコットキャラクター、「愛称募集中(応募締め切りは明後日までだよ)」であった。どこからどう見てもブサイクであった。

「カワイイだろ~?」

「……えぇ」

 気色悪い声で聞いてくる店長に相鎚を打つ。主観に異議や疑義を唱えるなどナンセンスである。

「それじゃ、頑張ってね。あ! 水分補給はこまめにね。熱中症になられたらこっちが困るんで」

「はい」

 店長はそれだけの注意を与えて開店準備に戻った。

 残された私はシャツからジーンズまで脱いだ。パンツとTシャツだけになり、その着ぐるみを着た。背中のファスナーには長い紐が付いていたので、一人でも問題なく着ることができた。仕上げに重たい頭部のハリボテを被る。その姿を事務室の壁に貼りつけられた鏡に映して見る。どこからどう見ても私だとは分からないことを確認し、脱いだものをロッカーに放り込み、私は自分の持ち場へと向かった。



 このスーパーマーケットはホームセンターが併設された、かなり大規模な店舗だった。駐車場だけで百台以上停められる。

 私が手を振ったり、風船を配ったりするのはスーパー側の入口近くの特設コーナーであった。特設と言っても大きなパラソルと三人掛けのベンチ、小さなテーブルが置いてあるだけ。ここで子供の相手をしながら、ついでにこの名無しのキャラクターの愛称を投票してもらう目論みであるらしかった。レジを打つお姉さんが時々救援に来てくれる手筈にはなっているが、基本的に私一人でここを死守せねばならない。

 まだ開店したばかりだというのに、三連休の初日だというのに、子供連れの買い物客がチラホラと現れだしていた。

 私はここ半月で身につけたスキル――演技力を遺憾なく発揮する。たとえ着ぐるみに覆われていようと、真の役者はそのオーラを見る者に浴びせかけられるのである。あの意味不明のサークルで培ったものが決して無駄ではなかったと証明できる喜びに私は打ち震えた。

 無論、本気でそんなことを思っている訳ではない。調子に乗ったクソガキ……ではない、やんちゃなお子様が物珍しい着ぐるみを着た苦学生に蹴りを入れてくるので、モチベーションを維持するためにそんな方便を己に使っているのである。タチの悪いクソガキが母親に手を引かれ去っていって私は心底ホッとした。

 まだ午前中ということもあり、それほどの客足でもない。ほどよく晴れた、こんなものさえ着ていなければ心地好い陽気である。私はのんびりと子供に風船を配っていた。

「ちょっと! 車庫入れしてる最中にドア開けるなー!!」

 なんぞという諍いが聞こえてきた。

 はて、聞き覚えのある声。

 ほどなく見ず知らずの女性が私に駆け寄り、興味津々の目で見つめてくる。そして振り返り大声で叫ぶ。

「三雲ー、変なのがいるよー!」

 …………待て。

 今、この女性はなんと言った?

 変なの。ふむ、これは問題ない。事実、変なのだから。

 問題はもう少し前の部分である。

 三雲?

 HAHAHAHAHAHA!

 私は内心でブッチョを模倣した。

 そんな都合よく敵対者が登場するわけが、それこそ漫画みたいに……

「もう耀子、はしゃぎ過ぎ」

 免許取立ての女性が好む車種、そのピカピカの新車から降りた人物は、落ち着いた声で耀子嬢を窘めつつ近づいてくる。

 なぜだ!?

 なぜここにいる!?

 溌剌とした耀子嬢があろうことか、私の天敵とも言える人物を手招きしているではないか!

 そうだ。あの酒席において三雲女史は地元だと言っていた。だから帰省がないのだ。しかし、なぜゴールデンウィークの真っ只中にうら若い、見目麗しい三雲女史がこんなところへ来る必要がある?

 イケメンよ立ち上がれ! この極悪非道の女王をデイトに誘え! そして連れ去ってくれ! 私はかなり真剣に切実に祈っていた。

 そして三雲女史と耀子嬢の怪しいものを見るような視線に気付く。

 よほど慌てふためいていたのだろう。私は自分が変なフラダンスを踊っていることに気付いた。挙動不審にも程がある。

 店のガラスに映る己の姿が目に入った。なにを慌てることがある、私。

 そう、お前は今、虎か猫か分からぬキャラクターになっているのだ。

 いくら三雲女史が天敵とはいえ、この中にいる限りは私だとは判るまいに。

 その思考が私に余裕を取り戻させた。間を取り繕い、この上なく紳士的な態度で耀子嬢に風船を手渡した。ハリボテを被っているので表情など見えないのに満面の笑みまで浮かべて。

「いいの~? 三雲ももらいなよー」

「いらない」

 ……………………………………にべもないの見本を採集した気分である。

「耀子、そんなもの貰ってどうするの? 子供じゃないんだから」

「分かってないな~三雲は。大学行ってちっとは子供らしくなるかと思ったけど、高校のときと変わらないね」

「……あんたはもっと大人になりなさい」

 ふむふむ、どうやら耀子嬢は三雲女史と高校時代の友人らしい。しかしこの耀子嬢、実に……いや、何も言うまい。三雲女史という先例がある。溌剌とした感じといい、ちょっと下がった目尻といい、実に興味深いのだが。

 私には不細工にしか見えないこの虎も、耀子嬢の目にはかわいらしいキャラクターとして映っているようだ。

 風船を持ったまま両腕を一杯に広げる耀子嬢。

 私はつられて同じ動作をしてしまう。

「?」

「それー」

 おおおぉおぉぉぉおぉっぉっぉぉ!?

 耀子嬢がいきなり私に抱きついてきた。

 無論、耀子嬢が私に一目惚れしたのではない。ただ単に、この不細工なキャラクターが気に入ったのだろう。中の人間のことなど耀子嬢は意に介していないのだ。しかし、そうと分かっていも私の脳幹を凄まじい量の電流が行き来した。

「やめなさい耀子。中に入ってるのが変な人だったらどうするの!」

 三雲女史が慌てて耀子嬢を愛称募集中から引き剥がそうとする。

 実に味のある言い方である。

 味と棘は字面が少しだけ似ていると思う。

 二代目シャルローズよ、貴女は敵を作ることに生きがいを見出しているのでしょうか? 勤労する苦学生を平然と変な人呼ばわりとは、普通の神経では言えないのですよ?

 私は怒りや呆れを通り越し、感心すらした。

 耀子嬢は三雲女史の説得に応じた訳ではないが、ハグに満足したらしく私を放してくれた。

 強くなりだした日差しを避けて、三雲女史はパラソルの下に移動した。そのままベンチに腰掛けてしまう。

 さっさと去ってほしいのだが……。

 耀子嬢も三雲女史の隣に腰掛ける。手のひらをベンチとフトモモに挟んで座る耀子嬢。紫外線混じりの五月の陽光の所為だけではない、彼女にどこか眩しさを感じた。

「えーと、それでどこまで話したっけ?」

「うん、理屈っぽくて嫌味な同級生がいるってとこまで聞いた」

「そうそう、理屈っぽくて嫌味でムカついて、おまけに……」

「?」

「とにかく! モテないわね、あんな男。人間辞めたほうがいいのよ」

「……三雲、言い過ぎ」

 耀子嬢はその会ったこともない男を気の毒がるような表情で、三雲女史の悪口雑言を窘めた。

 聞く気はなかったのだが、私の持ち場で喋りだしたのは彼女たちの方である。いささか後ろめたかった、

 のだが――

 …………ムカつく?

 ……………………モテない?

 ……っふふふふふふふっ、ははははははははは!

 HAHAHAHAHAHAHAHAHAHA!

 それは誰のことかな? 三雲女史。

 ここにそのムカつくモテない同級生がいないと思い込んでいるようだが、「壁に耳垢、障子に目ヤニ」という、或いは「B型の魂死ぬまで」という格言をご存じないようだな!

 人間辞めろとは中々ひねり出せない誹謗ではないか。

 いや、むしろその誹謗に感謝しよう。ここまで貶されると、貴女達の会話を傍聴してしまった良心の呵責も薄れるというものだ。

 そうか。

 そうだ。

 それは仕方がない。

 本意ではないが、まったくもって本意ではないのだが!

 職務を遂行すると必然的に彼女たちの会話が傍聴できてしまうのだ。致し方ないことである。シャルローズの弱みを握ろうだとか、プライベートやプラバシーを毀損してやろうだとかの邪な考えは微塵もない。

「それよりさ」耀子嬢が賢明にも話題を転じる。「十亀さんはどう? やっぱ、才能ある人は違う?」

「うーん……」

「どうした? 十亀さんの本と演出であんなに演りたがってたじゃん。念願叶ったでしょ」

「……なかなかどうして、手ごわい人よ」

「十代で賞獲っちゃうような人だもん、難しいところはそりゃあ、あるでしょ」

「……それとはまた違うような気がするけどね」

「なんだかんだ言っても、一緒にやれるから言えることだよね。あーあ、憧れるな~、『アルティメトロ戯曲賞』の最年少受賞なんて」

「『東京三番地』の旗揚げに参加して、演劇三大賞の一つを獲って……なのにわざわざ『東京三番地』辞めて、いきなり大学に入り直して自分で演劇サークル立ち上げて……バイタリティは半端じゃないのよね」

 んん? 十亀?

 何故ここでブッチョの本名が出てくる?

 新たにやって来た子連れの客に手を振り、近寄ってきた子に風船を渡しながら考える。

 彼女たちはブッチョのことを話題にしている。

 なにやら演劇関係者でないと意味の通じない単語が混じっているので話半分しか理解できないが、ブッチョが実はすごい人物らしいとだけは分かった。しかも有名人であるようだ。

 ……あの新人公演用の台本に対する評価を微修正しておこう。「ヤマトイ国のヒメコ」は素晴らしいストーリーである、無論そんなことはとっくに見抜いていたのだが私は敢えて疑問を呈することにより、理解を早め、本質を深く捉える効果を期待したのである。ほほぅ、誰に? なんぞと言う輩は最後うどんになってしまえばいい。

 ブッチョが期待していると言ったときの三雲女史の反応もこれで納得がいった。それほどの人物、それほど組みたいと望んでいた人物から一番期待していると言われれば、それはやはり嬉しいだろう。昇っていた血も下がるというものだ。

「ははーん」

「……なによ?」

「つまりアレだ。妬いてるんだ?」

「は?」

「十亀さんが、三雲言うところの理屈っぽくて嫌味な同級生を寵愛してるのが気に入らないってことでしょ?」

「ち、違う! 誰があんな失敗作の標本なんかに!」

「じゃ、なんであんなに酷評するの?」

 ブッチョの寵愛? 危うく気色悪い想像をするところだったではないか、耀子嬢! いやそれより、失敗作の標本とやらに興味が湧くぞ、三雲女史!

「まぁ、色々あるのよ、色々とね……」

 三雲女史が急に声のトーンを落とした。

「?」

「理屈やら性格なんて些細なことよ……そうAやらBやらの下らないことに比べたらね……」

 耀子嬢の笑顔が凍る。

 私の背筋も凍る。

 三雲女史の凄惨な笑みはそれほどに怖ろしかった。双眸が血色に染まっているようにさえ感じられた。

「…………そのうち痛い目を見てもらうつもりだけどね……」

 あまりに不吉な予告に私は幼児に風船を渡し損ねた。

 口を開けて見上げる幼児、私や耀子嬢に見送られて風船は亀の歩みよりもゆっくりと、澄み渡る蒼い空へと昇っていった。




 三雲女史と耀子嬢が買い物を済ませて去ってくれた。

 三雲女史の車が道路の向こうへ消えるまで生きた心地がしなかった。彼女の車のテールランプが見えなくなってやっと、私は長い息を吐いた。

 息と一緒に魂が二百グラムほど出て行ってしまった。もう少しで店長が心配した熱中症になるところであった。

 私は事務室に戻り、ハリボテの頭を机に丁寧に置いて、パイプ椅子に腰掛けてペットボトルのお茶をがぶがぶ飲んだ。止まっていた汗が再び吹き出てくる。心拍数が上がる。

 AやらBやら。

 男女の仲の進展度を俗にアルファベットに置き換える戯言がある。

 無論、三雲女史の発言はそんなぬるいものではあるまい。「AやらBやら」の後には「OやらABやら」という文字通り、血も凍る呪詛が省かれていた筈である。

 三雲女史の病巣は根が深いと判断せざるを得ない。

 これはもう私一人の問題ではない。

 私だけの危機ではない。

 そう、これはマイノリティの危機なのだ。

 統計学的にB型は日本人の五人に一人しかいない。

 ティッシュペーパー式血液型判定法にも使われている統計学である! 間違えているワケがないのだ。よってB型は立派なマイノリティになるのである。あなたが学生であるなら、教室を見回してほしい。三十人学級でも六人しかいない! それでもちゃんとB型はいるのだ。素知らぬ顔をして! 迫害を怖れて!

 AB型のほうが更なる少数民族、更なるマイノリティである筈なのに、どういうことか、彼らは芸術家肌などと尊ばれる始末。

 許しがたし……!!

 卿らは我々B型の亜種、つまり赤血球に刻印されるべき「B」に、余計な「A」が付着しているというのに!

 B型こそ血液型の中の血液型、血液型の王なのだ!

 Bとは即ち、ブラッドのB!

 AだのOだの、そんなものは邪道中の邪道、異端中の異端なのだ!! 思い知るがいい、血液型原理主義者どもめ。己が赤血球に刻まれた「A」や「O」を怨むがよい。妬むがよい。

 ……失礼。熱中症寸前で少々熱くなっていたようだ。

 つまり何が言いたいかというと、因縁ふたたび、と言うことだ。

 どうやら私と三雲女史は並び立てないようだ。

 私はマイノリティの危機と己の生存を賭けて、この勝負に挑まなくてはならないことを悟った。

 着ぐるみの腕で額の汗を拭い、お茶の残りをぐびぐびと飲み干す。

 大丈夫だ。

 私は自分に言い聞かせる。

 少ないながらこちらにも勝機はある。

 悪魔もどちらの肩を持つかまだ定めていない。斉藤くんが出勤シフトでなかったのがその証拠である。

 斉藤くんがレジなど打っていたら今ごろ、血と瘴気漂う地獄絵図の中央で愛称募集中のキャラクターが名無しのまま屍と化していた筈である。それが回避されただけでも私に運があることの証左となろう。

 唐突に私の脳内をなにかがよぎった。

 天佑とか天啓に近いなにか。

 斉藤くん?

 そうだったのか!

 斉藤くんこそが鍵を握っているのだ。

 こんな偶然があるわけがない。

 私はこの閃きに目の前で十字を切る気分であった。

 これは起こるべくして起こったのだから必然である。

 私が排他的独占的かつ一方的に許可を得ている財団が記念する北杜夫氏の本名は「斎藤」。つまり、斉藤くんは選ばれた運命の戦士なのだ。血液型原理主義者との熾烈な戦いに尖兵として彼は身を投じてくれるに違いない!

 問題はどうやって勝利するのかだ。

 そこで私は一つの重大な事実を思い出した。

 実はサークルに入る際、アンケートと称した個人情報詐取が行われたのだ。

 名前だとか、連絡先だとか、出身だとか。

 そんな中に、あの項目があったことを思い出す。

 そう、「血液型」だ。

 書かされたときは酷く落ち込んだものだが、今こうしてみると私が三雲女史に勝利するため用意された設問であったとしか思えなくなる。

 あのアンケート用紙は部室のロッカーに保管されている。部室は鍵が掛かっている。容易には手が出せない。普段なら。

 しかし斉藤くんである。

 先週の鍵当番であった斉藤ハトマメくん。当番を交代する前にゴールデンウィークに突入してしまい、そのまま彼が鍵を所持している筈だった。

 斉藤くんが鍵を握っている。

 間違いない事実だった。

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